chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
qutoushi
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2019/03/24

arrow_drop_down
  • 唐初功臣傳27 王雄誕

    ----------------------------王雄誕----------------------------強壮で腕力絶倫だった。杜伏威が蜂起すると参加して活躍し成果をあげ、驃騎將軍と称した。大業十一年十月伏威が李子通に裏切られて襲われた時、怪我をした伏威を背負って逃げ、自らも負傷しながらついに退避させた。闞棱を軍中では「大將軍」、雄誕を「小將軍」と呼んだ。武德三年伏威腹心の輔公祏とともに子通を討った。四年十一月李子通と蘇州に戦いついには捕らえた。歙守の汪華を攻めて降した。蘇賊で昆山に拠る遂安を攻めて降らせた。四年功により歙州總管封宜春郡公となった。伏威は唐に入朝し、留守の兵権は雄誕が握った。六年八月輔公祏が反するとき邪魔な雄誕を伏威の命として排斥し、雄誕は落胆して病となった。公祏は兵権を奪って...唐初功臣傳27王雄誕

  • 唐初功臣傳26 李/羅藝

    ----------------------------李/羅藝字子廷/子延----------------------------父榮は隋監門將軍。冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。大業十二年十二月藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。倉庫を開き戰士に...唐初功臣傳26李/羅藝

  • 唐初功臣傳25 皇甫無逸

    ----------------------------皇甫無逸字仁儉----------------------------父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。義寧二年五月煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。武德元年七月王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。十二月蒲州堯君素を説くが降らなかった。陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はし...唐初功臣傳25皇甫無逸

  • 唐初功臣傳24 鄭元璹/元鑄

    -----------------------------鄭元璹/元鑄字德芳-----------------------------隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。義寧二年/武德元年二月太常卿として商洛,南陽を平定した。武德元年八月襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。軍旅の事や軍法に通じていた。十/十二月鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。武徳二年突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。四年四月突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順...唐初功臣傳24鄭元璹/元鑄

  • 唐初功臣傳23 劉政會

    -----------------------劉政會-----------------------祖環雋は北齊中書侍郎であった。大業中に太原鷹揚府/開陽府司馬司馬となり留守李淵[高祖]の部下となった。副留守王威や高君雅は淵の反意を疑って警戒していた。そこで先手を打って政會に二人が突厥と通じ謀反していると誣告させて殺した。大將軍府戶曹參軍となった。長安平定後、丞相府掾となる。武德元年衛尉少卿として留守太原。武德二年九月劉武周が并州を陥した時捕らえられるが、賊の内情を通報し、回復後,復官爵。光禄大夫刑部尚書光祿卿封邢國公貞觀初洪州都督,賜實封三百戶。九年卒,贈民部尚書,謚曰襄。追改封渝國公後配饗高祖廟庭永徽五年追贈并州都督唐初功臣傳23劉政會

  • 唐初功臣傳22 王君廓

    -----------------------王君廓-----------------------若くして無頼で郷里の鼻つまみであったが、大業末に盜となり、千餘人を集めて、長平を掠奪し夏縣に迫った。河東丞丁榮が討伐するが撃破し、賊韋寶、鄧豹等と虞鄉を掠奪した。隋將宋老生に敗れて逃げた。義寧元年二月李淵[高祖]の招聘には従わず、李密の麾下となった。二年四月李密に優遇されないので、淵の麾下に転じた。上柱國、假河內太守、常山郡公食邑二千戶となった。ついで遼州刺史となり、上谷郡公に移った。王世充征討に従い右武衛將軍となった。武德三年七月軒轅羅川二縣を陥し,世充將魏隱を破り、糧道を断ち、彭國公に進んだ。四年二月虎牢を陥し王世充荊王王行本を捕らた。四月竇建徳の糧道を断ち張青特を破り捕らえた。五年正月劉黒闥下の洺水人李...唐初功臣傳22王君廓

  • 唐初功臣傳21 張鎭周/鎮州

    -----------------------張鎭周/鎮州-----------------------大業五年朝請大夫として陳稜と共に渡海して「流求」を討った。六年獻俘して金紫光祿大夫。大業十三年左屯衛將軍として賊李通德を討った。義寧二年/武德元年四月隋將として蕭銑の反乱を討ったが、煬帝の死を聞き銑に降った?。武德二年正月屯衛將軍として山南兵を率いて王隆に率いられ、蘇世長等とともに王世充に帰属した。三年九/十月南陽が攻めていたが、王世充麾下から唐に降り、左衛將軍/右武侯大将軍?封黃國公食邑三千戶になった。四年八月左武候將軍淮南道行軍總管として陳智略と共に南方を安撫した。六年三月舒州總管として反した前洪州總管張善安を討った。六年十一月輔公祏將陳當世を猷州で大破した。八年正月壽州都督から郷里の舒州都督に転じ...唐初功臣傳21張鎭周/鎮州

