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----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕
----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝
----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸
-----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄
-----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會
-----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓
-----------------------張鎭周/鎮州-----------------------大業五年朝請大夫として陳稜と共に渡海して「流求」を討った。六年獻俘して金紫光祿大夫。大業十三年左屯衛將軍として賊李通德を討った。義寧二年/武德元年四月隋將として蕭銑の反乱を討ったが、煬帝の死を聞き銑に降った?。武德二年正月屯衛將軍として山南兵を率いて王隆に率いられ、蘇世長等とともに王世充に帰属した。三年九/十月南陽が攻めていたが、王世充麾下から唐に降り、左衛將軍/右武侯大将軍?封黃國公食邑三千戶になった。四年八月左武候將軍淮南道行軍總管として陳智略と共に南方を安撫した。六年三月舒州總管として反した前洪州總管張善安を討った。六年十一月輔公祏將陳當世を猷州で大破した。八年正月壽州都督から郷里の舒州都督に転じ...唐初功臣傳21張鎭周/鎮州
-----------------------任瓌字瑋-----------------------父七寶は陳定遠太守。孤児となり叔父に養われる。長じて陳試守靈溪令から衡州司馬へ。陳が亡ぶと棄官、仁壽中に韓城尉となるがまた罷職された。太原留守李淵[高祖]に仕えて河東縣戶曹となった。反乱後、銀青光祿大夫として陳演壽・史大奈と共に出征した。薛獻と共に招慰大使となり賊帥孫華、白玄度等を招降した。韓城縣を降し、左光祿大夫となり永豐倉留守となった。武德元年四月谷州刺史ちとた対世充最前線を担当した。十二月王世充將郭士衡の侵攻を谷州/新安で破り、管國公となった。世民に従い世充を討ち、水運を以って軍糧を供給した。四年八月東都が落ちると持節為河南道安撫大使として徐州の世充弟辯を降した。徐圓朗が兗州で反したため、旧世充將崔樞...唐初功臣傳20任瓌
-----------------------姜寶誼-----------------------父の遠は北周の荊秦二州刺史朝邑縣公。寶誼は太學に進んだが成績不良で軍人となり左翊衛となった。隋末に軍功により通議大夫鷹揚郎將となり、太原留守李淵[唐高祖]に仕えて盗賊を討った。反乱後、左統軍となり、西河・霍邑に功績があり光祿大夫封永安縣公となった。武德元年右武衛大將軍。武德二年四月劉武周將宋金剛と榆次で戦い敗北し、李仲文と共に捕らえられたが脱出した。九月宰相裴寂の麾下として宋金剛と汾州で戦い奮戦したが敗北しまた捕虜となった。寶誼はまた脱出しようとしたが金剛はこれを殺した。追贈左衛大將軍幽州總管,諡曰剛。唐初功臣傳19姜寶誼
-----------------------竇琮-----------------------軌弟、武才があり隋左親衛となった。大業末に罪を受けて太原の李淵[唐高祖]のもとに逃亡した。最初は世民[太宗]と対立していたがやがて親しくなった。反乱に参加し大將軍統軍となった。西河を攻めて霍邑を陥し功績により、金紫光祿大夫封扶風郡公となった。義寧元年十二月劉文靜に従い段志玄と隋屈突通將桑顯和を破り、通を捕らえた。陝縣を降し、太原倉を取って右領軍大將軍となった。隋河陽都尉獨孤武潛が歸國を図り、琮は支援を命ぜられるが遲留して失敗し除名された。武德初赦されて右屯衛大將軍、また右領軍大將軍に転じた。王世充征討時、陝城留守で糧運を監督した。世充驍將羅士信が来襲したが説得して降した。武德四年九月左屯衛大將軍として突厥の并州...唐初功臣傳18竇琮
-----------------------劉弘基-----------------------父昇は隋河州刺史。弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。義寧元年五月反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。義寧元年八月統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。老生を斬り、拜右光祿大夫となった。河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。長安では衛文昇を破り功績第一であった。世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。また世民に従い東...唐初功臣傳17劉弘基
