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  • 2-VII-2

    将軍は彼女に奥の座席にフォンデージ夫人と隣り合って座るよう言い張った。彼は前の長椅子にマダム・レオンと共に座った。道中は長く物悲しいものだった。やがて日が落ち、パリの街が動き出す時刻となった。通りは混雑し、どの曲がり角でも馬車は一旦停止しなければならなかった。一人フォンデージ夫人だけが会話を続けていた。彼女の甲高い声は車輪の音に負けず響き渡っていた。彼女は亡くなったド・シャルース伯爵の優れた資質を讃え、マルグリット嬢が良い決断をしたと言って褒め上げた。彼女の言葉はどれも月並みなものであったが、言葉の端々に深い満足と、殆ど思いがけぬ勝利の喜びに近いものが滲み出ていた。将軍はときどき馬車の昇降口に身を屈めては、ド・シャルース邸からマルグリット嬢の荷物を積み込んだ荷馬車がちゃんと後をついて来ているかどうか確かめ...2-VII-2

  • 2-VII-1

    VII.見知らぬ人間……それどころか自分を執拗に追ってくる敵……に身を委ねること……。他者の損失において己の利益を追求することに機敏な、猫かぶりのペテン師たち、その度合いでその悪辣ぶりを測ることができるのだが、そういった連中はどんなことでもやってのける。熟考を重ねた後、このような手ごわい偽善者たちの意のままになる決心をするということ、相手が密かに企んでいる災いに、穏やかな眼差しと微笑で平然と立ち向かうこと。危険な匂いのする誘惑や忠告、狡猾に計算された追従、あらゆる種類の罠、陥穽、あるいは暴力もあるかもしれないのに……。これをやってのけるのは並みの精神力の持ち主ではない。自分の意志の力に揺るがぬ自信を持ち、危険をものともせず、生きるか死ぬかの決断に迷わない。こういった英雄的資質をマルグリット嬢は持っていた。...2-VII-1

  • 2-VI-28

    いつもの彼はこの上なく抜け目のないプレイヤーなのに、危険な手ばかり続け、何も考えていないかのように出鱈目なプレイぶりだった。何もせずぼんやりしていたのでは怪しまれると恐れたのか、彼はやみくもに親と同額を掛けるバンコを繰り返していた……失った金を取り返そうと必死になっているという風に……。親になったときの彼は更に酷かった。ツキが回ってきたというのに彼のやり方は無茶苦茶だった。例えば手札に七が来たとき、相手に仄めかしを与えた後でカードを引く、という具合でね……。(バカラは二人が二枚のカードを引き、合計した数字の1の桁が9に近い方が勝ちというゲーム。10以上のカードは0とカウントされる。他のプレイヤーは二人のうちどちらが勝つかを賭けて遊ぶ)やればやるほど彼の出鱈目ぶりが明らかになり、周囲から夕食時に飲みすぎたん...2-VI-28

  • 2-VI-27

    「先日私を訪ねてきた男よ、イジドール・フォルチュナとかいう……。ああ、あのときあの男にお金をやれ、とどうして貴方は言ってくださらなかったの……」男爵はすっかりその男、ヴィクトール・シュパンの雇い主、の存在を忘れていた。「貴女は間違ってますよ、リア」と彼は答えた。「フォルチュナ氏はこのことは無関係です……」「それじゃ一体、誰が話したと仰るの?」「もとは貴女の側についていた男、彼がパスカル・フェライユールを陥れるのを貴女が許したその男、ド・コラルト子爵ですよ」こう指摘され、怒りが瞬間彼女を貫いた。そのため少し元気を取り戻したらしく、彼女は立ち上がった。「まぁ、もしもそれが本当だったら!」と彼女は叫んだ。それから、男爵がド・コラルト氏を憎む理由が頭に閃いたので、彼女は呟きながら再び座った。「違うわね。貴方は恨み...2-VI-27

  • 2-VI-26

    彼女は言葉を切った。これから口にしようとしていることが恐ろしくなったからではなく、疲弊してしまい息が切れたのだった。彼女はしばし大きく息を吸っていたが、やがて声を落として言った。「それに、あの子をここに送り込んだ人間は冷静に行動せよと命じたに違いないわ。落ち着いて慎重に、と……確かに最初はそうだったわ。最後の方になって、思いがけないことを告げられてからよ、あの子が自制心をなくしてしまったのは。私の兄の何百万という遺産が自分の手に入らないと聞かされて、あの子は頭がおかしくなってしまったのよ。ああ、お金って人の運命を変えてしまう呪われたものね!」このときの彼女は、自分の舘でバカラのテーブルを囲む賭け事師たちが全財産を失うのを冷ややかに眺めていた自分のことを忘れてしまっていた。ウィルキーからの金の無心があること...2-VI-26

  • 2-VI-25

    男爵の赤ら顔の頬に熱い涙が零れ落ちた。男爵もまた哀れな男だった!マダム・ダルジュレの嘆きの一つ一つが彼の苦しい胸にも響き、共鳴していた。空威張りの男爵、賭博場の常連、トリゴーと言えばカードゲーム、そう言われている彼もまた同じ絶望的な叫びをあげていたのだ。「あれが我が子なのか!」という。しかし彼はそういう自分の気持ちを隠し、わざと陽気な調子で言った。「馬鹿な!ウィルキーはまだ若い。今に自分の非を改める日が来ますよ!我々だって二十歳の頃には皆馬鹿なことをやらかしたもんじゃありませんか!タフな男を気取って母親に心配させ、眠れぬ夜を過ごさせたりしたもんです。時間てもんが必要なんですよ。時がたてば、あの跳ねっ返りの若者にも分別が付きますよ。それに、貴女が信頼しているあのパターソン氏、彼にも非がないとは私には思えませ...2-VI-25

