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2019/07/09

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  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    古代エジプト、その他古代文明の全てで、魂について触れていない文明が無いのは何故でしょう?現代でも魂についての諸説は万とありますので人々はそれぞれ勝手に信じるものを信じています。その結果、霊感商法のようなもので膨大な経済的損失を被り悲劇的なニュースがNHK等をにぎわせます。魂論についてはきちんと比較宗教学等で学習する必要があり、その上で、どれを選択するか思索したほうが良いと思います。この比較宗教学を日本の大学で教えている講座はないものでしょうか?自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    第14話を読みながら、私はしみじみと自分に与えられた信仰に感謝しました。どんなに厳しい現実に遭遇しても私はキリストの復活を信じていたらしく最終的には絶望と失意から立ち上がり今日に至りました。不信仰な私が今でも生きる希望に満ち溢れるのは、この小さな私の信仰心とは言え、キリストの復活を信じ、魂の存在を信じ、息を引き取るときに、真っ直ぐ神様の所へ行きたい一心ゆえに、こうして明るく元気に生きているのでしょう。信じて見えてくるもの、その見えてくるものが素晴らしいので、私は生きているようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    キリストが死ぬ、その壮烈な叫びと臨終後の静寂と沈黙は素晴らしい。この静寂がなければ私は洗礼を受けなかったに違いない。解釈は色々あり、難しいと思いますが、私の解釈はキリストが息を引き取った瞬間の天地雷鳴のあと、三日目に復活されるまでの、その沈黙の意味です。この三日の静寂の意味について私は生涯、思索してきましたが、洗礼を受けた高校時代ですら、この沈黙にとても魅力を感じました。父や母が死に、その後も沈黙ですが、あの世についての哲学は沢山あり、誰もその世界を見た頃がありません。信じて見えてくる世界がこの世にあるという事が何とも魅力的で、全てが見えたら生きる希望はなくなるように気がします。欠けているように思える世界があればこそ、神様の愛の深さが哲学出来ます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    第12話のこの有名なキリストのセリフは私の青春の大事な哲学でした。この意味を考えるのに何十年もかかりました。今は、この言葉ゆえの安心感にみたされていますが、当時の私はこの言葉の意味を探るのにわざわざお金をかけて海外の学会、メキシコ、アメリカ、イギリス等の学会に足をのばします。思索し命をかけて探究する人生は面白い!自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    死ぬ時は、覚悟を決めれば、それ相応の落ち着きが出るのは私も海外の事故や暴動の際に経験していますが、十字架上で、今から共に死んでいく隣のキリストに「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた人は本当に幸せだなあ、と私はしみじみと思います。同じ死に際に、キリストにこう言われた人の人生は何と幸せ者、羨ましい限りです。この人の人生はテロリストとか強盗とか言われていますが、真実は果してどんな人生だったのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    公衆の面前で恥をかかされ侮辱された経験をお持ちですか?第10話はそんな話です。私の事例は大した話ではないのですが、大学病院で徹夜の治療が終わり疲労困憊して中央線で居眠りしていると、誰かが今の若いものは恥をしらないと会話しているのが耳にぼんやりと、聞こえだしてきました。老人に席も譲らない、けしからん、と隣の人と話しているようす。おれは剣道4段、体を鍛えていて強いんだ、とも言うのも聞こえてきます。そろそろ目が覚めた私は、ひょっとして私が特別席に座りこんでいて、段々と混んできているのかもしれない、と確認して窓を見ると、私が座った席は特別席でした。私が40代頃の経験です。あ、寝たふりをした奴が目を覚ました、とその人は叫びます。しまった、自分の事だった、と私は思い、急に恥ずかしくなり、降りる必用のない駅で降りようと...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    自分が無実の罪で死刑台に向かう、私はそんな体験が無いので何とも理解出来ませんが、歴史上の人物で、自分の事でななく、周囲の人々の幸せを心底願う人物も案外いるようです。