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日本史の勉強が楽しくなるような年号のゴロ合わせなどを、イラストたっぷりにお届けします!
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ブログ村参加:2017/11/26

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春之助さんの新着記事

1件〜30件

  • 鎌倉時代(3)

    今日は、鎌倉時代(2)の続き、源頼朝(みなもとのよりとも)の将軍(しょうぐん)就任から、承久の乱(じょうきゅうのらん)までの流れをまとめてゆきます。 1192年、源頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任します。 初代将軍の源頼朝、 第2代将軍の源頼家(みなもとのよりいえ)、 第3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)、 この3人をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼びます。 ついでにここで、鎌倉幕府の将軍を全員紹介しておきましょう。 第4代将軍の藤原頼経(ふじわらのよりつね)、または、九条頼経(くじょうよりつね)、 第5代将軍の藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ)、または、九条頼嗣(くじょうよりつぐ)、 藤原北家(ふじわらほっけ)、すなわち摂関家(せっかんけ)から迎えられたこの2人を、 まとめて摂家将軍(せっけしょうぐん)とか、藤原将軍(ふじ..

  • 1221年 承久の乱が起こる

    前回は、有力御家人が次々と消えてゆくなか、北条氏が権力を独占してゆく流れをまとめました。 今日は、そんな北条氏に対して後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が起こした承久の乱(じょうきゅうのらん)を、ゴロ合わせとともにお届けします。 後鳥羽上皇が天皇の座についたのは、 治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のまっただなかである1183年のことです。 天皇の即位には、正当な天皇の証である三種の神器(さんしゅのじんぎ)を必要とするのですが、 このとき、平氏&安徳天皇(あんとくてんのう)とともに都落ち(みやこおち)の真っ最中。 後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、やむなく三種の神器なしで即位します。 朝廷がとくに伝統と儀式を重んじる世界であるがゆえに、 このことは後鳥羽天皇にとって強烈なコンプレックスになったと考えられます。 壇の浦の戦いで海に沈んだ..

  • 1213年 和田合戦が起こる

    前回は、比企能員の乱(ひきよしかずのらん)ののち、源頼家(みなもとのよりいえ)にかわって弟の源実朝(みなもとのさねとも)が鎌倉幕府第3代将軍となり、北条時政(ほうじょうときまさ)が初代執権(しっけん)に就任する、という流れをご紹介しました。 今日は、1213年に起こる和田合戦(わだがっせん)までの流れを、ゴロ合わせとともにお届けします! このころ、北条時政はゴキゲンです ♪ だって、カワイイ孫である源実朝が将軍になり、 自身は執権にくわえて政所別当(まんどころべっとう)まで兼ねることになったわけですから、 そりゃもうルンルンです☆ そんな北条時政には奥さんが何人かいるのですが(それが当たり前の時代ですからね!)、 そのうち、牧の方(まきのかた)という奥さんがなかなかのオンナらしいのです。 たとえば、北条政子(ほうじょうまさこ)が源頼家..

  • 1203年 北条時政が執権に就任する

    前回は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の支配機構をプリントにまとめました。 今日は、鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝(みなもとのよりとも)の死後、 1203年に北条時政(ほうじょうときまさ)が執権(しっけん)に就任する過程を見てゆきます。 1199年、源頼朝が満51歳で急死します。 なんでも、源頼朝の乗っていた馬が、平氏の亡霊を見て驚き、 源頼朝を落っことしてしまったことが死につながったんだとか。 あとを継ぐのは、 源頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ)の間に生まれた嫡男(ちゃくなん、跡取りとなる長男のこと)、 源頼家(みなもとのよりいえ)です。 幼いころから鎌倉殿(かまくらどの)になる将来が約束されていた彼は、このとき満18歳。 鎌倉殿にふさわしい、武芸に秀でた立派な青年に成長しています。 そんな源頼家が信頼するのは、比企能員(ひきよしか..

  • 鎌倉時代(2)

    前回の更新からずいぶんご無沙汰してしまいました、すみません。 今日は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の中身をまとめていきましょう! (1)支配機構 最初の武家政権である鎌倉幕府は、簡素で実務的な組織をつくりあげます。 ①中央(もちろん鎌倉のことです) ・将軍(しょうぐん)、正式名称は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) …鎌倉幕府の頂点  鎌倉殿(かまくらどの、鎌倉幕府そのものを鎌倉殿と呼ぶこともアリ)とも呼ばれるが、  その場合は、とくに初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)を指すことが多い  源頼朝のあとは息子の源頼家(みなもとのよりいえ)・源実朝(みなもとのさねとも)が継ぎ、  この3代をまとめて源氏将軍(げんじしょうぐん)と呼ぶ  源氏将軍が3代で絶えたあとは、摂関家や皇族から将軍を迎える ・執権(しっけん) …将軍の補佐役  源頼朝亡..