  • 2-VI-24

    ウィルキー氏は一言も答えず、ぎこちない足取りで、廊下に出る二枚扉まで来ると、そこで元気を取り戻した。その廊下は踊り場に通じていた。「あんたのことなんか、怖くないからな!」と彼は熱に浮かされたように激しい口調で言った。「あんたは自分の腕っぷしを見せつけたな。卑怯なやり口だ……だが、このままで済むと思うなよ。いいか忘れるな!償いをして貰う。……あんたの住所はすぐに分かるから、明日には決闘の介添え人を差し向けるからな……コスタール君とセルピヨン君だ。俺は剣を選ぶ!」ウィルキー氏がそそくさと出て行ったのは、男爵の猛烈な罵り言葉に多少背中を押された所為もあろう。彼は素早く踊り場に立つと、扉を押さえたままにし、危険と見ればすぐさま閉められるようにしておいた。「そうとも」と彼は召使い全員に聞こえるように声を張り上げて続...2-VI-24

  • 2-VI-23

    この名前こそウィルキー氏の記憶に刻み込まれていたものだった。彼がごく幼い頃耳にした名前……。ジャック!そうだ、彼にお菓子や玩具を持って来てくれた男の名前がそれだった。その綺麗なアパルトマンに彼はほんの数日だけ滞在したのであった。というわけで彼は理解した。少なくとも理解したと思った。「あ~あ、ああ、そういうことか!」彼はゲラゲラと、呆けたようなそれでいて獰猛な笑い声を上げた。「こりゃいいや!こちらさんは愛人てわけか。これは言っておかねば、是非とも言っておか……」彼は最後まで言うことが出来なかった。男爵が彼の胸ぐらを掴み、強靭な腕一本で服の上から彼を持ち上げるとマダム・ダルジュレの膝の前の床に投げつけるように彼を下ろし、怒鳴った。「謝れ、悪ガキ!許してくださいとお願いするんだ!さもないと……」さもないと、の後...2-VI-23

  • 2-VI-22

    負けようのないほど良い手のときわざと負け、あの馬鹿げた出来事のためにツキが変わってしまった、とぶつくさ言いながら彼は立ち上がった。そして隣のサロンに入って行き、誰にも気づかれぬように外に出た。「マダムはどこにおられる?」と彼は最初に捕まえた使用人に尋ねた。「夏の小部屋におられます」「一人で?」「いえ、若い男の方とご一緒です」男爵は自分の推測が正しかったことをもはや疑わなかった。が、不安は二倍になった。勝手知ったる家だったので、彼は急いでその小部屋に走っていった。ちょうどそのとき、ウィルキー氏は自分の欲望が打ち砕かれたことに逆上し、恐ろしい剣幕で怒鳴っていた。男爵は恐怖を感じ、屈んで鍵穴から中を覗くと、ウィルキー氏が片手を振り上げるのが見えた。男爵はドアを開けるというより押し破り、あわやという瞬間ウィルキー...2-VI-22

  • 2-VI-21

    「ああ、僕にはあなたの腹が読めましたよ、お母上」と彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「もしあなたが自分の権利をおとなしく行使していたなら、すべては何の支障もなく進んだでしょうに。そして僕は、僕の父がそれを知る前に相続財産を安全なところに移しておくことが出来たでしょうに……。ところがあなたは、そうはしなかった。僕が裁判に訴えざるを得ないようにして、僕の父の知るところとなるようにしたんだ。僕を憎んでいるからだ。そして父がすべてをかっさらって行く……。でも、そうはさせませんよ。あなたは今すぐ紙に書くんだ。あなたの兄の相続財産を受け取る、という」「そんなことしない!」「ああそうですか!そんなことしない、ですか……断るんですね!」威嚇しながら彼はマダム・ダルジュレに近づいて行った。そして彼女の腕を掴むと骨が砕けんばかりに...2-VI-21

  • 2-VI-20

    ウィルキー氏は真っ青になった。「そ、そんなの嘘だ」と彼は口ごもりながら言った。「明日、私の結婚契約書を見せるわ」「何故今夜じゃないんです?」「今は部屋に人が一杯いるから」「僕の父は何て名前なんです?」「アーサー・ゴードンよ。アメリカ人なの」「それじゃ僕は、ウィルキー・ゴードンという名前なんですね」「そうよ」すっかり動転した息子の顔をこっそり見てしまったマダム・ダルジュレは身を切られる思いだった。考え込んでしまった息子の口からどのような決意が洩れるのであろうか?しかし彼は何も言わなかった。ウィルキー氏は手の届かないところに逃げてしまったものを思って悔しがっていたのだ。自分が名乗る筈であったド・シャルースの名前、そして自分の馬車に描かせようと思っていた伯爵の冠を。「それで……僕の父という人は金持ちなんですか?...2-VI-20

