仏様たちの家のすみごこち ③ 仏様の家のお堂の中は夏涼しいのはよいのが、このような湿っぽさが仏様のおからだに悪いのではないかという問題が起こる。いままでの常識では物の保存には乾燥が第一、こんな高湿はもってのほか。お堂の柱の根元がくさったり、白アリがわいたり、カビが生えたりし...
奈良薬師寺南門から徒歩5分にある多くの本ある小さな喫茶店
奈良の歴史 社寺仏閣の本 写真集 随筆集等など 専門家の方からお子様まで読んで頂けるもの揃えました。飲物とスイーツで一息出来る喫茶店初めました
順慶と光秀 外部資料 日本の歴史の流れからして「洞ヶ峠の順慶」「洞ヶ峠をきめこむ」の日和見主義を代表を言葉が伝わる通り、洞ヶ峠と筒井順慶とは切っても切り離せない。 大和の有力者筒井順慶は、 三好長慶のもとで京都や堺の代官をつとめた松永久秀に大和の筒井順慶を追われた。このころ...
外部資料 石清水八幡宮の眼下の淀川に流れ橋 本名は 上津屋橋(こうずやはし) 今は時代劇に使われたり観光のための橋 石清水八幡宮からは近くです 全長350㍍のこの橋は、鋼鉄製のロープで木造の橋桁をつないだものである。 洪水で流されてまた ロープを引き寄せてつなぎ合わせて元...
奈良から少し離れるが 百済寺 百済王神社から少し北に位置あり 今は奈良市内へ車で40分ぐらいである。 外部資料 外部資料 石清水八幡宮 大阪と京都の酒井境の小高い標高142㍍である。 この八幡山の前で 桂川 宇治川 木津川 が合流して淀川となる。 nhk 大河ドラマ 「光る...
外部資料 昨日の 百済王神社につてブログした。 今日は百済寺のブログです. 百済王の子孫 敬福が奈良時代の天平勝宝2年(750年)宮内卿兼河内守に任命され、その氏寺として百済寺を創建したと伝えられている。 天智天皇2年(663)朝鮮半島西南部の白村江で唐・新羅連合軍と百済救...
百済王神社 外部資料 枚方市中身小高い丘のに鎮座する神社 古代 大陸との交流が行われていた時の 渡来人の目印ではないかと聞いている。 淀川から船で小高い丘に百済王神社を目指して渡来人がきたのであろう そこから 現在の天の川そしてくろんど池(交野市)を通じて富雄川を経て大和に...
登弥神社 外部資料 奈良市と大和郡山市の境界近く富雄川の東岸沿にある小丘陵の森に鎮座する。かつては木嶋大明神神とも呼ばれた。「大和史」新朝に「在二木ノ島村―近隣六村-預二祭紀-)とあり「延喜式」神名張登載の社にあてている。明治以来指定県社であった。昔は鳥見氏によって奉祭され...
離宮が丘 外部資料 あまり知られていない場所である。西ノ京駅(近鉄橿原線)から藥師寺唐招提寺と反対側西側の少し高台である。 ここは孝謙天皇の離宮があったと言われているが詳かではない。 大内裏考 では野々宮 という地名になっている。 昭和52年開校の京西中学校建設時に 土師器...
古い写真でモノクロです。 西の京駅からは西 勝間田池から北に野々宮神社がある。 この神社は名前から 菅原道真公がお祀りされている。 その菅原道真公の先祖 野見宿禰(のみのすくね)が共にお祀りされている。 野見宿禰は相撲の祖と呼ばれており 垂仁天皇の御前で相撲をとり 勝者とな...
外部資料 藥師寺を創建された 天武天皇をお祀りしている神社 藥師寺から西の方角 政をおこなっていた藤原京を南にした静かな場所にある 昨日紹介した三松寺の隣に位置する。 藥師寺にお詣りに行かれた祭には こちらにも お詣りを ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目1...
お艶地蔵 縁切り地蔵 外部資料 江戸時代 宝暦年間(1751〜63)のこと、大和郡山城の城代家老が江戸在中に愛人お艶を囲う。家老が大和郡山に帰るとき 同行を求め、お艶は箱根の関所まで来た。しかし、その先からの同行は家老から許しを得られなかった。そのため、芦の湖に入水して白蛇...