  • 鎌倉時代(1)

    今日からいよいよ鎌倉時代に突入です! といっても、プリントは前々回・前回の続きです。 今回は、 ↓ このまとめプリントの… 残りの ↓ 緑色の部分を埋めて、穴埋めを完成させてしまいましょう! (黄色の部分は前々回、青色の部分は前回解説のうえ空欄を埋めています) 1180年8月に挙兵した源頼朝(みなもとのよりとも)は、 石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)に敗れたのち、 相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)の鎌倉(かまくら)に入ります。 鎌倉は、源頼義(みなもとのよりよし)の時代に源氏の所領となった場所で、 彼はこの地に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)という神社を建立しています。 八幡宮(はちまんぐう)とは、武運の神様である八幡神(はちまんしん)をおまつりする神社です。 なんでも、源頼義が前九年合戦(ぜんくねん..

  • 1185年 壇の浦の戦いが起こる

    前回に続いて、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)を見ていきましょう! 今日は、↓ このまとめプリントの… ↓ 青色の部分を埋めつつ、ゴロ合わせも紹介していきますね~!! (黄色の部分は平安時代(20)をご覧ください) ちょっとほんとに文章長いですけど(スイマセン…)、 イラスト多めにしますので頑張ってついてきてくださいね☆ 以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をきっかけに、 平氏への反発がはじけることを恐れた平清盛(たいらのきよもり)は、 1180年6月、大寺院や貴族たちの反対を押し切って、 摂津国(せっつのくに)の福原(ふくはら、現在の神戸市)に都を遷(うつ)します。 大輪田泊(おおわだのとまり)に近い福原は、平氏の瀬戸内海支配の拠点となる場所であり、 また平清盛にとっては、サナダムシの..

  • 平安時代(20)

    前回は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、 以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵を、ゴロ合わせとともにお届けしました。 その続きを説明してゆきたいのですが、 とにかく色んな事件がぎゅうぎゅうに起こってややこしいので、 これから3回に分けて解説することにします。 ↓ 今日は、鎌倉時代のまとめプリント(1)のうち… ↓ この部分だけを、平安時代(20)として取り上げることにしますね。 旧国名や七道(しちどう)がたくさん出てきますが、 分かんない人は飛鳥時代(11)を復習してください~。 平治の乱(へいじのらん)のあと、伊豆(いず)に流された源頼朝(みなもとのよりとも)は、 伊豆の在庁官人(ざいちょうかんじん)である北条時政(ほうじょうときまさ)による監視のもと、 父である源義朝..

  • 1180年、以仁王と源頼政が挙兵する

    長かった平安時代もそろそろおしまいです。 今日は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)のはじまりである、 以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもとのよりまさ)の挙兵をお届けします。 治承・寿永の乱とは、 1180年、以仁王と源頼政が兵を挙げ、 これをきっかけに各地で源氏などが次々と平氏打倒の反乱を起こし、 1185年に壇の浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏が滅亡するまでの大規模な内乱をさします。 いわゆる源平の争乱のことです。 ちなみに、治承(じしょう)も寿永(じゅえい)も元号(げんごう)です。 以仁王と源頼政が挙兵した1180年は治承4年で、 平氏が滅亡した1185年は元暦(げんりゃく)2年です。 え?あれ?? 元暦ってナニ?寿永じゃないの??って思いますよね。 このころの元号は、 治承(1177~1181年)→養和(ようわ、1181..

  • お知らせ☆

    茨木市にある天文観覧室プラネタリウムのキャラクター、 プラネタ童子くんのイラストを描きました。 著作権は茨木市が所有しますので転載禁止です ドームにも投影されております。 お近くの方はぜひどうぞ!

