chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • イタリア国境の町にやっと辿り着く~イタリア・ヒッチの旅

    ・昭和43年11月22日(金)晴れ(イタリア国境の町にやっと辿り着く)日高と共にユースを去り、乗合舟に乗った。我々は鉄道のサンタ・ルチア駅近くの乗合船の駅で下船しなければならないのに、駅を間違えて3駅乗り越し、50リラ又払って戻った。その乗り越した訳は、美しい大運河・カルナ・グランテに見惚れてウッカリしていたのだ。それにしても美しいヴェネチアを1泊しただけで去るのは残念だが、仕方なかった。リベルタ橋を渡って本土に戻らなければならないので、ターミナルからバスに乗った。そうしたらリヨンのユースで会い、翌日共にバスに乗って郊外へ出た、あのカナダ人男女2人が乗っていた。我々は周りの乗客がいるにも拘らず、大きな声で再会を喜び合った。聞けば昨夜は同じユースに居たと言う。そして私や日高と同じく、ユーゴスラビアのベオグラードに...イタリア国境の町にやっと辿り着く~イタリア・ヒッチの旅

  • ヒッチ・ハイクの話~イタリアヒッチの旅

    *ヒッチ・ハイクの話現在、私はロンドンからアテネに向けて、ヒッチをしています。前にも書いたのですが、この機会にもう一度、ヒッチについて取り上げます。ヒッチとは、ヒッチ・ハイキング又は、ヒッチ・ハイクとも言う。車を停めて無料で乗せてもらう、誠に図々しい旅行の一つの方法あり、相手の親切心だけが頼りであった。当時、ヒッチは西ヨーロッパで若者旅行者の間で流行っていた。ヒッチの仕方は、ドライバーから見て遠く前方に、『ヒッチをしているな』と言う認識と、『乗せて上げよう』と決断するまでの時間的、距離的な空間が大事であった。そしてヒッチをしている場所が、車を停められる余地があるのか、停まった時に後方車に追突されず、且つ安全であるのか、ヒッチ・ハイカーにとっては、その場所選びが非常に重要であった。ヒッチ合図は、親指を延ばし、残り...ヒッチ・ハイクの話~イタリアヒッチの旅

  • 旅人の鈴木そしてアーロンと共にヴェネチア観光~イタリアヒッチの旅

    ・昭和43年11月21日(木)晴れ(旅人の鈴木そしてアーロンと共にヴェネチア観光)昨夜知り会った髭を生やし少しイタリア語が話せる鈴木、そしてカナダ人のアーロンと共に3人でヴェネチア観光をする事になった。所でVenice(ヴェニス)をイタリア語でVenezia(ヴェネチア)と言うので、ここでは「ヴェネチア」と言う呼び名で統一した。ヴェネチアは、本土と海を隔てているので市内に入るのに“本土と島を結ぶ長い橋”(リベルタ橋3.5キロ)を渡らねばならなかった。ヴェネチアへ入る全ての車は、橋を渡った所までであった。市内に車道が無いのでこれ以上、車は乗り入れ出来なかった。ヴェネチアは、多くの島から成っていて、大小の運河が市内の至る所、言い替えれば個々の家の裏口まで張り巡らし、人や物の移動は全て船に頼っていた。タクシーは『TA...旅人の鈴木そしてアーロンと共にヴェネチア観光~イタリアヒッチの旅

  • ヴェネチアにたどり着く~イタリアヒッチの旅

    ・昭和43年11月20日(水)晴れ(ヴェネチアにたどり着く)今日も良く晴れていて、ヒッチには最高の天気であった。しかしそれに反して車が余り走ってなかったので、ヒッチ率は駄目であった。パルマからVerona(ベローナ)迄の100キロ強を、朝から午後の4時近くまで掛かってしまった。ベローナ・ヴェネチア間は、高速道路になっていて、私はゲートで侵入を断られてしまった。でも料金所のおじさんは親切で、「ここ(ゲート入口)にいれば、乗せてくれる車が来るので待っていなさい」と言ってくれた。私はボール紙に『Venezia』(ヴェネチア)と書いて、車が通る度にドライバーにそれを示して、乗せてくれるのをゲート入口で待った。既に5時近く、薄暗くなりかけている頃、運良くガソリンタンク車が停まり、その車に乗せて貰った。そしてその車で一気に...ヴェネチアにたどり着く~イタリアヒッチの旅

  • アペニン山脈を越えて~イタリアヒッチの旅

    ・昭和43年11月19日(火)晴れ後雪後曇り(アペニン山脈を越えて)ジェノヴァのユースは高台にあった。直ぐ前が道路、それを挟んでその向こうが何処までも見渡せる海岸、そしてさらに大海原が果てしなく広がり、とても景色の良い場所であった。朝食を済ませ、又今日も旅が始まる。そんな時、余りにも素晴らしい眺めなので、出発前、暫し足も止まってしまった。昨日、来た時は既に暗かったので、何も分らなかった。しかし今こうして今日1日が始まろうとするその瞬間に、この景色を眺めていたら、『自然は不思議なものだなあ』と感じた。そうこうしている内に昨夜、言葉が通じ合わなくても心が通じ合ったノルウェーからの旅人・ニールスがユースから出て来た。この景色をバックに彼のカメラで2人の写真を撮った。その後、私達は道路に出た。ニールスは右のニース方面へ...アペニン山脈を越えて~イタリアヒッチの旅

