ダブル・デッカー・バス(ロンドンのバス)の話~私の見た事、感じた事 in London
*ダブル・デッカー・バス(ロンドンのバス)の話ロンドンにはもう一つ足の便がある。それは例の『ダブル・デッカー・バス』と言って、赤い2階建てのバスの事です。古い歴史的な建造物の間を縫うように走る赤いバスは一際目立ち、正に絵になる様な光景であった。私は10数回程度の乗車経験であったが、ロンドン名物の赤い2階建てのバスについて、その感想を書いて見る事にした。バスは行き先が分らず、そして自分の降りる停留場も分からないので地下鉄と違って、私のバスの乗車はいつも不安であった。叉、日本の様にバス・ガール(車掌)の停留場の案内もなかった。ロンドンは地下鉄すら放送をしていないので、車掌の放送など有り得なかった。私の場合は地理不案内の為、いつも車掌(ほとんど大柄の黒人男性)の傍に座って、「どこそこへ行きたいのですが、着いたら教えて...ダブル・デッカー・バス(ロンドンのバス)の話~私の見た事、感じた事inLondon
アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話~私が見た事、感じた事 in London
*アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話ロンドンに来た日、シーラの案内で初めて乗ったロンドンの地下鉄の第一印象は、『車内の内装は茶色、そして車内灯は薄暗い電球で、車内は薄暗かった。そして車内でタバコを吸って良いのか、吸殻が床に捨ててあるので汚かった』とこんな感じを受けた。私はウィンピー・ハウス・レストランへ通っていた時、毎日地下鉄を利用していた。それでアンダーグランドについて一言、感想を述べたいと思う。運賃は、パリやモスクワの地下鉄の様に全線均一でなく、駅ごとに異なる運賃形態(遠距離低減制)になっていた。乗車券(切符)は、出札口で目的駅名を言って買うか、自動券売機で買う事になっていた。乗車する時、改札係員が切符にパンチを入れるのは、日本と同じであった。この時に乗客の方から「サンキュー」と言って改札係員にお礼を...アンダーグランド(ロンドンの地下鉄)の話~私が見た事、感じた事inLondon
*パブの話パブ(PublicHouseの意味)には、PublicBar(パブリック・バー)、LoungeBar(ラウンジ・バー)、そしてSalonBar(サロン・バー)があった。ただ単に「パブ」と言った場合は、パブリック・バーを指す。パブを強いて日本語に訳せば酒場、或は、居酒屋が適当な言い方となる。パブリック・バーは、ロンドン郊外や下町に点在し、一般民衆や労働者を対象にした酒場であった。そのパブリック・バーへ入ると、内部の床はコンクリート、テーブルは粗末な作り、そして、室内は何の飾りっ気もなかった。タバコの煙が充満している中で、労働者や周辺の一般市民がビールを飲み、そして、会話を楽しんでいる、ただそんな感じがするのが特徴であった。ラウンジ・バー、或いはサロン・バーは、ロンドンの繁華街界隈に点在し、上品な雰囲気の...パブの話~私が見た事、感じた事inLondon
・労働明細と生活費の収支決算の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
・ウィンピー・ハウス・レストランの労働明細と生活費の収支決算の話オックスフォード店~1968年9月21日から10月2日まで計10日間、労働時間午後4時から11時まで、9月23日30日は月曜日で休み、週6ポンド。ヴィクトリア店~10月4日の1日のみだが正確の労働時間不明(2~3時間程度)。アールズ・コート店~10月5日から6日の2日間(2~3時間程度)。但し、9月29日から10月5日までの1週間分の賃金は無断で休み、そして出張で労働時間が不確定の為、きっちりと貰ったのか不明。ウッドストック店~1968年10月8日から11月2日までの労働日は23日間、その間の月曜日は休み、11時から午後7時まで、週賃金は約10ポンド。ボンド・ストリート店の賃金明細を示すと週基本給£13.7s.9d、差し引かれたもの①年金4s②その...・労働明細と生活費の収支決算の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その2)~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
*ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その2)このレストランで感心させられるのは、時間が本当に厳守されていた事だ。午後7時の終りの時間になると仕事がまだ残っていても、マネージャーの「フィニッシュ」の一声で、皆が仕事を終らせていた。私もあと何枚か洗えば、翌日に持ち越す必要がないのに、7時になると切り上げていた。お店の方でも7時に終えるように準備して、又その時間帯まで居そうなお客さんには、前もって承知していただき、7時になった途端切り上げ、7時10分に全従業員は店から退出していた。日本では考えられない程、時間が守られていた。私を含めて時間にルーズな日本人には、この状態を理解出来るであろうか。勤務時間は11時から午後7時までだから、レストランで昼食と夕食の2食分食べられ、前より食事代や作る手間が助かった。そんな...ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その2)~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その1)~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
*ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その1)・昭和43(1968)年10月8日(火)~一昨日アールズ・コート店のマネージャーに言われた通り、久し振りにオックスフォード店へ午前9時に行った。そうしたらマネージャーに「本社の方へ行ってくれ」と言われた。私は『何であろうか』とチョット不安を感じながら、通りの向こう側にある事務所(本社)へ行った。そうしましたら、男性社員から今後の職場を命ぜられた。やはり同系のレストランのWoodstockWimpyHouseRestaurant(ウッドストック・ウィンピー・ハウス・レストラン)であった。その場所は、ボンド・ストリート(オックスフォード・ストリートとピカデリー・ストリートへ結ぶ道)にあって、前の店からポンド・ストリートを50~60m入った所で、割かし近い職場を割り...ボンド・ストリートのウッドストック店の話(その1)~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
*オックスフォード・ストリート店の話(その2)・10月4日(金)~いつもの様に午後4時にレストランへ行った。マネージャーから、「昨日、どうして休んだのだ」と言われた。「頭が痛かった」と言い訳をして逃れたが、既に私のポジションは剥奪されていた。オックスフォー-ド店には、9月21日から10月2日まで、月曜日を除いて10日間働いただけであった。幸いにも首にならず、直ぐにヴィクトリア地区の同系レストランへ出張を命じられた。住所を教えて貰ったが、その場所への行き方、交通地理が分らず、何回も聞きながらやっと辿り着いた。地下鉄やバスを使って行ったのであるが、自腹を切ってしまった。指定された場所以外の場所へ出張を命じる場合は、交通費を出すのが当然であると思った。会社がケチなのか、臨時雇いの私をバカにして出さないのか、請求しなか...*オックスフォード・ストリート店の話(その2)
オックスフォード・ストリート店で出会った日本人の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
*オックスフォード・ストリート店で出会った日本人の話ある日(10月1日)の午後9時頃、私と年齢が同じ位の大金さん(仮称、以後敬称省略)と言う日本人が、職を求めてこの店に飛び込んで来た。彼は英語が下手なのか、マネージャーが私の所に来て、「仕事は無いので断ってくれ」と頼まれ、その旨を彼に伝えた。彼は残念そうな顔をしていた。私も同胞、同年齢の彼と共に働ければ良かったのに、と思うと残念であった。彼はいかにも腹が減っていそうな顔をしていた。聞くと「まだ夕食を食べていない」との事であった。私はマネージャーに頼んで、店の奥でウィンピー料理を食べさせて上げた。彼は余程腹が減っていたのか、「美味しい、美味しい」と喜んで食べた。私は同じ困っている仲間に、何か良い事をした様な気分で嬉しかった。それによく聞くと、午後10時近くになるの...オックスフォード・ストリート店で出会った日本人の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