  • 2-VI-19

    僕にはその財産が必要だし、手に入れて見せますよ。だから、僕の言うことを聞いて、一番手っ取り早いのは貴女が自発的に僕を認知してくれることなんです。というわけで、さぁ、そうしますか?しない?……一度、二度、三度、どうです?やはり駄目!はい落札!明日には印紙を貼った書類を受け取ることになりますよ……では、これで、失礼します」彼は実際別れのお辞儀をし、昂然と立ち去ろうとした。しかしドアノブに手を掛けたとき、マダム・ダルジュレが身振りで彼を押し留めた。「最後にもう一言だけ、いいこと?」彼女は喉を締めつけられたような声で言った。息子の方は振り返ることすらせず、苛立ちを隠そうともしなかった。「何ですか一体?」「最後に一言、警告しておくわ。おそらく裁判所はあなたの主張を認める判決をくだすでしょう。私は兄からの相続権を与え...2-VI-19

  • 2-VI-18

    「残念ながら。あなたが物わかり良くしないからですよ……」「ということは、あなたはスキャンダルが平気だということね。あなたがド・シャルース家の一員だと証明するためには、シャルース家の名誉を汚し、泥の中を引きずり回すことも辞さない、と……」このような議論を続けるのは、この威勢のいい若者には苛立たしいことであった。彼に言わせれば実に単純な件であるのに、このように仰々しい茶番を演じるとは愚の骨頂であり、この上なく腹立たしいことであった。「全く!そんなこと、結局のところ、どうでも良いこっちゃないですか」と彼は叫んだ。「僕に気取ったまねをさせたいんですか?……ふうむ、そうですね……はっきり言いますけど、あなたの言うことを聞いてると、まるで犯罪でも犯したようじゃないですか……道徳的な生き方をするのは結構ですよ。でも行き...2-VI-18

  • 2-VI-17

    「私が跪いて、どうかそんなことはしないで、と懇願しても?」「それは通りません!」マダム・ダルジュレの目がきらりと光った。「そう!それなら」と彼女はきっぱりと言った。「この財産はあなたの手の届かないところに逃げていくことになるわ。あなたはどんな権利で遺産を要求するつもり?あなたが私の息子だから、でしょ。それなら、私はあなたが私の息子だということを否定します。もし必要なら宣誓してもいい。あなたは私と何の関係もないし、あなたのことなど知らないと申し立てます」ところが、何たることか!ウィルキー氏の人を小馬鹿にしたような落ち着きはそのままだった。彼はポケットから折り畳んだ紙切れを取出し、勝ち誇ったようにそれを振りかざした。「僕を息子と認めない!ほう、それは人が悪い」と彼は言った。「でも、そんなことは先刻織り込み済で...2-VI-17

  • 2-VI-16

    事ここに至っては、ウィルキー氏の行動、彼のやり口、自信たっぷりな態度、猫かぶりな様子、諸々の矛盾、すべての辻褄が合った。世の母親の心には息子に対する至高の信頼が根強く存在するものであるが、こうなるとさすがにマダム・ダルジュレの心からもその信頼が消えた。彼女はウィルキー氏の中に底知れぬ計算高さと悪辣さを垣間見て、怯えあがった。彼が他人の意見など気に掛けぬとあれほど胸を張って宣言したのも、子供の頃の負い目を切々と訴えたのも、これが理由だったのだ。彼が求めていたのは母親ではなく、ド・シャルース伯爵の遺産だったのだ……。「ああそう。それを教えて貰ったってわけなのね」哀れな母親の口調には苦い皮肉が込められていた。そしてイジドール・フォルチュナ氏のことが彼女の頭に浮かび、付け加えた。「この秘密はさぞかし高いものについ...2-VI-16

  • 2-VI-15

    ウィルキー氏の口から洩れたぎすぎすした冷笑が彼女の言葉を遮った。自分の友人たち、自分の楽しみ、自分の好み、そういったものを攻撃されては黙っていられない。我慢などできるか……。「上等じゃないか!」彼は言った。「言ってくれるね!道徳をお説きになるとは!ああそうなんだな、あまりに高潔すぎていらっしゃる!今から俺はきっちり三分間笑わせて貰うよ、時計で計ってな!」この皮肉に込められた残酷さを彼は意識していたのであろうか?ひとつ確かなことは、マダム・ダルジュレはまっすぐ立っていることが出来なかった。それほどこの一撃は堪えたのだ。可哀想な彼女はすべてを予想できていたのだが、この息子の激怒だけは別だった。しかし彼女はこの不面目を逆らうことなく呑み込んだ。そして耐え難い悲しみ滲ませて答えた。「確かに、あなたに真実を説く資格...2-VI-15

  • 2-VI-14

    「お前に知られなければ、私はこんな地獄の底からでもお前の母親でいられたのに。そしてお前をそっと眺めていられたのに……。お前に恥ずかしい思いをさせず、お前を軽蔑することもなく、お前を助けることもできたのに……。私のことを知られた今となっては、もうお前にしてやれることは何もない……何も!私はお前を援助するよりも貧窮で死なせる方を選ぶわ。お前が死ぬのを見る方がまし。お前が私の汚れた金で穢されるのを見るよりは……」「しかし……」「何を言うの!私が今まで渡してきたあの金をまだ平気で受け取れると言うの?そもそも私がそれを続ける気になるなんてことがあるとでも?」毒蛇がウィルキー氏の前で鎌首をもたげたとしても、これほど素早く彼が飛び退くことはなかったであろう。「そんなことは絶対ありません!」と彼は叫んだ。「ああ、断じてそ...2-VI-14