-----------------------殷嶠字開山-----------------------陳の司農卿不害の孫であり、陳滅亡後父僧首は隋秘書丞。嶠は学業にすぐれ、隋太谷縣長で能政だった。反乱後、大將軍府掾。謀略に参与し李淵[高祖]の腹心となり、光祿大夫となった。義寧元年八月建成に従い西河を攻め、世民[太宗]麾下で渭北道元帥長史として關中群盜を招慰した。九月劉弘基と隋將衛孝節を撃破し長安を陥し、封陳郡公,丞相府掾となった。武德元年六月吏部侍郎となった元帥府司馬[元帥は世民]で薛舉を討つが大敗。坐減死除名となった。[世民は病気だとして責任を免れ、劉文靜と開山が処罰された]十一月後に薛仁杲征討に参加し、復爵した。武德二年兼陝東道大行台兵部尚書、ついで遷大行台吏部尚書に転じた。十一月秦叔寶と宋金剛軍を美...唐初功臣傳16殷嶠/開山
-----------------------張河字道源-----------------------道源は孝行と善友を褒め称えられていた。李淵反乱時、大將軍府戶曹參軍となり太原を守った。義寧元年十二月代王時、山東燕趙の地を宣撫し帰属させた。封范陽郡公武德二年九月淮安王神通に従い趙州を守るが、竇建徳に敗れて捕らえられた。三年十二月建徳の内情を唐に密告した。建徳敗北後戻った。五年大理卿となり清廉であった。五年~七年太僕卿七年相州都督/綿州刺史?として卒した贈工部尚書,謚曰節。高官を歴任したが卒後余財はなかった。唐初功臣傳15張河/道源
-----------------------劉師立-----------------------王世充に仕えて將軍であった。世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。武德九年十月食實封一千戸を与えらた。その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。貞觀元年羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。その後再任用され檢校岐州都督となった。貞觀五年功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。反抗的な河西黨項破刃氏を討ち...唐初功臣傳14劉師立
-----------------------李高遷-----------------------隋末、太原に移住して留守李淵[唐高祖]の側近となった。反乱時、隋臣高君雅や王威を排除した。右三統軍となり霍邑・長安を攻め功績が大きく左武衛大將軍封江夏郡公にいたった。その後檢校西麟州刺史となった。武德五年四月代州總管胡大恩が馬邑で突厥と戦い孤立し苦戦していたため、右驍衛大將軍高遷を応援させたが、大恩は敗死した。五月来襲した突厥を忻州で破った。六年五月馬邑賊高滿政將張天明が降り、右武衛大將軍李高遷に助けさせた。七月苑君璋が突厥とともに馬邑を攻撃し、右武候大將軍李高遷と高滿政が臘河谷に撃退した。突厥が朔州を攻撃し、高遷は敗北し、行軍總管尉遲敬德が救援した。十月右武候大將軍高遷を馬邑に派遣して朔州總管高滿政を助けさ...唐初功臣傳13李高遷
-----------------------姜謨/暮字孝忠-----------------------父景は周梁州總管.建平郡公であった。暮は大業末には晉陽縣長であり、太原留守の李淵[唐高祖]を評価し親しかった。反乱が起きると、大將軍府司功參軍となり霍邑を攻め、絳郡を降した。大軍の黄河渡河を監督して功があり、長安陥落後相國兵曹參軍.封長道縣公となった。当時秦隴を征圧していた薛擧に対抗するため、竇軌と共に散關をでて河池、漢陽二郡を降したが、長道で薛舉に敗れて帰還した。員外散騎常侍に遷せられた。武徳元年十一月薛仁杲が平定されると使持節秦州刺史/都督として恩信をもって良政をしき安定させた。武德五年~七年隴州刺史突厥が入寇すると左七總管。武德七年老疾をもって致仕した。金紫光禄大夫。貞觀元年八月卒,70歳、贈岷...唐初功臣傳12姜謨/暮
-----------------------崔善為-----------------------父權會は齊丞相府參軍事だった。好學で天文算歷に通じ時務にも明るかった。弱冠で州舉に合格し、文林郎となり隋文帝が仁壽宮を造営したときに活躍し、宰相楊素を驚嘆させた。そして疑獄や使節に多用されたが、あまり昇進はせず、仁壽中に樓煩郡司戶書佐となる程度であった。太守李淵[高祖]は高く評価し、善為は隋への不満からか反乱を勧めた。反乱が始まると、大將軍府司戶參軍.封清河縣公となる。武德中,內史舎人→尚書左丞と昇進し、官吏を規律を厳しく督察して嫌われ、短軀を嘲られたが、高祖からは評価された。傅仁均と李淳風の暦の得失を考察させた。貞觀1?陝州刺史時に人口の多い關内から關東の広い土地に移動させるという議論が起こったが、「徴兵対...唐初功臣傳11崔善為
-----------------------劉世龍・義節-----------------------大業末には晉陽の鄉長[郷里制度の五百戸の長]であり、裴寂と親しく留守李淵[唐高祖]や、淵を監視する隋臣王威・高君雅家出入りしていた。反乱時、威や君雅の内情を探査し李淵に密告していた。反後、銀青光祿大夫。義寧元年十一月長安に入り右光禄大夫.鴻臚卿となり改名義節。恩賞國用が不足している状況を街衢や苑中の樹木を薪炭として売却することで補った。太府卿封葛國公に移った。武德九年十月食實封六百戸を与えられる。貞觀初少府監に転じるが、故買の罪を得て除名され嶺南に配流された。ついで欽州別駕となり卒した。唐初功臣傳10劉世龍・義節
