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仏教の最高峰 頂乗仏教学舎
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https://bongteng.hatenablog.jp/
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純粋.真正.至高な仏教を追求する僧侶のブログ
更新頻度(1年)

145回 / 365日(平均2.8回/週)

ブログ村参加:2019/02/03

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路傍の如来 多々方 路傍石さんの新着記事

1件〜30件

  • 今も昔も.そして将来も、社会には.汎ゆる罠が張り巡らされていて、そうと気付かずに無闇.迂闊に近づくと、騙されたり.大切なものを搾取されたりする事になるので、気を付けてなければいけないと、お釈迦様も仰っています… お釈迦様が説かれた十二因縁(十二縁起)も或る意味に於いて、騙されたり.搾取されたりしない為に、因果律に従った物事の道理に沿った在りようの洞察力の開発と言えるのです…先ず、社会の中で生まれ育って来た[自分]というものを冷徹にそして客観的に観察して見れば、人それぞれに物事に対して色々な見方.考え方.見解.認識がありますが.果たして.それが本当に自分の見方.考え方.見解.認識であると言えるの…

  • 末法思想

    仏教の[末法思想]について.どう読み解くかが重要なのではなかろうか… 世の中で盛んに末法思想を叫ぶ人達は、釈迦尊(ブッダ)の教えはもう古臭くて時代にそぐわないものだから.何たらと[あっちの水は苦いぞ.こっちの水は甘いぞ-]と末法思想を歪曲して捉えながらも.釈迦尊(ブッダ)の権威にはしっかりと阿っている感が否めないが、真の意味は釈迦尊(ブッダ)在世当時でも優れた弟子もいれば.愚かな弟子もいただろうし、教えを理解できるものも理解できない者もいだろう、そして理解できない者に限って欲望や自我意識などか強いものであり、そのような者達が.やがては仏の教えを大衆迎合的に捻じ曲げたり変質させていき仏法も堕落し…

  • 妄想癖

    人がもし妄想から離れることが出来たならば、苦しみはその人から離れ去る… 莫妄想(まくもうぞうー妄想するな)という禅語もあるように、妄想とは今という大切な時間を浪費させてしまったり、今やるべき事.今考えるべき事を蔑ろにしてしまったりするものなのです… まして知識や情報は湯水の如く溢れ返り、人の欲望を刺激して止まず、何かしらに追われ急かされているような現代社会では、何時もゴチャゴチャと雑念していたり、妄想へ陥ってる人達も多く、それが為に尊大であったり.心を貧しくさせたり、我欲に翻弄されて苦しみや不満を造り出し、却って満たされる事がない人が多いのです… 人間とはその卓越した思考力で物事をアレコレと想…

  • 輪廻の替歌

    [千の命になって] 千の風になって 替歌 私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 成仏なんかしてません輪廻の流れを 因果律に沿って激しい流れの中を 転生しています 秋には虫になって 畑を食い荒らし冬は腹を空かせた 小さな猫になる朝は鳥になって 餌を探しまわり 夜は猿になって 森で騒ぎたてる 私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 成仏なんかしてません千の命に 千の命になってこの無常な世界に 繋ぎとめられてます 千の命に 千の命になってまた人の身となる日を 夢見て生きてる また人の身となる日を 夢見て生きてる ⬛原曲 千の風になって 私のお墓の前で 泣かないでください…

  • 四苦八苦

    釈迦尊(ブッダ)は人生とは四苦八苦の中にあることを直視され、何故苦があるのか.どうすれば苦から脱却できるかを追求された方でもあり…世の中には苦が確かにある…しかし苦があるからこそ楽もある…それに明確に気付いた瞬間から.今まで怖れ.忌み嫌って自らが造り出していた妄想に過ぎない苦は消え去り、堅固な平安.悦楽.歓喜.静逸が顕現したのです…つまりは苦を直視し、苦を理解し.苦を乗り越え.苦から解き放たれるのが仏の教えなのですから… 生きるとは苦(ドゥッカ)の中に存在する事であり、言い換えれば空(中道)という安定状態から.対称性(安定性)が破れた不安定状態こそが苦(ドゥッカ)の本質であり、仏教では肉体的な…

