このブログは、主に私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話します。
本日は、大河原氏館跡について書きたいと思います。大河原氏は丹党の武士です。現在の館跡は浄蓮寺一帯とされています。以前、このブログでも取り上げたことがありますが、今回はその追加情報です。浄蓮寺大河原氏館跡(東秩父村)https://blog.goo.ne.jp/admin/editentry/?eid=8edafaea79edb9e69ebad89cb7657e9c&sc=c2VhcmNoX3R5cGU9MCZsaW1pdD0xMCZzb3J0PWRlc2MmY2F0ZWdvcnlfaWQ9JnltZD0mcD04さて、通常、大河原氏館跡は浄蓮寺周辺とされていますが、ちょっと思いがけないものを発見しました。東秩父村には、浄蓮寺に隣接する形で「紙漉きの里」という施設があり、大変人気を集めています。私もここにはよく立...大河原氏館跡(東秩父村)
御所屋敷のところまで戻ります。御所屋敷の切通しの道の少し先に行くと、民家の敷地(2号累跡)、商店の敷地内(1号塁跡)に大規模に土塁と空堀が残されています。商店横には路地があって、そこではフェンス越しに土塁と空堀が確認できます。次は2号塁跡のある民家脇の路地に入ってみます。この民家の敷地内は「城主別邸」と呼ばれているようです。言われてみれば、風格のある農家です。ここの敷地内には堀と土塁が長く残されています。土塁は段丘崖まで続いています。この下はテラス状になっており、この一帯も城の施設の一部だったのではないかと思います。城主別定北側のテラス状部分です。御所屋敷方面に向かって歩きますが、ここもテラス状の段が認められます。以上のように、東方城は結構広く、より詳しく遺構を見ようとすれば、かなり手間をかける必要があると思い...東方城④
今日は東方城の西側についてみたいと思います。ここは、国道263号線がバイパスされて農村の風情は一変しています。この付近には城に関係のあると思われる石造物や祠が個人宅にあったりします。263号線を渡ると塚のようなものがあるのがわかります。これは木の本古墳群の1基のようです。坂道を下ると深谷市幡羅生涯学習センターに突き当たります。その途中にも土塁があり、また、段丘をうまく利用して縄張りが設定されています。今度は城跡東側の部分に向かいます。東方城③
さて、全久院の西の集落に向かいます。自動車で5分もかかりません。こんなお店の前を通り過ぎると、城跡を示す標柱があります。その10mほど先の、細い北に向かう見通しのいい坂道を下っていくと、農業構造改善事業で作られた城下公園という公園があり、その向かい側に駐車場があります。東方城探訪はここから始めます。北から見た城址の遠望です。東方城は段丘を利用してかなり広く縄張りをとっています。遺構はかなり良く残っていますが、大半が農家等の民有地になっています。農道を歩いていくと、水路沿いに廃畜舎があります。先には切通が見えます。この辺りが御所屋敷と呼ばれているようで、周辺の水路は地形との関係から見て水堀を農業用に転用したもののようです。御所屋敷は段丘上と段丘下に分かれていたようです。まず畜舎周りを見ましょう。畜舎周りは折れのつ...東方城②(深谷市)
今回は、深谷市の東方城について書きたいと思います。複数回に分けて書きます。調査日は2020.01.20です。東方城は熊谷市の別府地域、利根川氾濫原の段丘上にあります。東から西にかけて奈良氏館、玉井氏館、別府氏館、西別府城、幡羅官衙遺跡、そしてこの東方城と隣接しており、歴史的に極めて重要な地域だったことが推測できます。別府の段丘直下には別府沼という老朽河川がありますが、この河川は実は荒川水系に属します。この別府沼上流には古代の祭祀遺跡もあり、古代ー中世史の重要地点です。幡羅官衙遺跡に接する形で全久院があります。全久院には、戸田松平家の祖、東方城主の松平康長の墓があります。もっとも、松平康長の墓所は現在長野県松本市にあり、以前は全久院にも、松平康長の墓という案合札があったのですが、現在は、撤去されたらしく見当たりま...東方城①(深谷市)
本日は、高負彦根神社とポンポン山(玉鉾山)について書きたいと思います。訪問日は2020.01.19です。高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は、和銅3年(710)に創建、延喜式内社と、古い社格の高い神社です。吉見町には、式内社が三社もあり、高負彦根神社・伊波比神社・横見神社と三社もあります。これは古代吉見の地域的特異性を表すものと言えるでしょう。高負彦根神社はこのように社格の高い神社なのですが、時季外れに行くと寂しいです。戦後昭和30年代半ばころまでは周辺の小学校の遠足の対象として選ばれるなど繁盛していたそうですが。境内脇には獅子封じ塚というものがあります。これは古墳ではないのかなと思いますが・・・。高負彦根神社の背後には玉鉾山、通称「ポンポン山」です。というよりも、この岩丘の上に、高負彦根神社を祀ったと考える...高負彦根神社とポンポン山(吉見町)
本日は、村岡河原古戦場について書きたいと思います。村岡河原古戦場は熊谷市の荒川大橋上流(西側)の北岸、野球グラウンドがある地域です。熊谷市の荒川南岸には村岡五郎平良文の領地があったといわれています。現在、茶臼塚と呼ばれる古墳跡が残っており、その近くの高雲寺にかけて村岡館跡があったといわれています。高雲寺の西側にごく小さい古墳と思われる塚があることから村岡館も、熊谷によく見られる古墳を利用した館跡だったとことが推測されます。目立った遺構はありませんが、古墳を手掛かりに当時の姿を把握していくのは方法論としては無駄ではないと思われます。さて、この平良文が箕田郷(現、鴻巣市)に源充と合戦を行ったのが村岡河原だといわれています。今昔物語「箕田源氏の源充と平良文合戦語第三」として有名ですが、これはどちらかというと家来同士の...村岡河原古戦場(熊谷市)
