【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員
趣味で毛利元就を調べております。興味のある方は、是非足を運んで頂ければと思います。よろしくお願いいたします。
素人が趣味で研究しているブログです。宜しく願います。
井上党粛清直後の10月23日付隆景宛の手紙には、「われわれなどは井上の者と共に興元死去以来40年、悉皆の者共を主人に仕り候てこらへ候。そのうちの口惜しさなとは、いかばかりとおぼしめし候や。既に40年の事に候間、長々敷かんにん、申すもおろかに候」 とある
【井上党の祖先】 井上党の祖先は、源頼信の次子・頼季と伝え、頼季が信濃高井郡井上に住んで井上を称したのに始まるが、南北朝時代にその子孫が安芸吉田に移住し、元就の曾祖父・熙元の時代に、毛利氏の姻戚となった。 元就の父・弘元の時代に、井上光兼が毛利家の家
【驍将・毛利煕元】 毛利煕元は、室町時代の武将で、父は毛利光房。幼名は少輔太郎。戦いに明け暮れた驍将である。初めは父の一字を受けて煕房と名乗り、のち煕元に改名。「元」は祖先の大江広元や曽祖父・元春の偏諱に由来するもので、煕元以降の当主も代々通字として
【ザビエル来日】山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによっ
【毛利氏中興の祖・毛利元春】 毛利元春は、13歳で元服し、曽祖父・時親の代官として足利尊氏に一貫して従った。その忠勤により足利家執事高師直の兄弟・師泰から一字拝領し師親を名乗る。後に元春と改名。暦応四年(1341)、元春の後見役の曾祖父・時親が死去。
【安芸毛利氏の始祖・初代郡山城主の毛利時親】 安芸毛利氏の基盤を固めたとされる時親は、鎌倉、南北朝時代の武将で経光の四男である。 文永七年(1270)、父・経光は、越後佐橋荘を南北二つに分け、長鳥川より以南を南条荘、長鳥川以北を北条荘という様に呼び、
【毛利氏発祥の毛利季光】毛利季光は、建保六年(1218)から承久三年(1221)の間に長楽寺の隆寛に帰依して出家し、法名を西阿といった(『神奈川県史』通史編1原始・古代・中世)。その関係で隆寛は季光の所領である毛利荘に招かれ、晩年をそこで過ごし、毛利荘
【毛利家の家紋「一文字三つ星紋」】 室町幕府を経て戦国時代を迎えるまでの間に、公家は名誉のみを残して勢力を弱め、代わって武家が政治の中枢を握ようになり、家紋の担い手も武家の手に移っていった。武家政権が維持される中、家紋が「地位の象徴」として位置付けられ
毛利氏の系譜は、その祖を天穂日命という神別系図に繋がり、途中、大江音人などを経て、季光にいきついている。つまり大江氏の末裔であった。しかし、江戸時代の初期に毛利氏が徳川幕府に提出した『寛永家譜』では毛利氏の祖は平城天皇とし、皇別系譜に属していることにな
【家女房】家女房は弘元の側室で難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。別名に御袋様とも呼ばれる。父は難破勘兵衛元房、或は佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男元綱、次女八幡の上様、三女相合の大方、四女松姫、五女竹姫の一男四女を儲ける。郡
【美作について】 美作は古くから「境目の地域」と言われ、尼子家、毛利家、織田家等の大勢力の侵攻を度々受けていた。そして、何よりも美作には、強大な領主権力が存在しなかった事が知られている。南北朝以降、主に山名氏や赤松氏が守護として任命されたが、その関連史
【吉田物語】 『吉田物語』11巻は、『吉田記』ともいわれ、萩藩士の杉岡元就房が元就・隆元・輝元三代の事蹟を記した書物であり、筆者の就房は毛利家の宝庫預役で、毛利家の古文書・諸記録を閲覧することができたから、この書物も毛利家および古社寺の旧記や古文書を引用
【吉川氏】 もともと吉川氏の本貫の地は、駿河だ。駿河入江荘に吉川邑。 大朝の地名もあり、小倉城、小倉山城、大朝城とも呼ばれる。 吉川国経の城は、甲立の吉田からは、じっと周防に近い。したがって、それだけ大内派勢力の影響が大きいが、尼子家が吉川氏に手を
【愛妻家伝説】 元就の愛妻伝説が生まれ、一人歩きするようになったのは妙玖が亡くなってから後のことだという事実に注目すると、これには注意しておく必要がある。わかりやすくいうと、元就の愛妻伝説は「亡妻追慕」のタイプだった。 亡妻追慕もまた愛妻なのには間違
【小早川家略史】「瀬戸内海を制する者は中国を制す」という。小早川家は水軍の家柄で、この小早川家がもつ水軍の力は魅力であった。元就は早くからこの家に目をつけていた。小早川家には兄・興元の娘が嫁いでいる。 小早川隆景は、毛利元就の三男である。小早川家に養
「ブログリーダー」を活用して、佐近下野守さんをフォローしませんか?