  • 2-VI-13

    パターソンさんは現在大きな工場を経営しているのよ。だから喜んで私たちの力になってくれるわ。大丈夫、私たちは誰かの世話になるわけじゃない。あなたが働くという決心をしてくれたら……」この言葉に、ウィルキーは激昂して立ち上がった。「ちょっと!」と彼は遮った。「どういうことですか。全く意味が分かりません。この僕にパターソン氏の工場で働けとお母さんは言っているのですか?……そんな!はっきり言いますが、それは悪い考えですよ……」ウィルキーの言葉、その口調、そのときの身振りにはもはや疑念を挟んだり幻想を抱く余地はなかった。彼はいわば、彼という人間を余すところなく赤裸々に暴露して見せたのだった。マダム・ダルジュレは自分がどんなに酷い思い違いをしていたかを悟った。目から覆いがはらりと落ちた。彼女は自分の夢想と現実とを取り違...2-VI-13

  • 2-VI-12

    あなたは僕のお母さんなんでしょ?お母さんが何をしてきたか、そんなこと僕には関係ありません。僕はね、人の意見なんて気にしないんです。僕はまず自分の好きなようにやる。その後で他の人に相談するんです。それじゃ気に入らないっていう人にはこう言うんです。いいから黙っててくれないか、ってね」マダム・ダルジュレは喜びにうっとりしながら息子の言葉を聴いていた。彼の言葉遣いの奇妙さに違和感を覚え、なにか気がついてもよさそうなものだったが、残念ながらそうはならなかった。彼女の目は何も見ず、ただ一つのことしか頭になかった。息子が自分を撥ねつけたりせず、立派に自分を受け入れてくれたということ、自分のために身を捧げてくれるのだということしか……。「ああ神様!」と彼女は呟いていた。「これは本当に現実のことでしょうか?……私はこれから...2-VI-12

  • 2-VI-11

    彼は自惚れの強さと同じぐらい、情にほだされない強かさを持った男だった。母親から炎のような接吻を受けつつ、その下では氷のように冷静だった。実際、内心ではぶつくさ不平を言いながらも表面上は不承不承されるがままになっていたが、それはぎりぎりの我慢をしていたのであり、どのようにこの場面にけりを着ければよいか分からなかったためである。「いつまで続くんだよ」と彼は思っていた。「これは人気のある証拠だな。俺って人に好かれるタイプなんだ。コスタールとセルピヨンが見たら大笑いするこったろうて!」コスタールとセルピヨンとは彼の友人で、かの『ナントの火消し』の共同所有者である。しかしマダム・ダルジュレはこの突然の出来事で動転していたのと、気の毒なことに、喜びに舞い上がっていたため、息子の表情が控え目に言っても奇妙なものであるこ...2-VI-11

  • 2-VI-10

    「マダム!」彼女は深く溜め息を吐くと、押し殺したような声で言った。「マダムだなんて!お母さんとは呼んでくれないの?」「僕がですか!そ、それはもちろん!でもですね、そういうのは習慣の問題で……時間が掛かるんですよ……でもそのうち慣れます」「そのとおりね!……本当にそうだわ!……でもそう言ってくれたのは同情からだけじゃないわね。あなたは私を憎んでいるでしょ。呪ってもいるに違いないわ。ああ地獄の責め苦だわ!女は物心つくや否や、いつもいつも『身を慎め!』と言われるでしょう。……『お前の息子もいつか二十歳になる。そしてお前はその目に射すくめられることになるのだ……彼はお前の恥を自分の恥とせねばならないその釈明を求めるだろう!』ああ神様!こんな風に考えていたら、女は罪を犯すことなどないでしょうに……このような恥ずかし...2-VI-10

  • 2-VI-9

    しかし彼はその異様さに耐えていた。混乱したわけではなく、彼が感じていたのは一種の本能的な恐怖と同情が入り混じったものだった。自分が出現したためにこの哀れな女はかくも深い絶望の叫びを上げたのだ。その叫びがどのような意味を持つか、彼はさして深く理解したわけではなかったが、心を揺さぶられるものではあった。こういった錯綜する感情は何とも言えぬ居心地の悪さとなり、それが自分の弱さに起因するものであるかのように彼は苛立った。「また困ったことになったもんだ!」と彼は思っていた。「涙とか、メロドラマとか……女というのはどうしようもないな!穏やかにおとなしく話し合えばしごく簡単なことなのに……」しかし、どうしたものか決心がつきかねて彼はぼんやりしていた。が、ドアに近い踊り場から足音が聞こえて来たとき彼は現実に引き戻された。...2-VI-9

  • 2-VI-8

    「ああ神様!」彼女は自分の額を床に打ち付けながら言った。「息子は私を拒んでいます。私のことを恐ろしい女だと思っているのです……ああ、こうなるのではないかと怖れていました。可哀そうな子!あなたはどうしてここに来たの?誰かおぞましい人間に教えらえてここに来たのね、ダルジュレの舘に!その人の名前を言いなさい、ウィルキー!今となってはもう分かったでしょう、私が何故あなたから身を隠していたかが……あなたの前で、我が息子の前で、恥ずかしさに居たたまれない思いをしないために、私はあなたを遠ざけたのよ!……でもでも、それはあなたの為でもあった…………私だけのことなら、死は安らぎとなったことでしょう。でも幼いあなたは……。あなたの呼吸はだんだん弱くなっていって、私の首にしがみつく力もなくなっていた。あのとき私は叫んだのです...2-VI-8