  • 祈 り

    皆さんが良い一日を過ごしますように…世の中が平和でありますように…衆生(人々.生きとし生きるものたち)が、幸せでありますように…衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、悩み苦しみが無くなりますように… 衆生(人々.生きとし生きるものたち)の、願い事が叶いますように… 衆生(人々.生きとし生きるものたち)に、悟りの光が現れますように… 私を嫌う人々が、幸せでありますように…私を嫌う人々の、悩み苦しみが無くなりますように…私を嫌う人々の、願い事が叶いますように…私を嫌う人々に.悟りの光が現れますように… 如来品正師 多々方路傍石

  • 神秘と不思議

    不思議(ワンダー)と神秘(オカルティズム)という言葉は混同して捉えられがちですが、似て非なる真逆で対極的ものなのです…不思議(ワンダー)とは不可思議の略語であり人間が[思議し得ない]ことを指すのであり、つい近代に至るまでは.生命を生み出した大いなる力である光も.水も.電気なども.無知で未開だった人類にとっては.不思議な力でしたが、その知性と努力と探究心や知的好奇心で開拓し.開明して思議できるようになったのです…それでもこの世界は.まだまだ通常の人間には思議し得ない不思議(ワンダー)で溢れてもいるのです…そしてそんな人類を覚醒させ超越させ解放させ幸せをもたらす超現実的とも言える不思議(ワンダー)…

  • 教祖と信者

    宿したる真夏の日差しを温もりに無明の闇を 晴らすが仏道 作為的なマスゴミの情報に翻弄されぬよう日頃あまり気にもしないのだが、[教祖と信者]という関係性を女性アナウンサーと按摩師の夫の関係性とに重ねた記事見出しに目を止めた…何かとストレスが掛かるだろう芸能界の多くの人は現実逃避欲求からか、スピリチュアルとか非現実世界へ心が惹かれるようで鸚鵡教祖と同じインチキ按摩師の夫に染脳(洗脳)されて教祖と信者関係を築いて迷惑の種になっているらしい…仏教で言えば、多くの人が誤解しているのですが釈迦尊(ブッダ)は決して教祖などという類の方ではなく.御自身も教祖だとは考えてもいなかったようであり、釈迦尊(ブッダ)…

  • 価値観

    心の中を探してごらん…仏も住めば、鬼も住む…極楽浄土も.地獄の闇も.心の中に啓くもの… 人それぞれに価値観があり、人それぞれに生き方があります…民主社会である日本でも.男であれ女であれ.それは法治や公序良俗を侵さない範中において何を信じ.何を嫌い.何を求め.どんな生き方をしようが.自由なのです…しかし自分が信じ.好み.価値観を見い出すもののみが優れたものであり、他は間違ったもの.劣ったものだと主張することは了見の狭い自我(エゴ)の捉われに他ならないのです…仏教思想の根幹も、こうしろ.ああしろという人様を型に嵌めるような物ではなく、まして他の宗教がもつ罪科とか罰というものとも無縁であり、ただ自業…

  • 祝福の啓示

    【 祝福の啓示 】 如来品正師 多々方路傍石 伝説 諸国を行脚し、猛暑の夏.寒中の冬も厭わず托鉢.辻立ちの幾星霜の日々…縁あって上野不忍口を[心の沐浴場]と定め、右方には暮らし貧しき者達が群れ、左方には心の貧しい者達が行き交う.辻に立ちて凡そ十年の時が過ぎし夕刻、天空.俄かに明らみ、世界はその動きを止め.光音天の妙なる調べと.法華の芳しき香りに我れ包まれたりし時…天上界より大梵天は緒天を随え勧請賜えり…「嗚呼、今のままでは此の世は終わってしまう…、今のままでは此の世は壊れてしまう…汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を天と神仏は祝福するだろう…大地は喜びに打ち震え、海は大波となっ…

