曲がりくねった細い山道を、気が遠くなるほど運転して辿り着く。秘境というに相応しい場所だ。周囲に住居等は一切なく、山中に突然木造校舎が現れる。
1970年代前半に開業した旅館。三階建ての建築で、急斜面の上に立地し、荷揚げ用ウインチを備えていた。2000年頃に閉業したと思われる。
1989年に閉校した。手前に木造平屋建て校舎がL字に2棟、裏に講堂らしきものが見える。貴重な人○模○が残されている。
1997年に破綻した三洋証券株式会社の保養所兼、研修施設跡。敷地内に非常に堅牢な巨大地下金庫がある。ちなみに、海外の廃墟オタクが選ぶ日本のマニアック廃墟10位である。
森の遊園地として紹介される。営業時期は不詳ながら、廃墟として相当年数が経過し、幾つかの遊具や小規模な施設が森の中に残る。
1959年に現存する木造校舎が建てられた。1988年から休校となる。広い校庭に桜が敷き詰められいい雰囲気だ。
1993年に閉校。校庭よりも一段高い場所にでーんと構える大きめの校舎。緑で覆われ全体像がつかめない。
巨大炭鉱遺構を巡る。目指すは小高い丘の上。一帯を見下ろすかのように鎮座するあの遺構へ行こう。
道沿いにドンと現れる巨大炭鉱遺構。1896年に開発が始まり、戦後は総工費20億円をかけて最新鋭の設備を備えたが、1971年に大規模な出水が発生。全坑が水没しそのまま閉山となった。
1897年築の木造建築と大変古い。元々は九州でも有名な料亭「旭桜」であり、後に近藤産婦人科に転用され、1988年まで現役だった。
1973年に運用開始された信号所。高さ約25m、外周約16mのキノコ状のユニークな外観。2012年に役目を終えて閉鎖された。
大分県の立石山と船原山の間にあったリフト及び、ロープウェイ。娯楽施設である別府ラクテンチと志高ユートピアを繋ぐ役割を果たしていた。
国道沿いのドライブイン。二階建ての鉄筋建築で、南国風の豪華な造りだった。国道から目立つ事この上なく、荒廃が進み草木が生い茂っている。
1977年の時点で存在し、2000年頃に閉業。4棟ほどの建物から構成される工場で、木材の加工を行っていた。製作途中の棺桶や仏壇、葬儀用品のほか、棺桶に入れられた○○○○が放置されている。
1970年頃に開業。ホテル坪野という温泉旅館だった。1982年に閉業し、経営者はその後失踪。悪いウワサが絶えず、事件も多発した。1996年には「坪野鉱泉女性失踪事件」が発生している。
Published by Ameba Ownd
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