  • 2-VI-7

    彼は顔に皺を寄せ、上辺だけの苦痛を装い、苦々しげな口調で言った。「ああ、そうですか、滑稽だと仰るんですね。それじゃ言いますが、僕にとっては違います。社会からの除け者のように、たった一人で生きることがどんなに悔しいことか、貴女はご存じないからです。誰一人として身を案じてくれる人もなく!他の人たちには母親がいて、兄妹がいて、家族がいる。身内がいる!僕には誰もいない……一人として!ああ、友だちがいることはいます。僕のお金が続く限りの……」彼はハンカチで目を拭った。その目は完璧に乾いていたのだが。それから更にもっと激しい嘆きの口調で続けた。「何かをねだりに来たわけではありません。そこそこ生活していくだけのお金は貰っています。しかし、飢えない程度のものを僕に与えれば、僕の両親はもうそれで十分と考えたのです……僕はそ...2-VI-7

  • 2-VI-6

    彼は機械的に付け襟と首の間に指を何度か挟んでネクタイを緩める動作をした。そうすることで言葉が容易に喉から出てくることを期待したのだったが、なかなかうまく行かない……。ひとつには、マダム・ダルジュレが彼の予想していたのはまるで違っていたことがある。彼は馴染みの黄色い髪の自堕落な女を想定しており、そういう女を相手にすることになるだろうと思っていたのだ。ところが全くそうではなかった。この女はおそろしく堂々として威厳があり、彼の言葉を借りると、『彼をぶったまげさせた』のである。「貴女に申し上げたいのは」彼は繰り返した。「申し上げたいのは……」しかし言葉はなかなか出てこなかった。とうとう自分にしびれを切らして彼は叫んだ。「ああ、そうですよ!……僕と同じぐらい、貴女にも分かってるじゃありませんか、僕が何故ここへ来たか...2-VI-6

  • 2-VI-5

    瞬間的に、自分はとんでもなく酷いことをやってきたのではないかという思いが彼の脳裏を掠めたが、彼はそれを押し殺した。こうなっては後へは退けないし、反省することすらすべきでない。彼が入って来たドアの反対側にあるドアが開かれた。マダム・ダルジュレが入って来た。しかし客たちの前で酷く取り乱したあの彼女ではもうなくなっていた。一分間気を落ち着ける時間があったおかげで、危険な状況下でも事態を好転させることの出来る勇気が彼女に戻ってきたのである。自分が冷静でいられるかどうかに自分の身の安泰が掛かっていると彼女は思ったので、あらん限りの力を振り絞って絶望を振り払い、絶壁を伝い歩きながらも毅然として眩暈を寄せ付けまいとする者の勇気を奮い立たせていた。確かに、表面的には彼女は平静で冷笑的、高慢で大理石のように冷然として見えた...2-VI-5

  • 2-VI-4

    彼の見張りは長引いたが、そのうち一台の箱型馬車がダルジュレ邸の前に停まると、まるで呪文を唱えたかのように門が開かれた。その馬車は中庭に入って行き、中の乗客を玄関の石段に降ろすと去って行った。すぐ後に二番目の馬車が続き、その後三台目、それから五、六台が立て続けにやって来た。「ふん、そうかよ」と彼は呻いた。「他の者たちが入っていく間、俺がずうっと立って待ってると思うのかよ!誰がそんなことするかって!俺にも考えがある」というわけで、その後のことも考えず、彼は自宅に戻ると夜会服に着替え、月極めの貸馬車を呼びに行かせた。「ベリー通りxx番地までやってくれ」と彼は御者に言った。「そこで今夜パーティがあるんだ。中庭まで乗り入れてくれ……」御者は言いつけられた通りにし、ウィルキー氏は自分の考えが素晴らしいものであったこと...2-VI-4

  • 2-VI-3

    「マ、マダム・ダルジュレは?」「マダムは郊外にお出かけでございます」と門番が答えた。「今夜までお戻りになりません……もしお名刺を頂けましたら……」「ああ、いや!また来るからいい……」これはド・コラルト氏から特に注意を受けていたことだった。自分の名前を名乗るな、と。そしてダルジュレ邸を訪れるのは出来るだけ思いがけぬ頃合いを見計らうべし、とりわけ彼女に心の準備をする時間を与えないよう、身分を明かすことを控えるように、と……。それが成功に導く道なのだということを彼も最終的に納得したのだった。しかしこの最初の躓きに彼はことのほか苛立った。これから丸々午後いっぱいのこの時間をどうやって潰すべきか。不安とじれったさで頭がごちゃごちゃになった彼はじっとしていられなくなった。一台の馬車が通りかかったので、それに乗り込み、...2-VI-3

  • 2-VI-2

    彼の『大親友』が立ち去っていく姿を見ながらウィルキー氏は満足の大きなため息を吐いていた。まずはこのとてつもない喜びに恥ずかしげもなく耽りたかった。そしてはち切れんばかりに彼の頭に充満している驕りの気持ちを鎮めるべく一人になりたかった。もうあのケチな二万フランぽっちの支給金とはおさらばだ。借金も、金のない窮屈さももうおしまい。欲しいものが手に入らないあのイライラした気持ちを感じることはもうないのだ!何百万という金!目の前にその金が見え、手で触れられるような気がした。金貨が指の間を滑って行く感触!どんな馬でも買える。飾り立てた馬車、騎手たち、綺麗どころの女たち。こういった物が彼の頭の中で狂ったようにサラバンドを踊っていた。ド・コラルト氏の目の中に羨望の光が垣間見えたように彼は思い、それこそが彼の幸福の絶頂を極...2-VI-2