  • *ユース・ホステルの話~イタリアヒッチの旅

    *ユース・ホステルの話今回は特にユースを使っての旅になったので、良い機会なのでユースについて、話しておく事にしました。ユース(『YouthHostel』~ユース・ホステル)に泊まるには、財団法人ユース・ホステル協会の会員にならなければならなかった。諸事情によりヨーロッパでは極力ユースに泊まるように、私は出国前の昭和43年5月14日に会員になった。私は会員になったので『IYHF』InternationalYouthHostelFederation(国際ユース・ホステル連盟)に加盟している全ての国のユース・ホステルに泊まれた。大抵の国(共産圏諸国、中近東諸国、インド、アフリカ等は除く)はこの連盟に加盟し、各主要都市及び地方にユースがあり、我々ヒッチハイカーにとっては安く宿泊出来るので、有り難い施設であった。食事付で...*ユース・ホステルの話~イタリアヒッチの旅

  • コート・ダジュールの素晴らしい景色~イタリアヒッチの旅(旅は良いなぁ)

    ・昭和43年11月18日(月)晴れ(コート・ダジュールの素晴らしい景色)ニースは、CoteDazur(コート・ダジュール)の中心で、この他に有名なカンヌ、モナコがある。この辺り一帯は、世界的にも有名な海水浴場のリゾート・タウンでもあり又、冬は暖かいので避寒地としても有名であった。ニースを中心にこの一帯は、別荘が道路を隔てた山側に数多く散在していて、その反対の海岸線沿いには、ホテルが建ち並び、それがずっと連なっていた。しかし今日は月曜日、しかも夏期、或はクリスマス休暇期間ではないので、海岸や街は閑散としていた。天気は良いし、地中海も青々として、こんな素晴らしい所で1・2週間のんびりと過してみたいのだが、1泊しただけで旅立ちしなければならないのは本当に残念であった。『でも良いではないか。天気は最高、海もきれいだし、...コート・ダジュールの素晴らしい景色~イタリアヒッチの旅(旅は良いなぁ)

  • こんな嫌な感じは初めて~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月17日(日)雪のち晴れ(こんな嫌な感じは初めて)起きたら雪はまだ降っていて、ガッカリであった。今日の天気は、ヒッチするのに最悪の状態を予測して、ユースを出た。リックを背負い、片手にバッグを持った手は、非常に冷たかった。こんな日もあろうかと思って買ったフード付きジャンパーは、雪を凌ぎ体の体温を防いでくれたが、手袋無しでその冷たさに悩んだ。片方の手をポケットで温めておいて、一方の手がかじかんで来たら逆にして、その冷たさを凌いだ。ユースから街道までは直ぐ近くで、思っていた以上に早めに1台目をゲット出来た。午前中だけで3台乗せてもらった。ヒッチ率は、最悪を予想していたので嬉しかった。南下するにしたがって、天候は雪からみぞれ、そして曇りから晴れて来た。3台目でバランスから200キロ以上稼ぎ、“Marse...こんな嫌な感じは初めて~フランスヒッチの旅

  • バランスのヒッピーとダンスをする~フランスヒッチの旅

    *昭和43年11月16日(土)曇り後雪(バランスのヒッピーとダンスをする)昨日と同様に今日もまた、日高君と共にバスに乗り、郊外に出た。バスの中にはカナダ人のヒッチハイカー男女2人の他、昨夜ユースで会った他の国のヒッチハイカー達も乗っていた。所で、リヨンのバス運賃は距離制でなく時間制で、乗車時間により運賃が高くなって行く仕組みであった。今朝は、又一段と寒さを感じた。今にも氷雨か雪が降りそうな空模様であった。1台目、2台目と乗り継いで行ったが、とうとう雪が降り出して来た。土曜日と悪天候でヒッチ率は悪く、道路端に立っているのがとても辛かった。叉いつもの様に昼抜きで腹が減り、加えて手袋が無いので手が冷たく、寒さが一段と身に沁みた。それでもロンドンで買ったジャンパーが温かいので、買って本当に良かった、とつくづく感じた。傘...バランスのヒッピーとダンスをする~フランスヒッチの旅

  • 最長距離のヒッチでリヨンに到達~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月15日(金)曇りのち雨(最長距離のヒッチでリヨンに到達)同じマルセイユ方面へヒッチする日高と共にバスに乗り、郊外に出た。あちこちの道路上にある水溜りには、氷が張っていた。今日は一段と寒かった。郊外の街道に出たら直ぐ、彼は車をゲットして去って行った。私も今日は早めにヒッチが出来て、パリを去った。2台目の車は、長く乗る事が出来た。フランスの家並みや田園風景を眺めながら、野を越え、山を越えて車は走った。Lyon(リヨン)に入る前の山岳地帯から雨が降り出し、薄暗くなって来た。雨の降りしきる山中でも何組かのヒッチハイカーがこの車に対して合図を送っていた。しかしこの中年男性ドライバーは彼等を無視して、幾つかの山を越え、峠を下り、リヨンへひた走った。この車に500キロ近く乗ったであろうか、今日は本当にラッキ...最長距離のヒッチでリヨンに到達~フランスヒッチの旅