オックスフォード・ストリート店の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
*オックスフォード・ストリート店の話9月21日に色々あったが、私は結局、仕事に就いた。最初の話の中で労働時間は午後の5時から11時まで、1日1ポンド4シリングと言う条件であった。しかし最初の出勤日に、私が早く仕事に慣れるように、4時から仕事を始めた為とマダムの要請により、翌日からも午後4時から11時までとなった。1日7時間勤務、その内の1時間休憩の6時間労働、休みは月曜日であった。1週間遅れで賃金を貰った時、税金等を1日に付き4シリング(200円)を差し引かれていて、1日1ポンドで週6ポンド(6,024円)であった。本当に低賃金で頭に来た。それで又何か言ったら、「辞めてもいいですよ」と言われかねないので、私はどうすることも出来ず、諦め我慢するより仕方がなかった。休みは11月2日に仕事を辞めるまで、月曜日は変わら...オックスフォード・ストリート店の話~ウィンピー・ハウス・レストランの仕事
・昭和43年9月22日(日)曇り(ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる)恐怖の一夜が明けたが、何も起こらなかった。2人とも同時に起きた。彼は尿瓶を持ってトイレへ行き、その排尿を流した。昨夜の『チュル、チュル』と言う異様な音は、トイレが家の中にあるのに、彼は行かなかった。私の頭の上で尿瓶の中に大きな音がしないよう、少しずつ『チュル、チュル』と用を足していたのだ。その音が恐怖心を抱いていたとは、まったく滑稽であり、親切にしてくれた彼に疑いを抱いたとは、恥ずかしい限りであった。彼の話しによると、「夜中にトイレで用を足すと、排水音で隣人に迷惑を掛けるから、いつも枕元に尿瓶を置いて、用を足したくなったらそれを使っている」との事であった。イギリス人は、隣近所に迷惑を掛けないよう、生活音には常に注意しているのであった。私は彼...ミルスおじさんのお陰で部屋が見付かる~仕事と部屋探し
貸し部屋は駄目になり深夜の街を彷徨、そしてミルスさんと出会う(その2)~仕事と部屋探し
・昭和43年9月21日(土)曇り(貸し部屋は駄目になり深夜の街を彷徨、そしてミルスさんと出会う)~その2*その1からの続き~契約前の貸し部屋に泊まろうとしたら断られ、深夜の街に放り出された私。それでは如何して一晩過せばよいのか、じっとしていると体が冷えて来る。試しに通りの軒下で寝てみた。石の冷たさ、硬さが直接身体に伝わり、寒くて寝ていられなかった。これでは病気になってしまう。私はArchwayRoad(アーチウェイ・ロード)をロンドン中央に向かって歩き、そして疲れたので軒下で休み、冷えて又、歩いた。こうなったら一晩中歩き続ける覚悟であった。既に時刻は午前1時半頃、通りには歩行者は勿論、車も殆ど走っていなかった。ロンドン中央まで歩き続けるつもりであったが、道がここで二股に分かれていた。どちらの道を選べばよいのか思...貸し部屋は駄目になり深夜の街を彷徨、そしてミルスさんと出会う(その2)~仕事と部屋探し
貸し部屋は成立せず、深夜の街を彷徨、ミルスさんと出会う(その1)~仕事と部屋探し
・昭和43年9月21日(土)曇り(貸し部屋は成立せず、深夜の街を彷徨、ミルスさんと出会う)ユースを去り、トランクを提げてアーチウェイ駅近くの貸し部屋の家主を訪ねた。部屋代は週7ポンドであるが、レストランの仕事は午後5時から11時迄でだが週給は幾らなのか分からず、私は迷って直ぐに決められなかった。YMCAが教えてくれた3箇所の内、一番安くて7ポンド、しかし良く考えたら高い、と思った。私は分ってから決めても遅くないと思い、家主に考える猶予とトランクを預かってくれるようお願いし、その場を去った。レストランへ行って“週給”(イギリスの賃金は一週間単位で支払われる)、労働時間等を尋ねていたら、既に4時を過ぎていたので、私はそのまま仕事に就いた。店の奥で休憩兼食事時間として30分程休んだ以外、深夜11時まで働いた。仕事の内...貸し部屋は成立せず、深夜の街を彷徨、ミルスさんと出会う(その1)~仕事と部屋探し
