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場所にまつわる記憶と省察
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2017/06/21

場所にまつわる記憶と省察さんの人気ランキング

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  • 終の住処にふさわしいカナダ、ビクトリア地方

    終の住処にふさわしいカナダ、ビクトリア地方

    最後に訪れたのはカナダ最西部にある州都ヴィクトリアだった。カナダの中でも季候温暖で、カナダ人が人生の最後にはそこに住みたいと念じている場所であるとされる。雪の中から明るい街に来ただけに、見るものすべてが輝いていた。ヴィクトリアはバンクーバー島の最南端にある街で、別名、ガーデンアイランドの名で呼ばれている。というのも、歴史的な背景から、英国の影響が色濃く残る街並みには花が溢れ、議事堂をはじめ、歴史ある建物が散見されるからである。ダウンタウンには、港を囲むように美しい遊歩道が整い、多くの古い建物を活かした店が立ち並ぶなど、風情ある街並みがつづく。海岸沿いの遊歩道には人々があふれ、ある者は陽光の下、ぼんやりくつろぐ者、路上演奏を楽しむ者とさまざまな形で、ゆるやかに流れる時を過ごしていた。聞くところによれば、カナ...終の住処にふさわしいカナダ、ビクトリア地方

  • 真間川、国府台、矢切りの渡し

    真間川、国府台、矢切りの渡し

    市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。この地は、作家の永井荷風が、戦後の一時期住んだことのある町で、荷風は、当時のありさまを随筆に詳しく書き残している。実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにある...真間川、国府台、矢切りの渡し

  • 戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

    戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

    すでに11月のなかばである。戸隠高原は冬の気配であった。夏のシーズンには若者たちで賑わう高原も、今はひっそりとしていて、紅葉のピークをこえた色あせた黄葉をつけた雑木が、長く寒い冬を前にして、身をかたくしている様子であった。バスは、正面にひろがる戸隠宝光社の森を仰ぎつつ登り坂をゆくと、やがて門前の集落に着く。人影のない戸隠宝光社の社前に降り立った時には、鉛色のどんよりした空から、ちらほら小雪が舞い落ちてきた。戸隠神社のひとつ宝光社は、山を背にした杉林のなかに鎮座している。古びた鳥居をくぐり、長い石段を踏みしめてのぼると、そこに古格の社殿が姿をあらわした。唐破風の張り出した本殿は、規模はさほどではないが、いかにも時をへた味わいがあり、森厳な雰囲気に満ちている。軒下をのぞいて見る。そこには華麗とも言える装飾が各...戸隠山・・・農業神を祀る修験の霊地

  • 善光寺・・・不思議を秘める万民の寺

    善光寺・・・不思議を秘める万民の寺

    何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれ...善光寺・・・不思議を秘める万民の寺

  • 身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域

    身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域

    不思議なもので、何がしか聖なる雰囲気が漂う場所というものがあるものである。その地に、一歩踏み入ることで、そこにただならぬ、神々しい空気が流れていることを感じるのだ。聖なる場所に聖なる雰囲気が醸し出されるのはどういう作用によるものなのかを実体験したい思いにかられて、秋のある日、身延山に登った。身延線の身延駅からバスに揺られること1時間ばかり。途中、ゆったり蛇行する富士川の広い川筋に沿う富士川街道を走る。やがて、富士川の本流と分かれ、その一支流、早川に付き従うように山中の崖道に沿ってバスは進む。進むほどに、いよいよ山深い地に入りこんだ感を濃くする。赤沢の集落を谷あいに見たのは、すでに陽が山の端を離れ、冷気が身体を包みこむ時刻であった。赤沢は、ちょうど南アルプス南端の山あい、身延山を南に見る位置にある。古くから...身延山・・・日蓮が籠もった奥域

  • かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

    かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

    江戸時代以来盛んであった大山詣でを実地体験するために、晩秋のとある日曜日、大山をめざした。かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎える...かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

  • 日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

    日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

    日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。新装なった朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると、正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、...日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

  • かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

    かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

    富山市の郊外、富山湾に注ぐ神通川の河口にある岩瀬という地区がある。この地は、幕末から明治にかけて北前船交易で栄えた港町だ。そこは富山駅北口から富山ライトレール富山港線という路面電車で約20分のところにある。東岩瀬駅という、瀟洒な駅に降りたち、少し歩くと、目の前に閑静な古町があらわれる。街道(旧北國街道)の両側に古風な商家風の建物が立ち並び、いかにも、ここがかって北前船で賑わった地であることをうかがわせる。ゆっくりと、通りの左右に注意を払いながら歩を進める。かつて、この通りには廻船問屋が立ち並んでいたというだけに、格式を感じさせる建物群が並んでいる。いずれも二階建ての町家で、東岩瀬廻船問屋型町家とよばれるものである。なかに往時の廻船問屋の家屋をそのままに残している森家という建物があった。明治初年に建てられた...かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