  • 最長距離のヒッチでリヨンに到達~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月15日(金)曇りのち雨(最長距離のヒッチでリヨンに到達)同じマルセイユ方面へヒッチする日高と共にバスに乗り、郊外に出た。あちこちの道路上にある水溜りには、氷が張っていた。今日は一段と寒かった。郊外の街道に出たら直ぐ、彼は車をゲットして去って行った。私も今日は早めにヒッチが出来て、パリを去った。2台目の車は、長く乗る事が出来た。フランスの家並みや田園風景を眺めながら、野を越え、山を越えて車は走った。Lyon(リヨン)に入る前の山岳地帯から雨が降り出し、薄暗くなって来た。雨の降りしきる山中でも何組かのヒッチハイカーがこの車に対して合図を送っていた。しかしこの中年男性ドライバーは彼等を無視して、幾つかの山を越え、峠を下り、リヨンへひた走った。この車に500キロ近く乗ったであろうか、今日は本当にラッキ...最長距離のヒッチでリヨンに到達~フランスヒッチの旅

  • 寂しくなったパリの様子~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月14日(木)晴れ(寂しくなったパリの様子)1度目と2度目に訪れた時のパリは夏で、観光客で賑わっていたが、晩秋のパリは、なんとなく寂しい感じがした。落ち葉が舞い、行き交う人々はコートの襟を立て、足早に歩いていた。そして通りにあるカフェ店のテーブルも寒い為か、あれ程賑わっていたお客も今は居らず、閑散としていた。ユースで知り合った日高さん(別称、以後敬称省略)と共に、そんなパリの街へ散策に出掛けた。私は名残尽きないパリを明日、旅立つ事にした。『花の都』パリの印象を心に秘めて・・・。寂しくなったパリの様子~フランスヒッチの旅

  • 若い女性の車で一気にパリへ~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月13日(水)晴れ後雨後曇り(若い女性の車で一気にパリへ)ロンドンに滞在していた時は、毎日曇りか小雨の日が続いて、部屋にいると居たたまれない気分であったが、フランスに渡ってから3日間、連続して晴れの日が続いた。天気が良いと、それだけで気分も晴れた。そう言う意味で人間の心は天気でも左右され、ましてヒッチの旅に晴れの日は有難かった。今日も昨日に続いてヒッチの旅が続いた。1台目、2台目、3台目と乗り継ぎパリへと向かった。しかしヒッチした乗車区間が余りにも短かったので、パリへ近づいた感じがしなかった。車に乗っている時は良いのだが、街道に立っていと今日は顔が冷たく、手がかじかみ、寒さが辛かった。イギリスに滞在していた時は寒い日もあったが、こんなに寒くなかった。今日気温が急に変化したのであろうか。それとも、...若い女性の車で一気にパリへ~フランスヒッチの旅

  • ヒッチの効率の悪さ~フランスヒッチの旅

    ・昭和43年11月12日(火)晴れ(ヒッチの効率の悪さ)腹ペコのイギリス人と共にユースを去り、ヒッチし易いブローニュの郊外の街道に出て、そこで左右に別れた。1台目は1時間半程して、やっと釣り上げた。2台目をゲットしても直ぐ逃げられてしまった。この地方は昼から2時から3時頃まで店を閉じてしまうので、昼食のパンも買えなかった。今日も腹を空かせてのヒッチの旅。3台目でブローニュから37キロ位パリ寄りのMontreuil(モントルイユ)と言う町に辿り着いた。リックを背負いバッグを片手に持ち、見知らぬ街をトボトボ歩いて郊外に出て、再びヒッチ合図を開始した。4台目は7キロほど進んだところで降ろされ、ドライバーは街道脇の田舎道をトコトコと走り去って行った。降ろされたこの場所は、何も無い、強いて言えば両側にジャガイモ畑の地平線...ヒッチの効率の悪さ~フランスヒッチの旅

  • 腹ペコのイギリス人と出会う~フランス・ヒッチの旅

    ・昭和43年11月11日(月)晴れ(腹ペコのイギリス人と出会う)イギリスのドーバーから連絡船で、フランスのカレーへ渡った。4度目の船旅、そして遂にイギリスを離れた。11時頃出航、私はデッキでイギリス本土が見えなくなるまで眺めていた。イギリスは厚い雲で全土が覆われていて、暗く寂しい国の様な感じであった。この天気の様に私のロンドン生活も同じであった。気持ちも天気に左右されるのであった。それでも過ぎ去ってしまえば、色々な思い出を残してイギリスを去るのは、感無量であった。私はいつまでもイギリス本土の方に目をやりながら、旅情に慕っていた。イギリスとフランスを結ぶこの航路は、最も短く2~3時間の乗船であった。フランスに近づくにつれて天気は、晴れて来た。それは全く対照的な天気で、空が突き抜けるように晴れ渡っていた。ドーバー海...腹ペコのイギリス人と出会う~フランス・ヒッチの旅

  • 惜別の情でロンドンを去る~フランス・ヒッチの旅(千里の道も一歩から)

    ・昭和43年(1968年)11月10日(日)曇り後晴れ(惜別の情でロンドンを去る)明日、ロンドンを去る予定であったが、何もする事が既に無い状態で部屋に居ると寂しく、仕方なく1日早く出立する事にした。昨日、予め旅支度、身の回りの整理をしておいたので、1日早くても問題は無かった。今後の旅について考えると、ここ2・3日部屋に居ると、私は居ても立っても居られない気持であった。そして今、ロンドンをいざ去ろうと思うと、如何してか寂しさ、悲しさが募った。今朝、霜が下りて特に寒かった。朝食を軽く済ませ、ストーブ料金がまだ残っていたので、暖を取ってから部屋を出た。思えば一宿一飯、そしてこの部屋を借りるのにお世話になったミルスおじさんにその後、一言もお礼を言わずロンドンを去る事は、本当に心苦しかった。早く心臓の病が良くなり、退院出...惜別の情でロンドンを去る~フランス・ヒッチの旅(千里の道も一歩から)

  • これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話~ロンドンを間もなくして去る日々

    *これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話今、私が持っている旅費は、“トラベラーズチェック230ドル”(1ドル360円、海外持ち出せる最高額500ドルで。ソ連滞在費、観光代等はドル建てで70ドル分少なかった。したがって日本を出る時は430ドル分あったが、既に半分使った)、イギリスのお金10ポンドと少々の小銭、それに15万円相当の“M&M乗船券引換券”(これはエール・フランスの航空券も買える便利な券)であった。私はこのM&M乗船券を航空券使用併用の書替え手続きの為、ロンドンに滞在しなければならなかった。叉、滞在したお陰で内側からイギリスの情勢やロンドンについて知る事が出来、更に色々な体験が出来た。しかしレストランの皿洗いの仕事は生活するのにやっとで、今後の旅費の為には全く稼ぎにならなかった。イ...これからの旅とイスタンブールからシンガポールまでのルートの話~ロンドンを間もなくして去る日々

  • 旅に想いを巡らす~ロンドンを間もなくして去る日々

    △ロンドン市長の行列-CFN・昭和43年11月9日(土)晴れ(旅に想いを巡らす)今日は、LordMayor’sshow(ロンドン市長就任披露行列の日)でした。そして11月4日に晴れて、今日も晴れた。晴れの日が五日振りに再び来るのは珍しかった。しかし大分寒くなった。ガスストーブを使うのには、器具の投入口にお金を入れなければならなかった。今まではお金を無駄にしたくなかったので我慢していたが、今日朝方、我慢出来ずストーブを使ってしまった。今日は既に何もする事が無いので、部屋の中に閉じこもっている状態であった。午前中、4階の方で又、怒鳴りあっているのが聞こえた。どうも様子がおかしいので行って見たら、階段踊り場で2人が髪の毛を引っ張り、取っ組みあって喧嘩をしていた。お互いにその形相は凄かった。この時、両方とも主人は居らず...旅に想いを巡らす~ロンドンを間もなくして去る日々

  • コレラ予防接種~ロンドンを間もなくして去る日々

    ・昭和43年11月8日(金)曇り(コレラ予防接種)今日、再びMarbleArch(マーブル・アーチ)の病院へ行き、コレラの予防接種をして貰った。マーブル・アーチから通い慣れたボンド・ストリート駅まで歩いて戻って見た。ボンド・ストリートのウッドストック・レストランの皆はどうしているのか、気になった。しかし私は既に辞めた身分、客として入るならいざ知らず、店の中へ気楽に入れなかった。ガラス越しに外から中の様子を眺めたが、相変わらず忙しそうであった。午後、ロンドンを去る準備をして過ごした。こうしていてもシーラの事が気掛かりであった。彼女は今どうしているであろうか。二人は互いにロンドンに居ながら、会える機会は既に無かった。彼女は「週末、ロンドンを去る」とも言っていた。彼女はその準備で忙しいのであろうか。共にロンドンを去ろ...コレラ予防接種~ロンドンを間もなくして去る日々

  • 2階のマリアンと知り合う~ロンドンを間もなくして去る日々

    ・昭和43年11月7日(木)雨後曇り(2階のマリアンと知り合う)△二階に住んでいたMarianWatts(マリアン・ワッツ)昨夜、私はシーラ、そしてシーラの友達のジャネットと別れて来た。真っ直ぐにアパートへ帰れない状況であったので、いつものホロウェイ・ロード駅近くのパブに立ち寄り、それから帰った。あれ程に会いたかったシーラと昨夜別れ、今日は寂しさが余計に感じていた。私は既にロンドンに滞在している意義を無くしていた。そして今、雨が降っているので、1人部屋に居ると余計に憂鬱であった。電気を点けないと、まるで夜の様に暗かった。その様な状況で今日、私は朝から居たたまれない感じに襲われていた。部屋の中でじっとしていられない状態なので、早々2・3の用事を済ませる事にした。私は日本で6月にコレラの予防接種をしたが、免疫力期間...2階のマリアンと知り合う~ロンドンを間もなくして去る日々

  • 火事騒動とおばさんの喧嘩(その2)~ロンドンを間もなくして去る日々

    ・昭和43年11月6日(水)曇り(火事騒動とおばさんの喧嘩)その2ここの家主は、とても火の元を心配性なほど注意していた。ある時、私が少し酔って帰って来て、料理(ジャガイモを煮ていた)していたのだが、煮えるまでベッドに横になっていたら、家主のおじさんがノックもしないで入って来て、ガスを止めた。「ノックをしないで部屋に入るな」と私。「酔ってガスを使うな。しかも寝込んでしまっては危険だ」とおじさん。「大丈夫だ。ただ横になっていただけだ。それより無断で私の部屋に入るな」と私はキッパリ言った。ガスや火の元を心配してくれるのは有り難いが、黙って部屋に入られるのは良い気持はしなかった。私が居ない時、おばさんが部屋に入って掃除してくれるのは有り難いが、掃除の為に最低限、私の物を触り、又それを移動したりするのは、まだ許されるが、...火事騒動とおばさんの喧嘩(その2)~ロンドンを間もなくして去る日々

