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  • 死のオーストラリア横断の話~オーストラリア横断ヒッチの旅

    *死のオーストラリア横断の話△オーストラリアの砂漠-CFN1868年8月、メルボルンから北へ人跡未踏の大陸横断に出発した、州政府支援の探検隊14名の内、バーク先遣隊4人もクロンカリー付近一帯の砂漠で、この五月蝿い蝿(うるさいハエ)の来襲に毎日、閉口していた。彼等先遣隊は、クロンカリーを経て北端のカーペンタリア湾に到達した。帰路、自分達の荷物等を運ぶ馬やラクダを殺し、食料にまでしてやっと辿り着いた“クーパーズ・クリークの中継基地”(クィーンズランド、ニュー・サウス・ウェールズと南オーストラリアの各州の中間地点付近)の隊員達は、先遣隊の4人を待たずして既に撤収した後で、基地は間抜けのからであった。先遣隊4人は疲労困憊、飢え、病気等で4人の内3人がその後、間もなく砂漠の中に消えて行った。最後の1人は、奇跡的に通りかか...死のオーストラリア横断の話~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • ・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)~オーストラリア横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)6時半に起き、マウント・アイザ郊外からヒッチを始めた。1台目の車は20マイルばかり走ったら、「車の調子がおかしい」と言って停まってしまった。オーストラリア横断ヒッチ中、これで2回目であった。車検や整備体制が確立してないのか、オーストラリアの車はよく故障する様であった。そしてそのドライバーは、「修理の為、引き返す」と言って私を荒野に置き去りにして、来た道を引き返しマウント・アイザへ行ってしまった。昨日もそうであったが、今日も歩いていたり、道路端で立っていたりすると、私の回りに蝿が集まって来て鬱陶(うっとう)しかった。それ程に私の身体は異臭を発散し、不潔になってしまったのか。3日間、野宿しながらの旅で、確かに清潔な体ではなかった。それでもこの絶え間なく...・昭和44年3月30日(日)晴れ(先へ進めない厳しいヒッチの旅)~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • オーストラリアの広さの話~オーストラリア横断ヒッチの旅

    *オーストラリアの広さの話何しろ1大陸が1国家で占められているわけだから広い。オーストラリア大陸の総面積は768万6,848平方キロで、ソ連、カナダ、中共(1969年現在、この国は中国と認められていなかった)、アメリカ、ブラジルに次ぎ世界第6位なのだ。因みに、日本の22倍ある。大陸本土の東西直線距離で4,000km、南北直線距離は3,100kmと言う北海道の一番北の稚内から日本最南端の西表島より長い距離なのだ。当時、沖縄を含め与那国島は日本に帰属していなかった。1平方kmの人口密度を比較すると、日本は253人、イギリスは211人、アメリカは21人、しかし、オーストラリアはたったの1.3人(2人も住んでいない)である。『シドニーやメルボルンを訪れただけで、オーストラリア旅行をした』とは言えない。オーストラリア大陸...オーストラリアの広さの話~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • 荒野の道を突っ走る~オーストラリア横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月29日(土)晴れ(荒野の道を突っ走る)この辺り(テナント・クリーク)まで来ると、朝晩は涼しかった。星空の下で寝る(野宿する)には、既に適さない気候になって来た。ここは『スリー・ウェイズ』と言って、レストランとホテル兼用の店とガソリン・スタンド、その住民の住宅2~3軒があるだけの所であった。朝食は『TheWayThouHouse』と言うレストランの外で知り会った奥さん(昨夜、このホテルに夫婦で宿泊していた)に、コーヒーとパンを御馳走になった。今、私にとって1セントでも大事なので、御馳走になれるのは本当に有り難かった。ついでにお昼用にサンドウィッチを注文したが、これは自分で払った。奥さんにお礼を言ってレストランを出た。すぐ近くの交差点のクロンカリー方面の道でヒッチを始めた。直ぐに先程奢ってくれた奥さ...荒野の道を突っ走る~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • 荒野の道を突っ走る~オーストラリア横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月29日(土)晴れ(荒野の道を突っ走る)この辺り(テナント・クリーク)まで来ると、朝晩は涼しかった。星空の下で寝る(野宿する)には、既に適さない気候になって来た。ここは『スリー・ウェイズ』と言って、レストランとホテル兼用の店とガソリン・スタンド、その住民の住宅2~3軒があるだけの所であった。朝食は『TheWayThouHouse』と言うレストランの外で知り会った奥さん(昨夜、このホテルに夫婦で宿泊していた)に、コーヒーとパンを御馳走になった。今、私にとって1セントでも大事なので、御馳走になれるのは本当に有り難かった。ついでにお昼用にサンドウィッチを注文したが、これは自分で払った。奥さんにお礼を言ってレストランを出た。すぐ近くの交差点のクロンカリー方面の道でヒッチを始めた。直ぐに先程奢ってくれた奥さ...荒野の道を突っ走る~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • 消える川と地下の大水源の話~オーストラリア横断ヒッチの旅

    *消える川と地下の大水源の話オーストラリアの東海岸沿いに一本の山脈(大分水嶺山脈)がある。その山脈の東側に降った雨は、川となり海に流れ込む。日本人の概念として当然、『川は海に流れ込む』と思っている。しかし、その西側に降った雨は川となるが、如何せん高低差がなく、しかも海まで遠い。その為、広大な地域を流れる内に、その川は自然に無くなってしまう。要するに多くの水が『伏流水』となって地下に潜ってしまうのだ。オーストラリアにはそんな川がたくさんあり、その川を「リバー」と言わないで、「クリーク(Creek)」と言っている。所で、その伏流水はクィーンズランド州南西部からノーザン・テリトリー、ニュー・サウス・ウェールズ州の北西部、更に南オーストラリア州にまで広がる巨大な盆地の地下深くに蓄えられる。この世界一の規模を誇る盆地をT...消える川と地下の大水源の話~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • カンガルーと競争だ~オーストラリア横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月28日(金)晴れ(カンガルーと競争だ) 6時半に起きて、パンをかじっただけの朝食を済ませた。7時に昨日、車から降りた場所でヒッチを開始した。1時間過ぎた頃、トラックが止まり、7マイル程乗せて貰った。そこで30分過ぎたら、2台目の若者が運転する車に乗って、32マイル進んだ所でパンクしてしまった。そのドライバーは、「修理の為、時間がどのくらいかかるか分らないので、他の車に乗せて貰いな」と言ってくれた。私は乗せて貰って何の手助けをしないで行ってしまう事に、心苦しかった。しかし例え居ても、彼の為に何ら手伝いも出来ず、反って足手まといと思い、彼の言葉に従った。 そこから3台目に乗って、20マイル程走った所で降ろされた。その車は、道でないような道を左折し、私を大自然界の中に置き去りにして、行ってしまった。昨...カンガルーと競争だ~オーストラリア横断ヒッチの旅

  • アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

    ・昭和44年3月27日(木)晴れ(アボリジニ達との最後の出会い)今日は、良く晴れていた。今日こそシドニーへヒッチで行こうと決めて、7時に起きた。出発する前、2日分の宿泊代を余計に払ってあったので、払い戻して貰おうと、マダムに頼んだが駄目であった。2度とダーウィンに来る可能性はゼロに近かったが、「又来た時にはここに泊めて下さい」とお願いした。そうしたらマダムは「2日分はただで泊めさせて上げる」と言ってくれた。ロンドンでも同じ様な台詞があった。「それでは」と言ってゲスト・ハウスを去り、歩き出したら水筒(ペット・ボトル)を持って来るのを忘れ、取りに戻った。再び街をトボトボ歩いて郊外へ。その途中、仕事中に手を切ってしまい、お世話になった会社(Dalgety)の親切にしてくれた人が、車で向こうから遣って来た。私は気がつい...アボリジニ達との最後の出会い~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

  • ダーウィン最後の日、ダーウィンでの収入・支出総決算~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月26日(水)曇り(ダーウィン最後の日)今日、保険会社で休業補償手当金として、小切手で20ドル28セント受け取り、現金化しに銀行へ行った。 それにしてもまだヒッチで行くか、バスで行くか、迷いがあった。エイジェンシィへ行って仕事をしようかと思ったが、仕事は無かった。それなら昼まで晴れて来たら、ヒッチでシドニーへ行こうと決心し一旦ゲスト・ハウスに戻った。しかし午後、雨雲が垂れ下がり、今にも降り出しそうな空模様で、シドニーへ行くのを断念した。明日行く事にして、午後は一日中ベッドに居た。   夜、2本立て西部劇の映画を見に行った。野外で入場料は25セント(100円)、意外に安かった。*ダーウィンでの収入・支出総決算収入~74ドル。支出~44ドル支出の内訳~・宿泊費3週間分で30ドル、・食料品、小包輸送代、...ダーウィン最後の日、ダーウィンでの収入・支出総決算~ダーウィンの旅

  • ヒッチでシドニーへ行く事にする~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月25日(火)晴れ(ヒッチでシドニーへ行く事にする)ダーウィンは本当に小さな町、稼ぐ為にも、他の国へ旅する為にも、結局シドニーへ行かなければならない様な町であった。シドニーへはヒッチで行くか、それともバスで行くか、私は迷っていた。同部屋のロスの話によると、バス運賃は65ドル、日数は4日間掛かると言う。それにしても65ドルは、私に出せる額でなかった。ヒッチと言えば、3月8日(土)に南オーストラリア州へ行こうと思い、ダーウィン郊外でヒッチをしてみたが、全く車が走ってなく町に戻って来て、そのヒッチ率の悪さ、そして暑さと空腹で参った事があった。オーストラリアは、国土が広く殆んど砂漠の様な所で人も住んでいないし、何と言っても車が走ってない、それに地域によって気候の違いもあるのだ。従って、今回のオーストラリア...ヒッチでシドニーへ行く事にする~ダーウィンの旅

  • 小言、ばか呼ばわりされての大工仕事~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月24日(月)晴れ(小言、ばか呼ばわりされての大工仕事)傷も癒えたので早々、エイジェンシィへ行ったら大工仕事があった。大工と言っても私の仕事は、その物真似の様な仕事であった。仕事中、彼等の話す言葉が良く理解出来ず、仕事の手順・方法が上手く行かず、文句を言われたり、ばか呼ばわりされたりした。金が欲しかったので我慢したが、それにしても悔しいー○△□×‼‼。外国生活も長くなって来て、それなりに英語は上達したが、オーストラリアの田舎者が話す英語は、イギリス人やアメリカ人が話す英語と違うので、理解出来ない言葉が多くあった。暑い中バカだ、チョンだと言われたが、昼に業者から奢って貰ったビールは旨かった。一日の仕事が無事に終わり、今日は12ドル貰った。ダーウィンの町は、人口や町の規模が小さい割に臨時労働者が多い為...小言、ばか呼ばわりされての大工仕事~ダーウィンの旅

  • 美人のナースさん~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月19日(水)晴れ(美人のナースさん)私がオーストラリアに来て半月になろうとしていた。その間、定まった仕事、或いは大した仕事にあり付けず、お金は貯まらなかった。揚句の果てに手を負傷してしまい、仕事が出来ず冴えない日々が続いた。負傷をして親切に手当てをしてくれた美人ナースに会いに行けるのが楽しみであった。そして今日はその日で、包帯の取替の為、病院へ行った。彼女は、「良くなって来ていますよ。大事にならなくて良かったね。21日は抜糸をしますから」と言いながら、包帯を交換してくれた。彼女は背がスッラとして美人だし、私の様な貧乏な日本人にも親切にしてくれた。食事にでも誘いたいが、声も掛けられない、金が無いのが悲しかった。・昭和44年3月21日(金)晴れ(病院と保険会社へ行った)今日は、抜糸の為、病院へ行く日...美人のナースさん~ダーウィンの旅

  • 美人のナースさん~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月19日(水)晴れ(美人のナースさん)私がオーストラリアに来て半月になろうとしていた。その間、定まった仕事、或いは大した仕事にあり付けず、お金は貯まらなかった。揚句の果てに手を負傷してしまい、仕事が出来ず冴えない日々が続いた。負傷をして親切に手当てをしてくれた美人ナースに会いに行けるのが楽しみであった。そして今日はその日で、包帯の取替の為、病院へ行った。彼女は、「良くなって来ていますよ。大事にならなくて良かったね。21日は抜糸をしますから」と言いながら、包帯を交換してくれた。彼女は背がスッラとして美人だし、私の様な貧乏な日本人にも親切にしてくれた。食事にでも誘いたいが、声も掛けられない、金が無いのが悲しかった。・昭和44年3月21日(金)晴れ(病院と保険会社へ行った)今日は、抜糸の為、病院へ行く日...美人のナースさん~ダーウィンの旅

  • 草刈作業で負傷をする~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月17日(月)晴れ(草刈作業で負傷をする)早々、エイジェンシィへ行ったら草刈作業を紹介され、その現場へ行った。会社事務所裏の庭が草ぼうぼうで、電動のこぎり付き草刈機で草を刈る仕事であった。作業を始めて15分過ぎた頃であろうか、草を刈る目の前に有刺鉄線があった。電動草刈機を自分の脇に置き、その有刺鉄線を手で取り除こうとした。その次の瞬間、置いた草刈機が動いて有刺鉄線に触れ、その有刺鉄線が私の手と足に襲い掛かって来た。手に痺れを感じ、見たら手の数ヶ所から出血していた。痛いやら、驚くやら、電動草刈機は暴れまくっているやら、もう大変であった。「助けてくれ!誰か来てくれ!」と事務所の方へ向かって大声を出し、助けを求めた。私に作業の説明をした男性スタッフが直ぐ現れ、草刈機を止めた。私の手は痺れを感じ、多量の血...草刈作業で負傷をする~ダーウィンの旅

