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2017/06/21

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  • 戸隠山 ・・・農業神を祀る修験の霊地

    すでに11月のなかばである。戸隠高原は冬の気配であった。夏のシーズンには若者たちで賑わう高原も、今はひっそりとしていて、紅葉のピークをこえた色あせた黄葉をつけた雑木が、長く寒い冬を前にして、身をかたくしている様子であった。バスは、正面にひろがる戸隠宝光社の森を仰ぎつつ登り坂をゆくと、やがて門前の集落に着く。人影のない戸隠宝光社の社前に降り立った時には、鉛色のどんよりした空から、ちらほら小雪が舞い落ちてきた。戸隠神社のひとつ宝光社は、山を背にした杉林のなかに鎮座している。古びた鳥居をくぐり、長い石段を踏みしめてのぼると、そこに古格の社殿が姿をあらわした。唐破風の張り出した本殿は、規模はさほどではないが、いかにも時をへた味わいがあり、森厳な雰囲気に満ちている。軒下をのぞいて見る。そこには華麗とも言える装飾が各...戸隠山・・・農業神を祀る修験の霊地

  • 善光寺・・・不思議を秘める万民の寺

    何かのたとえに、「牛にひかれて善光寺参り」と言われることがあるが、これは「他人に誘われて、知らないうちによい方向に導かれる」というほどの意味である。ところで、この箴言のいわれには、次のような言い伝えが残っている。善光寺近くに、ひとりの強欲で不信心な老婆が住んでいたという。ある日、その老婆が家の軒先に長い布を晒しておくと、隣家の牛がそれを角にひっかけて持ち去った。それを見た、件の老婆は、その布を取り戻そうと、牛を追って善光寺に駆け込んだ。すると、そこで仏の光明を得るという幸運に恵まれたというのである。じつは牛は善光寺の本尊である如来の化身だったという。この言い伝えは、善光寺が万民にとっていかに霊験あらたかな寺院であるか、ということを伝える内容である。その霊験の一端に触れてみようと、晩秋のある日、「牛にひかれ...善光寺・・・不思議を秘める万民の寺

  • 身延山 ・・・日蓮が籠もった奥域

    不思議なもので、何がしか聖なる雰囲気が漂う場所というものがあるものである。その地に、一歩踏み入ることで、そこにただならぬ、神々しい空気が流れていることを感じるのだ。聖なる場所に聖なる雰囲気が醸し出されるのはどういう作用によるものなのかを実体験したい思いにかられて、秋のある日、身延山に登った。身延線の身延駅からバスに揺られること1時間ばかり。途中、ゆったり蛇行する富士川の広い川筋に沿う富士川街道を走る。やがて、富士川の本流と分かれ、その一支流、早川に付き従うように山中の崖道に沿ってバスは進む。進むほどに、いよいよ山深い地に入りこんだ感を濃くする。赤沢の集落を谷あいに見たのは、すでに陽が山の端を離れ、冷気が身体を包みこむ時刻であった。赤沢は、ちょうど南アルプス南端の山あい、身延山を南に見る位置にある。古くから...身延山・・・日蓮が籠もった奥域

  • かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

    江戸時代以来盛んであった大山詣でを実地体験するために、晩秋のとある日曜日、大山をめざした。かつて江戸から大山詣でに出かけるには、幾つかのルートがあった。東海道を下り、藤沢から相州大山道を行く表ルート、これに対して、大山街道(矢倉沢往還)を厚木、伊勢原経由でたどるルート、途中、厚木街道から分かれて登戸経由で行く登戸ルート、それに中原街道をたどるルートなど幾つかの脇往還があった。時代によって、これらのルートにははやりすたりがあったらしいが、天保2年(1831)の記録によると、夏のシーズン(7月26日~8月17日)だけでも10万人もの参詣客が訪れたというから、かなりの賑わいであったことが知れる。ところで、現代の大山詣では、小田急線の伊勢原駅を起点にする。駅を降りると、目の前にどっしりとした銅製の大鳥居が出迎える...かつて大山詣で栄えた山(神奈川)

  • 日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

    日光山内に秘められる聖なるものの実体とはいかなるものか、それを実感しようと、一日、日光山中をさまよってみた。東武線の日光駅を降り、羊羹や湯葉を並べるみやげ屋や手打ち蕎麦屋などが建ち並ぶ、やや登り勾配の参道をしばらく歩くと、やがて、前方に鬱蒼たる緑におおわれた森があらわれる。新装なった朱塗りの神橋を左手に見ながら大谷川(だいやがわ)に架かる日光橋をわたる。清涼感がみなぎるのは、瀬音を立てて流れる大谷川の清流を眼下にしているせいかも知れない。これよりいよいよ神域に踏み入るのだという実感が強くわきあがる。あたりの樹木がはや色づきはじめている。橋をわたり終えると、正面、繁みの中に蛇王権現を祀る小さな祠を見る。その昔、日光開山の祖とされる勝道上人一行がこの地を訪れた時に、大谷川の急流に立ち往生してしまった。すると、...日光山ー山域にひそむ星辰信仰を探る

  • かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

    富山市の郊外、富山湾に注ぐ神通川の河口にある岩瀬という地区がある。この地は、幕末から明治にかけて北前船交易で栄えた港町だ。そこは富山駅北口から富山ライトレール富山港線という路面電車で約20分のところにある。東岩瀬駅という、瀟洒な駅に降りたち、少し歩くと、目の前に閑静な古町があらわれる。街道(旧北國街道)の両側に古風な商家風の建物が立ち並び、いかにも、ここがかって北前船で賑わった地であることをうかがわせる。ゆっくりと、通りの左右に注意を払いながら歩を進める。かつて、この通りには廻船問屋が立ち並んでいたというだけに、格式を感じさせる建物群が並んでいる。いずれも二階建ての町家で、東岩瀬廻船問屋型町家とよばれるものである。なかに往時の廻船問屋の家屋をそのままに残している森家という建物があった。明治初年に建てられた...かつて北前船交易で栄えた港町・岩瀬

  • 恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

    慈覚大師がはじめてこの地を訪れて霊地として開山したと伝えられる恐山は、ひょっとすると、大師が発見する以前からそのような場所性をもちあわせた地であったのではないか。私にはそう思えたのである。岩原のなかにつくられた巡拝道は順路があってなきがごとしであった。あちらこちらで噴気がたちのぼり、硫黄の臭いがたちこめる中を右に曲がり左に曲がりながら歩んでゆく。ふいに、「ここはこの世のことならず、死出の山路の裾野なる」の「地蔵和讚」の一節が浮かびあがる。草木も見当たらない巡拝路はまさに冥界のなかをさまよう気分である。ひときわ大きな岩のかたまりには「無間地獄」という名がつけられていた。無限につづく地獄。それはどんな地獄なのか。現世にあるものなのか、はたまた来世にあるものなのか。慈覚大師坐禅石という場所があった。そこには大き...恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその2

  • “恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

    野辺地からたった一輌の気動車にゆられ、いよいよ恐山に向かうことになった。以前から一度は訪ねたいと思っていた恐山である。下北半島は、よくマサカリの形をしていると形容される。そのマサカリの本体部分に向かって気動車は進む。この大湊線は、ほぼ海岸部にそって走る鉄道のように地図を眺めると思えるが、車窓から海を見わたせる箇所はじっさいはそれほど多くはない。そんななかでも、はるか海のかなたの水平線上に、たなびく雲かと見まがう陸地が連なるのを見ることがある。それにしても素朴な海岸風景である。人影のない砂浜にうち寄せる波。船小屋だろうか。苫屋がひっそりと建っている。そのそばに小さな船がつながれている。海辺といえば、このような風景が昔はよく見られたものであった。小一時間ほど走ったあと列車は下北駅に着いた。すでに、あたりに夕闇...“恐山--霊気たちこめる岩原の地獄極楽ーその1

  • 龍馬遭難の地の記憶ーその2

    不思議な因縁だが、この伊東は、龍馬が暗殺された数日前に、龍馬を訪ね(伊東は龍馬の隠れ家を知っていたのである)新撰組が狙っているので身辺を警戒するように忠告している。その伊東が、龍馬暗殺の三日後、こともあろう、新撰組の手に掛かって惨殺されたのである。その日は奇しくも坂本、中岡の葬儀が行われた日であった。葬儀は坂本、中岡、下僕の藤吉等3名の合同葬としてとり行われた。夕刻、近江屋から三つの棺が出て、それらを海援隊や陸援隊士がかつぎ、その後を、土佐、薩摩の藩士が列をなし、葬列は二町ほど続く盛大なものだった。葬列を幕吏が襲うかも知れないという情報があり、拳銃を懐に刀の鯉口を切って行く者などがいて、悲壮の感が漲っていたという。そして、遺骸は、東山の高台寺の裏山墓地に手厚く葬られたのである。墓標の文字は桂小五郎の揮毫に...龍馬遭難の地の記憶ーその2