  • 三学と三毒

    仏教で自ら修めてゆく三学を戒定慧(自戒.禅定.智慧)と言い、自ら拭ってゆく三毒を貪瞋痴(貪欲.瞋恚.痴愚)と言います…この二つは功徳と苦毒という真逆な果報へと通じてゆく重要な項目なのです…両者の関係性は、煩悩(存在欲)の渇望により生じる三毒(貪瞋痴)を滅却し解き放たれてゆく為の三学(戒定慧)であり、貪欲は戒めによって抑え、瞋恚(激しい怒り)は禅定によって抑え、愚痴(愚かさ)は智慧によって抑えてゆくのです…[戒定慧]と[貪瞋痴]を説かない仏教は[仏教]ではない!と言い切ってしまえる程.仏教の核心でもあり、仏教とは呪文や真言やお題目を唱えることでも.得体の知れない神様や菩薩や如来に縋る事でも讃え.…

  • 神秘主義(オカルティズム)

    身を慎み 言動を慎み 平和に在れしかして 過ちを改むるに憚る事なかれ 迷信と無知とに覆われた暗黒時代を抜け出しても尚、神秘主義(オカルティズム)という盲目的な観念から解放される事が出来ないのは、カルティズムの語源でもある[隠れてる力]が天地自然の理法に反することを証明しようとする時、不毛な悪魔の証明(~項目参照)に迷い込んでしまうからなのです…例えば.有るという証明は眼前に事実を実証すれば良いだけの話なのですが、本当には無い妄想的なものでも.有るという主張を否定して無い事を証明する為に.世界中探し.全宇宙を探して何処にも無かったとしても[隠れている力]を見つけられなかっただけに過ぎないという詭…

  • 学者と修行者

    [向上一路 千聖不伝 学者労形 如猿捉影] 中国中唐の人 盤山宝積禅師(解説は下段) 何事につけ.知識や情報や観念を幾ら蓄積したとしても.決して覚ることも.大悟することも.まして涅槃(ニルヴァーナ)を体現することも叶わず、幾ら知識や情報や観念を蓄積しても無明の闇を晴らす事もなく煩悩と渇望に翻弄されながら盲目的に彷徨いながら輪廻の理法に流されてゆくのです…知識や情報や観念を蓄積して.アーダ.コーダと見解を宣うのは.修養者でも菩薩(ボディ.サットバー・真理へと向かう者)でもなく、それは学者か評論家かお宅の仕事でしかないのです…知っているという事と、理解しているという事は違うのですが.自分は知識とし…

  • 信仰と宗教

    世の中では.宗教と信仰とは混同され.宗教も信仰も同じ類のものだと受け止められています…宗教と信仰には確かに重なる面は有るのですが、本質的には信仰と宗教とは真逆な性質のものだと言えるのです…世界には宗教に分類されている幾多の信仰が存在していますが、その中にあって.得体の知れない神仏や精霊およびその使徒などから啓示を受けた存在であるとか自分は聖人の生まれ変わりである特別な存在だと主張しなかった唯一無二のマトモな人間が釈迦尊(ブッダ)なのです…つまりは信仰とは[一切衆生を救う]とか[大宇宙の意志]とか耳障りの良い言葉を並べたてながら、人々の無明の闇を深めさせ盲目的に酔生夢死させてゆく麻薬のようなもの…

  • 吝嗇(もの惜しみ)

    倹約.節約と吝嗇(もの惜しみ)とは似て非なるものであり、無駄を省くのが倹約.節約であるならば.吝嗇(もの惜しみ)とは.無明な無駄や身の丈を違えた生活による不満や怒りを活力として生じるものなのです…吝嗇(もの惜しみ)を戒めるのは.それが良い悪いと言うのではなく、心を貧しくさせてゆく事.つまりは人を欲深くさせて不満や怒りや嫉妬などドゥッカ(本質苦)の中を生きてゆく事となるからなのです…何故、吝嗇(もの惜しみ)になるのかと言えば、それは煩悩(存在欲)によって現れる自我意識.は幸せになりたいと所有欲を貪ろうとするのですが、所有欲とは真に満たされる事がないものですから、一時の小さな[快感]と引き換えに.…