  • 恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

    恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

    慈覚大師がはじめてこの地を訪れて霊地として開山したと伝えられる恐山は、ひょっとすると、大師が発見する以前からそのような場所性をもちあわせた地であったのではないか。私にはそう思えたのである。岩原のなかにつくられた巡拝道は順路があってなきがごとしであった。あちらこちらで噴気がたちのぼり、硫黄の臭いがたちこめる中を右に曲がり左に曲がりながら歩んでゆく。ふいに、「ここはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる」の「地蔵和讚」の一節が浮かびあがる。草木も見当たらない巡拝路はまさに冥界のなかをさまよう気分である。ひときわ大きな岩のかたまりには「無間地獄」という名がつけられていた。無限につづく地獄。それはどんな地獄なのか。現世にあるものなのか、はたまた来世にあるものなのか。慈覚大師坐禅石という場所があった。そこには大き...恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

  • “恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

    “恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

    野辺地からたった一輌の気動車にゆられ、いよいよ恐山に向かうことになった。以前から一度は訪ねたいと思っていた恐山である。下北半島は、よくマサカリの形をしていると形容される。そのマサカリの本体部分に向かって気動車は進む。この大湊線は、ほぼ海岸部にそって走る鉄道のように地図を眺めると思えるが、車窓から海を見わたせる箇所はじっさいはそれほど多くはない。そんななかでも、はるか海のかなたの水平線上に、たなびく雲かと見まがう陸地が連なるのを見ることがある。それにしても素朴な海岸風景である。人影のない砂浜にうち寄せる波。船小屋だろうか。苫屋がひっそりと建っている。そのそばに小さな船がつながれている。海辺といえば、このような風景が昔はよく見られたものであった。小一時間ほど走ったあと列車は下北駅に着いた。すでに、あたりに夕闇...“恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

  • 龍馬遭難の地の記憶ーその2

    龍馬遭難の地の記憶ーその2

    不思議な因縁だが、この伊東は、龍馬が暗殺された数日前に、龍馬を訪ね(伊東は龍馬の隠れ家を知っていたのである)新撰組が狙っているので身辺を警戒するように忠告している。その伊東が、龍馬暗殺の三日後、こともあろう、新撰組の手に掛かって惨殺されたのである。その日は奇しくも坂本、中岡の葬儀が行われた日であった。葬儀は坂本、中岡、下僕の藤吉等3名の合同葬としてとり行われた。夕刻、近江屋から三つの棺が出て、それらを海援隊や陸援隊士がかつぎ、その後を、土佐、薩摩の藩士が列をなし、葬列は二町ほど続く盛大なものだった。葬列を幕吏が襲うかも知れないという情報があり、拳銃を懐に刀の鯉口を切って行く者などがいて、悲壮の感が漲っていたという。そして、遺骸は、東山の高台寺の裏山墓地に手厚く葬られたのである。墓標の文字は桂小五郎の揮毫に...龍馬遭難の地の記憶ーその2

  • 龍馬遭難の地の記憶ーその1

    龍馬遭難の地の記憶ーその1

    京都はすでに冬の気配であった。冷たい雨が朝からしとしと降りつけていた。鴨川の川面を吹き抜ける風が橋をわたる人の頬を凍らせた。今しがた、雨装束で四条大橋を渡って行く黒い一団があった。橋の途中まで来ると、何を思ったか、彼らは雨装束を川に投げ捨てた。皆一様に押し黙っているが、そこには鋭い殺気が漂っていた。慶応3年11月15日(新暦12月10日)の夜、今の時刻でいえば八時過ぎのことである。四条通りにはまだ、雨中とはいえ人影が多く行き交っていた。黒い一団は、橋をわたり終えると、四条通りを進み、河原町通りを北に歩いた。そして、蛸薬師下ルところにある醤油商近江屋の前でぴたりと止まった。主立ちと思われる男がなにごとか指図すると、あらかじめ決めてあったのであろう、三つの黒い影が客を装う風にして店の中に押し入った。店の中に押...龍馬遭難の地の記憶ーその1

  • 明日香幻想ーその2

    明日香幻想ーその2

    甘橿(あまかし)の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊になって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。南北朝時代になって建てられたものという。蘇我入鹿が誅殺された現場・板蓋宮大極殿跡は、現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除いて、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。今そこに立ってみても、かつてここに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。不思議なこと...明日香幻想ーその2

  • 明日香幻想ーその1

    明日香幻想ーその1

    晩秋の十月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちである、ということだった。早速、のどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに、古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったのだろう。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常...明日香幻想ーその1

  • 野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

    野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

    町田市の北部にある野津田は、明治の10年代、自由民権運動が盛んだった頃、その一拠点になったところである。また、その運動の中心人物のひとり、豪農石阪昌孝の娘美那子が初めて北村透谷と出会ったことでも知られる場所でもある。野津田------その響きからしていかにものどかな田園のただ中にあるように思える地を、春の一日ぶらりと訪れてみた。JR町田駅前からバスで行くこと30分ほど。鎌倉街道に沿って走るバスは、次第に田園のたたずまいが色濃くなる風景の中を走る。田植え前の水田には、レンゲが紫色の絨毯を色鮮やかに広げていた。それを見やりながら、私は、ある懐かしい記憶を呼び起こしていた。それは小学校の二、三年頃であったように思う。ヒバリのさえずる田圃道をカバンを背負い学校へ通った頃の記憶である。畦道にはハコベやヨモギの若草が...野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

