近々、アメーバオウンドからWordPressに移転します。一番の理由は「出来ることを増やしたい」と思ったからです。たくさん浮かんでいる玉石混淆のアイデアを形にしていきたいです。ドメインを引き継ぐため、
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1957年に東海観光下田グランドホテルとして開業。六階建ての巨大ホテルで、伊豆下田を一望出来る高台にそびえ立っている。
夢の中に出てきそうな、純白の建築があらわれた。外の白壁には緑の蔦が這う。ため息が出るほどに美しい。
1986年から1997年まで営業していた自然動植物公園。大沼国定公園の広い敷地にラクダ、ゾウ、ワニ、サル、ライオン、ヒョウ、ペンギン…など沢山の動物が飼育されていた。
九十九里島湾南部に位置する俵ケ浦半島。大変な山越えの先に、亀野小島という小さな島がある。その昔、真珠養殖場として使用されていたらしい。
1962年に移転改築された校舎。1992年に閉校した。雪害による損壊が目立ち、夏は建物全体が草木に包まれる。
開業は1970年代か。2005年には廃墟としての言及が見られる。入り口ゲートには「すばらしい眺めの露天風呂ホテルいづみや」の表記がうっすら残る。
1970年代から存在しているスナック。2012年の時点では営業していない。屋根に崩壊箇所が見られ、緑に囲まれて何の建物か分からない状態だ。
昭和初期に宇和島運輸によって海水遊泳向けに作られた遊園地。竜宮城のような建物、売店やレストハウス。海に突き出したブランコ、仮面ライダーV3やロボコンといった昭和キャラクターの乗り物が設置されていた。市
田舎の個人医院。1980年頃から誰も住まなくなった。老朽化が進み、いつか雪で倒壊するのではと近所の方は心配している。
1970年代から確認できる謎のコンクリート平屋建て。かなり朽ちた状態で全体に蔦が這い、落書きも確認できる。廃業しているガソリンスタンドが隣接している。
2001年に閉校となった。雨漏りと崩落防止のため屋根が緑色のシートで養成されている。保存活動が施され、校内も自由に見学出来るようになっている。
1968年頃に建設を始めたが、途中で放棄されたという巨大ビル。この独特の奥行きは唯一無二。「く」の字に地上三階建ての二棟のビルが向き合っている。
菜園場(さえんば)劇場。昭和30年代にオープンした映画館だ。当初の見込みより客の入りが悪く、数年間で閉店となったらしい。
1970年代から確認されている絶景オーシャンビューの廃ペンション。渥美湾に直接面する風の強い立地で、窓がほぼ全て損壊し、天井も崩れ落ち危険な状態にある。
昭和初期に建てられた木造校舎。林業が盛んだった時代には30人程の児童が通っていたという。1977年に統合のため閉校となった。
道幅の狭い日原街道をひた走る。バス停と灯籠が目印だ。車を降りて、少し歩いて下ると目的の鍾乳苑が姿をあらわした。
1973年に重力研究所として開設され、その後に改称されたものである。UFO研究家として知られる清家新一氏の私設研究施設であったが、2009年に本人の逝去により閉鎖した。
福島の国道を走っていると突然パチンコ屋の廃墟。閉業時期不祥ながら、10年以上は放置されていそうな佇まいである。
うららかな秋空。山頂にあるマイクロウェーブ中継所跡にやってきた。建設時期不祥ながら、1960年代にはあったようだ。新たな中継所の完成により、1977年に廃止された。
1964~71年に建設された百貨店の女子独身寮。二階建ての8棟が並んでおり、1987年まで使用されていた。地元では心霊スポット扱いで、建物全体が緑に飲み込まれつつある。
百年以上の歴史があったが、統合により1980年に閉校。木造平屋建て校舎が今でも残り、かなり朽ちた状態となっている。
別名「落書きの家」1980年代に建てられたと推測される。近くには学校もある長閑な住宅地の中に、突如として姿を現した。
