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毛利元就家臣団列伝 http://blog.livedoor.jp/sakonsimotukenokami/

趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。

佐近下野守
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2017/07/12

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  • 第67話【外戚高橋久光】

    【外戚高橋久光】 もう一人の後見人は、隣国石見の出羽を本拠とする有力国人で、石見邑智郡上二ツ山城(出羽城)、松尾城主、藤掛城主である。弘元の側室杉の大方も高橋氏の出であり(彼女と興元の妻とは全く血縁関係はない)、興元の妻は高橋久光の娘で、名前や年齢は不

  • 第66話【兄・毛利興元の死】

    【兄・毛利興元の死】永正十三年(1516)8月25日、毛利家当主・毛利興元が若くして死去。享年24歳。興元は帰国後、北隣の甲立五龍城主宍戸元源との抗争が絶えず、雌雄がつかないままの無念の死であった。死因は酒で健康を害していたといわれているが、打ち続く

  • 第65話【宍戸氏】

    【宍戸氏】兄の興元が京からの帰国を急いだのも、この宍戸元源が侵略の兆しをみせたからである。安芸宍戸氏の本家は関東の常陸宍戸氏から出ている。常陸の宍戸朝家が足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸守に任じられ下向したのが、安芸宍戸氏の始まりだ。

  • 第64話【尼子経久の帰国】

    【尼子経久の帰国】 京極氏に代わって出雲・隠岐の守護の座を獲得した尼子経久も、将軍義稙の要請を受けるや、大内義興に従って上洛。経久は、一応、義稙の味方として上洛はしたものの、義稙は将軍の座に座っているだけで、都には依然不安定な状態が続くなど天下の情勢は

  • 【元就初期の軍事力】

    【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員

  • 第63話【高橋元光の戦死】

    【高橋元光の戦死】永正十二年(1515)3月、石見の豪族高橋久光は、領境を接し永年紛争を繰り返している備後三吉氏の支城加井妻城攻めを行うも、嫡子・元光が戦死。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって没落の要因となってしまったのである。この元光の

  • 第62話【武田元繁の帰国と侵略】

    【武田元繁の帰国と侵略】安芸佐東銀山城主の武田家は鎌倉時代、安芸の安南・佐東・山県三郡の安芸分郡守護に任ぜられた家柄で、甲斐源氏の武田家と同族で、若狭武田家の安芸分郡守護代として、安芸銀山城を拠点として太田川下流域を支配し、川之内衆と呼ぶ水軍を勢力下に

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