  • 龍馬遭難の地の記憶ーその1

    京都はすでに冬の気配であった。冷たい雨が朝からしとしと降りつけていた。鴨川の川面を吹き抜ける風が橋をわたる人の頬を凍らせた。今しがた、雨装束で四条大橋を渡って行く黒い一団があった。橋の途中まで来ると、何を思ったか、彼らは雨装束を川に投げ捨てた。皆一様に押し黙っているが、そこには鋭い殺気が漂っていた。慶応3年11月15日(新暦12月10日)の夜、今の時刻でいえば八時過ぎのことである。四条通りにはまだ、雨中とはいえ人影が多く行き交っていた。黒い一団は、橋をわたり終えると、四条通りを進み、河原町通りを北に歩いた。そして、蛸薬師下ルところにある醤油商近江屋の前でぴたりと止まった。主立ちと思われる男がなにごとか指図すると、あらかじめ決めてあったのであろう、三つの黒い影が客を装う風にして店の中に押し入った。店の中に押...龍馬遭難の地の記憶ーその1

  • 明日香幻想ーその2

    甘橿(あまかし)の丘を間近に見る飛鳥寺は、のどかな田園の中に建っている。時折、観光バスでやって来た団体客が一塊になって寺を徘徊するが、それもいっときで、またもとの静かな静寂が戻る。境内を抜け、甘橿の丘を望む寺の裏手に出ると、そこには蘇我入鹿の首塚と呼ばれている五輪塔がぽつりと立っている。南北朝時代になって建てられたものという。蘇我入鹿が誅殺された現場・板蓋宮大極殿跡は、現在は史跡公園になっている。そこは北方向を除いて、三方を小丘に囲まれた見晴らしのいい野っ原で、ほぼ真北に天香山を望み、西に飛鳥川が流れ、そのほとりには甘橿丘のこんもりとした山影を視野に収めるという場所である。今そこに立ってみても、かつてここに大極殿が建っていたなど想像もできない。山間の田舎びた野面の盆地風景が広がるばかりである。不思議なこと...明日香幻想ーその2

  • 明日香幻想ーその1

    晩秋の十月のある日、ローカル色あふれる飛鳥駅に降り立つ。朝の光が満ちる前の、夜明け間もない時刻であった。爽やかな風が頬をなでて過ぎる。駅を出て周囲を見渡した時の最初の印象は、この地が想像していた以上に山勝ちである、ということだった。早速、のどかな田園風景の中を東に向かって歩きだす。辺り一帯に雅やかな色香が漂う。陽はようやく山の端から離れ、朝の光が東の方角から満ちあふれてきている。私は歩きながら、古代人が東の方角に特別の意味を認めていた理由が分かるような気がした。東が日に向かう方向であり、それ故に生命あふれるものたちが住まう地としてとらえられていたことを実感した。飛鳥の地はまさに、古代人が「東に美しき地はあり」として選びとった場所としては最適な地であったのだろう。古代人は「日の向く方向」にこそ彼らが求める常...明日香幻想ーその1

  • 野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

    町田市の北部にある野津田は、明治の10年代、自由民権運動が盛んだった頃、その一拠点になったところである。また、その運動の中心人物のひとり、豪農石阪昌孝の娘美那子が初めて北村透谷と出会ったことでも知られる場所でもある。野津田------その響きからしていかにものどかな田園のただ中にあるように思える地を、春の一日ぶらりと訪れてみた。JR町田駅前からバスで行くこと30分ほど。鎌倉街道に沿って走るバスは、次第に田園のたたずまいが色濃くなる風景の中を走る。田植え前の水田には、レンゲが紫色の絨毯を色鮮やかに広げていた。それを見やりながら、私は、ある懐かしい記憶を呼び起こしていた。それは小学校の二、三年頃であったように思う。ヒバリのさえずる田圃道をカバンを背負い学校へ通った頃の記憶である。畦道にはハコベやヨモギの若草が...野津田ー北村透谷、美那子出逢いの里

  • 東京のランドマークー上野の西郷像

    かつて東京が幾度かの災害に見舞われ、廃墟に近い状態に陥った際にも、その東京を静かに見守っていたひとつの像があった。西郷さんの銅像で知られる、あの犬を連れた銅像である。その西郷さんは単衣の着流しスタイルで、草履をはき、短剣を差している。右脇に、やや胴長の小型の和犬を連れている。西郷さんといえば、巨漢の体躯と相場が決まっているが、銅像も全体がずんぐりとしていて、大きな目、いが栗頭が、まぎれもなく西郷さんである。この銅像ができたのは明治30年、工事が始まったのが明治26年だから、四年の歳月をかけて造られたものである。明治22年2月、憲法発令の大赦で許され、正三位を贈位された西郷さんの遺徳を偲ぼうと、旧友、同志が相はかって、建像を発議したと、由来書には書かれている。さらに由来書はいう。建像のための資金としては、天...東京のランドマークー上野の西郷像

  • 三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

    三ノ輪の浄閑寺といえば、またの名を投げ込み寺で知られる寺である。投げ込み寺の由来は、遊里吉原に身を沈め、そこで不幸にも命を落とした身寄りのない遊女たち二万五千人余りを、投げ込み同然の状態でその寺に埋葬したことによる。東京メトロ日比谷線三ノ輪駅を出て、商店街を東に少し入ると下町には珍しく、そこだけ濃い緑に包まれる一角がある。山門をくぐり、秋の日が長い影を落とす境内に足を踏み入れると、ふいにあたりの物音が絶え、不思議なくらいの静寂に包まれる。投げ込み寺と知って訪れるせいか、寺に漂う雰囲気がなにやらいわくあり気である。この寺のある地は、かつて吉原への遊客が足繁く通った、日本堤の入口にあたる場所にあった。日本堤と呼ばれたのは、当時そこに音無川という細流があり、流れに沿って土手が連なっていたためである。吉原への遊客...三ノ輪・浄閑寺・新吉原総霊塔を訪れて

  • 新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

    新撰組局長芹澤鴨が誅殺されたのは文久三年(1863)9月18日のことだ。その日、久しぶりに島原にある角屋総揚げの宴会が催された。これは当時、京都所司代の任に当たっていた会津侯からお手当が出たということで行われたものだった。生憎、朝から雨模様の日で、夜に入ってからは篠突くような雨が降りつけていた。昼頃になると、すでに隊士たちが三々五々角屋に集まりだしていた。宴会がはじまるといつものように座は大いに賑わった。その日ばかりは誰も無礼講で呑み、騒ぐのが習わしだった。なかでも、ことのほか局長筆頭の芹澤は機嫌よく酔い大声でわめき立てていた。その泥酔ぶりはいつになく目立つものだった。芹澤は酒乱気味で乱暴狼藉する性癖があったが、その日はそういうこともなかった。酔いすぎたのか、芹澤は、宴会もそこそこに中座し、一足早く駕篭に...新撰組局長芹沢鴨を暗殺したのは誰れ?