1981年頃に開業。三階建ての大型ペンション風ホテルで、プールまで備える豪華施設だった。1983年頃から放置されている。多くのガラスが損壊、壁面が剥落し、全体が蔦に覆われ朽ちた状態となっている。
生駒(いこま)山に広がる廃墟群。それぞれは小粒ながらも個性派揃いである。ここもまた思い出深い場所となった。右下に生駒山荘の表札。きっと誰かが律儀に立て掛けて置いたのだろう。
1979年に閉校した小さな小さな分校。山深い中にひっそりと佇んでいる。
川の向こうに圧倒的なオーラを放つ三角屋根の建物。よく目を凝らすと廃墟ではないか!!偶然見つけて、胸が高鳴る。
草に覆われた表札。事前知識が無かったらきっと読めなかった。
名前の由来。航空写真で見ると、カタカナのコの字になっているから。入院病棟のみが残る。
1970年代後半に開業したレストラン。緑に包まれたこの看板が目印だ。2000年頃から廃墟化が始まり、半壊状態にあると聞く。
「歓」の赤い文字がうっすら見える。まだ暑さが残る昼下がり、小高い丘にあるレジャーセンターにやってきた。
1982~86年頃に開業。2000年頃には廃墟としての言及が見られる。近くに事故が多発しているというカーブがあるためか、心霊スポット扱いである。
1903年に創業。割烹旅館として営業し、一~三番館のほか桃山館の四棟からなり、収容人数450名、客室84室、大浴場、婦人専用風呂場、岩風呂を備える大型ホテルであった。印象的だった正面の赤いエントランス
2021年07月09日/発売開始☆ワンダーJAPON3~関西編~にDepartureが記事を寄稿しました!!!↓↓ワンダーJAPONとは?↓2005年~2012年の間に20本に渡り刊行されたサブカルチ
東京都八丈島。かつて日本のハワイとまで言われた楽園。飛行機で小一時間という便の良さもあり、連休などは今も観光客で賑わう。八丈島には総延長60キロにも及ぶ巨大地下壕が眠っている。戦時中に八丈島を守備する
大生(たいせい)紡績株式会社東浦工場。1919年に創業し1992年に閉鎖された。知多半島は繊維工業が盛んな地域で、このような工場群が数多く残る。
1961年に開業した二階建ての国民宿舎。1970年代に那須休暇村ができたことで閉業したと聞く。濃い藪をジャブジャブかき分けて到達だ。
南砺市利賀村(なんとしとがむら)は、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り」で有名な地域だ。この辺りには、このようにモノリス型のユニークな分校が複数残っている。一つ目は利賀小学校百瀬川分校。体育館の緑屋根
娯楽施設である別府ラクテンチと志高ユートピアを繋ぐ、壮大なる志高ロープウェイ。「別府ラクテンチ - (リフト) - 立石山駅 - (ロープウェイ) - 船原山駅 - (リフト) -志高ユートピア」↑今
1967~76年に開設。養護学校の児童・生徒の生活訓練のための校外学習施設だった。利用者の減少のために2004年に閉所された。
変わる廃墟展2021が終了致しました。去年はコロナという状況下、なかなか足を運ぶのが難しかったものの、今回は少し復調の兆しが見えました。同様に世の中も徐々に落ち着くことを願っています。お越し下さった方
大正時代初期の建築。操業時はここに坑夫の昇降や、石炭の搬出に使用する巻揚機が設置されていたという。1968年に閉山した崎戸炭鉱の関連遺構で最も古いものだ。
この唯一無二の面構え。
山深い限界集落をひた走る。細い坂道を窮屈に縫っていると、校庭が見えてきた。山中に何とか平地を確保して作った、そんな苦労が伺える。
1964年に廃校となった。木造平屋建て校舎が残る。廃校後に陶芸家のアトリエとして使われていたと聞くが真相はいかに。
1933年に操業開始。一日に100トンの鉱石処理が可能な巨大な浮遊選鉱場を有していた。1973年の閉山後も、2000年頃まで多くの施設が残り、日本中の廃墟マニアに注目された。
1970年に開業したホテル。絶景を楽しめ、新鮮な海産物が食べられるホテルとして繁盛した。ブームが去り、70年代の後半には休業状態に。コンクリート二階建て、地下一階の施設であった。地元では有名な心霊スポ