  • 唐初功臣傳20 任瓌

    -----------------------任瓌字瑋-----------------------父七寶は陳定遠太守。孤児となり叔父に養われる。長じて陳試守靈溪令から衡州司馬へ。陳が亡ぶと棄官、仁壽中に韓城尉となるがまた罷職された。太原留守李淵[高祖]に仕えて河東縣戶曹となった。反乱後、銀青光祿大夫として陳演壽・史大奈と共に出征した。薛獻と共に招慰大使となり賊帥孫華、白玄度等を招降した。韓城縣を降し、左光祿大夫となり永豐倉留守となった。武德元年四月谷州刺史ちとた対世充最前線を担当した。十二月王世充將郭士衡の侵攻を谷州/新安で破り、管國公となった。世民に従い世充を討ち、水運を以って軍糧を供給した。四年八月東都が落ちると持節為河南道安撫大使として徐州の世充弟辯を降した。徐圓朗が兗州で反したため、旧世充將崔樞...唐初功臣傳20任瓌

  • 唐初功臣傳19 姜寶誼

    -----------------------姜寶誼-----------------------父の遠は北周の荊秦二州刺史朝邑縣公。寶誼は太學に進んだが成績不良で軍人となり左翊衛となった。隋末に軍功により通議大夫鷹揚郎將となり、太原留守李淵[唐高祖]に仕えて盗賊を討った。反乱後、左統軍となり、西河・霍邑に功績があり光祿大夫封永安縣公となった。武德元年右武衛大將軍。武德二年四月劉武周將宋金剛と榆次で戦い敗北し、李仲文と共に捕らえられたが脱出した。九月宰相裴寂の麾下として宋金剛と汾州で戦い奮戦したが敗北しまた捕虜となった。寶誼はまた脱出しようとしたが金剛はこれを殺した。追贈左衛大將軍幽州總管,諡曰剛。唐初功臣傳19姜寶誼

  • 唐初功臣傳18 竇琮

    -----------------------竇琮-----------------------軌弟、武才があり隋左親衛となった。大業末に罪を受けて太原の李淵[唐高祖]のもとに逃亡した。最初は世民[太宗]と対立していたがやがて親しくなった。反乱に参加し大將軍統軍となった。西河を攻めて霍邑を陥し功績により、金紫光祿大夫封扶風郡公となった。義寧元年十二月劉文靜に従い段志玄と隋屈突通將桑顯和を破り、通を捕らえた。陝縣を降し、太原倉を取って右領軍大將軍となった。隋河陽都尉獨孤武潛が歸國を図り、琮は支援を命ぜられるが遲留して失敗し除名された。武德初赦されて右屯衛大將軍、また右領軍大將軍に転じた。王世充征討時、陝城留守で糧運を監督した。世充驍將羅士信が来襲したが説得して降した。武德四年九月左屯衛大將軍として突厥の并州...唐初功臣傳18竇琮

  • 唐初功臣傳17 劉弘基

    -----------------------劉弘基-----------------------父昇は隋河州刺史。弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。義寧元年五月反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。義寧元年八月統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。老生を斬り、拜右光祿大夫となった。河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。長安では衛文昇を破り功績第一であった。世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。また世民に従い東...唐初功臣傳17劉弘基

  • 唐初功臣傳16 殷嶠/開山

    -----------------------殷嶠字開山-----------------------陳の司農卿不害の孫であり、陳滅亡後父僧首は隋秘書丞。嶠は学業にすぐれ、隋太谷縣長で能政だった。反乱後、大將軍府掾。謀略に参与し李淵[高祖]の腹心となり、光祿大夫となった。義寧元年八月建成に従い西河を攻め、世民[太宗]麾下で渭北道元帥長史として關中群盜を招慰した。九月劉弘基と隋將衛孝節を撃破し長安を陥し、封陳郡公,丞相府掾となった。武德元年六月吏部侍郎となった元帥府司馬[元帥は世民]で薛舉を討つが大敗。坐減死除名となった。[世民は病気だとして責任を免れ、劉文靜と開山が処罰された]十一月後に薛仁杲征討に参加し、復爵した。武德二年兼陝東道大行台兵部尚書、ついで遷大行台吏部尚書に転じた。十一月秦叔寶と宋金剛軍を美...唐初功臣傳16殷嶠/開山