・昭和43年9月20日(金)晴れ(自分で仕事を探す)今日も又、昨日行った例のスタッフ・エイジェンスィへ行ったが、返って来る言葉は、「Nojobs(仕事は無い)」であった。受付係は「午後、又来なさい」と言ってくれたが、イギリスは経済不況の為か、イギリス人さえ失業者が多いのだ。例の図書館の光景や街のあちこちで失業者が目立った。そんな状況下で、言葉が上手く話せない、何の技術もない、しかも働く条件を持ち合わせていない私には、仕事がある筈がない、と思い始めた。そしてスタッフ・エイジェンスィに頼らず自分で直接探すのが一番だと思い、レストランを当たる事にした。だが、いざ直接レストランにトライしようと思っても、恥ずかしさや勇気がいるもので、中々店に飛び込めず、店の前でウロウロするばかりであった。心臓がドキドキするのが自分でも分...自分で仕事を探す~仕事と部屋探し
・昭和43年9月19日(木)晴れ(ホテルの仕事を断られる)今日、体調はかんばしくなかった。微熱があるようで、しかも寒気も少し感じ、気分は冴えなかった。これは多分、ウェールズからロンドンに戻ってここ2日間、昼食を取らず緊張の中、職業斡旋所探しに歩き回ったり、日本大使館、移民局へ行ったりして、肉体的、精神的に心労が蓄積されたのが原因ではないか、と思われた。しかしロンドンに来たばかりの時、腹痛で悩まされた事よりはまだましであった。コンディションは良くなかったが、午後の4時前にホテルへ行った。少し部屋で待たされた後、マスターが対応し2言3言話した後に、「君は英語が下手だから駄目だ。このホテルは日本人旅行者がよく来るので日本人の君に働いて貰おうと思ったが、他の外国人も来るし、フロントの仕事も一応出来なければならない条件な...ホテルの仕事を断られる~仕事と部屋探し
・昭和43年9月18日(水)曇時々雨(仕事、滞在期間延長と労働許可証)昨日、カナダ人に教えて貰ったスタッフ・エイジェンシィ(職業斡旋所)を探したが見付からなかったが、今日は直ぐに見付かった。外国人である私が、労働許可証が無くても仕事を斡旋してくれるのか、仕事があるのか、不安であったが思い切って中へ入った。受付の若い女性に「私は何でもしますから、仕事がありますか」と尋ねたら、「ありません」の一言であった。5~6人の他の求職者が、手持無沙汰で椅子に座っていた。こんな状況では無理だなと判断した。昨日は気が付かなかったが、よく探し回るとスタッフ・エイジェンシィはここだけでなく、他にもあった。『犬も歩けば棒に当たる』式で、あちこちのスタッフ・エイジェンシィを3~4件探し当て聞いてみたが、何処も皆、「仕事は無い」と断られて...仕事、滞在期間延長と労働許可証~仕事と部屋探し
・昭和43年9月17日(火)曇り(日本大使館は行き辛い所だ)ウェールズ滞在中、ダディーに「ワーク・パミッション(労働許可証)の取得や滞在期間延長をしてもらうには如何したらよいか」と尋ねたら、「日本大使館へ行ったら良いのでは」と言った。私は両方とも日本大使館と関係ないと思ったが、取り敢えず行って尋ねた。大使館員は、「労働許可証や滞在期間延長は、日本大使館ではしていません」と素っ気ない返事が返って来た。それはあたかも、『貧乏旅行者が大使館に迷惑を掛けに来た』と言った様な態度、顔色がありありであった。「それでは如何したら、何処へいったら労働許可証や滞在期間延長をして貰えるのですか」と私は尋ねた。「雇い主の労働証明書と労働許可申請書をイギリス政府(移民局)に提出し、労働許可と滞在期間を延長して貰ったら」と館員。私は成る...日本大使館は行き辛い所だ~仕事と部屋探し