  • 虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

    荒川土手のほとりのとある寺に、大震災の余韻いまださめやらない大正12年(1929)の暮れ、議会開院式に臨席する途上の皇太子(のちの昭和天皇)のお召し車を狙撃した犯人、難波大助の墓があるらしい、というひそやかにひろまっていた伝聞を、千住に生まれ育った私が耳にしたのは、たしか中学生の頃だった。その噂は、東京という都会のはずれに位置する、千住という町にいつの頃からか、よどんだ空気のように漂っていたもので、それが子供の私にも、いつしかもたらされたのであった。それを耳にした時は、大人の秘密めいた世界の一端を知ってしまったような妙な気持ちにとらわれたものだった。死刑囚の墓が自分の住む町の某寺にあるという事実は、その墓がどういう事件にかかわった人物のものなのか定かではなかったものの、私の興味をそそるに充分だった。私には...虎ノ門事件ー封印された大逆人の痕跡

  • 風布異聞

    風布と書いて「ふうぷ」と読む。この聞きなれない地名が秩父山中にあるということを知る人は少ないであろう。風布は現在地番でいうと埼玉県大里郡寄居町と秩父郡長瀞町にまたがって所在する集落で、今なお交通不便な山峽の地にある。地形的にいうと、そこは、秩父山中を北に流れ下った荒川が長瀞あたりで東に大きく向きを変え、さらに、下流の寄居町方面に流れ下ることによってできた、弧状の山域のちょうど中ほどに位置している。地図を眺めて見ても、その地がかなりの山奥で、地形も入り組んだ峻険な地であることが分かる。村の南端には釜伏山が控え、そこを源とする風布川が村落の東側を北流している。そして、川は七つの支流を集めながら荒川に注いでいる。この風布川の水源に「日本(やまと)水大神」なる水神さまが祀られている。言い伝えによると、その昔、日本...風布異聞

  • 栃本・・・天空の里・秩父最奥の村

    山里の原風景といったものがあるとすれば、そのひとつに秩父山塊の奥処に位置する栃本をあげることができそうである。満々と水をたたえる秩父湖を左手に眺めながら、国道140号線をさらに行くこと数キロ、前方の街道沿いに、肩を寄せ合うように建ち並ぶ低い家並みが見えくる。そこが栃本の集落である。現在の地番でいうと、秩父郡大滝村大字大滝字栃本となる。そこは白泰山から東に重々と連なる山稜の南斜面にあり、村の南側は深く切れ込んだ荒川がV字谷をなしている。それにしても、初めてこの地に足を踏み入れた時の印象は強烈だった。その特異な景観に思わず息をのんだものだ。平坦地がなく、尾根側から谷に向かって、急激に崩れ落ちる斜面ばかりの地である。それを目にした時に私は軽い目眩のようなものに襲われた。その体験は、ちょうど、傾きながら滑空する飛...栃本・・・天空の里・秩父最奥の村

  • 壬生屋敷探訪ー新撰組発祥の地

    新撰組局長芹澤鴨が誅殺されたのは文久三年(1863)9月18日のことだ。その日、久しぶりに島原にある角屋総揚げの宴会が催された。これは当時、京都所司代の任に当たっていた会津侯からお手当が出たということで行われたものだった。生憎、朝から雨模様の日で、夜に入ってからは篠突くような雨が降りつけていた。昼頃になると、すでに隊士たちが三々五々角屋に集まりだしていた。宴会がはじまるといつものように座は大いに賑わった。その日ばかりは誰も無礼講で呑み、騒ぐのが習わしだった。なかでも、ことのほか局長筆頭の芹澤は機嫌よく酔い大声でわめき立てていた。その泥酔ぶりはいつになく目立つものだった。芹澤は酒乱気味で乱暴狼藉する性癖があったが、その日はそういうこともなかった。酔いすぎたのか、芹澤は、宴会もそこそこに中座し、一足早く駕篭に...壬生屋敷探訪ー新撰組発祥の地

  • ニコライ堂

    お茶の水界隈にあるランドマークといえばまず、駿河台の台地上にあるニコライ堂をあげることができよう。駿河台下からJRお茶の水駅へ向かうゆったりした坂道を上って行くと、左手に緑色がかったドームを目にする。周囲の近代的な建物の間からひっそりと姿を覗かせている円屋根。そのさまは、東京の猥雑な町並みに絶妙に溶けあって気品ある美しさをたたえている。ニコライ堂の正式の名は、「日本ハリスト正正教会教団東京復活大聖堂」という。ニコライ堂の名で呼ばれているのは、この寺院の初代主教がニコライというミンスク(現・ベラルーシの首都)生まれのロシア人であったためである。建物の建立は明治24(1891)年。設計はロシア人美術家シチュルポフ、英国人コンドルがそれを修正し完成させたものだ。コンドルはロンドンで設計を学び、明治10年来日、そ...ニコライ堂

  • 亀戸事件ー偏見と差別の地でーその2

    彼らの虐殺の模様はつぎのようなものであった。虐殺は9月4日夕刻からはじまった。亀戸署に収容された多数の朝鮮人のうち名も知れない幾人かが、まず銃殺され、それにつづいて労働組合の幹部が刺殺された。刺殺されたのは、南葛労働会の川合義虎23歳、加藤高寿30歳、山岸実司21歳、近藤広造26歳、北島吉蔵20歳、鈴木直一24歳、吉村光治24歳、佐藤欣治35歳の8名、それに純労働組合の平沢計七34歳、中筋宇八25歳の2人をくわえた計10名であった。南葛労働会の吉村、佐藤をのぞく6人は、不幸にして、南葛労働本部(亀沢町3519番地)に集まっているところを一挙に検挙されたのである。9月3日、夜10時すぎのことであった。同じ頃、純労働組合の平沢計七は、夜警から帰って家で休んでいるところを逮捕されている。警察が踏み込んだ時刻が、いずれ...亀戸事件ー偏見と差別の地でーその2

  • 亀戸事件ー偏見と差別の地でーその1

    大正12(1923)年9月1日、東京、横浜を中心にマグネチュード7・9の烈震が襲った。これにより首都壊滅という誰もが予想しなかった未曾有の事態が起きた。その混乱のなかで、「朝鮮人が暴動をくわだてている」という流言飛語が飛び交い、忌まわしい虐殺行為がくりひろげられた。私は、その事実を知った時、そうした社会心理の発生は、この令和の現代でも無関係ではないな、と直感した。あの阪神大震災の際にも、どこからともなくそのような流言が起きたと聞く。現に、昨今、白昼堂々と、排外主義にかられて「朝鮮人を殺せ」というスローガンを掲げ、デモをする集団がいるほどである。流言は不特定多数の人間が住む大都市でこそ、その真価を発揮する。都市の不透明さが流言のひろがりを容易にする。そしてそれに惑わされる人々の恐怖心も増大する。流言は場所に定着せ...亀戸事件ー偏見と差別の地でーその1

  • 秩父事件 ・・・・山の民の反乱ーその2

    困民党軍が大宮郷に入った時、郡の権力機関はすでに事の成り行きを察知して姿をくらましてしまっていた。この事態は困民党軍の予期せぬことであった。警察をはじめとする権力側の抵抗に遭うであろうことをみな予測していたのだが、実際はそうならなかった。意外な感じだった。それでも、彼らは事前の打ち合わせどおりに、郡役所、警察署、裁判所、監獄、そして高利貸を次々と急襲していった。総指揮をとったのは副総理の加藤織平である。猟銃が放たれるのを合図に、攻撃目標への乱入が始まる。書類が引き裂かれ、投棄され、その一部に火がつけられる。冷えきった空気に包まれた、決して広いとは言えない市中の街道筋には、至るところに紙切れが散乱し、そのさまは、あたかも吹雪が舞うようであったという。壊された高利貸七軒、同じく火を放たれたもの三軒。いずれも貸金証書...秩父事件・・・・山の民の反乱ーその2

  • 秩父事件 ・・・・山の民の反乱

    秩父は山深い地である。いまでこそ、その深い山をぬって、舗装された山道が通じているが、その出来事が起きた時代には、どれほどか辺鄙な山峽であったことかと想像される。地図を広げて見ると、秩父という地が荒川によって引き裂かれ、東西に分断されている盆地状の地域であることが分かる。その荒川は、山梨、埼玉、長野三県の分水嶺にあたる甲武信岳に源を発して東に流れ、さらに北流して、この盆地を貫いている。地元では、荒川を挟んで東側を東谷(ひがしやつ)、西側を西谷(にしやつ)と呼ぶ。なかでも、西谷と呼ばれる地域は、西方向に奥行き深く延びて、いずれも山深い地であることで知られている。大小の河川が谷を縫うようにしてめぐり、それら河川がつくる沢に沿って集落が点在する。集落は、よもやこのようなところにと思われる山の急斜面や、谷の底にうずくまる...秩父事件・・・・山の民の反乱

  • 桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその2

    が、ついに、その時がやって来た。彦根藩の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての、いつもながらの大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。何かを警戒する様子はなかった。手はずのとおり、十八名の男たちは、すでにそれぞれの配置についていた。彼らの出で立ちは、合羽姿の者、羽織を着る者とさまざまだった。雪の降る見通しの悪い日であったので、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側に待機していた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわをそぞろ歩いていた。さらに斎藤、蓮田、広木、...桜田門の変・・・鮮血にそまった江戸城の一角ーその2