-----------------------獨孤懷恩-----------------------元貞皇后[独孤氏、信の四女で高祖李淵の母]の弟子。父整は隋為涿郡太守。幼時は隋文帝皇后に宮中で養われ、長じて博徒等と交際していた。雩県令令となるが病により免ぜられた。李淵が長安を陥すと長安令となり嚴明であり職に適った,唐が建国すると工部尚書となり、韋義節に代わって蒲州の堯君素を攻めた。しかし軍略なく成果を上げられず批判され不満を抱いた。高祖が「お前が次代の皇帝になるかもな」と戯れ、懷恩はされを信じていた。当時劉武周麾下の宋金剛と秦王世民が対峙し、蒲州王行本・夏人呂崇茂がその背後を脅かしていた。懷恩は部下の元君寶、劉讓などと武周や行本と和して秦王の糧道を断ち、關内へなだれ込むという陰謀企んでいた?。ところが懷...唐初功臣傳9獨孤懷恩
-----------------------齊善行-----------------------竇建徳に仕えて将となり、左僕射に至った。武德四年五月建徳が世民[太宗]に大敗し捕らえられた後、建德妻曹氏と洺州に逃げ帰った。建徳残党の抗戦意見を抑えて、物資を散じて解兵し、洺相魏等州をもって降った。右僕射裴矩・行台曹旦や建德妻曹氏及傳國八璽と百官を従えていた。秦王左二護軍となった。唐の建徳残党への処遇は低く、劉黒闥の大反乱を招くが、善行は同ぜず唐の地方官として仕え続けた。高祖時代には顕れず、太宗時代に入って活躍した。貞觀十二年二月夔州都督として夜郎/巫州獠を討って平定した。唐初功臣傳8齊善行
-----------------------何潘仁-----------------------隋煬帝義寧元年九月反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り隋長安を攻めた。長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成していった。西域商胡何潘仁は司竹園を根拠地として數萬の軍を編成した總管と自称し、捕らえた前尚書右衛李綱を長史としていた。李氏は家奴馬三寶を派遣して説かせ味方にした。その後潘仁は鄠縣を陥した、潘仁は世民[太宗]軍に配属された。李綱は淵に仕えて專掌選事として人事を担当した。武德二年閏二月左屯衛將軍何潘仁は山賊張子惠と司竹で戦い敗死した。九月禮部尚書領太子詹事李綱は太子建成と世民の対立に辟易し引退を求めた。高祖は怒り「お前は潘仁にさえ仕えていたのに、俺...唐初功臣傳7何潘仁
-----------------------盧祖尚字季良-----------------------父禧は金持ちで隋虎賁郎將となった。祖尚は財をばらまき人心を得、大業末の大混乱時に自ら兵を集めて群盜を追捕した。そのため地元の光州は群盗が入らず安定していた。義寧元年三月宇文化及が隋煬帝を弑逆して隋が崩壊したとき、州人は祖尚を光州刺史に祭り上げた。時に祖尚は十九歳であった。その後、王世充が立てた越王侗に従い光州總管封沈國公。武德四年九月世充が自立すると唐に帰属した。拜光州刺史/總管,封弋陽郡公。武德六年趙郡王孝恭に従い前軍總管として反した輔公祏を討ち、宣歙州を抜き賊帥馮惠亮、陳正通を破った。進擊,並破之。賊平,以功授蔣州刺史。又歷壽州都督、瀛州刺史,並蔣州刺史→壽州都督→瀛州刺史を歴任し有能であつた。貞觀...唐初功臣傳6盧祖尚
-------------------------郭/李子和-------------------------本姓は郭氏。隋大業末に左翊衛から処罰されて榆林郡へ遷された。動乱により郡内は飢饉となり不満が高まった。義寧元年三月子和は同志とともに蜂起し郡丞王才を殺し、倉を開いて賑給した。そして永樂王を自称,正平と建元し、父を太公,弟子政を尚書令,子端、子昇を左、右僕射とした。兵は二千餘騎で、梁師都と通じ、突厥始畢可汗の麾下となった。始畢は子和を平楊天子としたが、実力不足を感じた子和は固辭し、屋利設に任ぜられた。武德元年七月唐に歸附し靈州總管/榆林郡守.封金河郡公に任ぜられた。[雲州総管ではないか?]武徳二年進封郕國公梁師都の寧朔城を陥す。武德三年十一月突厥處羅可汗に圧迫され、弟子升は囚され、懼れた子和は民を率...唐初功臣傳5郭/李子和
-------------------------張長遜-------------------------騎射にすぐれ、里長から軍功により出世して隋上開府五原郡通守/太守となる。また突厥に属しその莫賀咄設結と義兄弟となり割利特勤に任ぜられた。義寧二年/武德元年四月唐の傀儡である代王政権に武都、宕渠、五原等郡を以って歸附して左光祿大夫封安化郡公/范陽郡公となった。梁師都の南下を阻む功績があったとされる。当時李淵[高祖]もまた突厥に仕えていたため両端を持しただけで反したわけではない。武德元年世民[太宗]が薛仁果を攻めた時に、進んで応援し豐州総管.巴/揚國公に昇格した。武德二年閏二月突厥始畢可汗は梁師都・劉武周を率いて太原を攻略しようとしていたが途次卒した。侵攻を懼れた唐高祖は右武候將軍高靜を派遣して朝貢しよう...唐初功臣傳4.張長遜