  • 勝儀諦(時空の諦観)

    世の中には世俗諦(人間存在の諦観)を説くアビダルマ(教説)やドグマ(教義)は溢れ返るほど在るのですが、釈迦尊(ブッダ)が到達された勝儀諦(涅槃.ニルヴァーナ)への道は.その難解さ故か.歴史の中に埋ずもれ、各部派.各宗派ともが世俗諦を以って涅槃(ニルヴァーナ)の完成だと錯覚して今日を迎えているのです…(もし世俗諦が涅槃への到達であるのならば、仏の教え(大悟)は別段に難解でも.微妙でも.深淵でもないのですから…それに気付き嘆いた龍樹(ナーガルジュナ)は、世俗諦と言う[人間の存在性]と大宇宙との関係性と、[大宇宙の存在性]から導かれる生命の存在性(勝儀諦)の存在を見出したのではないでしょうか…仏教で…

  • 脳内快楽物質

    釈迦尊(ブッダ)は仰っています…「愚かなる者達は、日々の世俗的な満足を幸福だと思い込んでいる。本当の美味なる御馳走に気付くことなく、雑草を美味しいと食べている家畜の如き存在に過ぎず、彼らの満足は真理を実践する智者のそれとは比ぶべくもない。」人は皆んな喜びや幸福を求めて生きている。一部の偏屈な嘘つきを除いて、喜びや幸福を求めずに生きている者など一人も居ないのであるが、本当に愚かな人とは自分が愚かで無明だとは思わず自惚れているから、喜びも幸せも外世界から与えられるものだと錯覚して外世界に意識を盲目的に向かわせるが、思うように得られないと愚痴ったり怒ったり不満を感じて、外世界にその原因や責任を転化す…

  • 相対的幸福と絶対的幸福

    幸福には[相対的な幸福]と[絶対的な幸福]とがあります…多くの人は幸福は所有(所有の次元の事物)の所有量に依ると勘違いしてますが、真の幸福とはその愚かさや無明さ(無知)を捨てていった先に在るものなのです… 相対的な幸福とは.他と比較して自分のほうが優れているとか.今のほうが恵まれているというような主観的.感覚的.感情的.記憶.情報.知識.妄想による喜び.快感.幸福感などを味わう本質的には無常な苦(ドゥッカ)が.喜びや幸せという姿や形をとって現れる一時的なものに誑かされているに過ぎない短命な幸福であり、苦(ドゥッカ)という本質から逃れている訳ではなく、相対的である限り楽苦の間を振れ動きながら苦(…

  • 施与の功徳

    高度に発達して快適な生活をもたらすはずの現代社会は、却って人々に苦しみや哀しみや怒りや欲望を増やしたのではないでしょうか? 凡そ全ての苦しみの原因は自分(自我意識)への捉われ.拘り.執着であり、存在欲.所有欲など汎ゆる欲望に煽られ、社会も人々の欲望を刺激しながら自意識を高めさせ取り込もうと大きな口を開いて待ち構えているのですから… ​施与の功徳①施与の功徳②托鉢行③運 気④心が軽くなってゆく詩⑤福徳を招き寄せる唱文①施与の功徳「一切の生きとし生けるものは.幸福であれ.安泰であれ.安楽であれ」邪道が蔓延る世の中に.如来は.憐れみ辻に立つ邪法が蔓延る世の中に.如来は憐れみ辻に立つ衆生…心.浄めたも…

  • 無常の劫火

    世界は何処も堅固ではない…どの方向もすべて動揺している…私は自分が依るべき処を求めたが、既に死や苦しみなどに取り憑かれていない処を見つけられなかった… これはスッタニパータに遺されたブッダの御言葉であり、自分の依るべき処(つまり帰依すべき真理を伝える教え)を求めたが、真に苦悩や心痛(ドゥッカ)から脱出させて平安と幸せへ導いてくれる処を見つけ出せなかった…という無常の劫火に苛まれたブッダご自身が、自ら悟りの道へと踏み出された所縁であり、ブッダの教えとは.つまりは生存苦.無明苦.欲望苦を種火とする無常の劫火に焼き尽くされている人間という存在にとっての唯一無二の脱出法(解き放たれ解放される道)なので…