【元就初期の軍事力】 毛利氏は、安芸国人領主の1人に過ぎず、毛利氏と同等の領主は、安芸国内に30数家あったという。それら国人領主は、平均で数百人くらいの動員力であったと思われる。元就の初期の頃の軍事力は、それより若干大きく、500~800人くらいの動員
【高橋元光の戦死】永正十二年(1515)3月、石見の豪族高橋久光は、領境を接し永年紛争を繰り返している備後三吉氏の支城加井妻城攻めを行うも、嫡子・元光が戦死。この元光の戦死は、強大を誇っていた高橋氏にとって没落の要因となってしまったのである。この元光の
【武田元繁の帰国と侵略】安芸佐東銀山城主の武田家は鎌倉時代、安芸の安南・佐東・山県三郡の安芸分郡守護に任ぜられた家柄で、甲斐源氏の武田家と同族で、若狭武田家の安芸分郡守護代として、安芸銀山城を拠点として太田川下流域を支配し、川之内衆と呼ぶ水軍を勢力下に
【隆元の弱点】 隆元は、いまだに合戦の経験に乏しく、人質生活から帰還した直後の初陣の出雲遠征は大敗し挫折感を味わっていた。その後も元就に従って備後方面で尼子軍と戦うも、思うような戦功をあげることはできず、元就の嫡男でありながら、内外ともに周囲が認めるよう
【元就の家督相続①】 天文十五年(1546)年5月27日付で、元就が宿老志道広良に宛てた書状(『毛利家文書 58、588』)。「自分は、やや家中の者達に飽きられておるし、重なる戦闘で家臣たちに与える賞与や扶持も、必ずしも公平でないかもしれない。だから
【妾のもとに忍ぶ男を誅殺】元就の囲う妾のもとに、忍んで通う男があった。名を木原兵部少輔といって、世に聞こえた大力の剛の者だ。これを知った元就は、木原を誅殺しようと画策したが、誰にやらせるかが問題である。木原も手練れ、しかも主君の女に手を出している負い目
【毛利家臣団と軍事力の総括】毛利軍の軍事力を担った圧倒的大多数の家臣は、在郷の土豪層、即ち兵農未分離の武士でもあり百姓でもある下層家臣であった。ちなみに、寄親寄子制という仕組みは、寄親も寄子も毛利氏の家臣である点に変わりはないが、寄親は土豪とか地侍と
【毛利家臣団の構成】大名と国衆との間の不安定な関係を解決するためには、何といっても秩序だった家臣団制度をつくりだすことが必要だった。毛利家の軍事力を構成する家臣団は、その系譜や毛利家との歴史的な関係によって「家来」と「国衆」に区分されている。家来(家人
【尼子詮久の誕生】永正十一年(1514)2月12日尼子経久が57歳の時、嫡男・政久の次男として、尼子詮久(晴久)が誕生。既に政久の嫡男・尼子某が夭折していた為、嫡男として育てられる。幼名が又四郎ではなく、三郎四郎なのはその為であった。 また同年から
【有田中井手の戦いにおける井上一族の功績】 永正十四年(1514)、有田中井手の戦いで、第一陣福原広俊が指揮する左翼に井上元兼・井上就兼ら400騎で従軍。 他に井上資忠(100騎)、井上元在(元光)、井上光俊、井上光政らも参戦。井上衆の戦闘力は毛利
【大器となる人相】元就の容貌は、英雄に相応しい、堂々たる風貌を備えていた。『陰徳記』、『陰徳太平記』の「丹比松寿丸元服、附明人相人(二)相事(一)」に出てくる元就の人相に関する逸話だが、これも『名将言行録』は、次の様に記している。永正十年癸酉6月18日、
【志道広良との起請文】永正十年(1513)3月19日、執権志道広良は、元就との間に起請文を取り交した。 広良は毛利家三代にわたっての重臣ので、興元と幸松丸の執政職を務めていた。興元の執権時に、元就に対して毛利家に奉公する際、必ず自分の援助を受けるよう
【井上党の活躍】大永四年(1524)元綱派を粛清後、坂氏庶家の志道広良は罪が及ぶと恐縮したが、元就は元兼を使者として、「このたび坂広秀が元綱の謀叛に一味したので、是非なくこれを討果たしたが、桂広澄・志道広良については多治比時代より忠勤を抽んで、今度の
【安芸八家一揆契約】永正九年(1512)3月3日、安芸には他国の守護権力に対抗するための、国人衆による一揆契約があった。つまり、安芸の分郡守護である武田氏の弱体につけ込んで領国内に侵入してくる、尼子家や大内家の外部権力に、共同で対処しようとする、安芸国
【宍戸氏との関係】興元は、帰国後に芸備の国人衆と連携を強め、安芸の天野氏、平賀氏、小早川氏、吉川氏ら8人の諸領主たちと、相互扶助の盟約を結んだ。また、中郡衆と呼ばれる三篠川流域の内藤元廉(祖父泰廉の父)、秋山親吉、井原元造らは、毛利氏に忠節を誓い、京