-----------------------馬三寶-----------------------義寧元年九月李淵[唐高祖]の婿柴紹の家奴、淵が反すると紹は太原に奔り、司竹園に逃れた紹の妻李氏[平陽公主]の指示で、賊何潘仁を味方につけ、總管を自称して群盜數萬を集めた。淵は黄河を渡り三寶は左光祿大夫となり、世民[太宗]の麾下となった。淵が隋帝[代王]を擁すると太子監門率となって、叛胡劉拔真を北山に破った。薛仁杲征討に従い、柴紹麾下左驍衛將軍として吐谷渾を岷州に大破し、封新興縣男。武德九年十月食實封三百戸を与えられた。唐の封戸は虚封であり、単なる格式でしかないが、實封は実際の収入になる。貞觀初,太子監門率領平道軍將より左驍衛大將軍に進み、新興縣公となった。これは司空裴寂を追い落とすため沙門法雅との関係を誣告し...唐初功臣傳3馬三寶
-----------------------劉世讓字元欽-----------------------義寧元年十二月李淵[高祖]は長安を陥し隋帝[代王]を擁立しました。世讓は隋征仕郎であったが、湋川をもって降り通議大夫となった。賊唐弼餘黨招撫に派遣され行軍総管となったが、弟寶俱とともに薛舉軍に敗れて捕らえられました。唐軍が来襲したとき脱出して帰国し、薛仁杲平定後彭州刺史となった。武德二年十二月行軍總管として夏縣呂崇茂を攻めた世讓ですが、宋金剛の来襲により敗北し、永安王孝基・獨孤懷恩と共に捕らえられました。三年二月世讓は劉武周と唐の和議の為釈放され、その際に獨狐懷恩を誣告[誅殺]して封弘農郡公。十二月并州総管として凶暴な突厥倫特勒を捕らえました。そして行軍總管として洺州の竇建徳軍を攻めました。四年三月建德...唐初功臣傳2.劉世讓
唐初に活躍した武将で、正史に伝記がないか、簡潔すぎるものをまとめていきます。50人程度を予定しています。-----------------------李仲文-----------------------隋煬帝義寧元年九月反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り長安に迫ります。長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成します。淵從弟李神通、長安大俠史萬寶、西域商胡何潘仁、郿縣群盜李仲文、向善志、丘師利などが集まりました。仲文は東都を攻めている李密の從父にあたります。仲文は淵軍に編入され世民[唐太宗]の配下に入りました。功績があり上柱國となり、父の封爵を継いで普寧郡公となりました。唐が建国し仲文は引き続き仕えます。唐高祖武德二年四月突厥と結んだ劉武周が并州太原...唐初功臣傳1.李仲文
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再建[李愬の準備]--------------------------元和十一年十二月閒廄宮苑使李愬は鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使に任ぜられた。愬は德宗時代の名将太尉晟の子であり、名門の子弟として順調に昇進していた。唐隨鄧等州節度使は対淮西吳元濟の第二戦線となる戦地であった。前使袁滋はひたすら元濟に宥和を働きかけ戦いを避けていた。そのため左遷され、武官の愬が赴任してきたのではあるが、愬も軍人としての実績はなかった。滋が戦いを避けたのは文官出身で宥和論者というだけではなく、相継ぐ敗戦によって肝腎の軍がガタガタになっていたためだ。「これはダメだな、兵数だけは揃っているが使い物にならない」「みんな淮西兵を懼れていて、戦いを避けることだけを心がけている」閲兵した愬は嘆じた。兵達も元濟も「こんどの節度使は名門のおぼっ...再建[李愬の準備]
中国では皇嗣の即位例はない--------------------------どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます...中国では皇嗣の即位例はない
回紇和約その2[李泌の策]-------------------------德宗は「陝州の事、泌の言う通りかな」と重臣李晟や馬燧に問うた。両大臣は「臣らもそのように思います」と答えた。泌「すでに回紇は陛下に恥をかかせた可汗を殺し、新可汗が立っています。情勢は一新しているのです。今吐蕃の害は回紇に数倍です」德宗「そうは言っても回紇との和は困難であろう」泌「回紇が臣と称し、使節の数を制限し、漢人を拉致せず、吐蕃に共同して対抗するという条件で交渉したいと考えています「そんな条件を回紇が呑むとは思えない、特に臣と称するとは」「この条件なら陛下はお許しくださいますか?」「それができるなら朕には異存がない」回紇は西域諸国と唐の仲立ちをし交易の利を得ていたが、当時唐とは対立し経済的困難を抱えていた。内部には親唐派と反唐...回紇和約その2[李泌の策]
回紇和約その1[陝州の恥]-------------------------吐蕃の背信により盟約がならなかった貞元三年のある朝。宰相李泌は德宗皇帝と対していました。德宗は「邊將から馬が乏しい、これでは吐蕃は防げない、なんとかしてくれという要求がくる。しかし必要はわかるが手に入らない上に非常に高価だ」と嘆いた。泌「私の策を採用してもらえれば、数年の内に馬の供給は増え、安くもなります」「どんな策だ」「陛下のお気にいらぬとは思いますが、国のために申し上げざるえません」「卿はなにをためらっているのか」「北に回紇と和し、南に雲南、西に大食・天竺と通じれば,吐蕃は脅威となりません」「雲南・大食・天竺との和はよいが、回紇はだめだ」「陛下がそうおっしゃるとわかっていますが、回紇との和こそが肝腎なのです。三國はその後でよい...回紇和約その1[陝州の恥]