自分が体験しないのに、語るのは少々気がひけますが、想像するだけでもぞーっとする、そんな場面の時でも、周囲の人々の事を気遣いながら死んでいく人物もいるようです。第8話はそんなキリストの物語ですが、考えてみれば、私の身近にもいました。臨終のときに、自分のことよりも子供たちの将来の幸福を苦しい息の下から語り続けた母親と父親の事を考えて、改めて親の愛に感謝しました。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私は何回も恩人を裏切り、そして生き延びてきたような気がします。私に期待して援助してくれた沢山の先輩、しかし、色々の事情で道を変えて生きねばならない環境でもありました。その良心の呵責について今、再考すると、もし、あの時、先輩の期待を優先していたら、私は事故死していたし、病気になっていたでしょう。沢山の事例を今、どう解釈したらいいか、結論が出ませんが、天国で再会した時、多分、許してくれているのを確信します。生き延びる事が、案外、最大の十字架なので、人生の折々に、必死で生きてきた自分を、そろそろ許したあげようとも考えています。この十数年は何とも幸せで沢山の仲間に恵まれ、生き甲斐支援活動が自分の生き甲斐ともなり、家族、知人、恩人たち、そして神様に感謝です。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    十字架の道行くの第7話は、こんな事を私に思いださせました。正しい事をしたのに何故、世間は自分を叩くのか?20-50代くらいの時に、このような正義感に苦しんだ事のない人生は少々、問題があるかもしれません。正しいと信じて事をなす、しかし、世間は認めてくれない、この悩みがある人生と、そうでない人生は再考の余地があります。誰でも正義感というものがありますが、その正義感はどこからくるかといえば、魂から来ている、と言われています。段々とその正義感も世間から、もまれていく内に儚く消えていくようです。正義、正義と叫んでいると周囲がその人を排除していくからです。その人に相応しい正義の発露の姿を悟るのでしょう。どれが良い、悪い、は言えません。表題の言葉は、キリストが十字架を背負い、倒れ、もう疲れ果てた時に、つぶやいた言葉らし...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人生の途上で恥を受けている最中に私に手をさしのべてくれた恩人を思い出しています。恥を受けた原因が私の至らぬ所から生まれた場面であろうがなかろうが関係なく辱を感じている最中に、堂々と私の味方となり共に世間に立ち向かってくれた人々、その人々を今、想い出しています。十字架の道行・第6話にベロニカという女性がキリストに汗と血を拭う為に布を差し出す場面がそれです。私のベロニカには男性も女性もいますが、特に30-40代にかけての男ざかりでは海外を含め見も知らぬ人々がそうでした。冷戦時代のモスクワのあの神父さん、文化大革命での逃亡劇でのあの農夫の方、今は、もうこの世にいませんが、こうして私は生き残り、今、本当に幸せな日々を送っています。恩人たちに感謝。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人間は無意識に事件に巻き込まれたり巻き込んで生きていきます。人にしばしば見られる現象ですが、自分をさしおいて人を咎める現象がありますが、自分の理想の領域から人を批判してしまう現象は互いに戒めたいところです。私も今まで随分と人を巻き込み迷惑をかけましたし、巻き込まれて困り果てました。第5話はたまたまシモンという人がキリストが十字架を背負い疲れ果てて倒れた現場にいたばかりに、その十字架を背負わせられた事件がありました。キリストも、あーあ、申し訳ないなあ、と思ったでしょうし、シモンも、ああ、馬鹿馬鹿しい、運が悪いなあ、と感じた事でしょう。後日談ですが、このシモンという人は信徒になったそうです。ゴルゴダの丘で磔にされ死んでいったキリストに何かを感じたのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    第4番目に出てくる「十字架の道行」の場面は自分の息子が十字架にはりつけにされ、苦しんだ後に息を引き取るのを見守る母親の心境を考えさせられる場面です。聖母マリア様のこの場面は絵画、音楽でも表現されている場面です。この出来ごとの解釈を私は無駄にしたくありません。贖罪と復活の思想があるので私は自分の成育史での罪悪感や周囲の人々へ迷惑をおかけした咎の意識から解放されて元気に明るく生き抜いていますが、この贖罪の思想を信じるかどうかは人類一人一人の自由意思の問題なのですが、この成育史上の咎の意識だけは信仰の領域で哲学や科学では解決できません。