  • 桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその1

    JR常磐線の南千住駅を降り西に少し歩くと、賑やかな商店街に出る。その通りはかつての奥州街道で、通り沿いの鉄道高架線そばに、今は鉄筋づくりになっている回向院の建物を目にする。寺は周囲に住宅街が押し寄せ、かろうじて、その体を保っているといった風に建っている。以前は、寺域もかなりあり、その背後には、広大な野晒しの地が広がっていたであろうことなど想像もできない変わりようだ。この寺の開基は古く、寛文七年(1667)といわれる。当初、この寺は行路病者の霊を弔うために建てられたものであった。回向院はもうひとつ本所にもあるが、本所の回向院が手狭になったために新たに開かれたのがこの寺だった。この地は、江戸期、小塚原と呼ばれる刑場地として知られ、江戸開府から明治に至るまでの二百数年間、ここで処刑された者は、じつに、25万人を数える...桜田門の変・・・鮮血にそまった江戸城の一角ーその1

  • 天狗党壊滅 ----- 異境の地に消えた数多の命ーその2

    天狗党の一団が一カ月以上にもわたる長旅の果てに、ようやくたどり着いた地は敦賀だった。元治元年十二月十一日のことである。ようやくのことで山中を抜け出て、日本海側に出られるという期待感が彼らには強くあった。そして、自分たちの願いがいよいよ聞き遂げられる日が近づいたという思いが、誰の胸のうちにも熱くこみあげていた。ところが、その矢先に事態が暗転したのである。敦賀の地に足を踏み入れるということは、彼らの意志が潰えさることを意味していた。やっとの思いで加賀藩領にたどりつき、京にいる慶喜に自分たちの嘆願を述べたてる文書を送った結果が、降伏せよとの返答であった。しかも驚くべき事態を知ることになった。頼りの慶喜が天狗党の追討総督になっているではないか。裏切られた思いと、なぜそのようなことになったのかが容易に呑みこめなかった。こ...天狗党壊滅-----異境の地に消えた数多の命ーその2

  • 天狗党壊滅 ・・・・異境の地に消えた数多の命ーその1

    身を切られるような雨まじりの寒風吹きすさぶなかで、三百五十三人もの捕らわれの身の者が斬罪に遭うという出来事が幕末の日本一角で起こった。それは身も心も凍りつくような凄惨な出来事であった。処刑された者たちの名を天狗党と言った。彼らは、水戸藩内の勤王攘夷をとなえる藩政改革派の集団であった。彼らが捕らわれ、処刑された場所は、水戸からはるか離れた日本海に臨む敦賀の地である。これにはわけがあった。天狗党は、自分らの主張を、当時、禁裏守衛総督の任についていた自藩の一橋慶喜に言上すべく京に向かったのである。それは気の遠くなるような遠征であった。だが、彼らの意志は結局うち砕かれることになる。幕末の歴史書のなかに、はじめて天狗党の名を発見した時には、なんと怪異な名前であることかといぶかったものである。そもそも天狗党という名は、水戸...天狗党壊滅・・・・異境の地に消えた数多の命ーその1

  • 将門伝説を歩く----- 坂東の地に起きた武士の謀反ーその2

    明くる承平七年(937)八月六日、体勢を立て直した平一族の棟梁たち、すなわち、良兼、良正、いまは亡き国香の子、貞盛の連合軍が将門をふたたび攻めた。始祖高望王の霊像をかかげた大軍は、小貝川を子飼の渡しで渡河し、途中、将門の伴類の舎宅を焼きながら、鬼怒川のほとりにあった将門の営所のひとつ鎌輪(現在の鎌庭)に向けて西進したのである。子飼の渡しは、いまのつくば市安食付近であろうか。軍勢を整える余裕がなかった将門は鬼怒川を境(堀越の渡し)に陣を固めてよく戦うが、将門の持病の脚気の再発もあって、ついに敗れる。初めての敗戦であった。この時、将門は広河の江(飯沼)の生い茂る葦の中に避難させていた妻子をつれ去られるという不祥事に遭遇する。(のちに妻子は逃げ帰るのだが)広河の江という沼は、将門の豊田の館と石井の営所とのほぼ中間にひ...将門伝説を歩く-----坂東の地に起きた武士の謀反ーその2

  • 将門伝説を歩く・・・・坂東の地に起きた武士の謀反ーその1

    どこまでも明るく曇りない空がひろがっている。目を遠くにやると、はるかかなたに、ゆるやかな裾野をひろげる筑波山の黒い山容が望める。澄みわたった大気がじつに清々しい。そんな光の満ちる風景のなかを、いま目の前を馬に鞭をあてながら東をめざして疾駆していく武士の一団がいる。狩衣姿の武将を先頭に、その郎党らしき男たちが土煙をあげながら野面を走ってゆくいまからさかのぼること千五十年ほど前の、天慶二年(939)十二月一日、平将門が謀反を起こしたという知らせが京の朝廷にもたらされた。世に天慶の乱と呼ぶ。謀反を起こした将門が根拠としていた地は鬼怒川の西域、豊田、猿島両郡一帯であった。現在の茨城県岩井市を中心とする地域である。古図をひろげて見ると、その地域は、いくつもの川が並行して流れ、沼池が点在する水郷地帯であったことがわかる。水...将門伝説を歩く・・・・坂東の地に起きた武士の謀反ーその1

  • 会津藩遠流・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその2ー

    2思うにそれは、会津人の狷介ともいえる性格にあったのではないか。それが相手に遺恨の残る結果を招いてしまった、ということではないのか。融通の利かない狷介な性格はともすれば相手の気持ちをおもんばかることのない態度となって現れる。権力に裏うちされた狷介は怖い。正義の名において、相手に容赦のない規範の順守を求める。それは往々にし、曖昧なもの、不明瞭なこと、欠けたもの一切を許さない、完膚なきまでの恭順を相手に要求する。その結果、当然、相手に遺恨が残る。日本の政治的対立がピークに達した時、会津藩が京都守護職を引き受けたことが会津の悲劇であった。西郷頼母は、藩の役割の悲劇的結末を予感して、藩主容保に諌止した。だが容保は聞く耳をもたなかった。自らの大義名分を押し立てた。容保にもある種のかたくなさを感じる。容保という人は、実は大...会津藩遠流・・・・風土性が育んだ会津人気質ーその2ー

  • 会津藩遠流 ・・・・ 風土性が育んだ会津人気質ーその1ー

    歴史的雰囲気の漂う町というものがある。長い年月をへることによって歴史の香りが色濃く出ている町。そんな町のひとつに会津若松がある。会津若松という町は盆地の中にある。町は鶴ガ城を囲むように広がっている。城は昔も今も、町のシンボルだ。今見ることのできる城は、昭和40年、コンクリート造りの城として復元したものである。かつての城は、あの戊辰戦争のさなか、灰燼に帰して、その後取り壊されてしまった。この町の歴史を語ろうとする時、やはり、幕末の一時期に起きた会津戦争について語らなければならないだろう。それは会津藩士五千人が、時の藩主松平容保を擁して、城に立て籠もり、薩長の官軍に対抗して戦った戦争である。この戦いの結果、会津という土地は怨念の逆巻く地になった。今も町の歴史の奥底に分け入れば、そこに満ち満ちている怨嗟の声にゆきつく...会津藩遠流・・・・風土性が育んだ会津人気質ーその1ー

  • 五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその2ー

    2五稜郭の築造が始まった安政という年は、ペリーの再来日によって開国が決まり、幕府が日米和親条約の締結に踏み切った年である。同じ年、ロシア、英国とも和親条約が結ばれ、その結果、下田、長崎、箱館の開港が約束される。このことで、幕府は、一層海防の強化に迫られることになる。特に幕府は蝦夷地の防備を重視、五稜郭の築造もそうした流れのなかで発意されたものであった。この五稜郭が完成する一年前の文久三年(1863)には、すでに海防の目的で、今の函館ドック辺りに弁天台場が造られ、国産の大砲を備えた砲台が出現している。この台場は安政三年(1856)に着工、七年を経て完成したものだ。一方、五稜郭の工事は安政四年の春にはじめられるが、元治元年(1864)には予算不足のため中断。計画の五分一段階での終了であった。未完成の理由は予算不足だ...五稜郭興亡・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点ーその2ー