  • 火事騒動とおばさんの喧嘩(その1)~ロンドンを間もなくして去る日々

    ・昭和43年11月6日(水)曇り(火事騒動とおばさんの喧嘩)(その1)朝の5時頃か、はっきりは分らないが、「ファイアー、ファイアー(火事だー、火事だー)」と家主のおばさんの悲鳴に近い声と同時に、ドアを激しく叩く音が耳に入り、眠りから覚めた。外を見ると火の塊が1つ、又1つと上から落ちてくるのを確認した。私の部屋の上、4階が火事現場と思った。私はズボンを前と後を逆に履いてしまうほど慌て、そして一瞬、何をしたら良いか分らなかった。だが直ぐ気を取り戻し、現金、トラベラーズチェック、旅券、乗船券類を腹巻に押し込め階段を駆け下りた。階下でおばさんは、「ファイアー、ファイアー」と言いながら半狂乱の状態であった。火事現場がどんな状態であるか分らないが、私はおばさんに「Callthefirestation!(消防署へ電話ろ!)」...火事騒動とおばさんの喧嘩(その1)~ロンドンを間もなくして去る日々

  • 査証を取るのも国際情勢が大いに関係~ロンドンを間もなくして去るその日々

    ・昭和43年11月5日(火)曇り(査証を取るのも国際情勢が大いに関係)今日は“GuyFawkesDay”(ガイ・フォークスの日=子供達が花火をならし、かかり火を焚く風習)であった。私はイラク大使館へ行って、査証を取得した。イラクまで行くなら、『イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の聖地・イスラエルへ行かない手はない』と自分の手持金、旅の知識・能力、体力を省みないで、旅への想いだけが飛躍して行った。イスラエルへ行くなら、レバノンから国境を越えて行ける。レバノンとイスラエルは六日戦争後であるが、紛争(戦争)状態である事は承知していた。しかし両国の国境付近の様子・状況を見たいので、『行けるものなら陸続きで行きたい』と、そんな理由でレバノンの査証を取りに大使館へ行った。大使館員から「レバノンから何処へ行くのですか」と笑顔で...査証を取るのも国際情勢が大いに関係~ロンドンを間もなくして去るその日々

  • 査証の取得等、旅への準備~ロンドンを間もなくして去るその日々

    ・昭和43年11月4日(月)晴れ(査証の取得等、旅への準備)今日、珍しく晴れた。その前はいつ晴れたのか、多分私がウェールズから戻って来て以来ではないか。念の為、日記を調べたら9月20日以来、45日振りの晴れであった。日中、中心街を歩いていたら、店の前に温度計があったので見たら6度であった。ロンドンは北海道の札幌と同じ緯度であるが、北に位置する割には寒くなかった。所で、私は陸続きでシンガポールへ行く予定であるので、行先の査証、査証用の写真、旅券欄に行き先国の追加記入、コレラの予防接種、道路地図購入等、これからの旅の準備でやらなければならない事がたくさんあった。そんな事で今日、トルコの査証を取りに大使館へ行ったら、「ここではなく、領事館の方でやっている」と言われ領事館へ行った。そこへ行ったら館員に、「観光目的で3か...査証の取得等、旅への準備~ロンドンを間もなくして去るその日々

  • シーラ、ジャネットとの永遠の別れ~シーラとの日々、そして、別れ(その2)

    *(その1)からの続きシーラの所へ行ったらジャネットも来ていて、3人で最後の食事となった。最後の食事の他、今日もう1つ悲しい事は、シーラが勤めている会社(マックスファクター化粧品の子会社)が倒産し、明日を持って最後の出社になり、今後の仕事はまだ見付かってない、との事であった。勤勉なシーラはここ1ヶ月間、落ち着いて仕事が出来ないようであった。そして今日のシーラは、いつもより悲しい様子であった。シーラが苦労しているのに私はロンドンに長居をし、彼女に迷惑や気苦労を掛けてしまって、大変申し訳ない、と思った。しかし最後の最後までシーラは、私を歓迎してくれた。私は本当に彼女に感謝していた。あれ程に会いたかったシーラとも、今夜限りで別れなければならなかった。私がロンドンを去る時も、シーラに駅まで見送って貰いたかった。でもこれ...シーラ、ジャネットとの永遠の別れ~シーラとの日々、そして、別れ(その2)

  • シーラ、ジャネットとの永遠の別れ~シーラとの日々、そして、別れ(その1)

    ・昭和43年11月6日(水)曇り(シーラ、ジャネットとの永遠の別れ)イランの査証が出来ているので、大使館へ取りに行った。その帰りに誰もいないHydePark(ハイド・パーク)を散策した。この公園は東京の日比谷公園の何十倍もある広さがあり、一画に『Speakers’Corner』と言う誰でも土・日曜日に主義・主張を演説出来る広場があった。公園の終端に細長い湖があり、その向こう側に更にKensingtonGardens(ケンジントン・ガーデン)と言う、ハイド・パークと同じ広さの公園が広がっていった。公園はもうすっかり晩秋の感じがして、落ち葉を踏んで歩くとザックザックと音がした。公園脇の道路は車が忙しそうに往来しているが、ここは別世界、まるで山奥に居るように静寂であった。ロンドンは毎日重苦しい厚い雲に覆われ、時には咽...シーラ、ジャネットとの永遠の別れ~シーラとの日々、そして、別れ(その1)

  • 日本食レストランで食事を楽しむ~シーラとの日々、そして、別れ

    ・昭和43年9月30日(月)曇り(日本食レストランで食事を楽しむ)今日、レストランの仕事は休みの日であった。午後7時、ボンド・ストリート駅でシーラと待ち合わせをして、日本レストランへ行った。金が無い私であったが、『いつもご馳走になって申し訳ないし、日本食を是非、彼女に食べさせてあげたい』と言う想いがあった。オクッスフォード通りの向こう側、狭い道を入った所に日本レストランHiroko(ひろこ)があるのを前もって調べておいた。我々が7時過ぎに行ったら、「只今満員で、8時過ぎに席が空く」と言うので、その時間帯に予約を取った。カフェ店でコーヒーを飲んだり、街を散策したりして、1時間程過してから8時過ぎに『ひろこ』へ再び行った。このレストランは、日本人経営であるが、従業員はイギリス人と日本人の半々ぐらいであった。このレス...日本食レストランで食事を楽しむ~シーラとの日々、そして、別れ