息を引き取るときに素直に神様に自分の魂をゆだねて死んでいってほうしいなあ、と親友達に心の底で願っています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    身体が病気でも健康な精神を所持している場合もあれば、精神が多少参っていても身体は病気ではない、という事例は沢山あります。しかし出来れば身心共に健全でありたいものですが、人生、なかなか、そううまくいきません。有難い事に私の周囲には多少、いろいろありましても明るく元気な人が多く、私は本当に幸せです。いつも何かに挑戦しつつ元気に生きている人々に囲まれている私は、どうその喜びを報いたらいいものか、と思索を巡らせます。ですから私が人々の生き甲斐に興味を持ちあちこちで勉強会をするエネルギーも案外、この感謝からうまれてくるのかもしれません。短い人生を益々こうした明るく元気な人々と手を携えて生きて生きたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    同じ信仰でも「神様は愛そのもの」と信じている人は案外少ないようです。信じる度合いは測りがたいのですが愛だと信じている人と交際すると、生きる事がとても楽になり楽天的というか不安が消失していくのを感じます。この人はどうして楽天的で心配がないように見えるのかなあ、と観察すると神様の愛情を深く信じているので、身辺の森羅万象の解釈が極めて明るいのです。人生に生起する沢山の問題は経済問題、人間関係、どれもこれもそう変わらないのですが、いつも希望を失わず、多少辛い事があっても、それは試練だと解釈して、避けることなく正面から堂々と取り組んでいきます。神様の愛を信じて生き抜いている人との交際はとても元気になります。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    家族同志、心から仲良く心の交流が出来る人々は本当に幸せです。二人だけの世界も幸せでしょうが、家族同志が付き合い、交流の後、何とも幸せな気分になれる人生は最高かと思います。愛がある世界はこの世の天国ですが、何故かそういう人々はいるようでいないようです。ある家族は何故、こうした幸運に恵まれるのでしょうか?答えは求めているからでしょう。求めていればいつか必ずそうなるのが人間の世界だと信じたいものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    日々十字架を背負い、人々との愛に生きる事が幸せへの道、と言われますが、これはどういう意味なのでしょう?自分から十字架を求めなくても日々十字架ですから、辛いこと、哀しい事、嫌な事があれば、自分なりに堂々と戦い生き抜く事が大事で、泣き寝入りしたり変な我慢をすることだ、と勘違いしている人が多いようです。十字架を背負うのはあまり良い事ではなく、身の丈に合う十字架ならいいのですが、身分不相応で気障な十字架を偽善者のように負う見苦しさは避けたいものです。どうして食べていけるか、その苦労は大変な苦労で、生き抜く事がすでに十字架だ、という人々を私は大勢知っています。周囲の人々といかに仲良く明るく元気に生き抜くか、という考え方が人々と愛に生きる、という事でしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    平家物語を読んでいますと武士が死を迎える時、もはやこれまで、と正しい判断をして堂々と死んでいく武士と、判断上はまだ生き延びれるとあばれますが、見苦しくばたばたして死んでいく武士が見られます。この往生際の判断は現代の私たちにも通じますが、自分の死にぎわは、堂々とさっぱりと美しく死にたいものです。現実吟味力がきちんと働いてくれるといいいのですが、果しして自分の死は、どんな風に終わるのでしょう?キリストという人の死に際は壮烈ですが考えさせられる死に方です。改めて私は「信仰の弱い私を助けて下さい」としか祈れないようです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    心を病んだ人の特色は、とにかく直ぐ救われないと機嫌が悪いのです。正常な状態では、この事例は相当勉強しないと駄目だな、と分かりますが心を病んでいる時はせっかちに直ぐ、直して下さいと嘆願します。急いで助けに来て下さい、と祈るこの十字架の道行という祈りはだれが制作したのでしょうか?病んだ人類の気持ちを実によく理解した人が作成したのでしょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    このカトリツクの伝統的なお祈りは何時頃から人類社会に生まれたのか知りませんが、とても面白いお祈りです。心理療法で時々使用されたのですが、どんな時かと言いますと、精神病者の苦悩が理解出来ない時に、この祈りを自分が患者さんだと想定して祈りつつ、患者さんの苦しみを理解する為に、応用させていただいたのです。宗教家に怒られるかもしれませんが、この祈りほど、人の苦悩を救う祈りはありませんでした。