  • 五稜郭興亡 ・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点

    1幕末から明治維新のはざまに、榎本武揚をはじめとする旧幕臣が最後の抵抗の砦とした五稜郭。その五稜郭の写真を初めて目にしたのは、たしか高校の教科書の中であったような記憶がある。星形の妙に近代的な風貌を備えた要塞というのがその時の印象だった。江戸時代の末期に築造されたとはいえ、あのように異風の要塞が造られていたことに、ある種の驚きと、不思議さを感じたものである。築造の目的と、なにゆえに函館という地に造られたのか、それが長い間、私の関心事であった。いつか訪れてみたいと、以前から心に描いていた五稜郭をある年の二月、ふいに訪ねることになった。雪が舞い散る、まさに冬のさなかである。函館に着いたその日は、前日来の雪で、町は白一色に包まれていた。さっそく、函館駅前から市電に乗り、凍りついたような町をぬけて五稜郭に向かう。五稜郭...五稜郭興亡・・・・泡と消えた蝦夷政府の拠点

  • おばさん

    およねは、一年前働き者の亭主を亡くした。無口だが頼りがいのある優しい男だった。二度流産して子供の産めない身体になっても、亭主の兼蔵はおよねを、羽根でかばうようにいたわるところがあった。間もなく四十になるおよねは一人ぽっちになった。ある日、注文先に内職の仕上り物をを届けて帰ると、裏店の井戸端に倒れている人の影をみてゾッとした。男は、名を忠吉といい十九歳の桶職人だった。聞けば、仕事にありつくために、人を探しているという。空腹をごまかそうと、水を飲もうとして気を失ったと、顛末を話した。飯を出してやると見苦しいほどがつがつ食べたが、汚れた着物に似合わず、きっちり両膝を揃えて座り、言葉遣いも丁寧な、礼儀正しい好青年に見えた。聞けば、今晩泊まるところが無いという。およねは気の毒に思い、仕事が見つかるまで忠吉を家に置いてやろ...おばさん

  • 時雨のあと

    みゆきには錺職人の安蔵というひとりの兄がいる。今は修業の身である兄は、いずれ独り立ちして、抱え女郎をいている妹を請け出そうと頑張っているのだ、と妹のみゆきは思いこんでいる。そんな兄がある日、みゆきの前に現れて、仕事のことで金が必要だ、ついては三両ほど用立ててもらえないか、と懇願した。みゆきはそんな兄のためなら、とあちこちから金を工面して兄に渡した。実はその金は、賭場通いにのめりこんで、かさんだ借金を返すための金だった。借金が嵩むたびに、口実をつくって妹から金を巻き上げる兄に成り下がっていたのである。安蔵は仕事もせずに賭け事依存症なっていたのである。妹を早く身請けしようと思う焦りから、賭場通いしたのだが、途中から賭け事が面白くなって、のめりこんだのだった。その安蔵が、自分の堕落した生活からきっぱり足を洗おうと決意...時雨のあと

  • 冬の足音

    お市は二十歳。そろそろ縁談話が持ち込まれる年頃である。現に叔母が嫁入り話を持ち込むことがしばしばあった。が、お市にはある思いがあった。数年前、父親の元で修業していた時次郎という男が忘れられなかった。そのため、持ち込まれた縁談話には気乗りしなかった。なぜ、時次郎は父の元を去ったのか。母親にそのことを尋ねると、悪い女に引っかかって、家の金を盗んだうえ蓄電したのだという。それを聞いてお市は思った。時次郎は悪い女にまつわりつかれて、逃れようもない場所に追い詰められていったのだと。ある日、叔母が持ってきた話にお市は少し心を動かされた。が、その返事をする前に確かめたいことがあった。時次郎に会って、彼の気持ちをたしかめたく思った。お市は、こんこんと身体の奥から噴き上がるものに衝き動かされていた。久しぶりに時次郎に会うと、懐か...冬の足音

  • 裏切り

    男女の心理の襞をさりげなく見事に描いている。「人間てえやつは、思うようにいかねえもんだな」と幸吉は思った。幸吉はおつやという女と裏店に所帯を持っていたが、ある日、家に戻ると、女房の姿が消えていた。数日後、殺されている女房を発見する。女房が自分の知らない世界に突然消えていってしまったと思った。それは深く朧な世界だった。おつやと過ごした、幸せな日々が終わった実感がどっと胸に流れこんできた。後日、おつやには男がいて、その男に殺されたのだ、という噂が幸吉の耳に入ってきた。その男とはどんな男か、幸吉は突き止めたく思った。女房はその男に騙されて、こんなことになったのだ、と。その男の正体をつかみたい、幸吉はそう思い、あちこち探索した。するとひとりの男の姿が浮かび上がった。それは家にしばしば出入りしていた知り合いの長次郎という...裏切り

  • 夜の橋

    市井の片隅に住む男女の情を描いて妙。民次にはおきくという別れた女房がいる。ある日、そのおきくが民次の住まう裏店を訪ねてきたと、隣家のおかみが伝える。おきくは何か話があるらしい。数日して、民次はおきくが働いている飯屋を訪ねてみた。そこで民次は、おきくが嫁に行くという話を打ち明けられる。相手は表店の番頭だという。元の女房のおきくが、わざわざそんな話をするのは民次に未練があるからだった。ひと月ほどして、民次は、よく出入りする賭場で、おきくが付き合っているという男を目撃した。番頭にしてはやくざくもの顔をしていた。噂によればその賭場の常連であるという。民次はおきくにはふさわしくない男だと思えた。すぐにおきくにそのことを伝えた。さらに相手の男に直接会って、おきくから手を引くよう説得することにした。が、男は突然、凶暴化して民...夜の橋

  • 約束

    やもお(寡男)である熊平は一男二女の子持ちである。妻が亡くなってからというもの大酒飲みのぐうたらな父親になった。三人の子供を抱える大変さに押しつぶされたのである。長女のおきちはまだ十歳だったが、二人の下の兄弟の母親がわりになって家事にあたっていた。ある日のことだった。父が呑んだくれて行き倒れになり、それが原因で数日後、息をひきとるという災難にあった。ところが、災難はそれで終わらなかった。こんどは父親があちこちに借りまくっていた借金がかさんでいることが判明、取立てが押し寄せた。周囲の人間がいろいろ手助けをしようとするが、おきちはきっぱりと言い放つ。「親の借金は子の借金ですから」と。尋常の働きでは返せない借金を帰すために、おきちは岡場所で働くことを決断する。そしてその日。「女衒の安蔵が来て、手に風呂敷包みを持つおき...約束

  • 油商・佐野屋の主人、政右衛門は女房おたかとこの頃、諍いが多くなったな、と感じる。いわるゆる倦怠期を迎えている夫婦だった。そんななか、政右衛門はふと初恋の女のことを思い出していた。その女に会えば、今とは違う人生が切り開かれるのではないか、と夢想した。初恋のその人の知り合いでもある、行きつけの居酒屋の女将を介して、ある日、二十年ぶりに再会することができた。ところが、会って昔話に浸ろうと思っていたことが、大変な間違いであることを知る。相手の女は自分には少しも興味をもたない、ただの中年の女になっていた。「結局は、おたかと喧嘩しながら、このまま行くしかないということだ、と少し酔った足を踏みしめながら政右衛門は思った。ほかならない、それがおれの人生なのだ。そう思うとやりきれない気もしたが、どこかに気ごころの知れたほっとした...秋

  • 鼬(いたち)の道

    八年前に蓄電し、その後行方しれずの弟、半次がふい新蔵を訪ねて来た。その姿は見るからにうらぶれたなりをしていた。その日から弟は兄の家に居候することになる。仕事を探すでもなく、ごろごろ酒浸りの日々を過ごしていた。新蔵が弟にこれまでのことを尋ねると、妻帯することもなく、仕事も何をやっていたのか判然としなかった。弟を何とかしてやりたい気持ちと、今の自分の生活を守りたいという気持ちが交差するなか、ある日、弟が数人の男たちに追われているのを目撃する。数日後、新蔵の店を訪ねてきた弟が、江戸を去って、また上方に帰ると告げる。「これでもう二度と会うことはないのだな、と思った。兄弟といってもこの程度のものなのかと思ったとき、新蔵は急に気持ちが際限なく沈んで行くのを感じた。おれにはおれの守らなければならない手一杯の暮らしがある」「本...鼬(いたち)の道