  • 唐初功臣傳15 張河/道源

    -----------------------張河字道源-----------------------道源は孝行と善友を褒め称えられていた。李淵反乱時、大將軍府戶曹參軍となり太原を守った。義寧元年十二月代王時、山東燕趙の地を宣撫し帰属させた。封范陽郡公武德二年九月淮安王神通に従い趙州を守るが、竇建徳に敗れて捕らえられた。三年十二月建徳の内情を唐に密告した。建徳敗北後戻った。五年大理卿となり清廉であった。五年~七年太僕卿七年相州都督/綿州刺史?として卒した贈工部尚書,謚曰節。高官を歴任したが卒後余財はなかった。唐初功臣傳15張河/道源

  • 唐初功臣傳14 劉師立

    -----------------------劉師立-----------------------王世充に仕えて將軍であった。世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。武德九年十月食實封一千戸を与えらた。その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。貞觀元年羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。その後再任用され檢校岐州都督となった。貞觀五年功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。反抗的な河西黨項破刃氏を討ち...唐初功臣傳14劉師立

  • 唐初功臣傳13 李高遷

    -----------------------李高遷-----------------------隋末、太原に移住して留守李淵[唐高祖]の側近となった。反乱時、隋臣高君雅や王威を排除した。右三統軍となり霍邑・長安を攻め功績が大きく左武衛大將軍封江夏郡公にいたった。その後檢校西麟州刺史となった。武德五年四月代州總管胡大恩が馬邑で突厥と戦い孤立し苦戦していたため、右驍衛大將軍高遷を応援させたが、大恩は敗死した。五月来襲した突厥を忻州で破った。六年五月馬邑賊高滿政將張天明が降り、右武衛大將軍李高遷に助けさせた。七月苑君璋が突厥とともに馬邑を攻撃し、右武候大將軍李高遷と高滿政が臘河谷に撃退した。突厥が朔州を攻撃し、高遷は敗北し、行軍總管尉遲敬德が救援した。十月右武候大將軍高遷を馬邑に派遣して朔州總管高滿政を助けさ...唐初功臣傳13李高遷

  • 唐初功臣傳12 姜謨/暮

    -----------------------姜謨/暮字孝忠-----------------------父景は周梁州總管.建平郡公であった。暮は大業末には晉陽縣長であり、太原留守の李淵[唐高祖]を評価し親しかった。反乱が起きると、大將軍府司功參軍となり霍邑を攻め、絳郡を降した。大軍の黄河渡河を監督して功があり、長安陥落後相國兵曹參軍.封長道縣公となった。当時秦隴を征圧していた薛擧に対抗するため、竇軌と共に散關をでて河池、漢陽二郡を降したが、長道で薛舉に敗れて帰還した。員外散騎常侍に遷せられた。武徳元年十一月薛仁杲が平定されると使持節秦州刺史/都督として恩信をもって良政をしき安定させた。武德五年~七年隴州刺史突厥が入寇すると左七總管。武德七年老疾をもって致仕した。金紫光禄大夫。貞觀元年八月卒,70歳、贈岷...唐初功臣傳12姜謨/暮

  • 唐初功臣傳11 崔善為

    -----------------------崔善為-----------------------父權會は齊丞相府參軍事だった。好學で天文算歷に通じ時務にも明るかった。弱冠で州舉に合格し、文林郎となり隋文帝が仁壽宮を造営したときに活躍し、宰相楊素を驚嘆させた。そして疑獄や使節に多用されたが、あまり昇進はせず、仁壽中に樓煩郡司戶書佐となる程度であった。太守李淵[高祖]は高く評価し、善為は隋への不満からか反乱を勧めた。反乱が始まると、大將軍府司戶參軍.封清河縣公となる。武德中,內史舎人→尚書左丞と昇進し、官吏を規律を厳しく督察して嫌われ、短軀を嘲られたが、高祖からは評価された。傅仁均と李淳風の暦の得失を考察させた。貞觀1?陝州刺史時に人口の多い關内から關東の広い土地に移動させるという議論が起こったが、「徴兵対...唐初功臣傳11崔善為

  • 唐初功臣傳10 劉世龍・義節

    -----------------------劉世龍・義節-----------------------大業末には晉陽の鄉長[郷里制度の五百戸の長]であり、裴寂と親しく留守李淵[唐高祖]や、淵を監視する隋臣王威・高君雅家出入りしていた。反乱時、威や君雅の内情を探査し李淵に密告していた。反後、銀青光祿大夫。義寧元年十一月長安に入り右光禄大夫.鴻臚卿となり改名義節。恩賞國用が不足している状況を街衢や苑中の樹木を薪炭として売却することで補った。太府卿封葛國公に移った。武德九年十月食實封六百戸を与えられる。貞觀初少府監に転じるが、故買の罪を得て除名され嶺南に配流された。ついで欽州別駕となり卒した。唐初功臣傳10劉世龍・義節

