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にせ茶人の歴史ブログ https://nisechajin.livedoor.blog/

『毛利家文書』、『明智軍記』、『宗長日記』、そのほか茶道関係の史料を読んでいます。

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2018/12/26

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  • 志道広良 その1

    【原文】志道広良言上状(『毛利家文書』593号)此 御書御両通、昨日今朝被下候、御拝見ニ入申候へとハ御意候ハねとも、某か拝見申たるはかりハ無曲候条、進上候、如此之御庭訓ハ誠之金言ニて御座候歟、御家来之事、武具衣装ハ結構ニ見え申候、人々の嗜うすく候歟、 大将を御

  • ヘンな史料を読む その7 武田信玄と不良僧侶

    元亀二年(1571)、武田信玄が甲斐の慈眼寺に出した史料を読んでみたいと思います。 信玄は、六名の家臣を「祈祷奉行」という役職に任命しています。 そして、慈眼寺の僧侶たちがちゃんとお経を読んで、武田氏のために祈祷をするように、7ヶ条にわたる取り決めをしています。

  • ヘンな史料を読む その6 糞尿は遠くへ捨てろ

    天正九年(1581)、北条氏が相模国の浜居場城を守る番衆たちへ出した掟を読んでみたいと思います。 北条氏は、重臣である松田憲秀の代官として、須藤源二郎・村野安芸守・小澤孫七郎の三名を任命しました。 そして彼らが一人ずつ交替で、城代として守りを固める態勢をとった

  • 現代語訳『明智軍記』巻三・上 (2)信長江州発向の事、付けたり、勢ぞろえの事

    こうして、足利義昭が美濃へ移ると、織田信長は拝礼して申し上げました。 「将軍様がこの国へ御動座されたことは、織田家にとって面目の至りであると思います。それなので、急いで軍勢を催して、怨敵の三好一党を誅罸することは、時間を置くべきではありません。ただし、上

  • 現代語訳『明智軍記』巻三・上 (1)義昭公、濃州へお移りの事

    ここに、将軍足利義輝の弟である足利義昭は、織田信長をお頼みになって、逆徒・三好義継を滅ぼし、御本意を遂げようとしている、ということでした。 そもそも足利義輝は、足利尊氏から八代目の末裔であり、将軍になってからは十三代目に当たり、足利義晴の嫡子でした。 弘

  • ヘンな史料を読む その5 糞を巻き散らすな

    今回は、牛馬の糞について書かれた、戦国大名大内氏の壁書(掟書)を読んでみたいと思います。冒頭に「築垣の内に牛馬の糞を巻き散らすな」と書かれています。築垣は築地のことで、つまり土塀を意味します。この史料を作成したと思われる大内氏や、その家臣の館の中に、放し飼

  • ヘンな史料を読む その4 犬を追う者!

    今回は、犬追物に執着するあまり、やや正気を失っている、蜷川親順という人物の書状を読んでみたいと思います。 蜷川氏は、室町幕府の政所代をつとめた家柄です。 その蜷川一族である蜷川親順が、石見国の武士である益田宗兼に宛てた書状です。 書状が書かれた時代背景と

  • 犬鼻ってなんだ? 吉川元長書状(『吉川家文書別集』124号)

    今回は、「犬鼻(けんび)」について書かれた文書を読んでみたいと思います。 『日本国語大辞典』によると、「犬鼻(けんび)」とは、「質の悪い柿」のことであるといいます。 どうやら「芋けんぴ」とは別ものであるようです。 今回読む書状では、吉川元長(吉川元春の息子)が

  • 細川頼之施行状(『毛利家文書』11号)

    今回は、永和三年(1377)七月に管領・細川頼之が出した施行状(しぎょうじょう)を読みたいと思います。 施行状は、上から出された命令を、下に伝達する時に用いられる文書になります。 将軍・足利義満の「毛利元春に吉田庄地頭職を引き渡せ」という命令を、管領・細川頼之が

  • 小早川隆景書状(『毛利家文書』838号)

    今回は、小早川隆景が妙寿寺に宛てた書状を読んでみたいと思います。 『毛利家文書』は天正六年に年次比定していますが、本文中に「元就から八年間、お家を保って来た」という記述があり、また杉重良の謀叛のことが記されているので、正しくは天正七年ではないかと思います

  • 史料にみる犬のウ●コ

    今回は、日本史の史料にみえる、「犬矢(けんし)」=「犬のウ●コ」について、語りたいと思います。下記の史料1~4には、日本の古代から中世における、犬のウ●コについて、記されています。史料には、天皇がお座りになる場所に、犬のウ●コがあったりする、ショッキングな

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (5)北伊勢軍の事、付けたり、神戸納得ならびに長野が事

    美濃国の斎藤氏の残党たちは、信州木曽を越えて、武田信玄を頼みとする者がおり、また伊勢へ行き、北郡の侍大将を頼りとして、織田家に対して逆らって、怨念を抱きました。 信長はこのことをお聞きになって、それならば北伊勢を退治すべしと言って、滝川一益を大将として永

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (4)織田殿より明智を招かるる事

    明智光秀は、越前において、朝倉義景に仕えていましたが、永禄八年(1565)の冬ごろから、義景の側近から疎まれるようになりました。 その理由は、鞍谷嗣知の讒言によるものでした。 この嗣知は、足利義満の次男・足利義嗣の四代のちの末裔である嗣俊の孫である嗣時の息子で

  • 現代語訳『明智軍記』巻二 (3) 信長、妹を浅井へ嫁がせらるる事、付けたり、斎藤竜興落去の事

    さて、美濃は過半が織田信長に従いましたが、なお斎藤龍興は井之口城(稲葉山城)にあって退去しないので、どうやって討ち滅ぼすか、信長は軍議を開きました。 丹羽長秀は、「近江の六角氏と友好関係を結べば、御威光もよろしく、敵国からは次第に帰服してくる者も多く出るで

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