  • 今度の部屋and電線敷設作業~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月12日(水)晴れ一時スコール(仕事無し、今度の部屋)昨日は一昨日の倉庫の労務をこなした。そして今日エイジェンシィへ行ったが、仕事は無かった。しかし、明日の建設現場の電線敷設作業の仕事を紹介された。今日、インドのお土産や不必要の背広等の衣類関係を段ボールに詰めて航空便で実家へ送った。*後日、背広を送ったのは失敗であった。10日の夜に怖い思いをしたが、結果的に落ち着ける別の建物の2階の部屋へ移動が出来、本当に良かった。部屋は綺麗で、私の他に西洋人2人が居た。その内の1人は、『ロス』(RossSmith)と言って、ロンドンから来ているイギリス人の彼と仲良くなった。この部屋には、チョッとしたキッチンがあり、テラスで食事も出来た。それで宿泊代は、変わらなかった。・昭和44年3月13日(木)曇り(電線敷設作...今度の部屋and電線敷設作業~ダーウィンの旅

  • 原住民のアボさんに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月10日(月)晴れ後スコール(原住民に危うく殺されそうになった)午前中エイジェンシィへ行ったが、仕事は見付からなかった。私は仕事がないと困るのだ。他国へ行く為の、或いは帰国の為の航空券、若しくは乗船券を買うお金が既に無くなっていた。その様な訳で、月曜日から金曜日まで定期的に働ける仕事が欲しかった。午後、再び行った。街外れにある倉庫の荷物運びの仕事を紹介してくれた。現場まで歩いて行き、その仕事をこなした。明日又、7時に来てくれと頼まれた。3時間の労働で「4ドルは、明日分と併せて支払う」と言ってくれた。私が仕事から帰ってきた時、アボサンは部屋に居なかったが、暫らくしてから帰って来た。彼は何処かで飲んで来た様で、少し酔っていた。私はシャワーを浴び、明日早めに出掛けなければならないので、午後9時過ぎにベッ...原住民のアボさんに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

  • 原住民のアボさんに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月10日(月)晴れ後スコール(原住民に危うく殺されそうになった)午前中エイジェンシィへ行ったが、仕事は見付からなかった。私は仕事がないと困るのだ。他国へ行く為の、或いは帰国の為の航空券、若しくは乗船券を買うお金が既に無くなっていた。その様な訳で、月曜日から金曜日まで定期的に働ける仕事が欲しかった。午後、再び行った。街外れにある倉庫の荷物運びの仕事を紹介してくれた。現場まで歩いて行き、その仕事をこなした。明日又、7時に来てくれと頼まれた。3時間の労働で「4ドルは、明日分と併せて支払う」と言ってくれた。私が仕事から帰ってきた時、アボサンは部屋に居なかったが、暫らくしてから帰って来た。彼は何処かで飲んで来た様で、少し酔っていた。私はシャワーを浴び、明日早めに出掛けなければならないので、午後9時過ぎにベッ...原住民のアボさんに危うく殺されそうになった~ダーウィンの旅

  • 部屋の様子~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月9日(日)晴れ(部屋の様子)今日は日曜日、エイジェンシィは休みで仕事にあり付けず、店も休みで食料は変ええず腹をすかした状態であった。夜、港の方へ散歩に出掛けた。この港は小さいので中型、小型の漁船が数隻停泊しているだけで、大型船は1隻も停泊していなかった。静かなもので、誰一人いなかった。あれから原住民のアボさんとは話をしていないし、どうも彼は薄気味が悪かった。私とアボさんが住んでいる部屋の様子は、裸電球が部屋の中央からぶら下がっていたが、本が読める明るさでなかった。ベッドがあるだけで、テーブル、いすや洋服ダンス等の家具類は無かった。本当に殺風景な、人が生活する部屋ではなかった。私は警察に御厄介掛けた事がないが、例えて言うなら『監獄部屋』の感じであった。アボさんが部屋の壁板を足で蹴った跡が3ヶ所、パ...部屋の様子~ダーウィンの旅

  • 対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

    *対日感情嫌悪の理由の話太平洋戦争初期の1942年(S17年)2月、ダーウィンの町は真珠湾攻撃に匹敵する規模の日本軍の空爆を受けた。そしてこの空爆は、翌年の11月まで計64回も繰り返えされた。その結果、多数の死傷者を出すと共に、ダーウィンは壊滅状態になった。そんな訳でこの町に古い建物は、一軒一棟も無かった。民家を含め全ての建物は、ここ十数年以内に建ったものばかりであった。又、西オーストラリア州のBroome(ブルーム)もかなり空爆を受け、やはり壊滅的な打撃を受けていた。シドニーの大都市は、ポート・ジャクソン湾を遡った2隻の日本軍特殊潜航艇の砲撃にさらされ、街が大火災になった。更にニューキャッスル(シドニーの北側の都市)でも、外洋から日本海軍艦船の砲撃にさらされた事もあった。日本では、旧日本軍のオーストラリア侵攻...対日感情嫌悪の理由の話~ダーウィンの旅

  • 原住民と相部屋になる~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月8日(土)晴れ(原住民と相部屋になる)昨夜は一昨夜より蚊の来襲が酷く、あちこちと喰われ寝られなかった。2日連続、まともに寝ていないので参った。私の妹は1年前にサウス・オーストラリア州(S・A)の『Miss.ChristineNutt』と言う高校生と文通をしていて、彼女のお父さんは農業を営んでいるとの事でした。私は農場も大きく仕事があると自分勝手に思い、住所は分かっていたのでS・Aへヒッチで行こうと思い付いた。ダーウィン郊外に出て、車の来るのを待った。S・Aへ行く道は一直線、地平線のかなたまで伸びていた。ダーウィンは亜熱帯地域、郊外はジャングルの様に木々が生い茂り、それが道路によって真2つに割れていた。そこにあるものは、地平線の彼方へ静かに広がっている無限の大地、と言った光景であった。シーンと静ま...原住民と相部屋になる~ダーウィンの旅

  • ダーウィンの話~ダーウィンの旅

    *ダーウィンの話Darwin(ダーウィン)の人口は8,000人弱だが、2千~3千人位しか住んでいない感じがした。それでもダーウィンはNorthernTerritory(『ノーザン・テリトリー』と言って、連邦政府の直轄地で特別区)の中で一番大きい町、しかも州都の機能も兼ねていた。それにも関らず、ダーウィンに各国大使館や領事館は無かった。ダーウィンは小さい町なので、何処へでも歩いて用が足せた。市内バスなんて走っていないし、タクシーも見掛けなかった。鉄道も貨物専用で、キャサリンまでしか敷設されてなかった。ホテルなんて洒落た宿泊施設は無いし、観光する所も無いので当然、観光客が来る所ではなかった。何しろ不便な所で、見るべき物は原住民(アボリジニ)と大自然だけであった。この様な所だと知らず、安く行けると思って、私はカルカッ...ダーウィンの話~ダーウィンの旅