  • 唐初功臣傳9 獨孤懷恩

    -----------------------獨孤懷恩-----------------------元貞皇后[独孤氏、信の四女で高祖李淵の母]の弟子。父整は隋為涿郡太守。幼時は隋文帝皇后に宮中で養われ、長じて博徒等と交際していた。雩県令令となるが病により免ぜられた。李淵が長安を陥すと長安令となり嚴明であり職に適った,唐が建国すると工部尚書となり、韋義節に代わって蒲州の堯君素を攻めた。しかし軍略なく成果を上げられず批判され不満を抱いた。高祖が「お前が次代の皇帝になるかもな」と戯れ、懷恩はされを信じていた。当時劉武周麾下の宋金剛と秦王世民が対峙し、蒲州王行本・夏人呂崇茂がその背後を脅かしていた。懷恩は部下の元君寶、劉讓などと武周や行本と和して秦王の糧道を断ち、關内へなだれ込むという陰謀企んでいた?。ところが懷...唐初功臣傳9獨孤懷恩

  • 唐初功臣傳8 齊善行

    -----------------------齊善行-----------------------竇建徳に仕えて将となり、左僕射に至った。武德四年五月建徳が世民[太宗]に大敗し捕らえられた後、建德妻曹氏と洺州に逃げ帰った。建徳残党の抗戦意見を抑えて、物資を散じて解兵し、洺相魏等州をもって降った。右僕射裴矩・行台曹旦や建德妻曹氏及傳國八璽と百官を従えていた。秦王左二護軍となった。唐の建徳残党への処遇は低く、劉黒闥の大反乱を招くが、善行は同ぜず唐の地方官として仕え続けた。高祖時代には顕れず、太宗時代に入って活躍した。貞觀十二年二月夔州都督として夜郎/巫州獠を討って平定した。唐初功臣傳8齊善行

  • 唐初功臣傳7 何潘仁

    -----------------------何潘仁-----------------------隋煬帝義寧元年九月反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り隋長安を攻めた。長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成していった。西域商胡何潘仁は司竹園を根拠地として數萬の軍を編成した總管と自称し、捕らえた前尚書右衛李綱を長史としていた。李氏は家奴馬三寶を派遣して説かせ味方にした。その後潘仁は鄠縣を陥した、潘仁は世民[太宗]軍に配属された。李綱は淵に仕えて專掌選事として人事を担当した。武德二年閏二月左屯衛將軍何潘仁は山賊張子惠と司竹で戦い敗死した。九月禮部尚書領太子詹事李綱は太子建成と世民の対立に辟易し引退を求めた。高祖は怒り「お前は潘仁にさえ仕えていたのに、俺...唐初功臣傳7何潘仁

  • 唐初功臣傳6 盧祖尚

    -----------------------盧祖尚字季良-----------------------父禧は金持ちで隋虎賁郎將となった。祖尚は財をばらまき人心を得、大業末の大混乱時に自ら兵を集めて群盜を追捕した。そのため地元の光州は群盗が入らず安定していた。義寧元年三月宇文化及が隋煬帝を弑逆して隋が崩壊したとき、州人は祖尚を光州刺史に祭り上げた。時に祖尚は十九歳であった。その後、王世充が立てた越王侗に従い光州總管封沈國公。武德四年九月世充が自立すると唐に帰属した。拜光州刺史/總管,封弋陽郡公。武德六年趙郡王孝恭に従い前軍總管として反した輔公祏を討ち、宣歙州を抜き賊帥馮惠亮、陳正通を破った。進擊,並破之。賊平,以功授蔣州刺史。又歷壽州都督、瀛州刺史,並蔣州刺史→壽州都督→瀛州刺史を歴任し有能であつた。貞觀...唐初功臣傳6盧祖尚