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早期歸順[王承宗の選択]---------------------元和十三年年初「もうだめだ、勝ち目はなくなったな」成德節度使王承宗は追いつめられていた。淮西吳元濟、淄青李師道と組んで唐に反抗していた。征討軍を何度も撃退し領域を守っていたのだが、淮西元濟が李愬の奇襲により誅されてしまった。淄青師道は軍略がなく兵も弱いので頼みにならない。「淄青が残っている内に歸順しないと交渉にすら応じてもらえませんよ」と幕僚。「交渉は無理だろう、俺は皇帝に一番憎まれている。継承時に裏切っているし、宰相武元衡を殺したのも俺だと思われているし」「ですから誰かに仲介してもらわなければ」「幽州の劉總か魏博の田弘正しかいないが、どちらも敵対しているしな」「とにかく泣きつくしかありません。次に滅ぼされるのはうちか淄青です、早くしないと...早期歸順[王承宗の選択]
登用[憲宗の遺臣]--------------------------大中元年朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」「あれは誰だったのかな?」「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。「子はいるのか?」「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」「宰相になる素質はありそうか?」「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。早くも大中四...登用[憲宗の遺臣]
冷遇[源休の怒り]--------------------------「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」源休は荒れ狂っている。遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。「光禄卿?窓際族扱いじゃないか」対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。長時間、雪中に立たされ問責され続けた。それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。宰相に任じられてもおかしくないはずだ。せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。それなのになんの利益もない光禄卿だ。「盧杞の野郎、今にみておれ」休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのってい...冷遇[源休の怒り]
空虚[迪簡の忍耐]--------------------------「倉庫はからっぽです。前使がみんな持っていきました」「朝廷から送られてくる賜物はいつくるかわかりません」義武軍行軍司馬の任迪簡にとっては頭の痛いことばかりであった。前節度使の張茂昭は、易定二州を朝廷に返納して河中へ栄転していた。長い間の河北の自立の一角が崩れたわけである。しかし周囲の藩鎭はすべて敵であり、軍士達は不穏な状態が続いている。現に二回の反乱がおこり、そのたびに迪簡は監禁されていた。牙軍上層部は官爵を授けられ朝廷に従うつもりであるが、利益を感じられない中堅以下は不満であった。「こんな貧乏節度使だから、茂昭は投げ出していったんだ」「なけなしの財産もみんな持って行ったし」迪簡が軍士に与える賞賜はろくになかったし、宴会すら開くことがで...空虚[迪簡の忍耐]
背信[太宗と李勣]------------------------貞觀二十三年五月「疉州都督を命じる、ただちに赴任せよ」突然の左遷命令に宰相李勣は愕然とした。なんの原因も思い当たらない。竇建徳や王世充と戦っている頃からの太宗を戦友と信じ、困難な高久麗遠征にも全力で忠誠を尽くしていた勣である。「たよりない皇太子をしっかり補佐してくれよ」と病身の太宗から涙とともに頼まれ、感激して拝受したばかりであった。「本当は、陛下は俺など信じてなどくれてはいなかった。すぐ裏切る盗賊上がりとみていたんだ。俺はまんまと騙されていたんだ」家にも立ち寄らず疉州へ赴任する道で勣はどんどん覚めていった。「皇帝など信用出来ない、二度とだまされない」死期が迫った太宗は、皇太子治を呼んで言った「勣は名将だ、俺は重恩を与え奴を使いこなせた。し...背信[太宗と李勣]