  • 平安時代(19)

    今日は院政期の文化(いんせいきのぶんか)の2回目、 絵巻物(えまきもの)と装飾経(そうしょくきょう)をまとめていきましょう。 まずは絵巻物です。 絵巻物とは、絵と詞書(ことばがき)を交互にかいて、 人物の動きや時間の進行を表現する巻物です。 とくに院政期には、大和絵(やまとえ)の技法をもちいた立派な絵巻物がたくさんつくられます。 当時の貴族たちは、これをどんな風に楽しんだのでしょうね… これから、院政期につくられた絵巻物の代表例を5つご紹介しましょう! おもしろいものが多いので、ついついアツく語ってしまうと思いますが、何卒ご了承ください(笑) ①「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき) 紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』(げんじものがたり)を題材とする絵巻物です。 絵の部分は、華やかで雅な貴族社会の様子を繊細に描いており、 作者は藤..

  • 平安時代(18)

    今日から2回にわたって、院政期の文化(いんせいきのぶんか)を取り上げます。 今回は、文学・芸能・建築・彫刻を解説してゆきます。 この文化が栄えたのは、院政期、すなわち11世紀末から12世紀ごろです。 文化の中心地は平安京ですが、地方への広がりも見られます。 担い手は、上皇や貴族はもちろんのこと、新たに台頭してきた武士や庶民も加わります。 特徴を3点にまとめると、 (1)これまでの貴族文化にくわえ、    新たに台頭してきた武士や庶民とその背後にある地方文化を取り入れた、新鮮で豊かな文化 (2)歴史物語(れきしものがたり)・軍記物語(ぐんきものがたり)・絵巻物(えまきもの)の普及 (3)浄土教(じようどきよう)が広まり、各地に浄土教建築や浄土教美術が見られる です。 *   *   * では、文学から見ていきましょう。 ①歴史物語 武士..

  • 平安時代(17)

    保元の乱(ほうげんのらん)・平治の乱(へいじのらん)を経て勢いを強める平清盛(たいらのきよもり)が、ついに政権を獲得します。 日本史史上はじめての武家政権である、平氏政権(へいしせいけん)の誕生です。 そのあらましと特徴をまとめてゆきましょう! 保元の乱と平治の乱、この2つの中央抗争を解決したのは、 武士の力、とくに平清盛の軍事力です。 そんな圧倒的な軍事力をもつ平清盛は、 後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の院近臣(いんのきんしん)という立場と、 奥さんが二条天皇(にじょうてんのう)の乳母(うば)であるという立場を活かし、 院政と親政をめぐって対立する両者と、それぞれよい関係を築くことにも成功します。 こうして、平清盛は武士としてはじめて公卿(くぎょう)となり、 その後も大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)と異例の出世を遂げ、 ついに11..

  • 平安時代(16)

    今日は、保元の乱(ほうげんのらん)と平治の乱(へいじのらん)をまとめてゆきます。 いよいよ源氏と平氏が中央政界で大活躍するので、これまでの流れをおさえておきましょう。 まずは源氏です。 1028年に房総半島で起きた平忠常の乱(たいらのただつねのらん)を、 源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定し、源氏は東国進出のきっかけをつかみます。 そして、1051年に東北地方ではじまった前九年合戦(ぜんくねんかっせん)を、 源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)親子が平定、 次いで1083年にはじまった後三年合戦(ごさんねんかっせん)を、源義家が平定し、 源氏は東国で武家の棟梁(とうりょう)としての地位を固め、勢力を拡大させてゆきます。 とくに、後三年合戦で恩賞を出さなかった朝廷にかわり、 自分の財布から家臣に恩賞を与えた源義家の人気はすさま..

  • 平安時代(15)

    前回は、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)と白河天皇(しらかわてんのう)の政治をまとめました。 今日はその続き、院政のはじまりを見ていきましょう! 1086年、白河天皇が、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に譲位します。 堀河天皇はまだ8歳ということで、 白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を開始します。 白河上皇が院政を始めた理由については、 1086年のゴロ合わせで詳述しているので、そちらをご覧下さい! 上皇のおうちを院(いん)とか、院御所(いんのごしょ、院の御所 でもOK!)などと呼ぶのですが、 院政とは、上皇が院(院御所)で、天皇を後見する形で国政を主導する政治形態をいいます。 ちなみに院という言葉は、上皇自身を指す場合もあります。 白河上皇ならば、白河院(しらかわいん)てな感じです。 ややこしいので、これ以降、上皇のおうちは院御所..

