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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
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藤沢市
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藤沢市
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2018/05/31

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  • 篠窪から関本へ12

    ↓更に登ると、南側(写真左手下に道に沿った平場が現れる!)藪の中で写りが悪い。↓更に登ると、右手の平場は道路と同じ高さになる。車道に平場を加えると、古代駅路の道幅??↓本来の広い道幅を3m幅に作り替えた?等と思えるロケーションです。↓明治時代のこの地方で一番整備されていただろう、、と想像できる郡道の痕跡です。↓来た道を振り返るとご覧の通り、幅広の道と思われる道跡が!すると、、この堀切道は、栃窪のZ字型の道路と同じように、鎌倉以後800年の雨水でエグラレタ道路なのか?鎌倉道の定番の道幅とも思えるし、、、根拠が無い憶測の話ですが、幅広の痕跡は有る。この道幅は、古代東海道を考えられます。此れより下の道は雨水でエグラレたのか?鎌倉時代や江戸時代に作り替えられたのか?考慮する情報は無い。しかし状況証拠としては下大槻から足...篠窪から関本へ12

  • 篠窪から関本へ11

    車道の赤い車の後ろから切通に入ってみましょう。右側の端に赤い車が在ります。軽四一台が通れる道を右に折れて入ると、即S字状の道となり左見曲がる。左に曲がったのが下の写真です。土砂の掘れた状態が、栃窪のZ字道路と同じに雨水がこの道を作ったのでは??そんな感じの赤土(富士噴火の灰がこの赤土と言われている)です。上の写真の30m登った地点。そんな切通の古色蒼然とした雰囲気ですが、、、鎌倉時代以降の道ならば、この程度の道幅と思えます。しかし、、探しているのは、道幅9mの道です。篠窪から関本へ11

  • 篠窪から関本へ10

    さて、今回は「D」点です。このピンクの場所「D」点の場所は、、今昔マップをみると、地図の「D」地点の道路の作図は、明治の迅速図を踏襲している様子で現状に合わない。現状は空中写真が示しています。赤いラインが正しい。現代のネット上では、現地を見なくてもこの辺りまで下調べが出来てしまう。10年前では考えられない事です。自動車道路からこの赤ラインに入り込みましょう!この赤い車の後ろが入り口です。栃窪から、峠のトンネルの上の峰を古代東海道は通り、この場所の篠窪へ降りたと想定します。しかし、現状はどの様なのでしょうか?当然この入り口の道幅では江戸や明治の郡道レベルではよくても、古東海道の道幅には足りません。篠窪から関本へ10

  • 篠窪から関本へ9

    大磯丘陵と言う道路造りの障害をどの様に回避したのか?古代官路や、鎌倉街道の常套手段は、谷筋を使わず、峰通しに道を作る事が知られている。では、関本より秦野迄はどの道を通るのか?その解答は、鎌倉側より足柄峠に向けて、1、平塚の東中原の道路遺構。2、下大槻の道路遺構。3、秦野の「大道」と言う呼称の有る場所。4、栃窪のZ字道路「A」。5、富士見塚下の道路遺構「B」。6、今回の緑色丸印「C」とした場所に成ります。この緑色丸印「C」は、栃窪のZ字道路「A」と相対する、構造です。篠窪の滑らかな峰通しに登り降りする為に、急激な坂を登らなくてはならない。AとCは、急傾斜に造られた古代道路の特徴を持ったZ字型の道路と考えられる。もっとも、このZ字型の道路が古代道路その物と言う訳ではなく、古代道路の造りを継承した後世の道と考えられる...篠窪から関本へ9

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