正月の神迎え 季節は秋というものの 酷暑の日々 お正月には程遠いが おせち料理の予約がはじいる。 新しい年を翌日に控え男は神祀りに 女は正月料理の煮炊きに一日中忙しい。この日、 カド(庭先)や村内の道や氏神の参道などに砂を撒いたり、砂道を造ることが、奈良市の平坦部を中心に東...
龍王社 外部資料 藥師寺境内南東の角に普段は静かな場所にある。 毎年7月26日は 近隣の水利組合によるお祀りが行われる。 勝間田池 北東に池を守る龍の祠があった。その祠が江戸時代末期に水害により流され 龍神様を薬師寺でお祀りするようになった といわれている。 勝間田池祠あと...
藥師寺と勝間田池と満月 スマホでの撮影です ■住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■℡ 0742-43-8152
西の京には 薬師寺 唐招提寺の大きなお寺があることでよく知られている。 その薬師寺との関係のある 勝間田池 この池を題材にしたものが 万葉集に治められている。 天武天皇息子 新田部皇子 勝間田の 池はわれ知る 蓮無し 然言う君が 鬚無き如し 9月18日が満月である。 ■ ...
西の京 ④ 赤肌焼き 薬師寺近くのうのんから大和の気象歳時記
垂仁天皇の御代に殉死が行われ野見宿祢は天皇にこれに代わるべきものを埴でつくり、王陵にお埋めになってはと奏し、天皇の命によって種々埴輪をつくいった。これが元で赤膚焼きが出来てきた。 外部資料 ■ 住所 630-8053奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43...
西の京町 西の京町には薬師寺がある。天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して橿原市の城(木)殿に薬師寺を近流平城遷都とともに 現在の地に移建された。東塔ならびに薬師三尊は創建当時ののもので 白鳳時代を代表するものとして国宝にしていされている。 西の京町は薬師寺を中心に発展を見た町...
西の京と呼ばれている所は、平城京の右京の地で、東西に一・ニ条大路から七条大路 南北に右京一坊・二坊大路の通っていたところで、二坊大路にそって諸大寺や皇族・高官の住宅などがたちならんだところである。 古くは土師氏の一族の住み着いたところで、ここに安康天皇菅原伏見西陵・垂仁天皇...
外部資料 近鉄西の京駅 長年住いを営んでいる 西の京の案内 西の京の由来は詳かではないが、都が京都に遷った後も、奈良時代に建立、あるいは移建された 薬師寺 唐招提寺 喜光寺などはそのまま残り、昔日の面影をとどめていたころから このあたりを、西の京とよぶようになったとも伝えら...
鳥居は神社の門であるとの説 神社や御陵の門である鳥居を見る毎にそれが神の住宅の門であるとの説がある。 住宅に垣を結びその入口に門をたてることは神代と誰もおそらく變わりはない。 装飾なき門を最も簡素なる姿としてかんがえるなら、二本の柱を両側に立てればそれで足りる。その二本柱の...
大安寺 外部資料 そもそも大安寺の始まりは 推古天皇の代に建てられた聖徳太子の熊ごり精舎といわれている。伝説ではあるが、欽明天皇11年(639)ごろ、飛鳥の百済川にあった百済大寺 後の藤原京に移され大宮大寺と名前を変え、さらに平城遷都ともに、引越ししてきたという歴史がある。...
古い写真見つけました 水越峠 国道309号線です。 昔は旅人らが行き交う道であった。 かつてこの道は水越峠街道として多くの旅人が行き交かった重要な古道。古代から中世にかけては、金剛山に向かう修験者で賑わった。古代から元禄時代には金剛山からの水は 河内のものか大和のものかの争...
上品寺のシャカシャカ祭り 塚、祀られている神について伝承 伝承のひとつは、新池の北岸に永平寺の分かれという寺があり、この寺に住む僧兵達が戦乱に倒れた人々を供養するためこの地に塚を設けて祀ったのが ノガミ であるという。またこの地はかつて河川が大きく分岐し、二つの支流にはさま...