  • 初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

    ・昭和44年3月7日(金)晴れ(初めての仕事は日本船荷役作業)8時30分、Darwin(ダーウィン)の町まで6~7km程であろうか、ヒッチして行った。太陽が燦々と降り注ぎ、夏の気候(ここは亜熱帯地域)で暑かった。ダーウィンは、明るい感じのする静かな町であった。家と家の空間も広く取られ、庭の芝生が美しかった。そんな家並みの道路を歩いている人は、人っ子1人、見当たらなかった。昨日までゴチャゴチャ(超過密状態)したインドに居た事を思うと、この光景が返って奇妙に感じられた。すると向こうから私と同じ年齢位の労働者風の男が歩いて来た。「グッド・モーニング」と私。「グッド・モーニング」挨拶が返って来た。「私は仕事を探しているのですが、何処へ行ったら探せますか」と躊躇なく彼に尋ねた。「それならPublicEmploymentA...初めての仕事は日本船荷役作業~ダーウィンの旅

  • 偉い所へ来てしまったぞ~ダーウィンの旅

    ・昭和44年(1969年)3月6日(木)晴れ(偉い所へ来てしまったぞ)*参考=オーストラリアの1ドルは、403円(1セントは、約4円)。 『寝坊してはいけない』と思い昨夜、YMCAの下働きの少女に言葉が通じないが、時計の針を指差しジェスチャで「明日の朝7時に起こしてくれ」と頼んだ。しかし彼女は6時に来て、1時間も早く起こされてしまった。彼女は、最下層の部類に入るのか、いつも入口付近で下働きをしていた。その彼女は私が滞在中、決して2階へ上がって来なかったし勿論、部屋へも入れなかったのだ。きつく言われているのであろうその彼女が、掟を破る行為(インドでは決められた仕事以外、出来ない)で、起こしに来てくれた。怒る気はなく、彼女にとっては高額過ぎるのであるが、感謝の気持で1ルピー上げた。彼女はニコニコして部屋から出て行っ...偉い所へ来てしまったぞ~ダーウィンの旅

  • 私が選んだインドの10大名物の話~カルカッタの旅

    *私が選んだインドの10大名物の話インドは西ヨーロッパ諸国、社会主義諸国、或いはイスラム諸国と比べて色んな風習や文化の相違があり、そう言う違った面で色々な凄さと面白さがあった。その結果、カルチャーショックを受けたり、感動したり、悲しくなったり、色んな事を体験、感じたりした。とにかくインドは、今まで旅した国の中で、一番印象に残った。インド滞在も後1日、『やっとインドから逃れられる』と言う思いと同時に、『何か名残惜しい』感じもした。如何してなのであろうか。インドの都市のあの異常な雑踏、街の不潔や路上生活者、乞食の群れ、リキシャに乗ればトラブルがあったし、列車を乗ろうとすれば駅員の盥回しの洗礼を受けた。まるで良い所が無い様なインドであったが、帰国してから誰かに尋ねられれば、「私は、又インドへ行きたい」そう答えるに違い...私が選んだインドの10大名物の話~カルカッタの旅

  • インド最後の日とインド人との取引の話~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月5日(水)曇り(インド最後の日) BOACの営業所へ行って、ダーウィンまでの航空券(336米ドル)を買った。M&M券では足らず、10ドルばかりをトラベラーズチェックで支払った。あれ程悩んでいたオーストラリア行きはこれで決定し、明日いよいよオーストラリアへ行く事になった。ルピーが残りそうなので“インドのお土産”(インド人との取引の話を参照)を買いに行った。夕食は中国レストランで食事をして、インドの最後の夜を過ごした。*インド人との取引の話2万円で買ったカメラは、6年過ぎると幾らで売れるのであろうか。良く分らないが、日本の質屋では3千円から4千円程で売れるのか? それがインドでは170ルピー(8,330円)で売れた。『儲かった』と思うべきなのに後から考えたら、それがその様に思えなかった。如何してなの...インド最後の日とインド人との取引の話~カルカッタの旅

  • カルカッタ(コルカタ)のさらに輪をかけて人口過剰になった話~カルカッタの旅

    *カルカッタ(コルカタ)のさらに輪をかけて人口過剰になった話1971年(私が訪れた2年後)、“バングラデシュ独立戦争に伴うインド・パキスタン戦争”(第3次印パ戦争)勃発し、再び800万人の難民がカルカッタへ流れ込んだ。大カルカッタ圏の人口の内、その4割が難民であると言う。2001年の年次調査によると、カルカッタの市域人口は460万人、郊外を含む人口は1330万人である。そしてインドの人口は10臆6600万人であると言う(「国際地学協会」参考)。そして2006年9月のNHKニュースによると、『インドの人口は12億人』と発表された。因みに私が訪れた1968年は、インドの人口は6億人と言われていた。あれ程に“産児制限運動”(街の至る所に看板があった)を展開していたにも拘らず、この爆発的な人口増加はどうなっているのだろ...カルカッタ(コルカタ)のさらに輪をかけて人口過剰になった話~カルカッタの旅

  • ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月4日(火)晴れ(ヒッピーから紳士に変身?)午前中、部屋でゆっくり休んだ。オーストラリアへ行って、職探しをしなければならないので、『少し容姿を整えなければ』と思い出した。午後、近所で目に付いた床屋へ行った。ここの宿泊所(YMCA)は、表通りから少し裏通りへ入った所にあった。宿泊所の前は広くないが、餓鬼どもの遊び場として適度な広さがあった。広場右手の方は、古ぼけた汚い民家が並んでいた。出掛けようと表に出たら昨日と同様、餓鬼ども数十人が頭からつま先まで色々な色に染まりながら又、粉を掛け合っていた。私は粉を掛けられない様にソット行ったが、餓鬼どもに見つかってしまった。「ヒッピー、ヒッピー」と餓鬼どもは、はしゃぎながら粉をぶつけようと、私を追って来た。「掛けられてたまるか」と素早く表通りへ逃げ出した。それ...ヒッピーから紳士に変身?~カルカッタの旅

  • カルカッタの人口過剰の話~カルカッタの旅

    *カルカッタの人口過剰の話今日(1969.3.1)、YMCAから歩いて街へ行って帰って来たが、それにしても凄かった。デリーやボンベイの大都市でその凄さに慣れていたが、カルカッタの凄さは、正に一級品であった。それは、インド独特の臭いがする中、人人人又人、男男男又男が途切れる事なく街の全ての歩道(裏通りも含む)を溢れんばかり(物凄い雑踏、超過密状態)に歩いていた。更に通りにはそんな人々と共にこれ又、大勢の物乞いをする乞食や浮浪者、家を持たない路上生活者達がそれに輪を加えていた。通りに女性が見掛けられないと言う事は、その男性の数だけ女性は家に閉じこもっている、と言う事なのだ。街の中で数少ない女性、特に綺麗なサリーを纏った女性を見かけると、その部分だけパット花が咲いた様な華やかさを感じた。街へチョッと出掛けただけで、色...カルカッタの人口過剰の話~カルカッタの旅

  • オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月3日(月)晴れ(オーストラリアへはBOACに決定)カルカッタからオーストラリアへの行き方で、私は2つのルート選択で悩んでいた。①カルカッタからバンコクへ飛んで、それからマレー半島を南下しシンガポールへ。シンガポールで自分の旅への気持、手持金、その他の状況を考え、『帰国した方が良い』と判断したら、船(M&M)で帰国する。『オーストラリアへ行きたい』と判断したら飛行機で行く方法。②ここからダイレクトにオーストラリアへ飛行機で行くか、この場合一番安く行ける航空会社と空路はと言う事であった。悩んだ末に①を選択した為、タイの査証を直ぐ取る必要があった。今日も又、JALへ行きその後、タイの領事館へ査証を取りにタクシーで行った。降りる時、メーターが2.5ルピーを示していた。いつもの様に「高い、まけろ」と言った...オーストラリアへはBOACに決定~カルカッタの旅

  • オーストラリア行きの件でJALで相談~カルカッタの旅

    ・昭和44年3月1日(土)曇り(オーストラリア行きの件でJALで相談)このYMCAに旅人は私1人だけであった。昨日からカルカッタを去る日まで6日間宿泊したが、誰も旅人は来なかった。これは珍しい現象であった。何故だろう、不思議であった。私の部屋は階段を上って2階の右手一番手前、そこから先は空室であった。左手側には10部屋程あった。各部屋はネパール人留学生が宿泊していた。最初に彼等に会ったのは、私が2階の窓から景色を眺めていた時であった。日本人が向こうから来たと思い話し掛けたが、フンでもスンでもないので英語で話した。話をしたら彼らはネパール人で3ヶ月間ここに滞在して、カルカッタ大学で勉強しているとの事でした。それにしてもネパール人は、本当に日本人に良く似ている、と感心する程であった。YMCAでゆっくりしてから、オー...オーストラリア行きの件でJALで相談~カルカッタの旅

  • パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

    ・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っていたので、彼と共に行く事が出来なかった。駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交渉...パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

  • パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

    ・昭和44年(1969年)2月28日(金)曇り後雨(パトナーからカルカッタへ)6時30分に起き、渡辺と共にドミトリーを出た。渡辺はネパールへ行くのでガンジス川を渡る船着場の方へ、私はパトナー駅へ行くので宿泊近くの大通りで各々左右に別れた。振り返ると彼は、船着場の方への坂をトボトボと歩いて行った。彼の旅愁を帯びた後ろ姿は、終に見えなくなった。「お互い元気で旅を続けよう。さようなら」と別れ際に言ったが、真にそう思った。本当は私も出来れば彼と共にネパールへ行って見たい心境であったが、金銭的な事、ネパールの査証の事、そしてオーストラリアへの入国時期が迫っていたので、彼と共に行く事が出来なかった。駅へ行くのにリキシャを拾った。着いて60パイサ払った。リキシャのおじさんは、「少ない」と言っている様であったが時間の無駄、交渉...パトナーからカルカッタへ~カルカッタの旅