  • 平安時代(14)

    久しぶりの更新、久しぶりのまとめプリントです。 これまでの古代(こだい)とオサラバし、いよいよ中世(ちゅうせい)に突入します。 とはいえ、「中世っていつのこと?」と問われると、これがハッキリ答えられんのです… かつては鎌倉時代と室町時代を中世と呼んでいたのですが、 最近では「院政期あたりから中世って言ってもいいんじゃな~い?」てな感じになってきています。 中世という時代区分はヨーロッパで考えられたものなので、 日本にぴったり当てはまらないんですよねー。 なので、「このプリントあたりから中世なんだ~」とザックリとらえておいてください。 では、まとめプリントに沿って見ていきましょう。 1068年、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が即位します。 藤原氏と外戚(がいせき)関係にない彼は、 大江匡房(おおえのまさふさ)などの学者さんを登用し、親政(しんせい..

  • 1177年 鹿ケ谷の陰謀が起こる

    今日は、鹿ケ谷の陰謀(ししがたにのいんぼう)についてお届けします。 シシガタニ ノ インボウ… 一体それなんやねん!って突っ込みたくなりますよね。 鹿ヶ谷(ししがたに)というのは、京都の地名です。 現在も、銀閣寺(ぎんかくじ)のちょっと南のあたりで住所として使われています。 1177年、その鹿ケ谷にある山荘で、なにやら陰謀がくわだてられたようです! 詳しく見ていきましょう!! 前回は、1167年に平清盛(たいらのきよもり)が 太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に就任したことを紹介しましたが、 出世したのは平清盛だけではありません。 平氏の多くが高位高官(こういこうかん、高い位階と高い官職のこと)にのぼりつめたのです。 もうね、平氏の勢いハンパないのです! そのハンパなさをあらわす史料を、ここで見ておきまし..

  • 1167年 平清盛が太政大臣になる

    今日は、平清盛(たいらのきよもり)について、 1167年に太政大臣(だいじょうだいじん、または、だじょうだいじん)に任命されたことを中心にお届けします。 では問題! 平氏って、誰の子孫でしょうか? ハイ、答えは桓武天皇(かんむてんのう)です。 なので、桓武平氏(かんむへいし)というんでしたね! 忘れたわー…という方は、平安時代(13)を復習してください。 平氏の多くは関東地方を基盤とするのですが、 平貞盛(たいらのさだもり、平将門の乱(たいらのまさかどのらん)で登場した人ですよ!)の子孫は、 伊勢国(いせのくに)に移り住みます。 この一族を、とくに伊勢平氏(いせへいし)と呼びます。 伊勢平氏の存在を世に知らしめたのは、平正盛(たいらのまさもり)です。 北面の武士(ほくめんのぶし、平安時代(15)で解説予定)として白河法皇(しらかわ..

  • 1159年 平治の乱が起こる

    今日は、平治元年(へいじがんねん)、西暦1159年に起きた 平治の乱(へいじのらん)を取り上げます。 まずは、対立関係を表でみてみましょう。 前回の保元の乱(ほうげんのらん)から3年しか経っていないというのに、新キャラが続々と! しかも名前が似たり寄ったりでややこしい!! ホント受験生泣かせですよね… なるべく簡潔に解説していきますので、 頭を整理しながらついてきてくださいねー!! 保元の乱に勝利した後白河天皇(ごしらかわてんのう)は、政治改革を推し進めます。 その改革のブレーンとなったのが、信西(しんぜい)です。 もとは藤原通憲(ふじわらのみちのり)という名前の貴族だったのですが、 このころには出家していて、信西というボーズネームを名乗っています。 どうして信西がブレーンになれたのかというと、 本人が頭脳明晰(..

  • 1156年 保元の乱が起こる

    今日は、保元元年(ほうげんがんねん)、西暦1156年に起きた 保元の乱(ほうげんのらん)を取り上げます。 保元の乱とは、 兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)と、弟・後白河天皇(ごしらかわてんのう)の対立に、 兄・藤原忠通(ふじわらのただみち)と、弟・藤原頼長(ふじわらのよりなが)の対立が重なり、 それぞれに武士である平氏・源氏が加わって大規模な武力衝突に発展してしまった、 壮絶な兄弟ゲンカです。 最初に、対立関係を表にまとめておきましょう。 う~ん、登場人物が多くてすでにややこしいですね… なので、今回は天皇家の対立に焦点をしぼって、保元の乱を見ることにしましょう。 崇徳上皇と後白河天皇、この2人の対立の原点は、 どうやら彼らのお父さんである鳥羽天皇(とばてんのう)にあるようです。 鳥羽天皇は、1107年にお父さんである..

