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毛利元就家臣団列伝 http://blog.livedoor.jp/sakonsimotukenokami/

趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。

佐近下野守
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2017/07/12

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  • 【隆元の弱点】

    【隆元の弱点】 隆元は、いまだに合戦の経験に乏しく、人質生活から帰還した直後の初陣の出雲遠征は大敗し挫折感を味わっていた。その後も元就に従って備後方面で尼子軍と戦うも、思うような戦功をあげることはできず、元就の嫡男でありながら、内外ともに周囲が認めるよう

  • 【元就の家督相続①】

    【元就の家督相続①】 天文十五年(1546)年5月27日付で、元就が宿老志道広良に宛てた書状(『毛利家文書 58、588』)。「自分は、やや家中の者達に飽きられておるし、重なる戦闘で家臣たちに与える賞与や扶持も、必ずしも公平でないかもしれない。だから

  • 【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】

    【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目

  • 【毛利家臣団と軍事力の総括】

    【毛利家臣団と軍事力の総括】毛利軍の軍事力を担った圧倒的大多数の家臣は、在郷の土豪層、即ち兵農未分離の武士でもあり百姓でもある下層家臣であった。ちなみに、寄親寄子制という仕組みは、寄親も寄子も毛利氏の家臣である点に変わりはないが、寄親は土豪とか地侍と

  • 【毛利家臣団の構成】

    【毛利家臣団の構成】大名と国衆との間の不安定な関係を解決するためには、何といっても秩序だった家臣団制度をつくりだすことが必要だった。毛利家の軍事力を構成する家臣団は、その系譜や毛利家との歴史的な関係によって「家来」と「国衆」に区分されている。家来(家人

  • 【尼子詮久の誕生】

    【尼子詮久の誕生】永正十一年(1514)2月12日尼子経久が57歳の時、嫡男・政久の次男として、尼子詮久(晴久)が誕生。既に政久の嫡男・尼子某が夭折していた為、嫡男として育てられる。幼名が又四郎ではなく、三郎四郎なのはその為であった。 また同年から

  • 【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】

    【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】 永正十四年(1514)、有田中井手の戦いで、第一陣福原広俊が指揮する左翼に井上元兼・井上就兼ら400騎で従軍。 他に井上資忠(100騎)、井上元在(元光)、井上光俊、井上光政らも参戦。井上衆の戦闘力は毛利

  • 第61話【大器となる人相】

    【大器となる人相】元就の容貌は、英雄に相応しい、堂々たる風貌を備えていた。『陰徳記』、『陰徳太平記』の「丹比松寿丸元服、附明人相人(二)相事(一)」に出てくる元就の人相に関する逸話だが、これも『名将言行録』は、次の様に記している。永正十年癸酉6月18日、

  • 第60話【志道広良との起請文】

    【志道広良との起請文】永正十年(1513)3月19日、執権志道広良は、元就との間に起請文を取り交した。 広良は毛利家三代にわたっての重臣ので、興元と幸松丸の執政職を務めていた。興元の執権時に、元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう

  • 【井上党の活躍】

    【井上党の活躍】大永四年(1524)元綱派を粛清後、坂氏庶家の志道広良は罪が及ぶと恐縮したが、元就は元兼を使者として、「このたび坂広秀が元綱の謀叛に一味したので、是非なくこれを討果たしたが、桂広澄・志道広良については多治比時代より忠勤を抽んで、今度の

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