  • リキシャ・マン(リキシャのおじさん)の話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    *リキシャ・マン(リキシャのおじさん)の話(注)1ルピーは49円(公定)、39円(闇取引)リキシャとは、リヤカーに似た2人用の座席がある二輪車を自転車で牽引する乗り物で、人力車の自転車番である。リキシャ・マン(以下「おじさん」と呼ぶ)は、そのリキシャの運転手の事です。リキシャはインド中、至る所で走っていた。都会の駅前はリキシャでいっぱいであった。大通りをリキシャが車の合間を縫って走っていた。便利で安く、大衆向けの乗り物であった。しかし、私はタクシーより必ずしも安いと思わなかった。リキシャの料金はキロ制で、1キロまで60パイサ、以後1キロ毎に50パイサであった(たぶん)。でも別に料金メーターが取り付けてある訳でないので、交渉次第で値段はいくらでも変わった。黙っていれば何倍もの料金を請求(通常4~5倍吹っ掛けられる...リキシャ・マン(リキシャのおじさん)の話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • *多民族・多言語と子供達の話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    *多民族・多言語と子供達の話インドは、一つの国に色々な人種の人々が住み、色々な言語を話す人々が住んでいた。そして、州や地域が異なれば人種や言語も違って来て、インド人にとっても他の州・地域は、まるで他国の様になるのだ。従ってインドの紙幣には、15の言語で『10ルピー』とその紙幣の額面を表示してあり、又公共的な鉄道の案内板には5~7の言語で書かれた案内表示があった。ヒンディー語は小学校の高学年から、英語は中学校から教えられている、と言われる。しかし、カーストの下層階級(シュードラや不可触民)、そしてバイシャでも身分が低い層の子供達はどうも学校へ行っていない様であった。この様な小・中学校へ行ってない多くの子供達は、昼間から商店、食堂等で大人よりキリキリとして働いていた。そして働く職場が見付けられない子供達は、自分達自...*多民族・多言語と子供達の話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月27日(木)晴れ(浮浪者の子供との別れ)   列車は1時間30分遅れの朝の8時頃、パトナー駅に到着した。まだ例の子供は私の後方に付いて来た。アラーハーバード駅から私が何処へ行くのか、ずっと見張っていたのだ。『私の後を追い掛けても、食べ物はもうあり付けないぞ。私だっていつまでも君にかまっていられないのだ』と彼に言いたかった。私と渡辺は駅の食堂へ入った。2人で5ルピー。食事に満足したので、ボーイ(ウェイター)にインドで初めて50パイサのチップをやった。△浮浪者の子供との別れ-挿絵我々は駅を出て、リキシャを使ってホテル探しをする事にした。子供はまだ私の後から付いて来た。彼の目を見ると、『僕を見捨てないでくれ』と悲しい目で訴えているかの様であった。『頼むから、もう付いて来ないでくれ』と言う私の気持であっ...浮浪者の子供との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 浮浪者の子供との出逢いアジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月26日(水)晴れ(浮浪者の子供との出逢い)昨夜、インド人の話し声、列車の振動、盗難の心配等で当然良く寝られなかった。夜間の3等客車の旅はしんどかった。10時頃、タリー(インドのカレー定食)で朝食を取った。前の座席の子供は腹を空かしているのか、食べたそうに私の方をじっと見ていた。その子供は9~10歳位であろうか、裸足で汚れたヨレヨレのシャツと擦り切れたズボンを履いていた。明らかに浮浪者か乞食だ。どうせ汽車賃も払ってないで乗っているのであろう。カレーは辛すぎて余り食べられないし、他におかずが無いので、殆んどご飯もチャパティも食べられず、当然残った。その残ったカレー、ご飯、チャパティ、その他を盆ごと子供に示し、「食べるか」と聞いた。彼は分ったのか、盆を受け取った。彼はかぶりついてタリーを食べた。そして...浮浪者の子供との出逢いアジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 人、牛のウンコ及びトイレ、ゴミの臭い話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    *人、牛のウンコ及びトイレ、ゴミの臭い話列車がニューデリーを出発後、私は暫らくの間、車窓から密集したバラックの家々、人々の様子等を見ていた。そうすると又、線路端のあちこちで人々が尻を出し、こちらを向いてしゃがんでいる姿が見えた。ニューデリーに到着する時もそうであったので、「ハハン、ウンコをしているな」と直ぐに分った。バラックの家にはトイレが無いのか、彼等は線路端で、或は空き地で構わずウンコをしていた。これもインドらしい光景の一つであった。私はアムリッツァルの国境でインドの入国手続きを済ませた後、ウンコがしたくなったので、そこの係官に「トイレは何処ですか」と尋ねた。そうすると係官は「あちらです」と言って、指でその方向を示した。そこは出入国管理事務所(実際は掘立小屋の建物)の裏手で、草がボウボウと生えている空き地で...人、牛のウンコ及びトイレ、ゴミの臭い話~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 一人ぼっちと駅員の盥回し~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月24日(月)晴れ(渡辺も去り一人ぼっちになる)渡辺は午前7時に去って行った。2人が去って私1人になってしまい、ドミトリーの部屋に取り残された感じで、何か『ポカーン』となった様な、そんな心境になった。二人が去ってから私は、カルカッタに着いたらオーストラリアへ行くのであるが、そのオーストラリア行きに不安、心配が生じて来てしまった。『行って見なければ分らないのだ』と思っていたが、荻や渡辺が去って、その不安が私の心に湧いて来てしまった。1人寂しく、ホテル近くの食堂へ昼食を食べに行った。・昭和44年2月25日(火)晴れ(駅員の盥回しと田舎の臭い)Manmad(マンマード)駅へ早く行けば、カルカッタ行きの3等寝台車を予約出来ると思って、6時半に起きた。アウランガーバード7時30分の列車でマンマード(切符代3...一人ぼっちと駅員の盥回し~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月23日(日)晴れ(コーラ、バナナ事件と荻との別れ)久し振りに10時までユックリ寝た。今日も昼食時、インド人と張り合った。食堂で私と荻はコカ・コーラを頼んだ。いつも食堂ではビンのまま持って来たが、この店はコップに入れて持って来た。飲んでみると、水っぽい感じがした。『インド人め、人のコーラを飲んでその分量だけ水で薄めたな』と我々は1口飲んで直ぐ分った。しかし私と荻は全部飲んでしまって、これが失敗であった。しかも生水を飲まない様にしていた私は、飲んでしまった。これは、油断であった。払う時になって、「貴方達は注文した我々のコーラを半分飲んだから、半分の代金しか払わんぞ」と我々は言った。「コーラ全部飲んで、如何して半分だけなのだ」と店員。「人のコーラを飲んで、その分、水を入れたコーラなんか全部払えるか」と...コーラ、バナナ事件と荻との別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • エローラの遺跡見学~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月22日(土)晴れ(エローラの遺跡見学)6時30分に起きて、駅前から7時30分の“乗合一日周遊観光バス”に乗り込んだ。この乗合バス代は3.4ルピーで安かったが、本当はこれぐらいが妥当な運賃であった。昨日のアジャンタ石窟群前の停留所からアウランガーバードまでのバス代4.2ルピーは「ヤラレタ」と言う事だった。周遊観光バスが最初の寄った箇所は、アウランガーバードから直ぐ近くの小高い山の上にある『ダウラタバード城』と呼ばれ、11世紀頃の自然の地形を利用したイスラム系最古の城であった。△イスラム最古のダウラタバード城ーCFN次に1時間半位でElora(エローラ)に到着した。AD580年から850年までの間に造られたエローラ遺跡は、ヒンドゥ教、大乗仏教、それにジャイナ教の石窟寺院群であった。一枚岩で出来た巨大...エローラの遺跡見学~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • エローラの遺跡見学~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月22日(土)晴れ(エローラの遺跡見学)6時30分に起きて、駅前から7時30分の“乗合一日周遊観光バス”に乗り込んだ。この乗合バス代は3.4ルピーで安かったが、本当はこれぐらいが妥当な運賃であった。昨日のアジャンタ石窟群前の停留所からアウランガーバードまでのバス代4.2ルピーは「ヤラレタ」と言う事だった。周遊観光バスが最初の寄った箇所は、アウランガーバードから直ぐ近くの小高い山の上にある『ダウラタバード城』と呼ばれ、11世紀頃の自然の地形を利用したイスラム系最古の城であった。△イスラム最古のダウラタバード城ーCFN次に1時間半位でElora(エローラ)に到着した。AD580年から850年までの間に造られたエローラ遺跡は、ヒンドゥ教、大乗仏教、それにジャイナ教の石窟寺院群であった。一枚岩で出来た巨大...エローラの遺跡見学~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年2月21日(金)晴れ(アジャンタの遺跡見物)列車は予定より1時間30分遅れて、午前6時30分Jalgaon(ジャルガウン)駅に到着した。ここからAjanta(アジャンタ)行きのバス(2.5ルピー)に乗り換えた。1時間半位で着いたのであろうか、バスは遺跡入口前の停留場に到着した。停留場前にホテルがあり、そのホテル前でウロウロしていたら、上の方から日本語が聞こえて来た。見上げたら日本人のお坊さんであった。彼は2週間前からここに滞在して、仏教の勉強をしているとの事でした。私と荻はお坊さんが宿泊している部屋に荷物を置かせて貰い、3人で遺跡近くの食堂で朝食を取った後、見物に出掛けた。△アジャンタ石窟群-CFTアジャンタ遺跡は、黒紫色の断崖に横穴を28掘って造られた仏教石窟寺院群であった。BC2世紀からAD7世...アジャンタの遺跡見物~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • ロンとの別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

    ・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れ) 今日、仕事があると思ってサルベーションアーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。 午前中、私は早速StudentConcession(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った。私はアテネでアメリカ人から買った偽の学生証を持っていた。午後6時30分、私と荻はシーサイドホテルを後にした。旅仲間のロンに別れの...ロンとの別れ~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

  • 1ルピーとその価値の話~ボンベイの旅

    前にこの話について投稿させていただきましたが、もう一度投稿を致します。何故かと言いますと、この1ルピーの価値が理解できないと私のブロブを読んでも、私のインドの旅が理解できないと思うからです。*1ルピーとその価値の話インドは、“人口6億人以上”(実際には統計されない、出来ない人々が居て、7億とも言う)の人々が住んでいて、凌ぎを削って生きている。そこには『人を騙す様な行為』が蔓延し、色々な場面・場所で激しいお金の遣り取りがあった。従って、『1ルピーの攻防』はインド滞在中、常にあった。『人を騙す様な行為』と言ったが、実際にこの言い方が、本当に正しいとは思っていない。『商品』と言う物の値打ちが政府によって統制されてない、若しくは需要・供給のバランス関係がなく、値段が決まってないインドに於いて、商品の値段は売り手の値のま...1ルピーとその価値の話~ボンベイの旅