1970年代に開業した結婚式場と宿泊施設を兼ねた巨大な複合施設。新館と旧館からなり、収容人数は150名、複数の宴会場を備えていた。
1879年に開校し、1988年に閉校した。美しい木造の平屋建て校舎が残っている。校庭には草木が茂り、錆び付いた遊具も点在する。
南国風のオレンジ屋根が印象的な三階建て、28室全室オーシャンビューの豪華リゾートホテル。1988年に瀬戸大橋の開通に合わせて建設された。
動画は語る
ダイニングルームへ。
1955年に建てられた小さな木造校舎。1977年に廃校となった。
1961~75年に建築されたキリスト系学校の合宿施設跡。複数の木造建築から構成されている。湖畔に臨む山中にあり、朽ち果てて半壊状態にある。
百島は瀬戸内海に浮かぶ小さな島。人口は500人に満たず、本土からフェリーで小一時間かけて到着だ。
風情ある敷地をゆく。
別名SGホテル。バブル期に建てられたもので、様々な施設を兼ね備えた大規模ホテルだった。2000年頃まで開業していたらしい。
1973~2000年頃まで営業していたラブホテル跡。地元では別名「幽霊ホテル」と呼ばれている心霊スポットだ。一見三階建てだが一番下がピロティー構造となっており、実際は斜面に立つ二階建て建物である。
1951年に開業し2011年に幕を閉じた。地下1階地上4階、全50室の大型ホテル。霧ヶ峰という名の通り、深い霧に包まれている。
『変わる廃墟vs行ける工場夜景展2020』が終了致しました。廃墟と工場夜景のコラボは実に4年ぶりでした。コロナの影響で時短や、日程の短縮を余儀なくされましたが、無事に終える事が出来て本当に良かったです
1970年代からある不動建設の社員寮。黄色い縦横のラインが印象的な建築だ。四階建てと三階建ての二棟の集合住宅から構成されている。2000年前後から不使用になった。
1951年に開校。駒ヶ原は満州から引き揚げた人々が原生林を切り開いて開拓した集落で、そういった石碑も見受けられた。ここはその子弟の為の学校だった。
山間の静かで美しい土地に立地し、一帯は静謐な空気に包まれている。もう近い、あの川怒温泉橋を渡った先だ。
日本の主力銅山の一つであった尾去沢鉱山。軍旗のようにそびえ立つ大煙突を目指す。
風光明媚な鳩ノ巣渓谷。一帯には風流な旅館が建ち並び、少し登った先にある双竜の滝は落差18mで迫力がある。
1956年にオープンした遊園地。2007年に閉園した後も、ロープウェー乗り場が残っている。
片田舎の畑の真ん中に忽然とあらわれる結婚式場。経営は順調であったが、本業以外の投資事業につまずいて倒産、閉鎖に追い込まれたという。その後、不審火による大規模な火災に見舞われた。
通称「もう一つの軍艦島」。島全体が亜鉛工場となっていて、昼夜を問わず操業が続けられている。関係者以外は立ち入りが許されていない。
標高1000mの地に建設されたコンクリートアパート群。学校、病院、娯楽会館などを完備し、「雲上の楽園」とも呼ばれた。鉱山の採掘は1911年に始まり、最盛期の1960年頃には鉱山町の人口は1万3594人
晩秋の候。一面に敷き詰められた落ち葉を踏みしめ、丸太で作られた簡素な橋を幾つも越えてやって来た。
1966年から1970年に作られた喜撰山ダム建設時に用いられた砕石施設。橋台のような構造物、およびホッパーのような施設で構成されており、隣接してズリ山もある。今回は仰天の出来事が最後に待っていた。
宇治川の岩風呂旅館としても紹介される。1960年代に開業し、会食と宿泊が楽しめる料理旅館だった。現在は建物の地上部分は解体されているが、地下部分の宴会場や岩風呂が残っている。
小川脳病院とも言われる。精神病院だったらしく、有名な心霊スポットでもある。1970年代には存在が確認されている。当時の入口は通行不能となっており、ここまでのアプローチには困難が伴った。
昭和10年代の築と推測される古い小学校。ここは廃校・木造校舎ファンの間では有名で、色々なサイトやブログで紹介されている。
