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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
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藤沢市
出身
藤沢市
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2018/05/31

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  • 稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

    .由比ヶ浜から霊仙崎より稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。.現在は「googleEarth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。.そんな「googleEarth」の画像です。.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。.再度訪れて写真を取るつもりでしたが、、緑の繁茂が年々ヒドクて現場にたどり着くにも草刈道具が必要な状態となり、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない状態が現状です。.下図は、一番右に由比ヶ浜...稲村崎成干潟事のマトメ4googleEarth

  • 稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

    この手の空中写真は、思い道理に写しだされる事は少ない。下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)トテモ条件が良く崖を横切る稲村路がトラバースする状態が写っています。PCの画面を基準に作図しているので、スマホでは確認が難しいかもしれません。興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。古い映像は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。垂直に近い崖は真上から撮ったら殆ど写らない!季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!緑が侵食し始めたら道路痕跡は隠れ...稲村崎成干潟事のマトメ3空中写真

  • 稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

    誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」それって本当???根底にその疑問が有るので実証しよう!!っと徒渉実験が行われた。引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は腰までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏刀1㎏)を着けたら身動きできない!稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。その様な観点から、、稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず太平記や梅松論の...稲村崎成干潟事のマトメ2干潮の時刻

  • 稲村路のマトメ 1

    「稲村路」と言う記載が古典には有ります。●海道記(1223年頃)「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」(ぼ助訳)高い岩(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)。●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」(ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」(ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。稲村路の特徴は、、、「梅松論」より石高く道細くして=石の高い場所を通っている。「海...稲村路のマトメ1

  • 稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

    ―――干潟の状態―――●【太平記・稲村崎干潟事】誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。【渺渺】広くはてしないさま。遠くはるかなさま●【梅松論】「北条氏の滅亡」爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。干潟=干潮の時・・土地が現れる現象古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が...稲村崎成干潟事干潟の状態は、、、

  • 稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、、、

    ■記2010年08月07日稲村崎成干潟事9異常潮位に就いては、上記に記した有ります。その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??その時刻を正確に科学的に解説したって、、根本が間違っている。その日時が干潮であろうと、無かろうと、、、如何でも良い事!!何故なら、、、『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!と書かれている。要は、「潮の時刻」を問題にする事は古典を読んだにしても、文章の読解力が無い訳です。新田義貞が黄金の太刀を海に入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!更に梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれて...稲村崎成干潟事干潮の時刻は、、、

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