上品寺のシャカシャカ祭り 橿原市上品寺町 日時は旧暦の5月5日に行われていたと思われる。 古老のシャカシャカ祭りのいわれは・・・ ここ上品寺の里では、長男が生まれると三月三日の日に氏神様の前でクジを引きを行い、当たった家の子供を五月五日の晩にノガミさんに人身御供として差しだ...
野神行事は、奈良盆地で見られる農耕儀礼の一種で、豊かな稔を願って毎年繰り返されている。行事に内容には様々変化がある。子供中心のなることが多く、ノガミ と呼ばれる塚や樹木に藁製の蛇体を巻き付けたり、牛馬や農具の模型を奉納したりするものもである。盆地部における基本的な生業にかか...
四つ晴に傘を忘れる阿保がいる 春先 前線上を続いて東する二つ目の低気圧に要注意 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
山近くに見えれば雨近い 外部資料 今が一番よい天気の絶頂期 あとは天気は下り坂とたる。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
雲が長谷まいりすると雨になる。 外部資料 低気圧が近畿地方にちかづいてくると、下層から地上まで始め南西風となり 温暖前線に吹き込む雲は南西から北東へと流れる。明日香村の北東は長谷方面であることから、明日香村では奈良県内の他の地域と違って、長谷参りになる。 ■住所 630-8...
お薦めの本 奈良には多くの国宝の仏像があります。 来根春には 奈良国立博物館にて特別展が催されます。 その紹介がされてます。 今月17日は中秋の名月 唐招提寺では この夜一夜だけ金堂の扉が開かれます、 また薬師寺の双塔と若草山 大仏殿 興福寺五重の塔を背景に 勝間田池」(大...
外部資料 生駒の山のもやがあ北むいたら雨 南をむいたら晴になる。 奈良から西の方を眺めると、生駒山が望まれる。暖かくて湿っている南風が吹くと、山に笠雲となってかかりやがて雨となる。北寄の風は、高気圧の到来を予告し、空模様は回復に向かう。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈...
外部資料 四つ春に傘を忘れる阿保がいる。 春先 前線上を続いて東進する二つ目の低気圧に要注意ということ。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
外部資料 月が傘をかぶれば雨が近い 大和の国に限らないが予報の確率は60%程度である。 ■ 住所 630-8053 奈良県奈良市七条1丁目11-14 ■ ℡ 0742-43-8152
外部資料 南海トラフ地震への注意が流れている今 地震の資料から過去の状況を紹介する。 684年 11月29日 天武13年10月14日 土佐その他南海 東海 西海諸島 M8.4 歴史に記録された最初の南海トラフ系巨大地震 山崩れ川湧き 諸国の百姓倉 寺塔 神社の倒壊多く、人畜...
40年前の資料本です。わかりやすい地震のメカニズムが開設されてます。 防災の日 にいかがでしょうか 9月のお休み予定 2日(月)3日(火) 9日(月)10日(火) 15日(日)16日(月)17日(火) 23日(月)24日(火) 30日(月)10月1日(火) イベントのお知ら...
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仏様たちの家のすみごこち ③ 仏様の家のお堂の中は夏涼しいのはよいのが、このような湿っぽさが仏様のおからだに悪いのではないかという問題が起こる。いままでの常識では物の保存には乾燥が第一、こんな高湿はもってのほか。お堂の柱の根元がくさったり、白アリがわいたり、カビが生えたりし...
仏たちの家のすみごこち ② 日本は非常に湿度の高い国。とくに夏の多湿は世界的に有名である。勿論大和も湿度は高い。しかし、お堂の中は湿度が低い。湿度は温度と逆で、温度が低いほど、湿度が高くなる。従って、大和のお堂の中は湿度が高く、中には、びっくりするぐらい湿度が高いお堂もある...
仏たちの家のすみごこち ① 「奈良の仏さんたちは一体どんな住み心地の家に住んでいらしゃるのであろう?」お堂の中の気象を調べ始めた。 三月堂、戒壇院、新薬師寺、法隆寺、藥師寺、唐招提寺など調べた。仏さんは夏の日差しをさえぎるのに十分でしかも風通しが非常によい。仏さんたちの家は...
昭和31年の夏と翌年の冬京都大学の協力を得て、三月堂の前の校倉をくわしく観察した。昼夜ぶっ続けの連続観測を行った。校倉の内外の温度や湿度の変化、中の空気の動きなどを特別の機械で測定した。そして校倉の特徴、いわば秘密がだいぶ明らかになった。 校倉は壁に隙間を生じない実に巧妙な...