虎杖(いたどり)小学校。1964年に開校し、1991年に宇川小学校に統合されて閉校となった。人里離れた山中の小高い丘の上に、二階建て校舎が残っている。
焼肉要塞ことブロックアート。全国のグラフィティーアーティストが腕を競い合い、訪れるごとに絵が変わり続けるという。数年の時を経て、どのように変貌しているのか。
1997年頃に閉業した湖畔にある廃旅館。「乙女の湖」の異名を持つ美しき鎌北湖に囲まれ、湖に浮かんだ旅館とも言えるロケーションは有名だ。
正式名「カーサマリーナ南熱海」2000年頃に放棄された未完成マンション。 三階部分まで完成したところで中断され、剥き出し鉄格子が牢獄のように見えることから、いつしか牢獄マンションと呼ばれるようになった
グリム童話やドイツ文化を意識したテーマパーク。広い敷地に草木が生い茂っており、本気で迷いそうになる。パンフレットを見ながら、ディズニーランドを周遊する子供のごとく園内を練り歩く。
1989年開園。園内は中世のドイツをモチーフとしたテーマパークとなっており、1992年にはシンボルとなる「ビュッゲブルグ城」が完成。城の中には会員制ホテル「シュロスホテル」が併設され、同時期に
戦前から開院している外科病院で、100年以上の歴史を持つ。建物の構造が「玉」の字状になっていることから、この名前がつけられた。
1962~67年に開業した宿泊施設。複数の建物から構成される山中の宿で、研修所やプールも備えていた。1987年11月頃に閉業。
別世界とも言える地下空間に別れを告げる。
昭和30年に建てられ、平成3年に閉校した小さな分校。最後の数年間は冬季分校扱いであった。廃村となった山深い集落にポツンと残されている。
1903年(明治36年)に完成した県内最古の木造校舎。名前は大谷村と防己村の一文字ずつを取って、大己(たいき)小学校。地域の過疎化により1970年に廃校となった。
変わる廃墟展2020が東京と名古屋で開催されました。コロナの影響で東京開催は短縮になりましたが、名古屋開催は無事に終えることが出来ました。マスク必須でちょっぴり緊張感が漂う展示会…。かつて経験したこと
一階ロビー。
1988年に瀬戸大橋開通後の観光客増加を見込み、世界一の高さを誇る回転式展望台を備えて建設されたホテル。しかし、客足は伸びずバブル崩壊も影響し、1997年に閉館。
丹生(にう)小学校。開校は1948年。1998年に新校舎への移転により廃校となった。解体しようにも、費用が捻出できないらしい。
1919年に完成した校舎。ここには素敵な出会いが待っている。
1918年、久根鉱山での電力を賄うために設置された水力発電所。1972年、新豊根ダム建設に伴い廃止となった。水辺に見える白い建物が旧豊根発電所だ。そこから山頂に向かい長い長いパイプが通っていたという。
空の青。水の青。廃墟の青。
1906年に簡易教育所として開校、1947年に沼東小学校となる。ピーク時には29学級、児童数1570名にまでなったというから驚きだ。三菱美唄炭鉱の閉山に伴い1974年に閉校となった。
山深い集落にポツンと残る木造校舎。1977年に廃校。荒廃が進み自然に飲み込まれようとしている。
1949年に運転を開始した水力発電所。1966年の黒木ダム建設に伴い廃止となった。ちなみに第二とあるが、第一発電所は計画のみで存在しない。
さらば姉川発電所。急斜面を登りサージタンクを探す旅に出る。
1917年に建築され、1944年に廃墟となった発電所。大正時代に作られたレンガ造りの建物は歴史的価値も認められ、多くのカメラマンを魅了し続ける。
1909年に開設。旧農商務省の管轄で、タイの稚魚の飼育試験や魚の孵化、プランクトンなどの研究がなされていた。1930年に海軍館山基地の建設に伴い閉鎖。
1960年代に建てられ、2008年には廃墟としての言及が見られる。武骨な灰色の建物が山肌に残り、遠方からでもよく目立つ。
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