・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(今後の事を考える)日本までの帰りの切符は、フランスのマルセイユ~横浜間のフランス商船(M&M)の乗船券で、予定通りの出航は10月中旬となっていた。色々悩み考えた末、折角日本を出たのであるから『もう少し色々な経験をしてみよう』との結論に達した。その為にこの乗船券をいつでも使えるように、その乗船券代金分(150,000円)に相当する『航空券併用』へ変える必要があった。その変更手続き相当期間の滞在費節約の為、安い貸し部屋と滞在費を賄う上でも、何か仕事を探さねばならなかった。私の現在の手持ち金は、トラベラーズ・チェックの250ドル(約9万円)と数ポンドだけであった。出国時当初の海外最大ドル持ち出し分500ドルの内、ソ連滞在・観光費分をドル建てを差し引いた430ドルと日本円2万円持...今後の事を考える~仕事と部屋探し
・昭和43年9月16日(月)曇り後小雨(止めどなく溢れる涙)長いようで短かったウェールズの滞在が終った。文通を通して夢にまで見たシーラの生まれ育ったサウス・ウェールズの山河、故郷のコルブレン、そして親切にしてくれたシーラの家族達と別れの日が終に来た。楽しかったクラブやウェールズのヒッチの旅、そして旅先で車に乗せてくれた親切なウェールズの人達、忘れ難い楽しい数々の思い出を残して今日、私は去ろうとしていた。ケネフは、私の見送りの為に学校を休んだ。どうしようもない寂しさが私の心に襲って来るのを堪えていた。モーガン家の最後の昼食をゆっくり済ませた。そして午後2時頃、ダディーの運転する車に私とケネフが乗りモーガン家を後にした。マミーが働いている近所のストアに最後の挨拶をする為、立ち寄った。マミーは「車中で何か買って」と言...止めどなく溢れる涙~ウェールズの旅
・昭和43年9月15日(日)曇り(クラブの舞台にもう一度立つ)ウェールズ最後の日になってしまった。あれ程に来て見たかったウェールズが、8月30日に来て早2週間、矢の如く過ぎてしまった。今回のウェールズ滞在で、私の初期の目的は達成した。しかし、退職して来たので最初の予定通りに帰国する理由がなくなったのであった。今後の私の旅について、ウェールズをヒッチしながら考え、迷った末にある方向性を見出した。それは、今回の旅に出るに当って“心に秘めていた5つの事”(①家族、友達、そして人様に決して迷惑を掛けないようにする事。②旅の苦労は買ってでも、と言う意気込みを持つ事。③多くの人と出会い、出来れば友達を作る事。④出来れば長く滞在して、或は、働いてその国の内側と生活感を肌で感じる事。⑤出来る限り多くの国を見て廻り、そうした過程...クラブの舞台にもう一度立つ
*ウェールズを旅しての話ウェールズの旅は、今日で終った。ウェールズについて私が見た事、思った事等を纏めてみた。ウェールズは13世紀まで独立国として、ローカル色豊かな国作りをしていたらしく、風景や街並みもイギリス本国と異なった佇まいをしていた。看板等もウェールズ語で書かれてある店があったし又、至る所にローカル的な存在が見られた。ウェールズの面積は、四国と同じかやや広めで地域的、文化的に見ても南北に分かれているように感じた。彼等は「北の人」、「南の人」と区別し、南ウェールズ、北ウェールズと言った地理的にも区別していた。ウェールズ語は、南の人に聞くと「北の方がよく使っている」と言っていたし、北の人に聞くと「南の方が使っているようだ」と言っていた。ウェールズ人は、日常語としてウェールズ語と英語を話し、その状況に応じてど...ウェールズを旅しての話~ウェールズの旅
・昭和43年9月12日(木)晴れ(ウェールズのビールは不味い?)ユースを出て、コルブレン方面の舗装道路の山道をとぼとぼ歩いていたら、ユースのペアレントが私を途中まで乗せてくれた。今日は良く晴れて、サウス・ウェールズの田舎道を歩くのも気持良かった。コルブレンへ歩いて行くには、まだ遠いので車の通っていない田舎道を歩き続けた。昼頃になって道路脇の芝生の上で1時間ばかり、昼寝をした。その後再び『小樽の人よ』を歌いながら、コルブレンへ向けて歩いた。そして今日2台目で、コルブレンまで乗せて貰った。歩いていたら、あのクラブが目に入った。ウェールズの旅が無事に終った事でもあるので、自分にビールで乾杯したくなり、入って行った。中ジョッキのビール(1s7d=約78円)を注文した。1口グィッと飲んだ。喉から腸に伝わり、旅の疲れも一度...ウェールズのビールは不味い?