  • シーラの寂しそうな顔~シーラとの日々、そして、別れ

    ・昭和43年9月23日(月)曇り(シーラの寂しそうな様子)レストランの仕事をしている間は、毎週月曜日が私の休みの日であった。仕事や部屋が見付かり、久し振りに心身共にゆったりとした気分で過すことが出来た。昼間、家族や友達へ手紙を書いて過した。特に先輩のOさんへ大事な『M&M乗船券変更手続きのお願い』の手紙を書いた。そしてM&M乗船券は別途、書留で送った。夜、シーラの所へ遊びに行った。以後、彼女の所へ行ったのは、10月7日、14日、28日の月曜日、そして11月6日の水曜日であった。シーラは会社の休みの土曜日と日曜日に、郊外へアルバイト(マミィーと同じ働き者、オーナーの馬の世話)に出掛けていた。私も仕事があるから土日は会えなかった。平日はシーラも仕事があるし、私も月曜日以外、仕事で会えないから、会える都合の良い日は、...シーラの寂しそうな顔~シーラとの日々、そして、別れ

  • ミルスおじさんの話~私のロンドン生活

    *ミルスおじさんの話あの日の深夜(1968/9/21)、泊まる所が無く困り果てて通りを歩いていた時、ミルスさんに会わなかったら、今頃どうなっていたか分らなかった。彼はシングル・ベッド一つにも拘らず私を泊め、朝食を作ってくれて、直ぐに今の部屋を探してくれた。命の恩人に値する程に恩があり、私のロンドン生活が出来たのも、彼のお陰であった。彼に親切、恩を受けておきながら、仕事や生活が落ち着かなかった理由があったがその後、直ぐにお礼に行かなかったのは、本当に私の怠慢であった。しかし決して忘れていた訳ではなく、『近い内にお礼に行こう』といつも思っていた。11月11日頃、ロンドンを去る予定であったので、11月に入って直ぐ、食料品を買って、それを手土産に彼の所へ行った。しかし折角行ったのに留守であった。隣の部屋に住んでいるおば...ミルスおじさんの話~私のロンドン生活

  • 食事作りの話 ~私のロンドン生活

    *食事作りの話1人生活は何と言っても億劫なのが、食事作りであった。オックスフォード・ストリートのレストランで働いていた時は、夕食が食べられたので朝昼兼用の食事を作って済ませていた。又、ボンド・ストリートのレストランの時は、昼食と夕食が食べられたので、部屋で軽い朝食を取って仕事に出かけていた。『朝昼兼用』や『軽い朝食』と言っても、それは貧しい食事であった。ジャガイモを煮て、皮をむいてマーガリンを塗り、それに食パンとコーヒーで、時にゆで卵を加えた食事が主であった。『偏った食事だが、量と栄養はレストランで』と言う考えであったので、それで充分であると思っていた。仕事が休みの日は、いつも10時過ぎまで寝ていて、それから朝昼兼用の食事を作っていた。その休日の兼用の食事は少し豪華にして、キャベツと玉ねぎのソーセイジ入り野菜炒...食事作りの話~私のロンドン生活

  • 暇な時の話~私のロンドン生活

    *暇な時の話ウィンピー・ハウス・レストランで働いていた時の私の休みの日は毎週月曜日であった。休みの日に私は近所の公園やロンドン中央へ、よく散策に出掛けた。陰うつな天候で暗い部屋に居ると、余計に寂しさを感じたので、外出したのもその為であった。外へ出掛けると、必ず何処かの公園、広場(スクウェア)に辿り着いた。それ程ロンドンは大都会にも拘らず、公園や広場が多かった。ロンドンは、『公園都市』と言っても過言ではなかった。それに皆立派でよく手入れもされていたし、ゴミも落ちていなかった。イギリス人は公共道徳がある証、と感じた。ロンドンの代表的な公園は、リージェント・パーク、ハイド・パーク、ケンジントン・ガーデン、グリーン・パーク、セントジェームズ・パーク等があった。ハイド・パークやケンジントン・ガーデンは広いので、一回りする...暇な時の話~私のロンドン生活

  • 買い物の話~私のロンドン生活

    *買い物の話八百屋、魚屋、そして雑貨屋も近くのHighburyStreet(ハイバリー通り)にあるので、買物は不便でなかった。しかし実際の所、野菜や魚の種類は日本より少なかった。特に野菜の種類は顕著であった。イギリスはアメリカ式ストアの近代的な店は無く、個人経営の店舗型であった。アメリカ式ストアは北欧やドイツで見掛けたが、その他の国では見掛けなかった。買物は1人生活なので量に於いて不便さがあった。1度何かを買うと何日も残り、特に食パン一斤を買うと2・3日でカビが発生し、勿体ないが捨てた事も度々あった。買物時の失敗談と言うか、チョットした事があった。それは・・・・。下町の郵便局へ行った時、マッチが売っていた。マッチを買おうと思って局員のおばさんに、「Match,please」(マッチを下さい)と言ったら、そのおば...買い物の話~私のロンドン生活

