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歴史好きの徒然日記 https://www.yamatotsurezure.com/

奈良県を中心とした街歩きやおすすめスイーツ、歴史の話題を書いてます。 城跡や城下町、古民家、遊郭、神社仏閣などの古跡に興味がある方は一度ご覧ください。 あと、奈良県(大和国)を中心にした歴史上の人物のご紹介もしていきます。

やまとこおりやまん
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2019/06/30

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  • 大和国人一揆・赤沢朝経の猛威~大和武士の興亡(8)

    応仁の乱から明応の政変と戦国の争乱が進む中、ついに大和の領地が他国衆に知行される事態が発生します。 1499年に畠山尚順に与する筒井党を討伐するため大和へ乱入した細川政元家臣の赤沢朝経は北和を席巻して寺社を焼き、反抗する国人の土地を自領としました。 この他国衆による大和侵略を前に大和の国人たちは、筒井党、越智党に分かれて多年にわたる対立を乗り越え、興福寺・春日社を精神的紐帯として一揆を結んで立ち向かいました。

  • 思ってたんと違う(15)奈良県を襲った空襲~奈良も戦災は免れなかった!?

    「奈良や京都は文化財が多いので空襲を免れた」という言説が戦後まことしやかに語られましたが、奈良は被害のあったものだけでも15回の空襲を受け、多数の犠牲者が出ました。 奈良を襲った空襲とはどのようなものだったかを紹介します。

  • 明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7)

    応仁の乱後、将軍・足利義尚、大御所・足利義政が相次いで死去すると、足利義視の嫡男・義材が11代将軍となります。 しかし新将軍・義材は幕府の実力者である日野富子、細川政元、伊勢貞宗らの支持を得られず、河内へ親征中にクーデターを起こされ、将軍の座を追われました。 この明応の政変で大和では政元らに加担した越智氏、古市氏が全盛期を迎えましたが、その栄光は長続きしませんでした。

  • 丹波市界隈・天理市中心街を歩く~上街道散歩(3)

    現在の奈良県天理市の中心地域は昭和29年の合併前までは丹波市町という町でした。 丹波市は中世以来、上街道沿いに発達した宿場町で、江戸時代は伊勢藤堂家の宿駅として整備され、山辺地域の中心的存在でした。 現在も江戸時代以来の町屋が残るかつての中心市街である丹波市の町と天理駅から天理教本部前に続く現在の中心街の様子を紹介します。

  • 歴史・地域情報の紹介ブログ記事作成でおすすめ便利サイト

    奈良県内を中心に地域の歴史や現在の情報を中心に発信してきた当ブログですが、お陰様で2023年7月9日で4周年を迎えました。 当ブログの記事は、実際に現地を足を運んで取材して書くことも多いですが、資料や絵図などを調べたり、集めたりすることも大変多いです。 今回は、筆者が記事作成するうえで利用している、おすすめの調べものや引用に便利なサイトをご紹介します。 国立国会図書館デジタルコレクション 国土地理院HP・地理院地図 奈良県立図書情報館・まほろばデジタルライブラリー 奈良盆地歴史地理データベース・小字データベース さいごに 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館で保存・収取しているデ…

  • 筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6)

    1477(文明9)年11月、応仁元年以来11年続いた応仁の乱は、外形上東軍・幕府方の勝利で終結し、京都での戦闘は終結しました。 しかし、大乱以前から続く畠山義就と政長による家督争いはなおも続き、京都を去った義就は幕府に反乱したまま、河内、大和を実力で切り取ります。 大和では西軍だった義就方の国人、越智氏、古市氏が勝利を収め東軍に付いた筒井氏、十市氏は没落しました。 畠山氏の内訌は乱後も激しく続き、その渦の中に大和の国人衆も巻き込まれます。 主戦場は大和そして南山城へと移り、戦いは意外な形で収束することになりました。

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