  • ボンベイを去る日が近付く、最近の収入の纏め~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月17日(月)晴れ~19日(水)晴れ(ボンベイを去る日が近付く、最近の収入の纏め)17日(月)~8時に4人で相乗りしてタクシーで撮影所へ行った。運賃は10ルピーで、割り勘して払った。エキストラの仕事は相変わらずで、席に座ってワイワイやっていればそれで済んだ。楽な仕事だ。昨日、値上げ交渉したお陰で、今日は60ルピー貰った。撮影所で今日も又、ロンは何処かでコカ・コーラ2本ゲットして来て、1本私にくれた。どうせ何処かでくすねて来たのであろう。彼はこの様な事が上手いのであった。帰りもタクシーで帰って来た。夕食に又、1人で中国レストランへ行ったら、今日は休みであった。『新年(中国の正月)の為、3日間休む』と張り紙に書いてあった。サルベーションアーミーに私と荻の他に渡部と言う日本人(仮名、以後敬称省略、26歳...ボンベイを去る日が近付く、最近の収入の纏め~ボンベイの旅

  • 貧しさの話~ボンベイの旅

    *貧しさの話バラックの家々に住んで居る多くのインド人、数多くの路上生活者や乞食で溢れている街。そんなインドがいかに貧しいか、いかに厳しいか。FAO(国連食料農業機構)の統計(1973年現在)で次の様に報告されていた。1日1人の最低必要カロリーの1,900カロリーに達しない栄養不足を調査した所、86カ国の開発途上国で5億1,000万人が栄養不足状態。この内インドが何と2.5億人以上を占めていたと言う。インドの人口7億だから10人中4人近くは栄養失調なのだ。世界銀行によると、インド人の年収は平均226ドル。全体としては「絶対的貧困」を免れているが、全人口に於ける5分の1弱の都市人口が総所得の半分を占めているので、残りの5分の4強の人達は極端に貧しいのだ。要するにインドでは、極端に金持ちの一部の人間と極端に貧しい多く...貧しさの話~ボンベイの旅

  • バイト代値上げ交渉と宿泊所について~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月16日(日)晴れ(バイト代値上げ交渉と宿泊所について)ここのシーサイドホテル(安宿)は、『インドへの門』へ12~13分で行かれ、市の南端に位置していた。他の場所と比較したら割と清潔で静かな所(路上生活者や乞食を余り見掛けなかった)であった。暑い所為か夜、外にベッドを出して寝ている多くの人々が居た。ホテルの名前は格好良いが、大部屋(ドミトリー)でベッドも部屋も汚く、いろんな臭い匂いがした。そんな部屋にベッドが1階に15台程あった。私のベッドは2階へ上る階段脇にあり、2階にも部屋があった。1階は勿論、2階の話し声も直に聞こえて来た。インド人は寝るのが遅いし、ペチャペチャといつまでも話をしていた。大体、12時(0時)近くにならないと寝ないのだ。そして朝は遅くとも、7時頃に起きていた。いずれにしてもこの...バイト代値上げ交渉と宿泊所について~ボンベイの旅

  • ショーを見に行く~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月15日(土)晴れ(ショーを見に行く)エキストラのバイトは、昨日と同じであった。夜、荻とKhartoum(ハルツーム)のショーを見に行った。開演は9時30分、入場料金は3ルピーであった。インドは夜の部のショーや映画上映時間が遅かった。ショーを見に行く~ボンベイの旅

  • エキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。相変わらず歩道は、多くの寝ている乞食達や歩いている人々、そして道路は車とリキシャで溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そして、あらゆる面で雑多な都市であった。40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲...エキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

  • エキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月14日(金)晴れ(エキストラの仕事とカメラを売る)私と荻は欧米人と共にサルベーションアーミー前に9時集合し、映画会社が手配したバスに乗り込んだ。間もなくバスは出発した。相変わらず歩道は、多くの寝ている乞食達や歩いている人々、そして道路は車とリキシャで溢れていた。間もなくしてボンベイ島を出たら、バラックの貧しい家々が延々と続いた。ボンベイはもう何から何まで凄く、そして、あらゆる面で雑多な都市であった。40分位で撮影所に到着した。そこは市内から25キロ程(タクシーで10ルピーの区間)郊外へ出た所であった。(*1ルピーは約50円、闇両替は39円)午前中、我々は何もする事はなかった。昼過ぎから1時間30分程エキストラの練習をした。練習は難しいものでなかった。エキストラの撮影現場は、日本のキャバレーの雰囲...エキストラの仕事とカメラを売る~ボンベイの旅

  • エレファンタ島の石窟寺院見物とヨーヨージャパン~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月13日(木)晴れ(エレファンタ島の石窟寺院見物とヨーヨージャパン) 私、ロン、竹谷、そして竹谷の知り合いの日本人と共に4人で、『インドへの門』付近から8時30分発のモーター・ボートに乗ってElephantaIsland(エレファンタ島、ヒンドゥ教の石窟寺院があり、ボンベイの観光名所)へ行った。  海は穏やかで、島まで東海上10キロ、約1時間半のクルージングを楽しんだ。この船賃は往復で3.20ルピーであった。島は亜熱帯風の小さな島であった。船着場から長い石段を昇って行くと、そこに石窟郡があった。パンフレットによると7つの石窟があるが、1番手前の石窟がメインで、ヒンドゥ教の彫刻の宝庫となっていた。壁面いっぱいにシヴァ神に関係する神々が彫られていた。圧倒するのは壁面に高さが6mもあるシヴァ神も彫られて...エレファンタ島の石窟寺院見物とヨーヨージャパン~ボンベイの旅

  • 路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月12日(水)晴れ(路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨)ボンベイの街も通りには、路上生活者や乞食が多かった。実際に彼等の区別は出来ないのだ。「バクシーシ」と言って金を乞われれば乞食だし、ただそこにいれば路上生活者だ。彼等は似た様な人達であった。大半の彼等は、生気を失った表情でうずくまっているか、何も敷かずに寝転がっているだけであった。中には寝転がったままで身動きしない、まるで死人の様な人もいた。彼等の内で、弱衰死をしていても不思議でなかった。又、乳呑み児を抱えて、しゃがみ込んでいる母親達もいた。母親の栄養状態が悪いのか、萎んだオッパイを吸っても乳が出ないので「オギャ、オギャ」と力無く、やっと泣いている赤ん坊もいた。或は、栄養状態の悪い乳児の顔に群がっている蝿を追い払おうともしない、何の...路上生活者や乞食の様子とカメラを売りに街を彷徨~ボンベイの旅

  • カースト制度の話~ボンベイの旅

    *カースト制度の話日記の中で、『上流階級』、或は『下層階級』の言い回しを書いて来たが、インドでは身分制度、所謂カースト制度”(憲法上廃止されたと言われるが)が実際に存在していた。カーストには基本的に4つの身分がある。1番偉いのがブラーマン(司祭)、2番目がクシャトリア(武士)、3番目がバイシャ(平民)、1番下がシュードラ(奴隷)である。更にその下にハリア、又はアチュータ(英語でUntouchable、日本語で不可触民)が大勢いる。しかし実際には職業そのものがカーストになっていて、職業の数だけ身分があると言う。現代風的職業を大まかに分ければ、1番偉いのはブラーマン(僧侶)、2番目はクシャトリア(軍人、実業家)、3番目はバイシャ(一般庶民)、1番下はシュードラ(洗濯人、掃除人等)である。身分制度に入らないハリア(屍...カースト制度の話~ボンベイの旅