  • 寂しさの話~私のロンドン生活

    *寂しさの話私のロンドン生活で、話し相手がシーラ以外、誰も友人・知人が居なかったので、孤独であり、寂しさもあった。又、必要最低限以外、お金を使えないので娯楽や食事も楽しめず、おまけにテレビやラジオも無いので、生活は虚しかった。それに輪を掛けて毎日、陰うつな天候が続き、孤独と寂しさに拍車を掛けていた。私の寂しさを癒してくれたのは、時たまパブへ行ってビールを飲んだ事、シーラの心使いで週に1度、彼女の所へ遊びに行けた事、そして日本から来る先輩のOさんや友達の手紙であった。私も手紙を送ってもらえるよう、私の旅の事やこちらの状況について手紙を書いた。返事の手紙がそろそろ来る頃の9時半前後、1階の郵便受けに手紙が配達されているかどうか、ちょくちょく見に行った。手紙が来ていると本当に嬉しく、日本を懐かしみながら(望郷の念とは...寂しさの話~私のロンドン生活

  • 「霧の都ロンドン」の話~私のロンドン生活

    *「霧の都ロンドン」の話ロンドンの天候は毎日、どんよりした曇りの日が多く、時々小雨若しくは霧雨が降った。晴れた日は、私がロンドンに滞在するようになってから1・2度だけであった。毎日毎日、曇りか小雨では憂鬱(ゆううつ)で、心も晴れなかった。しかし、ロンドンは例え雨が降っても小雨のなで、傘の必要性はなく、また降っても1日中降り続く事はなかった。ロンドンは「霧の都」と呼ばれていた。私も当地に来るまで霧の日が多いと思っていたが、霧の日はなかった。シーラの話では昔、fireplace(暖炉)に薪や石炭を使用して暖を取っていたので、その煤煙の影響で霧が発生した様な空模様になった、と言っていた。確かに厚い雲が建物の頂上まで垂れ下がった陰うつな日、若しくは霧雨・小雨の日に各家庭や会社、公共の建物から出される煤煙が加わったら、正...「霧の都ロンドン」の話~私のロンドン生活

  • 私の部屋の話~My life in London(私のロンドン生活)

    *私の部屋の話1968年9月21日の深夜、アルベート・ミルスさんに出逢えたお陰で翌日、彼は週3ポンドの部屋(5ArvonRoadHighburyLondonN5)を探してくれた。その場所は、地下鉄ピカデリー・ラインのHollowayRoad(ホロウェイ・ロード駅)を下車し、駅前のホロウェイ通りを右方面へ、暫らくすると左側にアーボン通り(ロンドンはどんなに短い、狭い通りでも名称があった)があり、その通りの住宅街の一画、四階建て建物(建物の名称はAnticipateAngel)の3階が私の部屋、駅から10分であった。ロンドン中心地まで電車で23分程、アクセスは良かった。部屋には洋服ダンス、テーブル、椅子から鍋、食器類(テレビ、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫は無かった)まで揃っていて、その日から直ぐに生活する事が出来た。家主...私の部屋の話~MylifeinLondon(私のロンドン生活)

  • 最近のイギリスの社会情勢の話~私の見た事、感じた事 in London

    *最近のイギリスの社会情勢の話今日(1968年10月25日)のDailyMirror(大衆紙)の紙面は、『学生達がLSE(LondonSchoolofEconomicsロンドン経済大学)を解放』と大きな見出しでトップを飾っていた。『これは来る27日(日)、このLSEを本拠としてベトナム戦争とウィルソン政府の対アメリカのベトナム戦争援助に反対して、学生・労働者達を中心に大掛かりなデモが予定される』と掲載されて、それらのデモに関する記事で賑わっていた。このディスガスティングなベトナム戦争とアメリカ援助反対デモの計画は、2ヶ月前から予定し準備され、かなり荒れるのではないか、と報じられていた。そして結果としてかなり荒れ、大勢の学生・労働者が逮捕されてデモは収束した。シーラやレストランの人々の意見は、「彼等は『戦争反対、...最近のイギリスの社会情勢の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • 最近のイギリスの社会情勢の話~私の見た事、感じた事 in London

    *最近のイギリスの社会情勢の話今日(1968年10月25日)のDailyMirror(大衆紙)の紙面は、『学生達がLSE(LondonSchoolofEconomicsロンドン経済大学)を解放』と大きな見出しでトップを飾っていた。『これは来る27日(日)、このLSEを本拠としてベトナム戦争とウィルソン政府の対アメリカのベトナム戦争援助に反対して、学生・労働者達を中心に大掛かりなデモが予定される』と掲載されて、それらのデモに関する記事で賑わっていた。このディスガスティングなベトナム戦争とアメリカ援助反対デモの計画は、2ヶ月前から予定し準備され、かなり荒れるのではないか、と報じられていた。そして結果としてかなり荒れ、大勢の学生・労働者が逮捕されてデモは収束した。シーラやレストランの人々の意見は、「彼等は『戦争反対、...最近のイギリスの社会情勢の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • 制服とイギリス紳士の話~私の見た事、感じた事 in London