  • 東京のランドマークー上野の西郷像

    東京のランドマークー上野の西郷像

    かつて東京が幾度かの災害に見舞われ、廃墟に近い状態に陥った際にも、その東京を静かに見守っていたひとつの像があった。西郷さんの銅像で知られる、あの犬を連れた銅像である。その西郷さんは単衣の着流しスタイルで、草履をはき、短剣を差している。右脇に、やや胴長の小型の和犬を連れている。西郷さんといえば、巨漢の体躯と相場が決まっているが、銅像も全体がずんぐりとしていて、大きな目、いが栗頭が、まぎれもなく西郷さんである。この銅像ができたのは明治30年、工事が始まったのが明治26年だから、四年の歳月をかけて造られたものである。明治22年2月、憲法発令の大赦で許され、正三位を贈位された西郷さんの遺徳を偲ぼうと、旧友、同志が相はかって、建像を発議したと、由来書には書かれている。さらに由来書はいう。建像のための資金としては、天...東京のランドマークー上野の西郷像

  • 三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

    三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

    三ノ輪の浄閑寺といえば、またの名を投げ込み寺で知られる寺である。投げ込み寺の由来は、遊里吉原に身を沈め、そこで不幸にも命を落とした身寄りのない遊女たち二万五千人余りを、投げ込み同然の状態でその寺に埋葬したことによる。東京メトロ日比谷線三ノ輪駅を出て、商店街を東に少し入ると下町には珍しく、そこだけ濃い緑に包まれる一角がある。山門をくぐり、秋の日が長い影を落とす境内に足を踏み入れると、ふいにあたりの物音が絶え、不思議なくらいの静寂に包まれる。投げ込み寺と知って訪れるせいか、寺に漂う雰囲気がなにやらいわくあり気である。この寺のある地は、かつて吉原への遊客が足繁く通った、日本堤の入口にあたる場所にあった。日本堤と呼ばれたのは、当時そこに音無川という細流があり、流れに沿って土手が連なっていたためである。吉原への遊客...三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

  • 新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

    新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

    新撰組局長芹澤鴨が誅殺されたのは文久三年(1863)9月18日のことだ。その日、久しぶりに島原にある角屋総揚げの宴会が催された。これは当時、京都所司代の任に当たっていた会津侯からお手当が出たということで行われたものだった。生憎、朝から雨模様の日で、夜に入ってからは篠突くような雨が降りつけていた。昼頃になると、すでに隊士たちが三々五々角屋に集まりだしていた。宴会がはじまるといつものように座は大いに賑わった。その日ばかりは誰も無礼講で呑み、騒ぐのが習わしだった。なかでも、ことのほか局長筆頭の芹澤は機嫌よく酔い大声でわめき立てていた。その泥酔ぶりはいつになく目立つものだった。芹澤は酒乱気味で乱暴狼藉する性癖があったが、その日はそういうこともなかった。酔いすぎたのか、芹澤は、宴会もそこそこに中座し、一足早く駕篭に...新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

  • 虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

    虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

    荒川土手のほとりのとある寺に、大震災の余韻いまださめやらない大正12年(1929)の暮れ、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車を狙撃した犯人、難波大助の墓があるらしい、というひそやかにひろまっていた伝聞を、千住に生まれ育った私が耳にしたのは、たしか中学生の頃だった。その噂は、東京という都会のはずれに位置する、千住という町にいつの頃からか、よどんだ空気のように漂っていたもので、それが子供の私にも、いつしかもたらされたのであった。それを耳にした時は、大人の秘密めいた世界の一端を知ってしまったような妙な気持ちにとらわれたものだった。死刑囚の墓が自分の住む町の某寺にあるという事実は、その墓がどういう事件にかかわった人物のものなのか定かではなかったものの、私の興味をそそるに充分だった。私には...虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

  • 風布異聞

    風布異聞

    風布と書いて「ふうぷ」と読む。この聞きなれない地名が秩父山中にあるということを知る人は少ないであろう。風布は現在地番でいうと埼玉県大里郡寄居町と秩父郡長瀞町にまたがって所在する集落で、今なお交通不便な山峽の地にある。地形的にいうと、そこは、秩父山中を北に流れ下った荒川が長瀞あたりで東に大きく向きを変え、さらに、下流の寄居町方面に流れ下ることによってできた、弧状の山域のちょうど中ほどに位置している。地図を眺めて見ても、その地がかなりの山奥で、地形も入り組んだ峻険な地であることが分かる。村の南端には釜伏山が控え、そこを源とする風布川が村落の東側を北流している。そして、川は七つの支流を集めながら荒川に注いでいる。この風布川の水源に「日本(やまと)水大神」なる水神さまが祀られている。言い伝えによると、その昔、日本...風布異聞

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