  • 1086年 院政を開始する

    前回は、延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を取り上げました。 これを発令した後三条天皇(ごさんじょうてんのう)にかわって即位したのは、 息子の白河天皇(しらかわてんのう)です。 白河天皇は、お父さんにならって親政(しんせい)をおこないますが、 1086年、息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に位を譲り、 上皇(じょうこう)として院政(いんせい)を開始します。 白河上皇(しらかわじょうこう)は、なぜ院政を始めることにしたのでしょうか。 白河天皇は即位するとき、まだ子どもがいなかったため、 弟の実仁親王(さねひとしんのう)が皇太弟(こうたいてい)に立てられます。 実仁親王、このときわずか2歳です。 そんな幼い実仁親王を皇太弟に立てることを強く望んだのは、 2人のお父さんである後三条上皇(ごさんじょうじょうこう)です。 ..

  • 1069年 延久の荘園整理令を出す

    私事ですが、先日第2子を出産しました。 ただでさえのろのろ更新のブログですが、さらに更新が滞るかもしれません… 申し訳ありませんが、何卒ご了承くださいませ。 *   *   * 今日は、1069年に後三条天皇(ごさんじょうてんのう)が発令した、 延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)を、ゴロ合わせとともに紹介します。 まずは、後三条天皇の外戚(がいせき)が誰なのか、系図で確認してみましょう。 外戚とは、お母さん側のおじいちゃんのことでしたよね。 後三条天皇のお母さんは禎子内親王(ていしないしんのう)で、 彼女のお父さんは三条天皇ですので、 後三条天皇の外戚は三条天皇となります。 そうなんです! 後三条天皇の外戚は、藤原北家(ふじわらほっけ)ではないのです!! 摂関家(せっかんけ)と外戚関係にないのです!!! といって..

  • 平安時代(13)

    武士のおこりの2回目は、平安時代に地方で起きた反乱を取り上げます。 前回、武家の棟梁(ぶけのとうりょう)として、 桓武平氏(かんむへいし)と清和源氏(せいわげんじ)が登場しました。 まずは、彼らが一体ナニモノなのか…というところからお話ししましょう。 *   *   * 平安時代、皇位継承が確実におこなわれるよう、 子どもをたくさんもうける天皇が少なくありませんでした。 桓武天皇(かんむてんのう)は30人ほど、 嵯峨天皇(さがてんのう)なんて50人ほど子どもがいたようです。 天皇の子どもは、もちろん天皇の一族、 すなわち皇族(こうぞく)です。 皇族であるその子どもたちが、それぞれ子どもをもうけるとなると… そう、皇族はどんどん増えてゆくのです。 律令には、皇族に一定の給料を与えることなどが定められているので、 皇族が増えすぎると、国家財政..

  • 平安時代(12)

    今日から2回にわたって、武士(ぶし)を取り上げます。 武士というと、チョンマゲでカタナを持っている姿を思い浮かべませんか? それはズバリ、江戸時代の武士です。 時代劇の舞台はほとんどが江戸時代なので、 どうしてもそのイメージが強くなってしまいますよね。 (え?時代劇、観ないですか…??) 今から見ていくのは、武士のおこりです。 まだまだ江戸時代の武士みたいなスタイルではありません。 では、はじまりのころの武士とは、一体どんな様子だったのでしょうか。 一緒に見ていきましょう! まずはプリントの左側、①地方政治の変質と武士 です。 前々回・前回と、2回にわたって地方政治の変質を取り上げました。 このことは、武士のおこりと密接な関係があるので、簡単におさらいしておきましょう。  浮浪・逃亡・偽籍などの横行により戸籍・計帳制度が崩壊     ..

  • 平安時代(11)

    前回に引き続き、ややこしい荘園制を見ていきますよ-! 頑張りましょう!! まずはプリントの左側、①荘園の歴史です。 前回の内容と重複する部分がたくさんあるので、復習も兼ねて進めていきましょうね。 8~9世紀ごろの政府の課題は、人口増加による口分田不足の解消と、税の増収です。 そこで、 722年の百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)、 723年の三世一身法(さんぜいっしんのほう)を経て、 743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を発令します。 これによって公地公民の原則は崩壊し、人々は自分の土地を持つことができるようになります。 すると、力のある者、たとえば有力貴族や大寺社は、 周辺の班田農民(口分田を耕して租を納める、戸籍に登録された農民のこと)や、 口分田を捨てて浮浪(ふろう)している農民などを使ってどんどん開墾..

