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2018/03/09

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  • 江の島 2

    江の島2平安時代には空海・円仁が、鎌倉時代には良信(慈悲上人)、一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行に励んだと伝えられている。寿永元年(1182年)に源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請し、頼朝が鳥居を奉納したことをきっかけに、代々の将軍や御家人が参拝したといわれる。鎌倉時代以後も、その時々の為政者から聖域として保護され、参詣されてきた。弁才天は水の神という性格を有し、歌舞音曲の守護神とされたため、歌舞伎役者や音楽家なども数多く参拝した。ことに音曲に関連する職業に多い視覚障害者の参拝も見られ、中でも関東総検校となる杉山和一の存在は特筆すべきである。参拝者のための宿坊も門前に軒を連ね、関東一円に出開帳を行うなどの活動も見られた。1923年(大正12年)9月1日-大正関東地震により島全体が2メートル近く隆起...江の島2

  • 江の島

    江の島江の島へ行ってきた。中学校の修学旅行依頼になるか?新宿から小田急を利用して、11時30分頃についたが、空腹になったため、駅前のクアアイナという店でフライドチキンバを食し、帰りにはすばな通りにある紀伊国屋食堂であじ・シラス丼を食べた。湘南海岸の最東端、三浦半島の北限に位置し、相模湾へと突き出ている古くからの景勝地であり、神奈川県指定史跡・名勝、日本百景の地である。江の島は日本の海洋生物学の歴史において重要な地域で、魚介類や鳥類などは現在でも豊富に生息しており、イルカやウミガメなどが周辺に現れたりする。地形的には、周囲4km、標高60mほどの陸繋島で、三浦丘陵や多摩丘陵と同様に第三紀層の凝灰砂岩の上に関東ローム層が乗る地質である。古来は引き潮の時のみ洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)が現れて対岸の湘南海岸...江の島

  • 足利市鑁阿寺

    足利市鑁阿寺足利学校の後はすぐそばの鑁阿寺へ、参道はレトロな感じに整備されている。鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山で、山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀っています。約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されています。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっています。鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。境内には、本堂のほかにも、...足利市鑁阿寺

  • 足利学校

    館林でつつじを見た後は、足利に向かった。東武足利市駅を降りて、渡良瀬川を渡り、中心部にある足利学校に向かった。足利学校は、日本で最も古い学校として知られ、その遺跡は大正10年に国の史跡に指定されています。足利学校の創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説などがありますが、歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439)関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)が、現在国宝に指定されている書籍を寄進し、鎌倉円覚寺から僧・快元(かいげん)を招いて初代の庠主(しょうしゅ=校長)とし、足利学校の経営にあたらせるなどして学校を再興してからです。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中、学問の灯を絶やすことなくともし続け、学徒三千といわれるほどに隆盛し、天文18年(154...足利学校

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