僞勅[監軍王定遠の横暴]--------------------------貞元十一年七月の河東節度使府である。「ついては節度使李說を解任し、行軍司馬李景略を留後という勅命がくだった」監軍の王定遠(宦官)は壇上で甲高い声をあげていた。壇下の諸将は不満げにざわめき、お互いに顔をみあわせていた。說は節度使として有能ではないが、けっして嫌われてはいない。定遠は說を無視して専権を振るい、軍内の評判は極めて悪い。先日も逆らった軍人をひそかに殺して馬糞の下に埋めさせていた。なぜかそのことは諸将にも知れ渡ってしまっていた。說にそのことを責められ逆恨みし、朝廷に報告されないうちにと、勝手に解任しようとしていたのだ。諸将が納得していないのを見て取った定遠はさらにいった。「おまえ達の昇進の命令もここにたくさん来ている」そして...僞勅[監軍王定遠の横暴]
受忍[婁師德の生きる知恵]----------------------------------長壽二年正月寛厚で清廉で知られた宰相婁師德は、才智あふれる敏腕の同僚李昭德とともに入朝していた。広大な宮庭を肥満体の師德はのろのろと歩んでいく、若く元気な昭德は進んでは待ち、また進むの繰り返しであった。いらいらした昭德は思わず「田舎者めが」と吐き捨てた。師德は笑って「私が田舎者じゃなかったら、誰が田舎者なんでしょう」と言った。さすがの昭德もことばが出なかった。また師德の弟が代州刺史に昇進した。兄弟揃っての栄進に師德は弟を呼び出して戒めた。「私が宰相、お前が刺史となれば、人の妬む所だ。いかなる誣告があるやもしれない、どうすれば逃れられるかお前の心構えはどうかな」弟「たとえ顔に唾を吐きかけられても拭うだけでがまんしま...受忍[婁師德の生きる知恵]
厚遇[河北三鎭の分裂]--------------------------「魏博で軍乱がおきたようだの」と憲宗「幼少のものでは牙軍は抑えられませんからな」と李吉甫そこへ宰相李絳がやってきて言った。「新たに推された田興は魏博六州を朝廷の管轄に戻すと上奏してきています」「まさか、そんなことはあるはずがない」「いや本当です。官吏の任免も求めてきました」「興は田家の傍流です。そのため朝廷の早期の承認が必要なのです」「魏博が味方になれば、成徳の王承宗や平盧の李師道を分断できる」「田興を留後として認めてやろうか」河北三鎭等の半独立の節度使は、まず自立した者が任命を願い出て留後となり、牙軍が節度使として推薦してそれを朝廷が認めるという方式をとってきたのだ。李絳が言った。「留後では牙軍のおかげで昇進したということになりま...厚遇 [河北三鎭の分裂]
擁立される[田興の悩み]--------------------------元和七年魏博節度使田季安が32才で卒した。河北三鎭の一つ魏博節度も承嗣.悅.緒.季安と4代続いていた。承嗣・悅は反唐姿勢が明白だったが、唐より嘉誠公主を降嫁してもらった緒の代よりあいまいになった。公主を義母とした季安は若くして継承し、反唐の成德王承宗を陰で支援したりしたが、成德・淄青・淮西の反唐同盟には属さず、両端を持していた。そして乱行と深酒のため若死にしたのである。継承すべき子の懐諫はまだ11才である。当然藩鎭圧迫策を行う憲宗皇帝はなかなか継承を承認しない。驕兵である牙軍もさすがに動揺している。季安の卒後まもなく、いちおう懷諫を擁立はしたが、実務は家奴の蔣士則が取っていた。「士則のやつ、奴隷のくせにえらそうに俺達に指示しおって...擁立される[田興の悩み]
出家[幽州節度使劉總の苦悩]--------------------------今日もたくさんの僧達が読経をつづけ、寺院ともおもいかねない節度使の邸。僧達に混じって節度使の劉總もまた必死に読経を続けてきた。夜が来るのが恐ろしい。読経に疲れ果てて眠るわずかな睡眠だけが總の休養だ。毒殺した父、暗殺した兄や弟の亡霊が次々に總を苦しめる。「朝廷にお願いした件はどうなった」「殿は天平節度使に御転任です。幽州には元宰相の張弘靖様が来られます」「天平などは不要だ、ただ出家の許可が欲しいだけなのだ」「殿の功績を考えると一挙に僧というのはと・・・」「早く僧となって心の安静を得たい、地位や封爵などどうでもよい」魏博・成徳が帰順したあと、残った幽州も朝廷の支配下に戻ろうとしていた。しかし總には今の朝廷のやり方ではすぐに破綻する...出家[幽州節度使劉總の苦悩]
起死回生[李義府の挑戦]-----------------------「ああもうだめだ。俺の今までの努力はなんだったんだろう」中書舎人李義府は門下省からきた人事案をみて落胆していた。そこには義府を山西の壁州司馬に左遷すると書かれていた。義府はそんな左遷されるほどの失態を犯したわけではない。ささいなミスだ。しかし義府のような進士あがりの成り上がりを嫌悪する門閥派にとっては理由になるのだ。義府は太尉長孫無忌の己への冷たい視線を感じていた。ど田舎よりひたすら学問に打ち込んで、少しずつ昇進してきたのに、これですべて元の木阿弥である。再チャレンジなどはありえない。「どうした、そんな青い顔をして、どこか悪いのか?」と同僚の王德儉が心配して聞いてきた。「俺はもう終わりだ。明日僻地へ左遷になるんだ」「うーん、これはひどい...起死回生[李義府の挑戦]
-----------------------王長諧-----------------------瓜州刺史直の子。隋鷹揚郎將義寧元年六月李淵[高祖]反乱時、統軍八月劉弘基・陳演壽・史大柰と黄河辺で隋將屈突通と対峙した。九月屈突通將桑顯和と戦う。劉文靜麾下で永豐倉に屯し、潼關を守る。屈突通將軍劉綱を潼關に破り斬り、潼関城を守り抜いた。光禄大夫武德九年~貞觀元年會州都督として収賄し弾劾されたが、太宗は赦した。左武衛大將軍貞觀初秦州都督.封平原郡公陪葬獻陵。唐初功臣傳41王長諧
