越後長岡・会津藩の戦い3会津古城研究会長石田明夫慶応4年(1868)5月19日『衝鋒隊戦記』によると、会津藩家老一瀬要人(かなめ)と旧幕府軍衝鋒(しようほう)隊の古屋佐久左衛門、ガトリング砲を操った長岡藩家老の河井継之助(つぎのすけ)ら僅か50人での奮戦もむなしく、西軍に長岡城は奪われました。6月2日、東軍は、新潟県見附市の今町の戦いで反転攻勢に出て、長岡城奪還作戦を開始します。なお、長岡城は、現在の長岡駅付近にあった平城で、遺構は戊辰戦争や第二次瀬下大戦の空襲で焼失したため残っていません。7月24日夕方『長岡藩戦争之記』によると、長岡藩は、西軍が攻めてこないと踏んでいた八丁沖の湿地を「深田沼川ノ中ヲ潜行シ」と進み、翌日長岡城を奪還したのです。この戦いで『河井継之助伝』によると、継之助は、腰掛けていたところを西...戊辰・会津戦争21越後長岡・会津藩の戦い3
越後長岡・会津藩の戦い2会津古城研究会長石田明夫慶応4年(1868)5月4日、奥羽列藩同盟に参加した長岡藩。それから北越戦争が開始されます。『北国戦争概略衝鋒隊之記』によると5月13日西軍は、長岡城進攻に欠かせなかった小千谷市の朝日山の確保を目指しますが、朝日山にいた会津藩の萱野権兵衛隊と桑名藩の立見鑑三郎と長岡藩兵約五千に対し、西軍は約一万で攻めますが、一週間戦闘が続いたものの落ちませんでした。麓の浦柄神社には、白虎隊士新国英之助と会津藩戦死者19人を含む墓22基があります。西軍の山県有朋は、南からの陸路攻めに手焼いていたことから、5月19日、西の与板から信濃川を渡河し、長岡城へ奇襲攻撃をかけたのです。長岡藩は、軍主力部隊を朝日山方面の守備へ回しており、城下には部隊がいなかったのです。そのため、城は半日で西軍...戊辰・会津戦争20越後長岡・会津藩の戦い2
越後長岡・会津藩の戦い1会津古城研究会長石田明夫白河城が慶応四年(1868)5月1日、西軍に奪われた翌日2日、越後にも西軍が迫っていました。『長岡藩戦争之記』によると当時会津藩領だった小千谷(小千谷市)において、長岡藩家老河井継之助は、「武装中立」を主張し、慈眼寺において山道軍軍監土佐藩岩村精一郎と会談し、進攻停止を訴えましたが、会津藩3千人が三条まで来ているとの情報を得たと話したことから、継之助の嘆願書は聞き入れられず会談は決裂したのです。越後長岡藩は、7万4千石の藩です。河井継之助は、佐久間象山などに学び、諸国を視察し、長年赤字だった長岡藩の財政を回復させました。戊辰戦争になると、財政改革の余剰金と、藩の家宝等を売却し、暴落した米を買い、それを箱館へ運んで売り利益を上げ、為替差益でも資金を増やしたのです。そ...戊辰・会津戦争19越後長岡・会津藩の戦い1
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