【興元の帰国】船岡山合戦において細川軍と戦った折、興元の部将・国司有相が、抜群の勲功を立て、後に安芸高田郡吉田村秋貞の地を興元から与えられた。興元の活躍もあり、細川澄元の軍勢を破って、京を奪還。足利義澄を追放して、義稙を再び将軍の座に据えることに成功
【15歳の松寿丸の元服「毛利元就」の誕生】永正八年(1511)、松寿丸が15歳の春を迎えると、杉の大方は佐藤某を使者に京に在陣している興元のところに向かわせ、松寿丸の元服について相談した。『陰徳太平記』のなかに、「永正八年、丹比松寿丸十五歳になり給へ
【坂氏について】坂氏は、『吉田物語』所載坂氏の系譜によると、坂氏の始祖は安芸吉田毛利家第4代元春の舎弟匡時で、大膳大夫を称した。この坂氏は代々毛利氏の執権職を務め、『毛利家文書』により分明なものは、坂氏第三代の広秋、第四代広明と続き、そのあとは広明の弟
【雨を祈って政を正す】ある年、元就の領国に日照りが続き、百姓が集まって毎日雨を祈った。元就は百姓の雨乞いを制止して、自ら潔斎して天に祈った。戦死者の跡を手厚く弔い、忠節の臣に加禄し、軍功の家に新しく物を贈って、3日の施行をした。施行終わって2日目に大雨
【少年の大志】 『江譜拾遺』、『名将言行録』に掲載された逸話に「規模」というのがある。「少輔次郎が12歳のとき、家来たちとともに安芸の厳島神社に参詣した。参詣がおわって帰りがけに、元就は家来たちに、今日お前たちは何を祈ったかと聞いた。家来たちは、みん
井上党粛清直後の10月23日付隆景宛の手紙には、「われわれなどは井上の者と共に興元死去以来40年、悉皆の者共を主人に仕り候てこらへ候。そのうちの口惜しさなとは、いかばかりとおぼしめし候や。既に40年の事に候間、長々敷かんにん、申すもおろかに候」 とある
【井上党の祖先】 井上党の祖先は、源頼信の次子・頼季と伝え、頼季が信濃高井郡井上に住んで井上を称したのに始まるが、南北朝時代にその子孫が安芸吉田に移住し、元就の曾祖父・熙元の時代に、毛利氏の姻戚となった。 元就の父・弘元の時代に、井上光兼が毛利家の家
【驍将・毛利煕元】 毛利煕元は、室町時代の武将で、父は毛利光房。幼名は少輔太郎。戦いに明け暮れた驍将である。初めは父の一字を受けて煕房と名乗り、のち煕元に改名。「元」は祖先の大江広元や曽祖父・元春の偏諱に由来するもので、煕元以降の当主も代々通字として
【ザビエル来日】山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによっ
【毛利氏中興の祖・毛利元春】 毛利元春は、13歳で元服し、曽祖父・時親の代官として足利尊氏に一貫して従った。その忠勤により足利家執事高師直の兄弟・師泰から一字拝領し師親を名乗る。後に元春と改名。暦応四年(1341)、元春の後見役の曾祖父・時親が死去。
【安芸毛利氏の始祖・初代郡山城主の毛利時親】 安芸毛利氏の基盤を固めたとされる時親は、鎌倉、南北朝時代の武将で経光の四男である。 文永七年(1270)、父・経光は、越後佐橋荘を南北二つに分け、長鳥川より以南を南条荘、長鳥川以北を北条荘という様に呼び、
【毛利氏発祥の毛利季光】毛利季光は、建保六年(1218)から承久三年(1221)の間に長楽寺の隆寛に帰依して出家し、法名を西阿といった(『神奈川県史』通史編1原始・古代・中世)。その関係で隆寛は季光の所領である毛利荘に招かれ、晩年をそこで過ごし、毛利荘
【毛利家の家紋「一文字三つ星紋」】 室町幕府を経て戦国時代を迎えるまでの間に、公家は名誉のみを残して勢力を弱め、代わって武家が政治の中枢を握ようになり、家紋の担い手も武家の手に移っていった。武家政権が維持される中、家紋が「地位の象徴」として位置付けられ
毛利氏の系譜は、その祖を天穂日命という神別系図に繋がり、途中、大江音人などを経て、季光にいきついている。つまり大江氏の末裔であった。しかし、江戸時代の初期に毛利氏が徳川幕府に提出した『寛永家譜』では毛利氏の祖は平城天皇とし、皇別系譜に属していることにな
【家女房】家女房は弘元の側室で難波氏の出というだけで名前も年齢も伝わっていない。別名に御袋様とも呼ばれる。父は難破勘兵衛元房、或は佐々木某と諸説があるが定かではないが、三男元綱、次女八幡の上様、三女相合の大方、四女松姫、五女竹姫の一男四女を儲ける。郡
【美作について】 美作は古くから「境目の地域」と言われ、尼子家、毛利家、織田家等の大勢力の侵攻を度々受けていた。そして、何よりも美作には、強大な領主権力が存在しなかった事が知られている。南北朝以降、主に山名氏や赤松氏が守護として任命されたが、その関連史