  • 2-VI-1

    VIウィルキー氏に彼の出生の秘密を教えるだけでは十分ではない。更に、それを有効な手段として用いるにはどうすればよいかを教え込むことが必要であった。ド・コラルト子爵の表現を借りるとこういうことであり、彼はそれを入念に実行したのであった。しかもふんだんに注意事項を盛り込んだところをみると、彼が自分のクライエントの洞察力にあまり信頼を置いていないことが明らかだった。「マダム・ダルジュレは全く油断できない相手だ」と彼は考えていた。「このアホの若造を手玉に取るぐらい朝飯前だろう。前もって注意しておかなかったら、こいつは一芝居打たれて訳も分からぬまま放り出されるのがオチだ」というわけで彼はウィルキー氏に前もってあれこれと教え込み、五百万フラン以上の財産を相続するべき人間に仕立て上げようとした。これこれのことをし、こう...2-VI-1

  • 2-V-19

    しかしこの禁止も奇妙に見えるかもしれないと思ったので、門番に尋ねて来る人がいれば自分は郊外に出かけ、恒例の客を迎える明日まで戻らないと告げるよう言いつけた。これはつまり、マダム・ダルジュレはパーティの夜を延期することは出来ないということだった。長年毎月曜の夜に常連客が彼女の舘に通ってきていたというのに、門が閉まっていたら彼らは何と言うであろうか。彼女は女優ほどの自由も持っていなかった。泣いたり、一人で苦しむ自由さえなかったのだ。というわけで月曜の夜七時頃、身も心もくたくたになっていたが彼女は起き出し、着替えや整髪、身嗜みを手伝わせた。彼女は手持ちのドレスの中から黒っぽい色のものを選んだ。パスカル・フェライユールが犠牲になったあの夜に着ていたのと同じドレスである。今夜の彼女はいつもより青白かったので、ルージ...2-V-19

  • 2-V-18

    時計の鐘が響き、それで彼は言葉を切り、椅子から飛び上った。「もう二時だ!」彼の表情には不安がありありと表れていた。「カミ・ベイが私を待っているんだった!ここで時間を無駄にしたわけでは断じてないが、正午からゲームを再開することになっていたんですよ。私が勝ち逃げするんじゃないかとカミが疑っているかもしれない……どうもトルコ人というのは奇妙な人種でね。ま、今のところ私が二十八万フラン勝っているのは確かですが」彼は頭に帽子をきっちり被ると、ドアを開けながら言った。「それでは、また近いうちに。くれぐれも今までと何も変わらないように振舞ってください。我々の成功は敵を安心させることに掛かっていますからね」この忠告をマダム・ダルジュレは至極尤もなものと納得し、半時間後には無蓋馬車に乗ってブーローニュの森に出かけたが、自分...2-V-18

  • 2-V-17

    彼女は強く息を吸った。すべての血が胸に流れ込んだかのようであった。そして押し殺した声で続けた。「ウィルキーは働きます。自分のため、そして私のために。彼が強い男なら、私達は救われます。もし弱い男だったら、そのときは私達二人とも破滅するだけの話です!ああでも、卑怯な行動や恥ずべき妥協はもうたくさん!正直に生きている青年の名誉と私の兄の娘の幸福を、私が自分の息子のために犠牲にしたなどとは誰にも言わせません。果たすべき義務がどこにあるのか、私は見据えています。あらん限りの力をもって私はその義務に自分を縛りつけます」男爵は表情と身振りで同意を示した。「よくぞ申された!」と彼は言った。「ただ、これだけは言わせてください。すべてが失われたわけではない。法律というものは大義があれば戦う手段を用意してくれています。なんらか...2-V-17

  • 2-V-16

    もしも、男爵、私が貴方の忠告どおりにして、亡き兄の遺産相続を申し出たとすれば、私の夫であるあの男がたちまち私達の結婚契約書を手に姿を現し、すべてを奪って行くでしょう……。あの男に富を与えることになってしまいます!そんなこと、絶対にさせるものですか!どんな代償を払っても、それだけは嫌です。それぐらいなら貧苦のうちに死ぬ方がましです。ウィルキーが飢え死にするのを見る方が!」マダム・ダルジュレの態度には仰々しさは全くなかったが、彼女の抑制された感情の迸りの中に長年秘かに彼女を苛んできた怒りが垣間見えた。そして何物によっても揺らがぬ決心が。彼女に翻意させ、より思慮深く、より現実的な方向へ導くことはとても出来ぬ相談のように思われた。男爵はそれを試みようとさえ思わなかった。マダム・ダルジュレとの付き合いは昨日今日始ま...2-V-16

  • 2-V-15

    「私に最後まで言わせて下さい。判断はその後になさってくださいな。私の過去について、貴方にはすべて正直に打ち明けました……但し、このことだけは除いて。私は結婚しているのです、男爵、合法的に。何ものも断ち切ることの出来ない鎖で繋がれているのです。私の夫は下劣な人間です。この男がいかに悪辣かをお知りになったら驚かれることでしょう。ああ、そんな風に首を振らないでくださいまし。私がかつてはあんなに愛した男のことをこんな風に言うのは誇張しすぎなどとは誰にも言わせません。だって本当に私は彼を愛していたのです。気も狂うほどに、自分自身も自分の家族も、名誉や人間として最も尊い義務までも見失うほどに。私の兄の血がまだ生暖かく彼の手に残っているとき、彼の後を追ってしまうほどに!……ああでも、その罰がすぐにやって来ない筈はなかっ...2-V-15