  • 木を見て森を見ず

    仏教を森に例えれば、釈迦尊の教えという大樹を、囲むように.各宗派.各部派という木々が繁り.下生えに仏教系新興宗教が生えているという系統図となるだろう…仏道を道に例えれば、釈迦尊という偉大な方が引かれた大道から、枝分かれるように各宗派.各部派という道が延び、その脇道として仏教系新興宗教の小道が延びているという系統図となるだろう…しかし各宗派.各部派.新興宗教という色の付いたメガネを掛けて、この系統図を見れば他宗派.他部派は雑木の類の如く映すでしょうし、劣ったものとも映すでしょう…色付きメガネを外し、木々に捉われず、道に拘らず、仏教、仏道という深淵な森、偉大な大道を見る時、そこには大原則が横たわっ…

  • 自己探求

    無理に自分を愛そうとする必要などありません、だって皆んな世界中で一番自分を愛しているのだから…もしそうじゃないと思っている人がいたら、その人は.もっと自分の心に素直になればいいだけの話し…人は皆んな幸せ探しの旅をしているのです…ただ人それぞれに探す方向が違うだけ…[青い鳥]のチルチル.ミチルも.[幸せの青い鳥]を探して世界中を旅して周ったけれども見つける事が出来ずに…失意のまま帰り着いた我が家の軒先に幸せの青い鳥がとまっていましたね…幸せとは実はそんなものであり、それを無明という[無知さ]が無常な本質である欲望の充足に幸せがあると錯覚させたり.魅入らせたりするのです…べつに欲望を否定している訳…

  • 大慈悲

    自分に執着して自分の事ばかり考えて生きている人に、慈悲と喜捨(四無量心)の心などあろう筈もなく、そこには辛うじて世間を憚った偽善のみがあることだろう…何故ならば慈悲を施す心や喜捨する心とは、自分の心の充足度(満足)の如何に従って生じる性質ものであり、例えば無常な欲望の充足に忙しい[地獄心]や[餓鬼心]や[畜生心]という貧しい心には、本当の慈悲や喜捨の心は現れないのだから…しかもそれがドゥッカ(毒華・苦しみ)を生み出している事に気付くこともなく…その毒華(苦しみ.ドゥッカ)から逃れようと、欲望の充足へと向かい、無常の波に翻弄されるのですから…ドゥッカ(毒華.苦しみ)に打ち勝つには、無明の闇を晴ら…

  • 如来の嘆き

    人間は誰でもが、幸せに成りたいと願いながら生きているのです… これから自殺しようとする人でさえ.消滅(死)中にドゥッカ(苦しみ.悩み.不安定さ.不完全さ.心痛.憂い.恐怖.悲しみ.悔い.儚さ.弱さ.脆さ.不満.空しさ.欲望.無常さ.無明さ…) などからの解放される喜び.幸せ.安心を見い出しているからに他ならず、多くの人が所有の次元の事物(お金.財産.物欲.地位.名誉.称号.権威.権力.勢力.健康.長寿.承認.理解…)に魅入られるのも幸せに成るために必要だと錯覚してるからであり…つまりはそれらは目的物ではなく幸せに成るための便宜的な手段(アイテム)であり付随物に過ぎないのです…それを実践的に証明…

  • 真逆の道

    あーだ、こーだ…あーじゃない、こーじゃない…と色んな人間が.色んな事を言うけれど、それらの殆どは.単なる観念.戯れ言.能書き.主観.空論.根拠の乏しい推測(プラパンチャ)に過ぎないのではないでしょうか…それらは実践や体現や実現を伴わない妄想にすぎないもの…そうした溢れ返った不毛な思想の荒野と紡がれた無明の系譜により、真の幸福への道が閉ざされてゆくのです…如来達の到達された深淵なる涅槃(ニルヴァーナ)は.遥か彼方に仰ぐものでも.拝むものでも.語るものでもなく、自らが実現し.体現するものなのに…その道は決して茨の道などではない、悦楽の中に智慧の覚り(覚醒)を啓くだけなのです… 例え、ためになる事を…