  • 黒い縄

    おしのはさる商家に嫁いだが姑との折り合いが悪く出戻りした女である。ある日、幼馴染の宗次郎に出会う。が、彼は人殺しの犯人として追われる身であった。お互い好き同士であった二人は、再会することで熱い関係になる。二人の逢瀬が繰り返されるなか、宗次郎を追う元岡っ引きの地兵衛という男の影がつきまとう。そして、ついに宗次郎と地兵衛の対決の日が来る。「おしのはゆっくりと橋まで歩いた。四囲は少しずつ明るみを加え続けていたが、霧はむしろ白さを増し、地上を厚く塗り潰している。橋の中ほどに地兵衛の骸が横わっていたが、おしのはそれを見なかった。眼を瞠って霧の奥を見つめた。だが、新たな涙が滴る視野には、拡がる白い闇のような霧が、限りなく溢れるばかりだった」地兵衛を倒した宗次郎はひとり去って行く。「霧の橋の上を影のように男の姿が動き、やがて...黒い縄

  • 歳月

    異母姉妹の妹が結婚するという相手は、姉のおつえがかつて付き合っていた男だった。自身は今、材木問屋上総屋の妻女である。が、この商家も時とともに傾きかけていた。ある日、所帯をもった妹の家を訪ね、かつての相手に会う。懐かしさがこみあげるが、すでに長い歳月が流れている。家に帰ると、夫が呑んだくれていた。その姿をみておつえは哀れになった。と同時に、これまで気づかなかった夫婦の情愛のようなものが胸にあふれてきた。「病気の姑のほかは女中一人しかいなくなった家の中は暗く、ひっそりとしている。暗く長い廊下を歩きながら、おつえは夫に何かやさしい言葉をかけてやりたい気持ちになっている。『霜の朝」より小説の舞台:深川地図:国会図書館デジタルコレクション「江戸切絵図」ー深川絵図タイトル写真:江戸深川資料館・佐賀町にある船宿橋本は、屋根船...歳月

  • 虹の空

    政吉は近々所帯を持とうとしている。相手はおかよ、という。が、ひとつだけ、継母がいるということを隠していた。その行方知らずの継母が気になっていた。できれば、見つけ出して、一緒に住んでみたいと思っている。幼い頃の出来事を思い出すうちに、政吉は継母が実の母であるように思えてならなかった。同居のことをおかよに打ち明けると、案の定、反対し、喧嘩になった。嫁と取るか、母を取るか、政吉は逡巡するが、やはり母を捨て切れなかった。ある日、母のいる家が火事になった。政吉は現場に駆け込んだ。「まだ煙に包まれている焼けあとの道をおかよが歩いて来るところだった。政吉が見ていると、やがておかよが地面に跪いて、おすが(母)を背負った。おかよは小太りだが、背はあまり高くない。小さく小太りの女が、小さく痩せている女を背負って、よたよたと歩いて来...虹の空

  • おとくの神

    裏店に住む仙吉、おとく、という夫婦がいる。仙吉はひとつの仕事に長く居つかず、しばしば職を変える性格の男だった。代わりに、女房が汗水たらして働く毎日である。夫は暮らしの頼りにならない、いわゆる紐のような存在だった。仙吉はがて、男勝りの女房にも飽きが来て浮気をする。ある日、啖呵を切って家を出て行こうとする。すると、女房のおとくが言う。「あんたが出て行くことはないよ。ここはあんたの家なんだから、あたしが出て行くよ」女房の出て行ったあとの心の空虚に耐えきれず、仙吉はおとくの後を追う。「大またに歩いて行くおとくのあとから、仙吉は呼びかけながら、よたとたと走ってついて行った」「霜の朝」より物語の舞台:裏店(場所不特定)、上野山内、根津写真:不忍池・仙吉は根津にいた。お七という女髪結いの家である。仙吉が以前働いていた経師屋で...おとくの神

  • 入墨

    細々と居酒屋を営む姉妹には、遠い昔、自分たちを捨てて行った父親がいた。その父親が、近頃は店の前にうろついている。姉はその父を疎み、妹は親近感を抱く。ある日、店の常連で、ならず者が妹を拐かし、あまつさえ、恐喝に及ぼうとする。その時、父が渾身の力を振り絞って兇漢を倒す。「雁の声がした。空は曇ったままらしく、夜の町にぶ厚くかぶさっている雲の気配があった。雁の姿は見えなかった」危害を加えられそうになった二人の娘を救った父の後ろ姿を見送ったあとの情景である。『闇の梯子」より物語の舞台:本所要:「江戸切絵図」(本所)ー国立国会図書館デジタル参照写真:百本杙の碑・割下水沿いに歩いていた。町は長岡町に変わり、三笠町二丁目から一丁目を過ぎて、そこから先は武家屋敷の堀つづきになった。・・・辻番所の前を二度通った。突き当たりに本所御...入墨

  • 闇の梯子

    癒えぬ病の床にある女房の薬代をなんとか工面しようと喘ぐ彫師・清次の苦難の物語。「日の射さない闇に、地上から垂れ下がる細く長い梯子があった。梯子の下は闇に包まれて何も見えない。その梯子を降りかけている自分の姿が見えた」その梯子は、法を破ってまでも、女房の病を治すための薬を買う金を稼ぐための仕事である。そうするしかない、やむを得ない危険な仕事であった。どうしても金をつくらねばならなかった。他にやりようがなかったのである。「闇の梯子」より闇の梯子

  • 藤沢周平ワールドー

    藤沢周平作品より藤沢作品には断念のあとの後悔、悔悟が描かれている。それが読む者の胸を打ち、思わず落涙することが多い。「作者の中には人間を視る目の暖かさ、深さが存在する。悲運に泣く者、その誠実さゆえに悲運に見舞われる者などが描かれる。紅の記憶「闇の梯子」より麓綱士郎は次男坊。家督を継ぐことはならず、家中の殿岡甚兵衛の元に婿入りすることになっていた。相手は甚兵衛の娘加津。ところがこの親子が権勢をほしいままにする、藩の小姓頭を誅殺するために行動を起こす。が、返り討ちにあい惨殺される。綱士郎はこの悲劇を放置することができず、単独で君側の奸征伐に行動を起こしたあと、故郷を出奔。後に国許で起きた藩の大改革の話を耳にする。「そうしていると国許でしてきたことが、夢のように遠いことのように感じることがあった。しかしいま、生々しく...藤沢周平ワールドー

  • 文学的温泉地・湯ヶ島ーその2

    梶井基次郎が結核療養のため湯ヶ島を訪れたのは昭和元年12月31日のこと。落ち着き先は落合楼という湯宿だったが、その後、湯ヶ島滞在中の川端の紹介で、もっと谷奥の猫越川畔にある湯川屋に移ることになる。梶井は以降、川端をしばしば訪ね、当時執筆中の『伊豆踊子』の校正を手伝ったり、囲碁の相手をしたりした。この間、知友の、詩人三好達治、フランス文学者の淀野隆三などが梶井の病気見舞いに来る。さらにのちになって、川端に呼ばれて当地にやって来た尾崎士郎を通して宇野千代を知ることになる。そして、萩原朔太郎や広津和郎とも知り合いになった。特に、宇野千代とはこの時が機縁になって「恋情に似た感情が混じった友情」がつくられた。これがのちに宇野と尾崎士郎との離婚問題の引きがねになるのである。昭和2年4月、川端が湯ヶ島を離れる。この秋に、梶井...文学的温泉地・湯ヶ島ーその2

  • 文学的温泉地・湯ヶ島ーその1

    伊豆湯ヶ島という温泉地がある。私も学生の頃、しばしば訪れたことがある。そして、そこは今や第二のふるさとと言っていい場所になっている。のちに、井上靖をはじめ、梶井基次郎、川端康成、宇野千代など幾人もの文学者がそこに育ち、あるいは、訪れ、作品をものにしていることを知った。井上靖は自身の生い立ちを随筆の中で、「私は幼少時代を伊豆天城山麓の郷里湯ヶ島で送った」と記し、その頃の湯ヶ島の風景を、「当時の湯ヶ島は一応湯治場ということになっていたが、都会からの客はごく少なかった。旅館も二軒しかなかった。村の共同湯は二カ所、その一つの共同湯の隣には馬専用の風呂があった。実にのんびりしていた」と記している。さらに、「郷里湯ヶ島は、私にとっては特別な土地である。私の祖先が眠っているところであり、私が生い育ったところである。世界中でこ...文学的温泉地・湯ヶ島ーその1