  • 平安時代(10)

    今日取り上げるのは、ややこし~いややこし~い荘園制です。 なかなか理解できませんよね~、これ… 私も高校生のころは、ナニがナンだかさっぱり分からなくて、ホントに苦手でした。 なので、分かりますよ!その気持ち!! より多くの人に理解してもらえるよう、かみくだいた説明を心がけますので、しっかりついてきてください! では、スタートです!! はじめに、律令制度下の税制を、簡単に確認しておきましょう。 ・ 課税対象……戸籍・計帳に記載された成人男子が中心 ・ 徴税請負人…郡司(国司は行政担当) ・ 税の種類……租・課役(庸・調・雑徭)など           租は6歳以上の男女に、課役はおもに成人男子に課せられる このあたり、頭のなかでしっかり整理できていますか~? ウロ覚えだという人は、飛鳥時代(10)でしっかりと復習しておいてください。 とにもかくに..

  • 平安時代(9)

    前回に引き続き、国風文化を見ていきましょう。 今日は、宗教・美術、そして貴族の生活Ⅱ(日常の制約・年中行事・結婚)を取り上げます。 まずは、プリントの左側にある宗教です。 ①仏教の浸透 みなさんは、神社やお寺でどんなことをお願いしますか?  「健康で過ごせますように…」  「夏までに痩せますように…」  「志望校に合格できますように…」 そんな感じのお願い事が多いのではないでしょうか… これらのお願い事は、すべて現世利益(げんぜりやく)の追求です。 現世での利益、すなわち、この世での幸せ。 それを叶えて欲しい!というアツい気持ちで、神さまや仏さまにお願いをするわけです。 だって、自分がいま生きているのはこの世なわけですから、 この世で幸せになりたいって思うのはトーゼンじゃないですか! 平安時代の貴族たちも同じです。 現世利益を成就(じょ..

  • 平安時代(8)

    今日から2回にわたって、10~11世紀に平安京を中心に栄えた、国風文化(こくふうぶんか)を取り上げます。 藤原北家(ふじわらほっけ)による摂関政治(せっかんせいじ)の時代に花開いた文化なので、 たまーに藤原文化(ふじわらぶんか)と呼ばれることもあります。 この文化の担い手は、もちろん藤原北家をはじめとする貴族たちです。 はじめに、国風文化のおもな特徴を、3つにまとめておきましょう。 ①大陸文化の摂取・消化のうえに成立した、日本の風土や日本人の人情・嗜好(しこう)にかなった、   優雅(ゆうが)で洗練された文化 →これまで栄えていたのは、大陸(中国など)の文化の影響を強く受けた、唐風(とうふう)の文化でしたが、   894年に遣唐使が停止されたこともあり、日本に合った独自の文化が発展します。 ②かな文字(仮名文字、とも表記します)の発達による..

  • 平安時代(7)

    今日は、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治の3回目、 藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)親子の時代を取り上げます。 摂関政治(せっかんせいじ)とは、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)が引き続いて任命され、 政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀ごろにかけての政治を指します。 天皇が幼少の時に置かれるのが摂政、 天皇が成人してから置かれるのが関白です。 安和の変ののち、摂政・関白は常置(じょうち、常に置かれること)となり、 藤原北家のなかでもとくに、藤原忠平(ふじわらのただひら)の子孫から任命されることになります。 摂政・関白を排出するこの家柄を、摂関家(せっかんけ)と呼びます。 摂関家は、鎌倉時代になると、 近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・一条(いちじょう)・二条(にじょう)・九条(くじ..

  • 平安時代(6)

    前回に引き続き、藤原北家(ふじわらほっけ)による政治をまとめていきます。 平安時代(5)では、  ①藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)  ②藤原良房(ふじわらのよしふさ)  ③藤原基経(ふじわらのもとつね) の3人を順番に取り上げましたので、その続きを見ていきましょう! ④藤原時平(ふじわらのときひら)-藤原基経の子ども 藤原基経の死後、宇多天皇(うだてんのう)はまだ若い藤原時平を関白(かんぱく)に任命せず、 寛平の治(かんぴょうのち)と呼ばれる親政(しんせい)を開始します。 親政とは、摂政(せっしょう)・関白をおかず、天皇自らが政治をおこなうことで、 天皇親政(てんのうしんせい)とも呼びます。 このころ宇多天皇が重用したのは、学者の菅原道真(すがわらのみちざね)です。 894年、宇多天皇は彼を遣唐大使(けんとうたいし、遣..

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