-----------------------張儉字師約-----------------------父植は隋車騎將軍.連城縣公。儉は李淵[高祖]の從甥。右衛郎將となった。貞觀元年~四年軍功をもって朔州刺史にいたった。時に突厥頡利可汗は強盛で辺境州から脅し取っていた。儉は屈せず、また屯田を経営し十萬斛とし軍糧を蓄積し民を安撫した。四年檢校勝州都督となり母憂で職を去った。突厥が亡んだ後、思結部落は貧窮し離散していたが、儉は招慰して安住させ、外地に住む者も往来させて羈縻が成功していた。儉が離任した後、叛乱が起きようとしたが、儉が慰撫すると、諸首領は帰服した。四年檢校代州都督に移ると、やはり營田を勧め、和糴を行ったため蕃人は喜悅、軍食は充足した。十四年~永徽四年營州都督兼護東夷校尉に移ったが、坐事削官。十五年十...唐初功臣傳40張儉
----------------------------李孟嘗/孟常字待賓----------------------------貧民の出身であり盗となり24歳で王君廓麾下となった。武德元年君廓に従い唐に帰属し開府儀同三司となった。八月世民[太宗]に従い薛擧・仁果征討に従軍した。三年劉武周征討に従い、軍功があり上柱国となった。四年五月王世充・竇建徳征討に従った。六年五月李勣に従い徐圓朗を討った。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加、右監門副率となった。七月右監門中郎将、封武水縣公に進んだ。十月食實封四百戸貞觀三年~四年李勣に従い突厥征討に功績があり、漢東郡公に進んだ。貞觀十四年右驍衛将軍貞觀十八年右屯衛将軍貞觀二十年/永徽元年黔州刺史/都督良政あり永徽元年十二月反した琰州獠を謝萬歳等と討った。永徽六年右監...唐初功臣傳39李孟嘗/孟常
-----------------------許世緒/緒字玄嗣-----------------------洛仁の兄。益州司馬から大業末,隋鷹揚府司馬であり、李淵[唐高祖]と親しくしばしば「今は蜂起するべき時期だ。そうしないと他の出し抜かれますよ」と唆した。反乱が起きると右一府司馬左/右武侯/驍衛長史左散騎常侍大府卿/少卿司農卿武德中封真定郡公鄂州刺史武德七年/八年瓜州刺史/都督銀靑光禄大夫豫州刺史貞觀中在任卒63歳贈靈州都督唐初功臣傳38許世緒/緒
---------------------------李思行----------------------------仇を避けて太原に逃げていた。李淵[高祖]反乱後、長安に偵察に派遣され動靜を窺った。左三統軍となる。隋將宋老生を破った。長安陥落後.驃騎将軍齊王元吉護軍となった。玄武門の変後、磁州で捕らえられるが魏徴がとりなして赦される。貞觀~永徽嘉州刺史.封樂安郡公。永徽初卒,贈洪州都督,謚曰襄。唐初功臣傳37李思行
----------------------------張崇字平高----------------------------隋末鷹揚府校尉として太原に屯し李淵[高祖]と知り合い反乱を議した。反乱後軍頭となった。長安陥落後、驃騎將軍となった。左領軍將軍封蕭國公にいたった。武德九年十月食實封三百戸貞觀初丹州刺史坐事免職され、右光祿大夫として致仕卒後改封羅國公。永徽中,追贈潭州都督。唐初功臣傳36張崇/平高
----------------------------趙文恪----------------------------隋末に鷹揚府司馬として太原李淵の麾下であった。大業十三年反乱に参加し右三統軍。武德二年都水監.封新興郡公。并州で突厥からの軍馬購入に努力した。武徳二年三月劉武周將宋金剛が太原に来寇し、浩州を守る李仲文を救援に赴いた。しかし太原も齊王元吉が逃げて陥落し、文恪も城を棄てて敗走したため獄死した。齊王元吉はなにも罪に問われなかった。唐初功臣傳35趙文恪
----------------------------樊興/樊世興字積慶----------------------------武陵の蠻族出身。父の罪で李淵[高祖]家の奴隷となっていた。反乱後軍に従い、通議大夫から金紫光禄大夫。長安平定後に左光禄大夫となった。また世民[太宗]に従い薛舉を攻める。武德四年父方の謀反の罪で連座削官された。王世充、竇建德と戦い戦功を積み封營國公。七年劉黒闥征討の功績で右監門將軍となった。八年天節将軍となった。九年十月食實封四百戸。坐事削爵。貞觀六年陵州獠の反を討ち、左驍衛將軍。李靖に従い赤水道行軍總管として吐谷渾を討つが、逗留し期限に遅れて敗北し免官。久しくして左監門大將軍封襄城郡公。太宗の遼東遠征時、忠勤をかわれて京師留守房玄齡の副となる。檢校右武候將軍。永徽元年卒,63歳...唐初功臣傳34樊興/世興
----------------------------公孫武達----------------------------腕力に優れ豪俠と称していた。隋驍果軍士卒となっていた。武德初李淵[高祖]に長春宮で謁し麾下となった。二年十一月世民[太宗]麾下となり、劉武周征討に従い軍功をたてた。また王世充、竇建德征討に従い秦王府右三軍驃騎.封清水縣公となった。九年六月玄武門の変[建成暗殺]に参加した。十月食實封四百戸を与えられた。貞觀初檢校右監門將軍貞觀三年肅州刺史十一月甘州刺史成仁重と突厥の来寇を大破し、左監門將軍。鹽州の突厥が反乱し、武達は靈州へ赴き突厥軍を破った。進封東萊郡公。永徽中右武衛大將軍卒,贈荊州都督,陪葬昭陵,謚曰壯。唐初功臣傳33公孫武達