  • 2-V-14

    「結構ですわ」と彼女は返事した。「あなたの仰るとおりに致します……それでその後は?」「何ですと!私が何を言おうとしているか、まだ分からないのですか?その後は……貴女は姿を消すのです。私は新聞記者に五、六人は知り合いがいます。そのうちの一人に記事を書かせることは朝飯前ですよ。貴女が病院の粗末なベッドで死んだ、とね。これは胸を打つ、しかも教訓的な記事の見出しになりますよ。『巴里の花形また一つ去る』と新聞は書き立てるでしょう。『真面目に生きている婦人たちの眉を顰めさせるような娼婦の行き着く先はこのような終りである』とね」「で、わたしはどうなりますの?」「尊敬すべき女性になるのですよ、リア。貴女はイギリスに行き、ロンドン郊外に洒落た別荘を買ってそこに住み着くのです。そして新たな女性として生きる。貴女の家財道具を売...2-V-14

  • 2-V-13

    「というわけで貴女は差し押さえられる。貴女は異議申し立てをしません。で一週間後パリ中に派手な掲示が貼り出され、司法当局によりドルオー通りの邸で競売が行われる旨宣伝される。マダム・ダルジュレの家具一式、持ち衣裳、カシミア、レース、ダイヤモンド等が最高値をつけた人に競り落とされる、と。これでどんな騒ぎになるか、目に浮かぶようではないですか?貴女の友人やサロンに入り浸っている連中が大通りで口ぐちに言い合っている様子が。「おや君か!あのダルジュレの話を聞いたかい?……ああ、もちろんだとも……意図的な投げ売りだな……いやいや、賭け金を全部巻き上げられたんだ、すってんてんなんだよ……なんとなんと、残念なことだ!……良い女だったのになぁ……そのとおりさ、彼女の舘では随分楽しかったね。ところでここだけの話だが……なんだね...2-V-13

  • 2-V-12

    「ド・コラルトは彼の過去の悪行をわたしが人に洩らしたと知った途端、彼の方でも秘密を暴露するでしょう」「それなら、そうするがいい。勝手に喋らせておきなさい」マダム・ダルジュレは身震いした。「そうなるとド・シャルースの名前に瑕が付きます」と彼女は言った。「ウィルキーは母親が誰なのか知ってしまいます……」「いや、そうはさせない!」「でも……」「いいですか、最後まで言わせてください、リア、私に考えがある。この上もなく簡単なことだ。早速今夜、貴女はロンドンの連絡先、パターソン氏とかいいましたかね、に手紙を書いて、貴女の息子をイギリスに呼び寄せて貰うのです。何らかの口実を設けて……お金を渡すから、とでも言えばいいでしょう。ウィルキーは当然飛んで行くでしょう。そしてその地に引き留めて貰うのです。一方コラルトは彼の後を追...2-V-12

  • 2-V-11

    彼女はうなだれ、殆ど聞き取れないような声で言った。「わたしに自由があったでしょうか!自分より強い力に従う他なかったのです……ああ、コラルトの脅しがどんな恐ろしいものか、貴方に聞いて貰いたかった!あの男は私の秘密を嗅ぎ付けました。ウィルキーを知っているんです。わたしはあの男の言いなりになるしかありませんでした……ああそんな風に眉を顰めないで。言い抜けしようなどと思っているのではありません。すべてをお話しますわ。わたしの置かれている立場はそれは惨いものです。貴方以外に心を打ち明けられる方はいません。わたしを助けに駆けつけてくださるのは貴方だけです。聞いてください!」そして彼女は早口に語った。ド・コラルトから脅しを受けている状況、ド・ヴァロルセイ侯爵の深慮遠謀について聞き知ったこと、フォルチュナ氏から不気味な訪...2-V-11

  • 2-V-10

    この埋め合わせはさせて貰う。が、然るべきやり方で、です。私にはじっとしていることしか出来ないが、ド・シャルース伯爵とトリゴー夫人の間に出来た娘は孤立無援の身の上ではありませんか?それならば、私は彼女に手を差し伸べます。これは私がこれまでに為してきた愚行の一つに数えられるかもしれぬが、そんなこと気に掛けるものか。私は約束をしたのだ。そうとも!父親が人妻を気晴らしに誘惑するような男で、母親があばずれ女だからといって、それが可哀想な娘の罪ですか!私ははっきりと彼女の味方をします!」マダム・ダルジュレは立ち上がった。彼女の顔は喜びに輝いていた。「ああそれなら、私達に救いはあるのですわね?」と彼女は叫んだ。「ああ、わたしは間違っていなかった。貴方を探しに行かせたとき、きっと貴方のお心に届くと思っていましたわ!」彼女...2-V-10

  • 2-V-9

    その間も彼は言葉を続けていた。「このように運命というものは私達を弄び、私達の計画を嘲笑うものなのだ……。貴女も覚えているでしょう、リア、私たちが初めて出会ったときのことを。貴女は腕に子供を抱えパリの街を彷徨っていた。身を寄せる家もパンもなく、蒼ざめ、疲労と空腹で憔悴しきっていた。死以外に避難場所はなかった、と貴女は後で言いましたね。あのとき私が自殺から救った女が、私の最も憎む敵、憤怒の限りをもってその命を狙わんとして果たせずにいたその男の妹であったとは!そのようなことを一体誰が想像できますか!」男爵の息づかいは激しくなって行き、機械的に手で額を何度も拭った。そうすれば彼に執りついていた考えを振り払うことが出来るかのように。「どのようにしても、とても言い尽くすことは出来ません」彼はぞっとするような笑みを浮か...2-V-9

