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2019/04/15

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  • -「大日本史」編纂のはじまり-【GHQ焚書図書開封 第138回】

    【GHQ焚書図書開封第138回】-「大日本史」編纂のはじまり-平安時代に入り、神仏習合の考え方が普及すると、仏教は豪族を中心に広く受け入れられた。その後、江戸時代になると大衆にまで広がり、俗僧の増加、俗寺が乱立し、士民(しみん)から金を搾取したり、風俗を害するものまでがでてきた。これを憂い、天皇家を守り、神道を復活するため、水戸光圀は思い切った宗教改革(風教上有害とみた淫祠3388社を廃し、俗悪をもって通った小寺990か所の取り潰し、堕落僧344人に還俗を命じた)を断行した。水戸光圀は、合理主義である支那の儒学の影響を受けていたため、その修史は神代から始まることを否定していた。水戸黄門の諸国諸国漫遊記は作り話である。光圀は藤沢から西に行ったことはない。ただし、助さん、格さんのモデルとなった人はいる。佐々十竹(助...-「大日本史」編纂のはじまり-【GHQ焚書図書開封第138回】

  • -少年・水戸光圀の決意-【GHQ焚書図書 第137回】

    【GHQ焚書図書第137回】-少年・水戸光圀の決意-日本の近代史にとって欠かすことのできない思想である水戸学は、大きく前期と後期に分けられる。前期は水戸光圀の1600年代、後期は19世紀前半の第9代藩主徳川斉昭の時代に盛んであった。「尊王攘夷」「大義名分」は水戸学で生まれた造語である。義公(水戸光圀)は叔父である敬公(徳川義直)から天皇中心主義の国史について影響を受けた。伯夷叔斉の忠君思想に共感した光圀は、尊王敬慕の立場から国史の編述を決意した。革命思想の孟子が嫌われ、伯夷叔斉の忠君思想を支持する孔子が日本に受け入れられたのは、この頃からだと言われている。「国体」「尊王攘夷」「大義名分」の観念は、戦前の日本にとって国民道徳の中核であった。光圀の6歳、7歳、12歳の時の父威公(頼房)と義公(光圀)に関わる物語は講...-少年・水戸光圀の決意-【GHQ焚書図書第137回】

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