・昭和43年9月11日(水)晴れ(カーディフ城見物)1台目は、昨夜ユースで知り合った大学生が、「スウォンジーまで行く」と言うので、その車に便乗させて貰った。そして彼はカーディフへ行く街道で、私を降ろしてくれた。スウォンジーの街は、勤め人が忙しそうに往来していた。2台目は、その場で20分位してお爺さんが運転する車をゲットし、この車でいっきにカーディフ郊外まで来た。カーディフは、ウェールズの首都であり、港湾都市(数年前までは石炭の積出港)、重工業として栄えた。現在でもウェールズの経済、工業の中心地である。カーディフは、又カーディフ城でも有名であるらしく、私は郊外から何回も道を聞きながら城へ行った。その古城は、市の中央にあった。城へ入るのに6ペンス(24円)、城の中央中庭に入るのに、又6ペンス支払った。中庭には、大砲...カーディフ城見物~ウェールズの旅
・昭和43年9月10日(火)雨後晴れ(助平なドライバーとミニスカート論議)Swansea(スウォンジー)、Cardiff(カーディフ)へ行こうと、7時30分に起きたが雨が降っていて、出鼻を挫かれてしまった。テレビの今日の天気予報は、雨時々曇りであった。降雨時のヒッチ率は悪いし、雨の中で道路端に立ちっぱなしは辛い。そんな訳で雨の日のヒッチはしたくなかった。しかしダディーもマミーも親切にしてくれるが、する事がないのに食べてばかりでは、どうも居心地が悪かった。そんなこんなで、『出立しようか、今日は止めようか』迷っていると、雨は止んでしまった。ヒッチの旅に出掛ける気分は失せていた。『本当は1日中降ってくれれば良かったのに。そうすば、明日にしたのに』と思いつつ雨が止んでしまったので、思い切って家を出た。既に時刻は、11時...助平なドライバーとミニスカート論議~ウェールズの旅
・昭和43年9月9日(月)晴れ(「如何してコルブレンへ行くの」と聞かれ)昨夜、泊まったユースは、山の中であった。昨日のおじさんが、捜し出すのに苦労したのも無理なかった。ユースを出てウェールズの美しい山々の景観を楽しみながら、『山道』(ウェールズは、どんな山の中の小道でもアスハルトで整備されていた)を1人、街道の方へトボトボと歩いた。今日の天気は晴れとなり、昨日とうって変わって気分は良かった。歩いていたらウンコをしたくなった。山道が幸いし誰もいない道路端で、美しい山々を眺望しながら用を足すのは、最高に気持が良かった。山道と街道が交差する左箇所で、村民5~6人が焚き火をしていた。朝晩は、既に寒さを感じる時期になっていた。『毛色の変わった外人がこんな所を歩いている』と言った感じで私の方を皆が見ていた。私が無視して彼等...「如何してコルブレンへ行くの」と聞かれ
・昭和43年9月8日(日)曇り時々雨(明治の初め頃の蒸気機関車と客車を見る)『若しかしたら簡単に登れるかも』と思い、スノードン山に登ろうとしたが、止めた。昨夜、雨が降ったのか登山道は濡れていたし、山に登る様な服装・履物ではなかった。しかも標高差が分らないし、空模様も心配であった。私は頼まれた掃除が終ってからユースを出た。左手にスノードン山、右手に湖を見ながら自然のど真ん中を歩いていると、自然と心も弾み、『小樽の人よ』を口ずさんだ。今日は、最高に気分が良かった。ヒッチの旅は、天候しだいであった。高級車には8:2の割りで乗せてくれないが、1台目はこの確率から外れ、夫婦連れの立派な車に便乗出来た。それから間もなくして、ある町で降ろされると、やはり雨が降って来た。雨が降ると極端にヒッチ率は落ちた。家の軒下に一時避難した...明治の初め頃の蒸気機関車と客車を見る~ウェールズの旅
・昭和43年9月7日(土)曇り(ウェールズの美しい山河)コーウェンのユースを出て、3km程歩いて街道へ出た。今日は車が多く走っている割にヒッチ率が非常に悪かった。20分、30分、50分とヒッチ合図を送り続けても、いっこうに停まってくれる車はなかった。どの車も定員状態であった。昨日は向こうから停まってくれる車があったのに、今日は如何してなのであろうか。いずれにしても気長に待つしかなかった。1台目、やっと1時間位過ぎてから乗せて貰う事が出来た。その若者の言う事には、「ホリデーは、ヒッチに適さない」と言うのだ。そう言えば今日は土曜日、道理で家族連れの車が多いと思った。その多くは私と同じ方向のスノードン方面だ。家族でピクニックやドライブに行くのであろうか。その1台目の車にかなり長く乗せて貰った。昼食は周りの山々に囲まれ...ウェールズの美しい山河~ウェールズの旅