正倉院の宝庫と聖護蔵について、次の実測を試みた。 宝庫の屋根の上、一番上の校木一番下の校木 こんなところにそれぞれはっきりした目標を定め、これらの高さが変化するかどうか調べるのである。今一つは、聖護蔵の校木に目標を定めて、百分の一㍉まで読める顕微鏡で同じく校木の伸び縮を測定...
校倉の秘密 だれが言いだいたのかしらないが、「校倉は積重ねてあるので三角の校木(あぜき)が空気の乾いている時はちじんで校木の間にスキ間ができ、外の乾いた空気をいれる。ところがそとが湿っぽい時は校木がふくれてスキ間がなくなり、外の湿っぽい空気を入れない。このようにして校倉の中...
大和国はj9位滑りで各所に被害が生じている。その主なものは昭和7年(1932年)の王寺町藤井部落の浸水騒ぎである。これは大和川の右岸で大阪堅上の峠で地すべりを起こし、ところどころき裂を生じ部落の民家を倒し、トンネルを倒し最後は対岸の道路も大和川の川床をも隆起させて流水をせき...
火災は奈良県には大都市がないので大火災というほどのものはない。奈良市では慶長17年3月6月と元和5年4月13日 12月2日の3回の大火災が記録に残ている。幸いにもこれらの大火災はそれ以降どこにも生じていない。これは前述のように人口密集地の少ないためだが、その集落や部落自体か...
水害 風害 干害 の他にあげられる諸災害のうちで、おもなものは雷災 雪才 火災 地震などである。 雷災は古文書にも相当残っておりかつ伝説も多いところからかんがえると、昔の人々は雷にかなりいためつけられたらしい。寺院ガランなどが落雷にあい、しかもこれらの機関は当時の文化の中...
大台の豪雨の原因 ② 山上岳の大峰山系は年中強い西風をうけているころで、樹木の枝葉は完全に東になびいて育っている。このためか山上ヶ岳は大台ヶ原よりも気温年変化の較差が大である。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気候によって降る雨で、西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさ...
大台豪雨の原因① 大台ケ原で土砂降りになるためには、強烈な上昇気流がなければならない。一般に、大台の雨は局所的であって、ごくせまい範囲に集中している。しかも天気図上から台風の出現に限定されているようで、季節風や梅雨や少々の不連続線がひっかかたぐらいでは集中豪雨にはならない。...
大台ケ原観測所(大正13年1月〜昭和34年4月) 現在西大台 大教会 の一部が気象観測所 大台ケ原山をふくむ台高山脈系および山上ヶ岳から南下する大峰山脈系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山塊をな...
長期の戦争による国土の荒廃ははなはだしく、わずかの豪雨や強風によってさえも相当な気象災害を起し、気象予報の重要性が認識された。いたずらに手をこまねいて傍観している状態であった。昭和28年(1953年)ようやく国力の回復によって、気象業務の最大目標は災害防止ありと呼ばれるよう...
主として1日午前十時一回の観測で、気温「最高最低を含む)降水量およそ天気を十日ごとにまとめて測候所へ報告する任務をもったものである。その後観測の必要にせまられて、明治44年に下淵、明治45年に内牧、大正4年に柳生、大正9年に前鬼、榛原、岡、大正10年に荒神岳 昭和2年に曽爾...
明治30年1月、現在の橿原市八木町に、奈良県八木測候所が設立されたのは、当時の気象業務の主体が農業気象の確立にあったので、大和平野の中央位置で気象観測をしようという意味が多分にふくまれていたのであろう。測候所の設立と同時に玉置山・小森・南日裏・寺垣内・河合・上市・五条・御所...
奈良県の河川は近畿の南北の水源地となり、いずれも四囲の府県に流出しているのが特色で全く近畿の屋根である。奈良盆地では初瀬川を初め多くの川は奈良盆地をうるおし、中央で集まり大和川となって大阪平野に出て西方大阪湾に注いでいる。宇陀山地の水は宇陀川、名張川となり、さらに大和高原の...