苦しむ人の叫びは旧約聖書にも沢山ありますが、本人の立場で苦しみを訴え、かつ、同時に、何かを悟らせる手法としては、この祈りは優れたものです。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    なんで今頃、持統天皇なのか、とお考えでしょうが、この女性を調べていくと、実に面白いのです。例えば彼女が生まれた時が大化の改新です。天智天皇の娘としてこの世に生をうけますが、蘇我系の母親は陰謀により天智天皇に嫁がされたようなところがあり、そのうち、母方の祖父は罪がないのに父親である天智天皇に殺されていきます。この時代・飛鳥奈良時代は日本人の原型が形成された時代で、古事記、日本書紀、万葉集と、とても大切なものが生まれています。汚れと禊、この思想は今でも現代を支配していますし、和の精神を大事にする思想も現代に生きています。この女帝の時代は暗殺、陰謀、謀略と凄まじい歴史がありますが、逞しく生き抜くこの女帝の生命力は現代のよわよわしい男女が学習したい逞しさを教えてくれていますので、時々、彼女の話を書いてみます。生き...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    心が自由な状態の、どのケースが自分にとっての最大の自由度か、という意識がありますと、大分、生きる事が楽になります。私の場合は色々ありますが、海外での飛行機事故での体験がそれに該当します。胴体着陸の突入時に複雑な心の体験(恐怖感、短い人生を恨む感情等)をしますが、その後、諦めの感情が湧き出し、さらにその後には遂に来た死の覚悟、そして、全てを神様にゆだねた時の心の自由度が、最高の自由感、自由度でした。この爽やかな自由感は、この後にも先にもありません。この自由感が我が人生での、その事件以降の尺度になっています。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    会話をしていますと、この方は何と頑固な人だろう、こんなに心が固定していたら、息も出来ないのでは、と感じてしまいます。私も時々、頑固だなあ、と言われますが、頑固と言われた場面を分析すると、相手の言う事を私が素直に聞かない場合とか、相手の思い通りにならない場合のようです。さて、自分の心に絞り込んでみます。つまり自己分析をしてみますが、私は自分の心が今、自由かどうか識別がつきます。つかない場合もありますが、平安感がある時は自由ですし、機嫌の良い時も自由です。逆に不安感にみちみちている時、怒り狂いたくなる時は心は不自由でストレスがどんどん蓄積していくのを感じます。不安感になると、身体が心を安定させようと防衛機制が働きだします。この防衛機制が働きだすと益々ストレスが蓄積されていきます。悪循環です。頑固な自分の時は非...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    数年前の話ですが、l那須の某所に勉強会で出かけましたが新白石から黒磯行きに乗ろうと待っていますと職員が来て、数名のお客にカラスがレールに石を、いつものように数個載せた為、15分くらい遅れます、と挨拶にきてくれました。可笑しいなあ、と笑いましたが、その後、事故にならずに助かった、感謝だと思い直しました。カラスに聞かないと真実は分かりませんが、私は今後、たびたび出かける場所なので、どうしたらいいかなあ、と思いました。その常習のカラスが元気に生きている限り、この遅れは時々あるかもしれませんし、JRの対策を待つしか私としては手のうちようもなく、覚悟だけはしておこうと思いました。私を迎える駅では、いつもの担当の方が迎えに来ていますので、その都度、遅刻を電話で知らせます。大事にいたらないといいのですが!自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    生きる喜びは大脳の領域の深い部分にありますが成育史のありようで相当捻じ曲げられています。倫理学、医学、心理学をきちんと勉強し、どこが捻じ曲げられているかを学問の知識からあぶり出す必要があります。その一つに意識の混濁、つまり赤ちゃんの状態と成育史で相当捻じ曲げられた要因をあぶり出す心理療法をしていきます。赤ちゃんの時代は遺伝学を除き、実に素直な喜びですが、成育史がそれを色々と複雑に育てあげています。70億の人類は環境が全部違いますので、それぞれの喜びが違い、捻じ曲げられ方も違います。その人に合う修正作業をしつつ、健全な生きる喜びを本人に意識化してもらいます。ブログでは説明が難しいのですが、プロセススケールの7つのポイントで検討していく、という手法があることを意識しておいて下さい。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    私にはとても信じられない「生きる喜び」もありました。生きる喜びの内容を調べると、犯罪的なもの、異常なもの、いろいろです。