  • 南部の作家たち

    青森県の太平洋側と岩手県の大部分を占めるのが南部地方。遠くは、中世の三戸地方に拠点を置いて、この地方を治めた南部氏に由来する。南部氏は、故地・山梨から御神体を奉戴した櫛引八幡宮を一族の守り神として崇めたとされる。名誉ある地位を託された八幡さまが見守る南部の地。その誇りは、革新をもって歴史と伝統を引き継ぐ気質をも生んだ。盛岡は南部富士と呼ばれる雪を頂いた岩手山(2038m)の全貌が見え、北上川、高松池など自然の映える美しい町である。戦後一時期、岩手に住んだことのある詩人・高村光太郎は「此の地方の人の性格は多く誠実で、何だか大きな山のような感じがします。為ることはのろいようですが、しかし確かです」と述べているそんな地に生まれた文学者に石川啄木、宮沢賢治がいる。また言語学者の金田一京助、俳人の山口青邨がいる。啄木、賢...南部の作家たち

  • 津軽出身の作家たち

    弘前は旧津軽藩の居城があった地である。藩祖津軽為信が津軽藩の基礎をここに築いて以来の城下町だ。城下町としての歴史を積み重ねた弘前は、当然ながら多様な文化を育んだ。なかでも、文学的な気質が色濃く漂う。司馬遼太郎はこの津軽の風土を「言葉の幸(さきわう)国だから」と言っている。その意味は、表現意欲が溢れるほど強い地ということのようである。弘前出身の作家として、石坂洋次郎、佐藤紅緑、葛西善蔵、福士幸次郎などの名があげられる。また、旧制弘前高校に3年間学んだ太宰治がいる。ついでながら、今東光、日出海兄弟も弘前の氏族出身の両親にして他郷で育った津軽人だ。私は弘前出身の典型的な作家として葛西善蔵をあげたい。破滅型の私小説家として知られている善蔵は、学歴もなく、手に職もなく東京に出て、苦闘の連続のなか、小説を書き続け、いっこう...津軽出身の作家たち

  • 桜爛漫の弘前城

    初めて弘前を訪ねたのはもう20年以上も前の厳冬の季節だった。雪降る街中を、車を駆って弘前城の近くまで赴いたことがある。案の定、城は雪に埋もれていて、ひたすら雪の景を眺めるしかなかった。そして今、ふたたび弘前を訪ねたことになった。しかも、桜が満開の、ここを訪ねるにはこの時しかないという僥倖に恵まれたのである。この時を逃すまいと、桜見物の人たちの黒い塊が、城門に押し寄せていた。城の表門である追手門を潜ると、そこはもう城内で、三の丸広場は絢爛たる桜の屏風絵のようだった。そこには、心に描いていた弘前城の桜があった。さらに、辰巳櫓を過ぎ、杉の大橋を渡ると、南内門。堀に沿って右手の道を進むと、朱塗りの下城門が見えてくる。観光写真でよく見る弘前城を象徴するような古い木橋である。記念写真を撮る人が群がっている。この辺の桜は、幹...桜爛漫の弘前城

  • 弘前の寺院群を巡る

    桜の名所になっている弘前城は、弘前駅からバスで10分ほどのところにある。この時期を選んでやって来た観光客でバスは満員状態だった。弘前城を中心に広がる弘前は、津軽氏が270年にわたって統治した、かつての城下町である。今も城を中心に藩政時代の面影を伝える武家屋敷が残っていて、いかにも城下町といった雰囲気が立ち込める。それに、古い町並みの中にいくつか明治の洋館が残っていて、それらが町並みと溶け合って不思議な魅力を醸し出している。城に向かう前に、私は津軽藩主の菩提寺である長勝寺をはじめとする寺々が集まる禅林街を訪れた。高麗門を潜ると、長い参道が連なり、その左右にいくつもの寺の堂宇が立ち並んでいた。領内の寺院33カ寺をここに集めてつくられた禅林街は、この城下町の防衛のためにつくられたものと言われるだけに、いずれの寺も質実...弘前の寺院群を巡る

  • みちのくの小京都・角館

    枝垂れ桜が爛漫と咲き誇る姿を思い描きながら、角館駅に到着する。やはり花のシーズンである。たくさんの人が駅に溢れていた。駅近くにある観光案内所で散策地図を手に入れ、さっそく町歩きを開始する。まずは駅通りと呼ばれる広い通りを西に歩く。しばらく行くと、町を南北に貫く通りに突き当たる。その通りが武家屋敷通りだ。その通りの北側に位置するのが武家町(内町)で、深い木立に覆われた閑静な地域になっている。一方、南側は町人町(外町)で、たてつ家や西宮家などの幾つかの商家が今も残り、家並みが櫛比する地区になっている。この地に城下町がつくられたのは、元和6年(1620)と古い。この地を所領した芦名氏が現在見るような城下町をつくり、その後、秋田藩の所領となり佐竹家が入部した。以来400年近く城下町として栄えたのである。今は桜の名所とし...みちのくの小京都・角館

  • 作家三浦哲郎の故郷・一戸町

    三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、青春期には父の故郷である岩手県一戸で生活している。したがって、三浦の感性を育てたのは一戸と言っていい。氏の住まった家が今も一戸に残されているし、菩提寺もある。桜の花が咲き誇る、5月のある日、私は一戸を訪ねた。盛岡からいわて銀河鉄道のローカル線に揺られること1時間ほどで一戸に着いた。車窓からは、ようやく春を迎えたという風情の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。今回は一戸を...作家三浦哲郎の故郷・一戸町

  • 啄木ゆかりの地、盛岡

    盛岡はかつての城下町である。それを物語るように、町の中心地にある盛岡城のあたりには、旧城下町を思わせる古い街並みが残されている。市中を南北に流れる北上川と、雫下川と中津川とがそれに流れこむ、まさに水の都とであり、緑の多い杜の都でもある。やや冷たさを感じる駅を降り立ち、駅前から東に延びる広い通りを歩くと、すぐに開運橋という名の大きな鉄橋が見えてくる。橋の下を流れるのは北上川。瀬音を立てて勢いよく眼下を流れ下る。さらに行くとやがて前方に深い緑の森があらわれ、そこが盛岡城址であることが知れる。城壁を巡り北側の入口から城内へ。ちょうど桜の季節であったので、桜がかしこに眺められる。三の丸、二の丸、本丸と上り詰める。二の丸と本丸の間に空壕があった。かつては水をたたえていた内濠であろう。台座だけの銅像があったり、全体にがらん...啄木ゆかりの地、盛岡

  • 北上展勝地の花の雲

    北上駅に近づくと左手に雪を冠した山塊が見えてくる。先ほどから霞んで見えていた山並みである。多分、栗駒山塊だろうと比定する。やがて、車内アナウンスが北上駅到着を告げる。この時期の桜を求めての観光客が多いらしく、列車を降りる乗客がぞろぞろと車内を移動している。私もその一人として列車を降りる。北上駅は新幹線の駅らしくまだ新しい駅舎で、特になんと言うこともない駅であった。この地の桜は、「みちのく三大桜の名所」とされ、北上展勝地の名で知られるところである。北上川の河岸、およそ2キロにわたって、1万本のソメイヨシノが連なっている。観光ポスターや写真で見たことのある展勝地と、実際訪れてみた現地の景観にどれほどの違いがあるのか、あるいは、見た通りの眺めなのかと言うことが気になった。駅からしばらく歩くと、北上川にかかる珊瑚橋に出...北上展勝地の花の雲

  • 舟屋のある風景・伊根

    舟屋で知られる井根は、丹後半島の北東端、若狭湾に通じる、海沿い3キロほどのリアス式海岸になる井根湾に位置する。舟屋というのは、二階建ての舟のガレージのある建物で、一階部分は舟置き場、そして二階部分が住宅スペースになっている、この地方独特の建造物である。一日、宮津からバスで井根に向かい、あと遊覧船で海上から井根の漁村風景を満喫した。30分ほどの遊覧であったが、湾内に櫛比する舟屋風景が遠望できた。薄もやのかかったような海上に舟が出ると、海猫やトンビが騒がしく舟にまつわりついてきた。最近は海猫よりもトンビの数が多いとは、ガイド嬢の話だった。海はどこまでも凪ぎ、のどかな舟屋風景が無性に懐かしく感じられる。聞くところによれば、舟屋は230軒ほどあるといい、なかに江戸時代の遺構を残すものもあるという。簡素な切妻屋根の妻入り...舟屋のある風景・伊根