・昭和43年9月6日(金)晴れ(素朴なウェールズの人々との出逢い)久し振りに朝から晴れた。今の時季のウェールズは、一年で一番天候が悪いそうで、3日に2日は雨が降ると言う。良い天気が続く時期は、5月と6月であると言う。7時30分頃起きて、朝食を多めに取った。多少の雨が降っても濡れないようにジャンパーとコートをダディーから借り、家を出た。今度のヒッチ旅の目的は、①最初の目的である列車でヨーロッパ旅行する事。シーラに会う事。そして、ウェールズのシーラの家に滞在する事であった。これらは“ほぼ目的達成”(私の夢が叶った)したので今後、私は如何なる行動、目的を取るべきか、ヒッチしながら考え決断する為。②コロブレンだけではなく、ウェールズをもう少し肌で感じてみたい為。③妹、友達から手紙が来る事になっているので、それを受け取ら...素朴なウェールズの人々との出逢い~ウェールズの旅
・昭和43年9月2日(月)曇り(シーラはロンドンへ)今日はBanksDay(銀行の日)、イギリス国民の祝日の日であった。ケネフと例の滝のある川に魚釣りに行った。川は増水し少し濁っていたので、結果は1時間以上していたが、2人で一匹であった。帰りに滝を見に行って、そこで素晴らしい虹を見る事が出来た。今日の午後、シーラはロンドンへ帰る日であった。昼食を済ませ、ゆっくりした後、ダディー、ケネフ、そして私の3人でニースの駅までシーラを見送りに行った。「Yoshi、好きなだけ滞在して良いのだからね。でも直ぐに滞在は飽きてしまうかな。コロブレンは何もないし」「シーラに色々な所へ案内して貰ったり又、昨夜はクラブで歌ったり、シーラとダンスしたりして楽しかったよ。有り難う、シーラ」「Yoshi、ロンドンに戻ったら連絡して下さい」「...シーラはロンドンへ~ウェールズの旅
・昭和43年(1968年)9月1日(日)曇り(クラブで三池炭鉱節を歌う)午前中、私は妹、Oさん、そして友達へ、私が元気にいることを含め、旅の様子やシーラに会った事等について手紙を書いて過した。又、私がこちらに滞在中、モーガン家宛てに妹、Oさん、そしてN君から手紙が届いた。手紙の内容は、私の行動に対する感想、旅に対する励まし、彼等の状況、及び日本の状況等について書かれていた。日本を出てから2ヶ月近くになり、活字に飢えて来た頃であったので、彼等の手紙を受け取った時は大変嬉しく、そして日本を懐かしく感じた。午後、シーラ、マミー、ケネフと共に車で20分位行った所のSwanseaValleyCaves(スウォンジー渓谷鍾乳洞)へ見に行った。家から結構近い所に、こんなに立派な鍾乳洞(ケイブ)があるなんて驚きであった。ケイブ...クラブで三池炭鉱節を歌う~ウェールズの旅
モーガン家の朝食、昼食、ハイ・ティー、そして夕食の時に出される基本的な食べ物は、スィンプルでテーブルの中央に器に載せられたキュウリ、小さな一口サイズのトマト(大きいトマトは如何してないのだろう?日本ではミニトマトは無かった。)、パン、バター、チーズ、それと紅茶であった。その他に朝食時はベーコン・エッグ(卵は目玉焼き)が、昼食時は日によってポークやチキン、或はビーフ料理が、ハイ・ティー時は蒸かしたジャガイモ、時にマミーの手作りのブラックベリーが乗ったケーキがそれぞれ出された。従ってモーガン家では昼食が、デナー(その日の一番重たい食事)と言えた。ハイ・ティー(hightea)とは、昼食と夕食時の間に食事をするティー・タイム(午後のお茶の時間)の事です。モーガン家の様にイギリスでは、ハイ・ティーの時、食事を取る家庭が...食事の話~ウェールズの旅
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