奈良県南半の吉野山地は、県内の60%を占める山勝ちの地域である。南西に走る。南西に走る槢曲山脈で主として水成岩からできている。地形は壮年期で、起伏が著しく、急な山、深いV字字形の谷が至ちころに発達している。標高1500㍍を越える高山がそびえ「近畿の屋根」と称されている。中腹...
奈良県の北半の奈良盆地は瀬戸内陥没地帯の東端をなし 地質時代に断層により土地が落ち込んで出来た「地溝」である。当時は湖をなしていたが、沖積層が積もって早く干上がって人々の生活の場となった。南北約30㌔東西約16㌔ 面積約3百平方万㌔、海抜40〜100㍍の平らな盆地である。奈...
奈良県は地形上南北で非常に差異がある。北半は奈良盆地(大和盆地)を中心に、それを囲む青垣山をなす山地や高原からなっている。これは大阪平野・京都平野・京都盆地などともに、近畿地方の中央低地帯の一部をなすものである。この地域はわれの祖先が早く住みつき、古くから文化が開け、わが国...
一昨日からのまとめになるが、多武峰を中心とする地域 榛原 長谷の特別地、曽爾 御杖区域 都祁区域 北倭区域 月ヶ瀬方面 あるいは五条市を中心とする区域、さらに上北山西原や高見山」ろく地など、みな特殊の気候状態を示している。気候資源という言葉があるとしたら、我々はあまりにも温...
南は豪雨 北は乾燥 外部資料 奈良を大和川で南北に分けると、北部の乾燥に対して南部は大雨湿潤地となっている。 昭和3年(1928年)7月16日日本列島東海上には強い高気圧があって 日本海からは近畿地方までその勢力圏内にであった。一方宮崎県南東部沖100㌔付近には台風8号が中...
吉野杉 外部資料 春日山の杉が銘木として有名であれば,吉野地方の杉は人工林により育成された用材として吉野杉としてこれも有名である。 吉野を流れる川の流域はいたるところ山迫り、その山また、ほとんどが、黒々とした杉林におおわれていている。その杉は三輪山および春日山にはえる神代杉...
春日杉・吉野杉 外部資料 春日山に生ずる杉の大木を春日杉と呼び、林業上は銘木として秋田杉 屋久杉 神代杉などと同様、全国的に知られている。春日杉の銘木としての価値は年を経て大木であり、その材のもつあざやかな赤紫色は次第に含まれる樹脂の変色に伴い渋い黒紫色になる点、加えて年輪...
杉 外部資料 森中で林業上から見た場合に何といっても杉はその王者であって他にこれにまさる樹種はない。このことは杉の植物としての持ち味に由来するものである。 その一つとして 杉は東洋原産で日本の風土に適した樹種であること。 そのニとして そして成長が早いこと。幹形が通直で ...
扇状地と横井戸カンガイ まんぼ 外部資料 横井戸は「まんぼ」と呼ばれていた。三重県鈴鹿市 淡路島の一部 富士山麓などにみられる。奈良県においては御所市(旧葛城村)に最も多い。この土地は深谷川、伏見川 南太田川 三宅川 など多くの河川によって作られた合成扇状...
奈良盆地の稲作には河川 ため池 地下水などが利用されている。地下水か河川やため池用水の不足する地方や、地質上、湧水に富んでいる地域に多く見られる。 奈良盆地の湧水カンガイの発達しているのは葛城川の上流右岸一帯である。 地下水の湧水を利用したものではなく、井戸を掘ってカンガイ...
猿谷ダム 壮年期地形のV字谷として、山高く谷深い十津川の本流に設られた猿谷ダムmは、その規模高さ74㍍ 長さ170㍍ 体積17.4万㎥に達している。こうしたダムの建設によって大きな利益が多数の人々たちに与えられるが、一方犠牲になった人々も少なくない。十津川吉野川の総合開発で...
極端な大滝から宮滝 外部資料 吉野川上流から中流に移るところ、川上村大滝から吉野町(旧中壮村)宮滝の間は特に 極端に穿入曲線をなしている。上市から吉野川をさかのぼり、川上村から北山川の流域に出て木の本に通じる東熊野街道(現169号線)は以前から宮滝から五社峠(476号線)を...