健全な喜び、病的な喜びを、どう識別するかは難しい問題ですが、その所属社会での常識も識別の一つでしょうが、病理論から言う識別は普通は「プロセススケール」を使います。テキスト:生き甲斐の心理学、の第3章です。:自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    色々の困難に遭遇し、もう駄目だと思いつつも、なんとか努力して「生きていて本当に良かった」と臨終のときに思えたら、その人生は素晴らしいと思います。このような事例もいいのですが、出来れば、今、生きる喜びを感じたいものです。生きる喜びは苦難を乗り越える時も感じますし、愛する人と一緒の時も感じます。しかし、この生きる喜びは案外、危険なものもあり、健康な生きる喜びもあれば、健康でないものもあります。そのあたりを思索してみましょう。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    成育史が違うので心の自由のありようも人により全部違います。生き甲斐の心理学では自分の心が平安感、友好的感情、健康感、幸福感、統御感を感じているかどうかを、識別として使用していますので、この幸福曲線を感じている状態のことを心の自由の状態、と定義しています。逆に、不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の状態のときは非常に防衛機制が働いている状態なので心が不自由な状態、と定義しています。この基本状態を基準に話を進めます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    「心の自由」って何だろう?今から色々と考えてみたい。もともと心が自由,という意識そのものが相当違いますので、生き甲斐の心理学が学ぼうとする講義内容は案外難解です。私が言う心の自由とこのブログを読んでくださる方の心の自由は、どのような違いがあるのでしょうか?それぞれの成育史での最大の心の自由について思索を深めていきます。自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人が美しいと感じる理由は確かに学問の対象になります。赤ちゃんが嬉しい時は手足をばたばたさせて喜びを表現します。幼稚園児も美しいと感じたら素直に表現します。世界にその理由を書いた本は無数にあり私も沢山読みましたが、それなりに納得はしますが、何かもう一つ不満でした。難しい理由を読めば何か深い勉強をした満足感はありますが、ふーんと思う程度でした。赤ちゃんから高齢者まで、美しいと感じる理由をいちいち理論的に理解し追求する必要も無いわけで、感動は感動として素直に感じ取ればそれで十分なのですが、最終的に私が納得した理由は人間が所持している魂に触れたからだ、という神学論でした。魂は永遠不変なもの、老いることもなく、病むこともない、愛そのもで、真善美そのものに近いもの、臨終と共に、身体から離脱していく知的生命体である、と...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    sさんの臨終での表情と天国への旅たちへの喜びを体験した私は、何故、こんなに感動し、かつ、その死を美しいと感じたのか、今でもよく分かりません。母や父の死はひたすら哀しく泣いていましたので私は何と冷たい人間なのだろうとも思いました。他人の死だから、そう感じたのだろう、とも思いました。しかし、正直、その臨終の場面では医師も看護師も感動しているのです。私ばかりではないのです。何故でしょう?自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

  • 自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

    人の臨終は、その人の全体を現わすようです。イギリスの終末治療で遭遇した日本人のsさんは戦後貨物船でイギリスに渡り成功を目指しますが病に倒れ若くして終末治療を受けていた折に私と遭遇します。ご縁があり洗礼を受けられましたが、その信仰の力に私は衝撃を受けました。私は風邪で熱が出てると気が小さいので大騒ぎをしますがsさんは激痛が来ても顔色を変えずむしろ何かに、その苦痛をささげているような喜びの表情さえ浮かべているのです。本人に聞かないと分かりませんが、そんな事は誰も聞きません。苦痛を神様に捧げているような感じを私は受けました。息を引き取る数分前でも小さな声で生きてこれたことを感謝していました。そして自分は今から憧れ続けていた天国へ旅立つと確信を持って、その喜びを私に伝えるのです。このような信仰の力を私は初めて体験...自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

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