  • 唐初功臣傳5 郭/李子和

    -------------------------郭/李子和-------------------------本姓は郭氏。隋大業末に左翊衛から処罰されて榆林郡へ遷された。動乱により郡内は飢饉となり不満が高まった。義寧元年三月子和は同志とともに蜂起し郡丞王才を殺し、倉を開いて賑給した。そして永樂王を自称,正平と建元し、父を太公,弟子政を尚書令,子端、子昇を左、右僕射とした。兵は二千餘騎で、梁師都と通じ、突厥始畢可汗の麾下となった。始畢は子和を平楊天子としたが、実力不足を感じた子和は固辭し、屋利設に任ぜられた。武德元年七月唐に歸附し靈州總管/榆林郡守.封金河郡公に任ぜられた。[雲州総管ではないか?]武徳二年進封郕國公梁師都の寧朔城を陥す。武德三年十一月突厥處羅可汗に圧迫され、弟子升は囚され、懼れた子和は民を率...唐初功臣傳5郭/李子和

  • 唐初功臣傳4. 張長遜

    -------------------------張長遜-------------------------騎射にすぐれ、里長から軍功により出世して隋上開府五原郡通守/太守となる。また突厥に属しその莫賀咄設結と義兄弟となり割利特勤に任ぜられた。義寧二年/武德元年四月唐の傀儡である代王政権に武都、宕渠、五原等郡を以って歸附して左光祿大夫封安化郡公/范陽郡公となった。梁師都の南下を阻む功績があったとされる。当時李淵[高祖]もまた突厥に仕えていたため両端を持しただけで反したわけではない。武德元年世民[太宗]が薛仁果を攻めた時に、進んで応援し豐州総管.巴/揚國公に昇格した。武德二年閏二月突厥始畢可汗は梁師都・劉武周を率いて太原を攻略しようとしていたが途次卒した。侵攻を懼れた唐高祖は右武候將軍高靜を派遣して朝貢しよう...唐初功臣傳4.張長遜

  • 唐初功臣傳3 馬三寶

    -----------------------馬三寶-----------------------義寧元年九月李淵[唐高祖]の婿柴紹の家奴、淵が反すると紹は太原に奔り、司竹園に逃れた紹の妻李氏[平陽公主]の指示で、賊何潘仁を味方につけ、總管を自称して群盜數萬を集めた。淵は黄河を渡り三寶は左光祿大夫となり、世民[太宗]の麾下となった。淵が隋帝[代王]を擁すると太子監門率となって、叛胡劉拔真を北山に破った。薛仁杲征討に従い、柴紹麾下左驍衛將軍として吐谷渾を岷州に大破し、封新興縣男。武德九年十月食實封三百戸を与えられた。唐の封戸は虚封であり、単なる格式でしかないが、實封は実際の収入になる。貞觀初,太子監門率領平道軍將より左驍衛大將軍に進み、新興縣公となった。これは司空裴寂を追い落とすため沙門法雅との関係を誣告し...唐初功臣傳3馬三寶

  • 唐初功臣傳 2.劉世讓

    -----------------------劉世讓字元欽-----------------------義寧元年十二月李淵[高祖]は長安を陥し隋帝[代王]を擁立しました。世讓は隋征仕郎であったが、湋川をもって降り通議大夫となった。賊唐弼餘黨招撫に派遣され行軍総管となったが、弟寶俱とともに薛舉軍に敗れて捕らえられました。唐軍が来襲したとき脱出して帰国し、薛仁杲平定後彭州刺史となった。武德二年十二月行軍總管として夏縣呂崇茂を攻めた世讓ですが、宋金剛の来襲により敗北し、永安王孝基・獨孤懷恩と共に捕らえられました。三年二月世讓は劉武周と唐の和議の為釈放され、その際に獨狐懷恩を誣告[誅殺]して封弘農郡公。十二月并州総管として凶暴な突厥倫特勒を捕らえました。そして行軍總管として洺州の竇建徳軍を攻めました。四年三月建德...唐初功臣傳2.劉世讓

  • 唐初功臣傳 1.李仲文

    唐初に活躍した武将で、正史に伝記がないか、簡潔すぎるものをまとめていきます。50人程度を予定しています。-----------------------李仲文-----------------------隋煬帝義寧元年九月反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り長安に迫ります。長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成します。淵從弟李神通、長安大俠史萬寶、西域商胡何潘仁、郿縣群盜李仲文、向善志、丘師利などが集まりました。仲文は東都を攻めている李密の從父にあたります。仲文は淵軍に編入され世民[唐太宗]の配下に入りました。功績があり上柱國となり、父の封爵を継いで普寧郡公となりました。唐が建国し仲文は引き続き仕えます。唐高祖武德二年四月突厥と結んだ劉武周が并州太原...唐初功臣傳1.李仲文

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、qutoushiさんをフォローしませんか?

ハンドル名
qutoushiさん
ブログタイトル
唐史話三眛
フォロー
唐史話三眛

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用