吉野山地 外部資料 壮年期の地姿をなして起伏している吉野山地から流出する河川はいずれも深谷を作り、急流をなしているのが特色である。吉野川 十津川 北山川 さらにその深谷はいずれも地形学上「穿入(せんにゅう)曲流」と称する蛇行地形をなしている。穿入曲流は山地をS字形に下刻して...
上市 上市 下市間は明らかに二段の段丘からなっている。現在の町や交通路はいずれも下段に多く発達し、昔の伊勢街道 近鉄吉野線の電車も狭い段丘上を走っている。上市は下段丘に発達した集落で、上段が丘陵となり迫ってくるので極端に狭くなり標準的な街 村となり 川岸にかけ出した家はいず...
吉野川の川岸段丘 外部資料 吉野川の上流ではV字形の谷が発達し川岸には殆ど平地を見ないが、中流以下では次第に川幅が広くなって川岸の左右に小平地面ができ耕地も開け人家もこの面に建っているのを以前から見かけた。この平地面の地形を 川岸段丘 という。 川が上流から運び 土砂によっ...
外部資料 外部資料 春日山断層線に沿った瀑布線に発達した水車群のうち、盆地の東南大三輪町巻向川の水車は特に数も多く機能にも特色があった。その分布は巻向山の辻領から箸中・穴師・巻野内など上下4キロにおよび、江戸時代の延享元年(1744年)の地図に主流のみで22個を数え幕末から...
瀑布線と水車 外部資料 奈良盆地は地質時代に陥落により出来た地溝盆地である。周りは断層線や構造線で限られている。周りの山々か流出する河川がいずれも上流部は急流をなし浸食をたくましくし、ひとたび盆地へ出ると削り取ってきた土砂の堆積を始める。盆地の水を集めて亀の瀬渓谷から大阪平...
大和の天井川 外部資料 陥落によってできた奈良盆地は地質時代には湖水となっていたと考えられるが、盆地の四周から流出する諸用が、上流部で、激しく浸蝕してきた土砂を盆地に出て傾斜がゆるくなるとともに「複合扇状地」を作り、さらに盆地底に流出するや運んできた、土砂を全部堆積した。そ...
亀の瀬 外部資料 外部資料 外部資料 先日 地すべりについて テレビのニュースで説明があった。 その話の中で、亀の瀬渓谷の被害とその後の対策により安全に今は通行が出来る話をしていた。 奈良盆地の水を全て集めた大和川は亀の瀬渓谷を作り、生駒金剛山脈を横断して、大阪平野に流れ出...
山上ヶ岳 山上ヶ岳の一部大峰山系は年中強い風を受けているところで、樹木の枝葉は完全に横になびいて育っている。このためか、山上ヶ岳は大台ケ原よりよりも気温の変化は大きい。大峰山系北部一帯は西風のもたらした気流によって雨が降る。西風気流の山岳による強制上昇気流に変わるさの雨と考...
吉野郡山 大台ケ原山の降雨機構 外部資料 大台ヶ原山を含む台高山脈および山上ヶ岳から南下する大峰山系はいずれも南北に走っていて、縦断しているために両者の降雨機構は違っている。さらに西方和歌山県境にある荒神岳一帯は山魂をなしているために、前二者とまた異なる雨の降り方をする。 ...
お薦めの本 毎月 奈良を知るために お薦めしている 「ならら」です 正倉院 東大寺 はあまりにも有名です。その「大仏さん」を創建した天皇の紹介です。 7月のお休み予定 1日(月)2日(火) 8日(月)9日(火)10日(水) 15日(月)16日(火) 21日(日)22日(月)...
大台ケ原の大雨が精神治療? 昭和7年8月4日 フィリピン東方に発生した台風は、北上を続け、11日九州南東海上に達し、ここで15日まで迷走をつづけ、16日紀伊半島沖を北東に進んだ。大台ケ原山では9日か豪雨となり、12日の雨量431粍を最多として15日までに1900粍を観測した...
大台ケ原山 雨で女学生立ち往生 外部資料 大大教会 外部資料 昭和21年(1946年)7月27日田原本高等女学校の生徒が約50名が大台ケ原山の頂上まで登った。台風は四国はるか南方洋上を西進し、本土に向かうようにはおもえない。しかし、大台ケ原では、すでに雨が降りだしていた。2...