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2019/08/16

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  • 水島の戦い(岡山県)

    寿永2年(1183年),平家を追討すべく京都を出発した源義仲軍(率いるのは足利氏・海野氏)は,平家の拠点のある讃岐国屋島へと向かう。 しかし,義仲軍は屋島に渡海をする途中,水島周辺にて平家軍と交戦することになる。 平家軍は舟戦に手馴れていて舟同士を連結して陣を構築,巧みに義仲軍を攻撃する。山国出身の義仲軍は思うように戦えず,足利氏や海野氏ほか諸将が討ち取られ敗北,京都へと敗走することになる(なお,この戦いの最中,955程が欠ける金環食が起きたのだという。)。 一説によればこの戦いで義仲軍の武将や兵士約1000が戦死したと言われているのだが,後,この戦死者(水死者)は「舟幽霊」として同海域を航行…

  • 山形城(山形県)

    山形城は山形市に存在していた別名霞城,霞ヶ城,吉字城と呼ばれていた城で,現在は本丸と二の丸付近が霞城公園として整備されているほか,国の史跡にも指定されている。 その築城年は正平12年/延文2年(1357年)の南北朝時代のことで,羽州探題として同地に赴任した斯波兼頼が築城したのをその始まりとする。 斯波氏は以降,最上氏を名乗り,同城を拠点として最上氏宗家として戦国大名化することになり,第11代当主最上義光の時代,慶長年間(1596~1615年)に城郭を拡大,城下町を整備し,出羽57万石の礎を築くことになる。 しかし,義光死後,家臣団の内紛を経て最上氏は元和8年(1622年)に改易,後,鳥居氏を初…

  • 久栗坂トンネル(青森県)

    現在の久栗坂トンネルは国道4号線に整備されている(昭和51年(1981年)完成)が,今回問題となるトンネルは「旧久栗坂トンネル」である(地図は新トンネル)。 なお,このトンネル,新旧ともに,地元では「善知鳥トンネル」と呼ばれていたようで,昭和8年(1933年)から同55年(1980年)まで利用されていた約112mのトンネルで,現在は封鎖されている(老朽化したため封鎖したとされているが,一説には,後述のとおりあまりに事故が多発,しかも幽霊が現れるようになったため封鎖したとも言われている。) また,一説によれば,この地は,奥州征伐の際,逃げ落ちた武者がこの地で最後まで鎌倉軍まで抵抗した場所とも言わ…

  • 千本浜の戦い(静岡県)

    天正8年(1580年),関東に拠点を置く北条氏家臣・梶原景宗が北条水軍を率いて沼津方面へ侵攻すると,武田勝頼は浮島ヶ原に布陣,武田水軍も出陣し,千本浜沖にて戦いが行われた。 武田軍は浜辺から腰まで海水に浸かりながら北条水軍の船に銃撃を加えるものの,北条水軍の船は硬い椋材で覆われているために弾丸が通らず,形勢不利と見た勝頼は武田水軍の総大将・向井正綱に船を捨てて逃げるよう命じたが正綱はこれを拒否,結局,両軍は日没まで戦うものの,その決着は付かなかったのだという。 ただ,相当の被害は出たようで,戦後,千本松原の地で首実検を行い同地に遺骸を葬ったようである。 そして,それから約300年以上経過した明…

  • 新府城(山梨県)

    新府城は山梨県韮澤市にかつて存在していた平山城で,昭和48年(1973年)には国の史跡として指定されている。 同城は天正8年(1580年)またはその翌年,同地を統治していた武田氏(当主は武田勝頼)の家臣・穴山信君が築城の献策をしたことに始まると言われている。 築城は天正9年(1581年)より開始,同年年末には武田勝頼は居城の躑躅ヶ館から同城に移住している。 しかし,翌天正10年(1582年),木曽義昌の謀反を鎮圧するため諏訪地方に向かうが,織田氏・武田氏の連合軍の前に阻まれ帰国,織田軍はそのまま甲斐国へ進軍したたため,重臣・小山田信茂の居城・岩殿城に移るため,新府城には火を放つ。 この際,新府…

  • 三戸トンネル(青森県)