  • 一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月11日(火)晴れ(一日中カメラ売りと荻さんとの再会)朝から暑かった。朝食を食べて、サルベーションアーミー(救世軍)へ泊まれるか如何(どう)か行ってみたが又、駄目であった。所で、オーストラリアへは3月19日までに入国すれば良いのだ。まだ1ヶ月以上、インドに滞在出来るのだ。しかし1ヶ月間滞在に必要な所持金は、オーストラリアへの旅費の事を考えると、余り手持のお金を使いたくなかった。『私の売れる物』と言ったら、腕時計かカメラであった。腕時計は旅をするには何かと必要だ。後は売れるものと言ったらカメラだけであった。インドは不潔だ、衛生面が悪い、乞食が多い、カレーは非常に辛く満足に食べられない、それに口に合った食べ物が無い。そんなインドで手持のお金を使いたくなければ、『早くインドを出れば良いではないか』と思う...一日中カメラ売りと荻さんとの再会~ボンベイの旅

  • インドのカレーの話~ボンベイの旅

    *インドのカレーの話インドの大衆食堂や列車の食堂では、カレーセットと言うか、カレー定食があった。普通、カレーと言えばこのカレー定食(「タリー」と言う)を指す。カレーの種類は野菜カレー、マトン・カレー、チキン・カレーがあったが、豚肉や牛肉の入ったカレーは無かった。インド人は宗教上ベジタリアンが多いので、特にマトンやチキンのカレーを注文しなければ、野菜カレーが出てきた。今日(1969年2月9日)、食堂車へ行ってタリーを注文したら野菜カレー(1.5ルピー)であった。出された野菜カレーは、お盆にアルミ製のボールが5つ(値段によってボールの数が異なる)載せてあり、その内の3つのボールに強烈に香辛料やスパイスがきいた、種類の異なったカレーが入っていた。残りの2つのボールには、ヨーグルトと豆のスープが入っていた。叉そのお盆の...インドのカレーの話~ボンベイの旅

  • ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月10日(月)晴れ(ボンベイの洗濯屋さん) 朝や夜のニューデリーは、寒かった。だがかなり南下して来たのか、夏の気候の様にマハーラーシュトラ州は列車に乗っているだけで汗が額からポタポタ落ち、暑かった。朝食は食べたが、昼食は抜いた。列車はボンベイ駅に近づきつつあるらしく、速度を落として走っていた。バラックの家々が直ぐ線路脇まで建てられ、それらの家々が延々と続いた。そして線路内を大勢の人が構わず歩いていた。何とも形容し難い光景であった。投石されても怪我をしない様、乗客各自が窓の木製のカーテンを閉めた。インドでは大都市周辺では投石があるらしく、列車がデリーに近づいた時も、乗客が一斉にカーテンを閉めていた。列車は、2時30分頃に到着した。ボンベイのターミナル駅は、ロンドンのヴィクトリア駅に似ていて、街の建物...ボンベイの洗濯屋さん~ボンベイの旅

  • お酒とタバコの話~ボンベイの旅

    *お酒とタバコの話インドはイスラム圏の様に飲酒についてそれ程厳しくないが、州によって法律で禁酒されている所もあるそうです。いずれにせよインド人は、お酒(アルコール類)を飲まない習慣になっている様であった。そんな関係か、街にはお酒を売っている酒屋が無かったし、街の食堂(高級レストランは除く)でも、お酒は置いていなかった。外国人が泊まる高級ホテル(外人観光客用。我々が泊まるドミトリーでは飲めなかった)では、お客さんの為に用意されていた。飲みたい時は一昨日みたいに高級ホテルへ行って飲む事(小瓶のビール1本が5~6ルピーした)が出来た。しかしこの国の低所得者は、1日働いても2~3ルピーの稼ぎで、ビール1本すら飲む事が出来ないのだ。高い、インドはお酒が非常に高いのであった。所で、ニューデリーやボンベイ、カルカッタと言った...お酒とタバコの話~ボンベイの旅

  • 列車転覆事故を見る~ボンベイの旅

    ・昭和44年2月9日(日)晴れ(列車転覆事故を見る)ロスは、「後1泊してデリーへ戻る」と言う事で、私とロンは彼と別れた。我々がリキシャで駅へ向かう途中、馬車に乗って日本人2人が向こうからやって来た。ロンが、「もしもし」と日本語で話しかけたが、知らん振りして行ってしまった。我々はアグラ駅からBombay(ボンベイ=改名し現在はムンバイ)行きの列車に乗り込んだ。我々は1人4.5ルピーの3等の寝台車を取った。私にとって3等寝台車は混雑している3等客車より余程良かった。この寝台は、身体を横に出来る十分なスペースがあり、それは良いのであるが、毛布が無く、又ベッドはインド人が裸足のまま使用し、鉄道側はカバーを取替えないし、洗濯もしないから極めて汚れていて、不潔さを感じた。そして鉄格子の窓になっていて、まるで牢屋の様であった...列車転覆事故を見る~ボンベイの旅

  • 本当のヒッピーの話~アグラの旅

    *本当のヒッピーの話           “本当のヒッピー”(私がタジ・マハールで見た乞食はもしかして仙人=サドウ?)とは、『サドウ』の人であったのか。インドでは金も地位も家族も捨てて、修行の為に放浪行脚に出向く人達がいて、この人達を『サドウ』と言う。彼等は布切れ1枚だけを身体にまとい、“杖を片手”(一切何も持たずに)に托鉢乞食をしながら聖地から聖地へと放浪遍歴する。我々の様な外国人旅行者にとっては、彼等のその姿、格好にビックリした。           乞食の様な汚い格好をして、食べ物を貰いながら遍歴するが、決して乞食ではないのだ。サドウは、一般の人々から大変な尊敬を受けているそうな。△タジ・マハールにて-本当のヒッピー(サドウ?)本当のヒッピーの話~アグラの旅

  • サリーとインド美人の話 ~アグラの旅

    *サリーとインド美人の話 アグラ城見学の時、サリーを着た美人のご婦人達が印象的であった。さすがにインドのみならず、世界的にも有名な観光地へ来る様なインド人は、上流階級を感じさせる人達であった。特にご婦人達が着ているサリーは、色々な柄や模様が描かれ、艶やかで、街で見慣れた汚らしいサリーとは断然違っていたのが印象的であった。△アグラ城にて-可愛い子供とカラフルで美しいサリーを纏った婦人達サリーとは、インド女性が纏う民族衣装の事だ。美しい色鮮なサリーは、男性が頭からスッポリ被って着る“白のシャツ”(汚れて茶色に近い)をだらりと裾に出して、白のパジャマの様なだぶだぶなラッパズボンとは対照的であった。私は『サリーは着る』とばかり思っていたのであるが、『巻く』のが本当なのだ。サリーは、幅1m長さ5m程の1枚の布で出来ていて...サリーとインド美人の話 ~アグラの旅

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