----------------------------------------夏侯端-----------------------------------------梁左僕射詳の孫。隋大理司直となり李淵[高祖]と親交があった。大業中李淵が河東の討賊をしたときには、端が副であった。そして煬帝の乱政を批判し淵に決起を勧めた。反乱が起こったとき端は河東郡にいて,淵との関係を疑われて捕らえられ長安の獄に囚された。淵が長安を陥すと、秘書監に任ぜられた。武德二年四月大將軍を加えられ持節河南道招慰使として關東の地を招諭に派遣された。十月黎陽から澶水黄河を渡り海に至まで二十余州を招撫送款させた。しかし亳州刺史丁叔則や汴州刺史王要漢が王世充についたため、中間を遮断された。端は衆心を得ており所從が二千人もいたが、孤立したた...唐初功臣傳32夏侯端
----------------------------羅士信----------------------------大業十年長白山賊王簿、左才相、孟讓が齊郡に来寇した。通守張須陀が迎撃、士信は14歳で参加を申し出て勇戦し、須陀の激賞を得た。そして須陀の副となり奮戦し、煬帝も認めるほどになった。義寧元年四月須陀が李密との戦いで戦死すると、士信は裴仁基に従い密に仕えて總管となった。李密に従い王世充と奮戦するが敗れて捕らえられた。世充はその驍勇を知っていたので厚遇した。武徳二年七月その後世充は李密の叛将邴元真等を起用したため、士信は同列となるを恥じ、所部千余人とともに谷州に奔り唐に帰した十月高祖は士信を陝州道行軍總管とし世充を攻撃させた。士信は青城堡を陥した。三年四月慈澗を囲み、世充太子玄應を破った。十月千金...唐初功臣傳31羅士信
---------------------李安遠---------------------隋上柱国雲州刺史徹の子。家が富んでいたため無頼で博徒と通じていた。しかし成長すると讀書を好み友を選んだ。父の爵を継ぎ城陽公となった。王珪と親しく、大業初に珪が処罰され配流になった時に庇った。正平縣令となり、絳郡通守陳叔達とともに李淵の反乱軍に抗したが落城して捕まった。むしかし淵と旧交があったため赦されて右翊衛統軍封正平縣公となった。武德元年屈突通を破り上柱國右武衛大將軍に進んだ。世民[太宗]に従い軍功があって廣德郡公に進んだ。また吐谷渾に使いして,渾主伏允を慰撫して互市を開始した。太子建成が安遠を誘ったが同ぜず、世民の党派にいた。貞觀初京師を巡察して治安を守った。潞州都督五年~七年懷州刺史いずれも有能であったが厳格す...唐初功臣傳30李安遠
-----------------------丘行恭-----------------------騎射に優れ勇敢絕倫であり、大業末に兄の師利とともに岐、雍間で群盗となっていた。故郿城を本拠とし自立できていた。義寧元年九月原州奴賊數萬人を従え唐軍に参加し、光祿大夫となる。長安平定後、薛舉、劉武周、王世充、竇建德と戦い戦功があって、左一府驃騎となった。武德四年世充との戦いでは落馬した秦王を助け奮戦した。太子建成の殺害に参加し、左衛將軍となった。武德末冀州刺史貞觀陝州刺史。貞觀中嫡兄と生母葬儀で争い、弾劾され除名。しかしすぐ復官。侯君集の高昌遠征に従い,封天水郡公,右武候將軍となった。高宗嗣位右武侯大將軍.譚國公.老齢により致仕,拜光祿大夫。性嚴酷で同僚から敬遠されていた。麟德二年卒、八十歳。贈荊州都督/刺史,...唐初功臣傳29丘行恭
-----------------------龐玉/寵玉-----------------------隋儀同大将軍徽の子。義寧元年五月煬帝は監門將軍涇陽寵玉と霍世舉に關內兵を率いさせ東都に派遣した。東都越王麾下として李密軍を大破した。九月寵玉等は偃師兵を率いて、世充と合同し李密を洛口に撃った。王世充が東都で簒奪したとき、皇甫無逸とともに萬騎をひきつれて唐に帰順した。高祖は隋旧臣の来降を喜び領軍・武衛大将軍に任じた。武德元年九月唐将軍として淺水原て゜薛仁果と戦った。十月右武候大將軍として西討に向かった。十二月河東堯君素を攻めた。二年十月左武候大將軍から梁州總管となり、巴集州獠を平定した。四年越州都督として能政だつた。韓國公太宗即位左監門大将軍掌東宮軍務。貞觀十一年卒贈工部尚書.豳州都督。唐初功臣傳28龐玉/寵玉
----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕
----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝
----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸
-----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄
-----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會
-----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