    三戸トンネルはJR南部駅から車で15分程山道(県道233号線)を走行した場所にあるトンネルで,実は三戸トンネルの名は通称で,正式名称は「手倉橋随道」であるとのことである。 その正式名称(随道)と言うように,大分老朽化した古ぼけたトンネルのようであるが,まだ現役のトンネルで,十分通行することは可能である。 ところで,このトンネルなのだが,地元の噂によると,出口付近に女性が一人たたずんでいるのを目撃した人が大勢いるとのだという。 その姿は女子高生,若い女性,または中年の女性と姿形は大分まちまちだが,共通して女性であることは間違いないらしい。 また,一人だけではないようで,ある雨の日傘も差さずに宙に…

  • 隼人の反乱(鹿児島県)

    養老4年(720年),九州南部において隼人がヤマト王権に対して反乱を起こす。 これは,ヤマト王権の支配が未だ十分及ばない九州地方に住んでいた「熊襲」や「隼人」と呼ばれる住民のうち,隼人が大隅国国司・陽侯麻呂が殺されたことに端を発したものである。 この反乱では,隼人側は約数千の兵を集め7ヶ所の城に籠城,それに対しヤマト王権側は約1万以上の兵を集めてこれを攻撃,約1年半近い戦いの末,隼人側の敗北で幕を閉じた。隼人側の死者と捕虜の数は約1400にのぼったのだという。 ところで,この反乱で戦死した者を祀る「隼人塚」が現在も複数存在しており,鹿児島県霧島市の国分重久にも残されている。 この隼人塚は,戦死…

  • 茂木城(栃木県)

    栃木県芳賀郡茂木町にあった茂木城は中世の城郭で,現在は城山公園として整備されており,曲輪・空堀・土塁等の遺構を見ることが出来る。 同城はこの地方に勢力を有していた宇都宮氏の支流・茂木氏の居城として建久年間(1190~1199年)に築城されたと言われている。 しかし,戦国時代に入ると,茂木氏は周辺の有力勢力である宇都宮氏,那須氏,佐竹氏の間で自らの去就をいかにするか揺れ動いていた(宇都宮氏支流であるが,この頃には国人領主化していたようである。)らしく,最終的には弘治2年(1556年),佐竹氏に攻められたことを機に,茂木氏は佐竹氏の影響下に入ることになる。 その後,天正13年(1585年),北条氏…

  • 八甲田山(青森県)

    八甲田山は,青森市南側にそびえる大岳(標高約1585m)を主峰とする,18の山々から連なる火山帯の総称である。 そして,同地では明治35年(1902年),有名な「八甲田山行軍遭難事件」が発生した現場でも有名である。 この時代,明治27年(1894年)に発生した日清戦争で大陸の冬季寒冷地での戦闘に苦戦をした経験を持つ日本陸軍は,仮想敵国であるロシアとの戦いはさらに極寒の地で戦うことになると想定していた。 そのため,冬季訓練は軍として喫緊の課題であり,その結果,青森歩兵連隊と弘前歩兵連隊において,雪中行軍が行われることになった。 しかし,青森連隊においては,冬山に対する知識の乏しさ,また,装備の不…

  • 和田合戦(神奈川県)

    建暦3年(1213年),鎌倉幕府の有力御家人である和田義盛が幕府に対して反乱を起こした。 義盛は相模国の豪族・三浦氏の一族で剛勇の士で,初代鎌倉幕府将軍源頼朝死後に発生していた御家人同士の争いで有力御家人が滅ぼされていく中,執権・北条氏に味方していたこともあり,幕府創業の功臣の一人として重んじられていた。 しかし,建暦3年(1213年),泉親衛が幕府に対して反乱を起こすと,義盛の子・和田義直,義重,そして甥の胤長がその反乱に関与したとして幕府に捕縛されてしまう。 これに対し義盛は一族の嘆願を将軍に要求,その結果,義盛の勲功に免じて義直と義重は赦免されるものの,胤長のみは赦免されなかった。子 義…

  • 唐沢山城(栃木県)

    栃木県佐野市にある唐沢山城は「関東七名城」の一つであり,また,「関東一の山城」とも言われる山城で,別名として栃本城,根古屋城,牛ヶ城とも呼ばれている。 標高約247mの唐沢山に築かれた同城には,関東の古城としては珍しく石垣があり,現在は栃木県立自然公園の一部でもあり,また,国の史跡に指定されている。 同城は,平安時代の延長5年(927年),藤原秀郷の手により築城され,その後藤原氏が城主となるも後,一時廃城となるが,治承4年(1180年),9代俊綱の弟・成俊が再びこの地に築城,俊成は佐野氏を名乗ったとする伝承が残る。 もっとも,あくまで伝承であり,同城の起源は15世紀までしか遡れないため,詳細は…