    *制服とイギリス紳士の話イギリス人は、制服好きな国民の様であった。学生、衛兵、警官、鉄道・バスの運転手・車掌を始め、ウェイトレスから無断駐車を取り締まる婦人係員(警察官ではない。無断駐車をしている車に違反切符を発行している婦人)まで着用していた。衛兵でも制服は異なるが、バッキンガム宮殿やホース・ガードの衛兵の制服、そしてロンドン塔の警備兵・ビーフィーターの制服は、特に格好が良かった。日本でも制服で統一化・平均化している傾向であるが、イギリスの彼等の制服は、何となく似合っていた。制服の本場、発祥地は、イギリスと思われた。『イギリス紳士の制服』と言えば、背広に山高帽子、そして手にステッキ、或いは小雨が多い所為かステッキの変わりにコウモリ傘を携行している、そんなイギリス紳士のスタイルを映画やテレビで見た事があった。そ...制服とイギリス紳士の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • イギリス人の質素・経済的(ケチ)な話~私の見た事、感じた事 in London

    *イギリス人の質素・経済的(ケチ)な話イギリス人は質素・経済的(ケチ)と感じた。パブでの彼等は、ビールを飲むのではなく、時間をかけて舐めるように少しずつ飲んでいた。彼等はビールを飲みに来るのではなく、安く時間を潰せて、お喋りしに来ている、と私は悟った。その他イギリス人が質素と感じられた例をあげてみた。イギリス人のタバコの吸い方が顕著であった。彼等の吸い方は、『もう吸えません』となる様な根元まで吸って、半分程度なら捨てずに元のタバコ入れに戻し又、後で吸っていた。それに街を歩いていても半分程度吸った吸殻は、落ちていなかった。落ちているのは、殆ど根元まで吸った吸殻だけであった。タバコが高い所為か、ケチな吸い方をしていた。又大勢の人は刻みタバコを買って、吸いたい分だけ自分で紙を巻いて吸っていた。まだある。彼等の買物は念...イギリス人の質素・経済的(ケチ)な話~私の見た事、感じた事inLondon

  • 女性の社会進出の話~私の見た事、感じた事 in London

    *女性の社会進出の話ロンドンの街には、多くの婦人労働者が目立った。駅員、バスの車掌や運転手、店員、事務員、マネージャー等々、女性達が色々な分野で活躍していた。彼女達は、労働が好きなのであろうか。日本では、結婚すると主婦業に専念するが、イギリスは社会機構が違って女性に働き易い環境になっているのでしょう。社会福祉と男女同権が確立され、家に閉じこもる必要がないのであろう。しかし、現実は一般労働者にとって共稼ぎをしないと、経済低迷で生活は楽ではないからと私は感じた。いずれにしても、彼女達の働いている姿を見ていると頼もしさを感じた。女性の社会進出の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • 『私はイギリス人か』の話~私の見た事、感じた事 in London

    *『私はイギリス人か』の話日本での異国人(この場合、白人を指す)は、見立つ存在であった。しかし、ロンドンに於けるアジアの日本人である私は、そんなに目立つ存在に感じられなかった。ロンドンには、色々な人種が住んでいた。特に目立ったのが黒人(何処の国の黒人か、全く分らなかった)、インド人、パキスタン人、中国人等であった。やはり、多くの植民地を獲得していた、或は、七つの海を征服した過去の栄光の影響なのであろう。そのお陰か、私に対し最初から、「何人か」と聞かれた事は1度もなかったし、私も意識して日本人である、と言う事もなかった。そんな理由からか、街を歩いていると私の顔、意識も自分自身イギリス人であるかの様に錯覚する時もあった。部屋に帰って鏡に映る自分の顔を見たら、どことなくイギリス人の顔に成りつつあると感じられた。『私はイギリス人か』の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • *酒場の種類の話~私の見た事、感じた事 in London

    *酒場の種類の話ロンドンには、飲み屋がパブ(パブリック・バー、ラウンジ・バーとサロン・バー)しかないが、日本には養老の滝の様な大衆居酒屋から、赤提灯、小料理屋、割烹料理屋、バー、サロン、キャバレー、スナック等色々な店がたくさんある。飲み方、酒の肴、雰囲気、色気、値段等で我々は飲み屋の行き先が変わる。要するに選択幅が広いのだ。しかしその反面、歓楽街はサロン、バー、キャバレーの赤い灯、青い灯の看板、ネオンでけばけばしさがある。そしてそこへ行くのは、若い人達が結構多かった。ロンドンの若者がパブで飲んでいるのを、私は殆んど見掛けなかった。何故ロンドンの若者は、酒(ビール)で憂さを晴らす事をしないのか、不思議であった。飲む金がないのであろうか、ビールなんて安いから金ではないと思った。そしてパブでの彼等の飲み方、スタイルは...*酒場の種類の話~私の見た事、感じた事inLondon

  • テレビの話~私の見た事、感じた事 in London

    *テレビの話イギリスのテレビ(TV)は、3チャンネルしかなかった。その内の2チャンネルは国営放送、民間放送は1チャンネルだけであった。それに引き換え日本は1~12までの間に6~8チャンネルもある。選択の幅が出来て見たい番組が多くなったその分、視聴者にとって有益になっているのであろうか。否、逆になって来ているように私には感じられた。私が会社の寮に入った当時(昭和38・39年)は、食堂に1台TVがあっただけで、そのTVを皆で仲良く見ていた。当然、寮生個人のチャンネル権がないので、現在映し出されている番組を皆で見て楽しんだ。特に個人的に夜7時から個人的に是非見たい○○がある場合は、「皆さん、7時から○○があるのでチャンネルを回したいのですが、宜しいでしょうか」と他の寮生にお伺いを立て、皆の同意でチャンネルは変わってい...テレビの話~私の見た事、感じた事inLondon

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、旅日記さんをフォローしませんか?

ハンドル名
旅日記さん
ブログタイトル
旅日記
フォロー
旅日記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用