  • 天橋立探訪

    「大江山いくのの道は遠ければまだふみもみず天の橋立」の歌で知られる天橋立を訪ねてみた。天橋立は東北の松島、広島の宮島と並ぶ日本三景のひとつで、全長36km、幅20〜170mの美しい砂嘴が天橋立である。かつて雪舟の「天橋立図」なるものを観てから、一度は訪ねたいと思っていた。雪舟の水墨画が描く天橋立の景観は、何か、この世のものとは思えない雰囲気を醸し出していた。現実の姿ではないことは分かっていても、実際、この目で確かめてみたい、という衝動にかられたのである。訪れたその日は、晩秋の暖かな日だった。古来からの名所らしく、さすがに見物客でいっぱいだった。最近の傾向であるが、どこを訪ねても外国人の多いのはここも例外ではなかった。なかでタイ人の観光客が目立ったのは、何か、この地とタイとが関係があるからだろうか。私はまず遊覧船...天橋立探訪

  • 赤穂義士ゆりの地探訪

    コース:①皇居東御苑(旧江戸城本丸跡・松の廊下刃傷の地)〜②東京駅八重洲口(吉良邸江戸上屋敷跡)〜③両国橋(大高源吾句碑)〜④本所吉良邸(討入りの地)〜⑤義士アジト跡〜⑥堀部安兵衛の碑〜⑦永代橋〜⑧浅野家上屋敷〜⑨間新六の墓(西本願寺)〜⑩浅野内匠頭自刃跡〜⑪仙石伯耆守屋敷跡(日本消防協会)〜⑫毛利家上屋敷(テレビ朝日)〜⑬寺坂吉右衛門の墓(麻布曹渓寺)〜⑭細川家下屋敷〜⑮泉岳寺①松の廊下刃傷の地まずは皇居大手門をくぐり、一ノ門跡、二ノ門跡、旧二の丸跡、百人番所、中之門跡、本丸跡をたどる。松の廊下は、本丸跡の広い敷地の左手植え込み沿いの遊歩道を北に進んだ木立の中にある。元禄14年3月14日、この松の廊下で浅野内匠頭の刃傷があった。内匠頭はただちに捕らえられ、平川門(不浄門)から運び出された。内匠頭を乗せた網乗物...赤穂義士ゆりの地探訪

  • 旧千住宿探訪

    最近は大学の移転などで、かつてのイメージを払拭しつつある千住。江戸四宿の一つといわれる千住宿は、じつは三つの地域に分かれていた。隅田川の南側の旧小塚原町と中村町を含む千住南組(現在の南千住5、6、7丁目の一部)、それに隅田川の北側にある中組(現在の橋戸、河原、仲町)と北組(北千住1〜5丁目)とがそれである。中町と北組を総称して大千住と呼んだ。秋の一日、かつて大千住と呼ばれた、中組、北組の旧街道沿いを歩いてみた。千住宿には公用宿と一般宿があった。公用宿は本陣、脇本陣などを言い、一般宿には平旅籠屋(別名、百姓旅籠と呼ばれ、一丁目に多かった)と食売旅籠(飯盛女をかかえる宿で、2、3丁目に多く集まっていた)があった。明和2年(1765)の統計によれば、旅籠93軒で、飯盛女150人をかかえていたと言う。千住大橋を北に渡り...旧千住宿探訪

  • 谷中寺町巡り

    谷中の寺町をはじめて訪ねた時、東京にも京都のような雰囲気の場所があるあるのを発見して、意外の感があった。ところで、谷中という名はどこから生まれたものなのか。上野の山の麓には琵琶湖に見立てられた不忍池がある。市の不忍池は昔は今よりずっと広く、かつては雪見と月見の名所だった。この不忍池に注ぎこんでいた細流を藍染川と言った。この川が遡った谷が谷中であった。上野と本郷の二つの台地の間に入り込んだ、不忍池の奥にひっそり隠れたようなこの谷はかつては鶯と蛍の名所でもあった。この谷中に寺が集まるようになったのは、寛永年間(1648〜1651)の頃で、江戸の町の整備がすすむなか、上野の寛永寺の子院がつぎつぎとつくられたことによる。さらに後年になって、明暦の大火などにより、各所の寺がこの地に移って、現在見るように70以上の寺が集ま...谷中寺町巡り

  • 谷中(五丁目)界隈散策

    JR日暮里駅の北改札口を出て、左手、西方向に歩くと、そこは御殿坂と呼ばれる傾斜の強くかかった通りになる。御殿坂というみやびた名前の由来は定かではないが、通り沿いには佃煮屋や和菓子屋など、昔からの店が散見される。すぐに、右手、緑に覆われた寺があらわれる。寺名は本行寺。別名を月見寺という。台地の縁に位置する寺だけに月見に絶好の場所であったのだろう。由来によれば太田道灌ゆかりの寺といい、狭い境内には一茶の「陽炎や道灌どのの物見塚」と山頭火の「ほっと月がある。東京に来てゐる」と詠んだ、この寺にちなんだ句碑がある。この本行寺の隣にあるのが経王寺。谷中七福神の一つ、大黒天を祀っている寺だ。ここは幕末の慶応4年(1868)の上野戦争のおり、彰義隊が立てこもって、官軍と攻防を繰り広げたことで知られている。今も山門に幾つかの弾痕...谷中(五丁目)界隈散策

  • 江戸切絵図」を携えて 団子坂〜根津神社

    東京メトロ千代田線の千駄木駅を降り、目の前の交差点を左に曲がると、そこは千駄木の町である。さっそく、勾配のやや強い団子坂の坂道をまっすぐに上ってゆく。それにしても団子坂とは変わった名前である。昔、この坂の途中に団子屋があったところからその名がついたというが、これには異説があって、ここで転ぶと、団子のように転げ落ちるところからつけられた、という説もある。坂を上るほどに小体な古民芸の店や小料理屋があったりする。ところで、この団子坂、江戸時代には菊人形で知られたところであった。その時期になると人形見物の人で賑わったといい、その賑わいは明治の中頃までつづいた。木戸銭をとる小屋が沿道に軒を並べたという。坂を上り詰めた左手にあるのが森鴎外記念館。ここはかつて森鴎外邸があったところである。「切絵図」では世尊院とある。観潮楼と...江戸切絵図」を携えて団子坂〜根津神社

  • 千住のお化け煙突ー幻影

    それはずっしりとした存在感があった。子供心に恐ろしいものに見えた。お化け煙突と呼ばれた、高さ83メートルもある四本の黒い煙突は、町のどこからも遠望できた。その高さは尋常ではなかった。鉱物的なその煙突のかもしだす風貌は、つねに威圧的であった。お化け煙突と呼ばれる、その煙突は、じつは、火力発電所であった。四本の煙突が、ちょうどひし形に立ち並んでいるために、眺める場所によって、その本数をさまざまに変えた。お化け煙突の名はそこから銘々されたものだと、最近まで思っていたら、本当はそうではないらしい。お化けの真相は、それらの煙突から立ちのぼる煙が、ときおり出たり、出なかったりで、それが不思議に思えたためにつけられたというのが本当のところであるらしい。とはいえ、お化け煙突の銘々の由来は、今や俗説のほうが一般化している。つねに...千住のお化け煙突ー幻影

  • 「切絵図」を歩く 本郷通り〜白山

    本郷三丁目の交差点から、さらに本郷通りを北上すると、右手通りの向こう側に、唐破風の番所を設けた薬医門形式の朱色の門が見えてくる。赤門である。赤門といえば東大の代名詞になっているが、ここはかつて加賀百万石、前田家の上屋敷があった場所である。この赤門は、徳川11代将軍、家斉の息女が前田家に輿入れする際につくられたもので、正式には御主殿門という。御主殿門というのは、将軍の娘が、三位以上の大名に嫁した時、御主殿と呼ばれたためである。ちなみに、この赤門界隈の風景を、歌川広重が『江戸土産』のなかで「本郷通り」と題して描いている。赤煉瓦塀に囲まれた広大な敷地は、今は東京大学であるが、「切絵図」を見ると、加賀中納言と水戸殿とある。大半は加賀藩の敷地で、水戸藩の中屋敷は、現在、農学部が置かれている敷地である。ところで、5代将軍、...「切絵図」を歩く本郷通り〜白山

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