  • 踏切(青森県)

    野辺地町から上北郡横浜町を通る国道279号線は,JR大湊線の踏切が2箇所存在しているのだが,いずれも見通しが良く,一見して普通の踏切なのにも関わらず事故が多く,「魔の踏切」と噂されている場所なのだそうである。 また,踏切に留まらず,近くの浜辺では自殺者や水死者がよく出るなど,どうもこの周辺自体,曰くが多い場所らしい。 上記のように,この踏切では,多くの命が失われていたようだが,有名な話として次のようなものがある。 かつて,この踏切に遮断機がない頃,幼い子供を連れた中年の主婦が親子心中をしたそうである。 その理由は,姑との折り合いが悪く,頼りとなるはずの夫が酒乱という現状をはかなんだ覚悟の自殺で…

  • 冷水峠(青森県)

    冷水峠はむつ市と下北郡東通村を結ぶ県道7号線沿いの中間地点にある峠である。 この峠は恐山に向かう道筋にあり,その途中には夏でも手を切るほど冷たい湧き水がある。 この水を飲むと不老長寿になると言い伝えられており,水をもとめ同地を訪れる者もいる。 反面,この場所では昔から幾度となく,母子,または単独で姿を現す女性の幽霊が目撃されていると言われている。 なぜこの場所に幽霊が現れるのか,理由は不明である。

  • 恐山(青森県)

    下北半島にある恐山は言わずと知れた霊山として著名すぎるほど著名な場所で,すでに全て語りつくされている感があ 貞観4年(862年),慈覚大師円仁により開闢されたとされる同山は三途の河原や血の池地獄など,まさに地獄をこの世に模したものであり,荒涼とした大地には夥しい数の風車が回り,死者の供養のための石が積まれている場所である。 そして,死者のふるさとと称されるだけあり,怪奇現象もまた頻繁に発生する場所であるという。 例えば,①地蔵堂が鳴り続けると翌日には必ず死者が出る②血の池地獄が変色すると不吉な現象が起こる③夜中,地蔵尊の錫杖の音が聞こえると,死者の霊が生前の姿のまま現れる前兆 等と言われている…

  • 久渡寺(青森県)

    久渡寺は弘前市にある真言宗の寺院で,開山・開基時期は不明であるものの,津軽三十三観音霊場の第一番札所とされている古刹である。 同寺には,江戸時代の画家で,幽霊画を描いたことで名高い円山応挙の作品が収蔵されていることで有名である。 しかし,幽霊画があるためなのだろうか,同寺では心霊現象が起きるとも言われている。 まず,同寺には池があるのだが,この池でお経を唱えながら,または死者の名前を呼びながら覗くと,死者の顔が浮かび上がるのだという(自分の死に顔が見えるという説もある。)。 また,公衆電話が設置されているのだが,この公衆電話が突然鳴るという現象が発生するのだという。 なぜこのような現象が起こる…

  • 喜登牛山(北海道)

    足寄郡足寄町にある喜登牛山は標高約1300mの山で,その名はアイヌ語の「キトウシ」(行者ニンニクが群生する)に由来するのだという。 同山は登山道がないそうであるが,かつては営林署の山小屋が存在していて,そこで職員が夜を明かすこともあったそうである。 ところで,その山小屋に周囲では,夜間,周囲には誰もいないのにに,突然不気味な音が鳴り響く,また,やはり不気味な女性の悲鳴のような叫び声が山中に響き渡るのだという。 現在はすでにこの山小屋はないそうであるが,今も誰もいない山中でこの不気味な音や叫び声が響き渡るのか,残念ながら定かではないのである。

  • 国道240号線(北海道)

    釧路市と網走市を結ぶ国道240号線は,昭和28年(1953年)に二級国道に指定施行,その後昭和40年(1965年)に等級が廃止され一般国道に指定施行,現在に至る道路である。 ところで,この国道240号線には「星が浦」と言う名の地名がある。 かつてこの地域は新開地ということで,国道に面してはいながらもまだ沢山の空き地があり,草の生い茂る寂しい場所だったのだという。 そして,いつの頃からか,この星が浦には女性の幽霊が現れると,タクシーの運転手の間では有名な話だったそうである。 その目撃談によれば,白っぽい着物姿で,帯を2メートル近くだらりと垂らした女性の幽霊が歩道を歩いているのだそうだ。 この星が…

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