本日は、川本町の堀の内(瀬山氏館跡)について書きたいと思います。調査日は2020.02.07です。堀の内(瀬山氏館跡)は川本町、秩父鉄道の南側、川原明戸に近い瀬山地区にあり、秩父線の新しい駅明戸駅が最寄り駅です。瀬山氏は地名を姓に採った在地の土豪で、私市党の瀬山氏とは関係が無いようです。恐らくもともとは荒川氾濫原の講縁開拓に入植した一族が出発点だったのでしょう。北条氏治下では瀬山、長在家、上原地区が瀬山氏の所領であったようです。この瀬山氏から、大坂冬の陣に出陣した瀬山将監行政を輩出したようです(『埼玉縣大里郡郷土誌』武川村の項)。瀬山に隣接した明戸は、農業に向かない土地を意味する悪土を語源とするといわれ、瀬山氏の辛苦がしのばれます。恐らく水害も多かったのでしょう。堀の内(瀬山氏館跡)は現在の明戸八幡神社を中心と...堀の内(瀬山氏館跡:旧川本町)
本日は、北条氏によってつくられた北条堤の痕跡をたどってみたいと思います。天正2年(1574)に北条氏邦の築いた堤防だといわれています。北条堤は石原氏陣屋の記事で触れた松巌寺付近から出発します。明治期に作られた迅速測図というものがあります。歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図閲覧システム)https://habs.dc.affrc.go.jp/その迅速図には、松巌寺付近の本石地区から北条堤が伸びていることがわかりますが、現在は、市街化も進んでいるため、町の谷間にうずもれて分かりにくいと思います。まず、松巌寺からスタートしましょう。松巌寺付近に北条堤の遺構らしきものは見当たらないと言ってよいと思います。ここから、17号国道沿いに出て東に向かいます。松巌寺前の横断歩道を渡ってしまう方がいいです。大体徒歩で30秒ほど東...北条堤(熊谷市)
前記事に続き、本記事では石原氏関連の石原氏陣屋について書きたいと思います。調査日は2020年01月14日です。石原氏陣屋は、石原氏館跡よりかなり離れた本石地区の市街地にあります。17号国道沿い北側、八木橋デパート近くです。正直、目立つ遺構らしきものはありません。石原氏陣屋跡は荒川氾濫原に面した微高地にあるのですが、市街化が進んでいるので注意深く地形を読み取る努力が必要です。下2枚の写真は松巌寺山門前の路地を撮影したものですが、境内地がやや高いことがわかりますが、かといって、堀跡なのかなあ・・・・というとどうなんでしょうか。仮に堀跡だと推定しても近い距離にある熊谷氏館跡の熊谷寺ほどの雰囲気はありません。むしろ、注目するべきは松巌寺西側にある、ひときわ幅の広い道路です。ここは、陣屋に付随する馬場があったのではないか...石原氏陣屋跡
先日に引き続き、本日も地元でもほとんど知られていないマイナーな館跡について書きます。今日は、石原氏館跡です。石原氏というのは、埼玉県大里郡石原村、つまり現在の熊谷市石原地区を根拠地にしていた中世豪族です。『吾妻鏡』に登場し、武蔵の国の治水施設の修復工事で奉行を命じられています。『吾妻鏡』に登場するくらいなのですから、地元でも名前が知られていていいはずなのですが、現実には、ほぼ無名。地元の古老でも知る人は希です。館跡についてもつまびらかではありません。ただ、石原村の中心が宿と呼ばれる秩父街道沿いであったため、楊井憲春の居館跡である兵部裏屋敷、城和泉守昌茂の屋敷跡である御蔵場が、もと、石原氏の居館跡だったとする説もありました。わたしも成田氏の開削した成田用水の取水口に祀った赤城神社周辺にあったのではないかと考えてい...石原氏館跡(熊谷市)
今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡をいくつか見つけ出して訪問してみました。今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。調査日は2020年01月19日です。『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里地区の口碑伝承をまとめた本があります。同書によれば、大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在大里村小泉にある「切れ所沼」の堤防を挟んで反対側にあります。上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によっ...伝、市田太郎館跡(旧大里村)
今年の冬は、なかなか思うような城館探訪の時間が取れませんでした。山城探訪などの大場所にはあまりいけなかったのです。そこで、多少視点を変えて身近な、しかし忘れられた城館跡をいくつか見つけ出して訪問してみました。今回は、埼玉県の旧大里村(現熊谷市)にある伝、市田太郎館跡を取り上げてみました。調査日は2020年01月19日です。『大里村かたり草』(1978年)という、旧大里地区の口碑伝承をまとめた本があります。同書によれば、大里村の荒川堤外地に「三十間」(さんじゅっけん)と呼ばれる沼地があり、そこには、市田太郎の館跡があるという伝承が残されているのです。まず、「三十間」という沼地ですが、それは、現在大里村小泉にある「切れ所沼」の堤防を挟んで反対側にあります。上の写真は切れ所沼です。この沼は、昭和13年の堤防決壊によっ...伝、市田太郎館跡(旧大里村)
新しいネタを仕入れてきましたので、ブログを再開いたします。何か月続けることができるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。ブログ再開のお知らせ
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