  • 主観

    己れの愚を知るは賢者なり、己れの愚を知らぬ者こそ真の愚か者… 最近.特に著しい精神的劣化の最大原因は妄想的思考であり、その妄想的思考へと陥らせているのが[主観]なのですが、その主観とは.五集合要素(五蘊)により形成される感覚的.感情的.妄想的な概念と意識なのです…本来は五集合要素(五蘊)により生じた主観(概念)を.表層域(思考域)に於いて客観的な思考(理性)を加えて一つの見解(ドグマ)を造っているのですが.その客観的な思考(理性)を加えることなく、感覚的.感情的.妄想的な単なる主観を.真実.事実.と錯覚したり.思い込んでいるような人は、根拠も.証拠も.証明も.事実関係もないまま.自分の考えは正…

  • 所有の次元

    人は皆、幸せになりたい.幸せでいたい.と懸命に生きているのです…そして自分を幸せにしてくれるのではないかと錯覚して、[所有の次元の事物]への欲望に血眼になっているのです…しかし[所有の次元の事物]の.お金も.財産も.持ち物も.地位も.名誉も.権威も.権力も.家族も.伴侶も.子供も.健康も.寿命も.他人の評価や承認も、決して目的物などではないにせよ、幸せになるため.幸せで在るため、便宜的に必要な手段(アイテム)の一つであり、大切な付随物にですから…上手に用いれば幸せにもするし、下手に用いれば不幸にもするものなのですから… お金持ちになって.幸せになるのも喜ばしい事ですし、王様になって幸せになるの…

  • 全体主義

    全体主義思想 お釈迦様は、自分を正しい方向へと運ぶための教えを.乗り物に喩えて.筏(いかだ)により、彼岸(ニルヴァーナ.涅槃・大悟)へと渡れと説かれました…それは教えも必要が無くなれば打ち捨て.捉われて重荷にしない為なのです.つまりは教え自体が宝というよりは、教えにより血肉となった境地こそが宝なのですから…大乗思想とは.ある意味.全体主義思想だと言えると思っている…権威や空論や得体の知れない神仏への信仰により.全体の利益を個人の利益より優先するという全体主義思想だけではなく、個人の私生活や心情までも積極的に.また強制的に全体を従属させようとするものであるのだが、凡そ全体主義が人々に自由と解放と…

  • 天動説

    コペルニクスやガレリオ.ガレリイやケプラーなどにより、地動説が説かれ太陽系の中心には太陽が座し、地球はその周りを廻っているという事実は、21世紀の世の中では子供でも知っていることであり.今更[天動説]など論議に値しないと思っているでしょうが、世の中を見渡せば天動説支持者が今でも溢れているのではないでしょうか、ましてカソリックが正式に地動説を認めたのも21世紀に入ってからであり(進化論はまだ認めてないみたいですけど.)単なる感覚的表現としての[日はまた昇る]ではなく、自分達を中心とした他力の運行現象により、災厄や御利益がもたらされると説く信仰宗教や新興宗教などは自分達や得体の知れない神仏や霊力を…

  • 心の栄養素

    心の栄養素一切皆苦他の宗教.信仰と言われるものが、恩恵.幸福.救済.守護.愛やら欲望や願望の成就を主張して説いているのに対し、何故、仏教だけは生きるとは苦しみ(ドゥッカ)である…と、人が忌み嫌う苦(ドゥッカ)を掲げて説かれているのか…それは苦も楽も実は一如なものであり、ただ捉え方の問題なのだよ…と説いているのだと言え、感覚的な楽とは、心は汚し.直ぐに飽き.更なる刺激を求めて苦しみと不満の中を暮らす事となる酔っ払いの酒や中毒患者の麻薬のようなものであり、真に自分を高め.育てる[心の栄養素]でもあり智慧の泉でもあるものは苦(ドゥッカ)なのだから…世間では、心の栄養素とは知識や情報とか教育や経験だと…

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