  • 2-V-8

    彼女は何も言えなかった。たとえ息子ウィルキーの命を救うことになるたった一言があったとしても、マダム・ダルジュレはそのひと言さえ言えなかったであろう。男爵がどのような苦しみのため一種の精神的な自殺へと追い込まれていったか、彼女には分かった。それが一日十二時間、丸一週間続く五十万フランを賭けたカードゲームだったのだ。「しかしそれだけではない」と彼は再び話し始めた。「聞いてください。貴女には何度も話したことですが、私の妻は私の不在中に子供を産んだのです。私は何年もの間、この呪われた子供を探し続けていました。この子供を辿っていけば父親に行き着く筈と考えて……。そして私はついにその子供を見つけた!その子は今や美しい娘に成長し、ド・シャルース邸に、つまり父親のすぐそばに住んでいました。名前をマルグリットという」マダム...2-V-8

  • 2-V-7

    しかし彼女は言いさし、気がついた。彼女自身千々に心が乱れてはいたが、男爵のただならぬ様子に驚いた。彼はサロンの真ん中で立ち止まったまま、彼女に奇妙な視線をじっと注いでいた。その目には彼の内心の矛盾する感情がぶつかり合う様が見て取れた。怒り、憎悪、同情、許しなどである。マダム・ダルジュレはぞっとした。不幸は限界まで来てはいなかったのだ。まだ新たな不幸が彼女に襲い掛かろうとしている!男爵は苦痛の軽減ではなく、更にもっと苦痛を与えるために来たのだ!「どうしてそんなお顔で私をご覧になるの?」彼女の声は不安のためいつもとは違っていた。「私、何をしたんでしょう?」彼は悲しげに頭を振り、優しく答えた。「可哀想なリア、貴女は何もしてなどいない」「それなら……、ああ神様、一体どうなさったんです。私を怖がらせないで!」彼は進...2-V-7

  • 2-V-6

    そう思いながらも彼女は待っていた。じっと通りの車の往来に耳を澄まし、邸の前に馬車が停まる音を聞いたように思ったときは飛び上がり、すっかり待ち草臥れてしまった。夜中の二時になっても男爵は現れなかった。「仕方ないわ」と彼女は呟いた。「あの方は来ないんだわ!」しかしこの時間になると彼女の辛抱も切れて来た。感覚が極度に鈍くなり、虚脱状態に陥って精神力も思考力も麻痺してしまったかのようだった。大変なことが起こるという確信に近いものがあったので、それを防ぐにはどうしたらいいかと考えることも出来なくなった。呆けたような諦めの気持ちでただ待つだけだったので、雷鳴を聞いただけで雷に打たれるに違いないと覚悟して跪いたというスペインの女たちのようなものであった。彼女は這うようにして寝室に行き、横になるとすぐに眠りに就いた。大き...2-V-6

  • 2-V-5

    彼女は悲嘆の中で、自分の状況をじっくり検討してみようとしたが、なんら解決策は思い浮かばなかった。まるで鉄の足枷で拘束されているかのごとく、もがけばもがくほど身体の自由が奪われていくようだった。周囲はどこを見ても軽蔑、絶望、そして恥辱ばかりであった。苦痛と恐怖のあまり彼女は時の経過にも気づかないでいたが、中庭からガラガラと聞こえてくる馬車の音にハッと我に返った。「ジョバンだわ……男爵を連れてきたのね……」だがそうではなかった!ジョバンは一人だった。「おられませんでした!」と彼はがっかりした口調で報告した。しかし、この律儀な召使は主人の馬車を無駄に使いはしなかった。男爵が彼が姿を見せたことのある場所、可能性がどんなに低かろうと彼が見つかるかもしれない場所には全部行ってみたのだった。が、どこでも彼の姿はここ数日...2-V-5

  • 2-V-4

    フォルチュナ氏が姿を見せたとき、マダム・ダルジュレはトリゴー男爵と話をしていたのだった。あの尊敬すべき男爵は、パスカル・フェライユールが犠牲となったあの事件には何らかの奸計が存在しているのではないかと疑っていた。ああ、自分はそれが奸計だとはっきり知っていた!男爵はド・コラルト子爵の企みを白日の下に曝すため自分と同盟を結ぼうと提案した。それなのに、自分は拒否してしまった!だって私はあの子爵に命運を握られているのだもの!私は自分の秘密を守らんがために無実の人を見殺しにしてしまった。秘密を暴露されないためには共犯者になるよりなかった。最も卑劣でおぞましい犯罪の共犯者に……。それどころか、自分は男爵の疑念を空想呼ばわりし、強い口調でコラルト氏を擁護さえしたので、唯一の味方である男爵は気持ちを傷つけられ、憤然として...2-V-4

  • 2-V-3

    こう考えると、この哀れな婦人は絶望で両手を揉み始めた。なんということか!彼女はもう十分過ちの償いをしたのではなかったか。この上まだ息子にまで罰を受けねばならないのか!ここで初めて彼女は鋭い疑念に捕らわれ煉獄の火で焼かれるような苦痛に心を引き裂かれた。彼女が至高の母性愛の為せる業だと思っていたこと、それもまた過ちであったのか、しかも最初のものより更に大きな過ちなのか?彼女は息子の幸福のため女の貞潔を犠牲にしてきた。彼女にそんな権利があったのか?息子に惜しみなく与えてきたお金、まさにその金があらゆる悪の芽を育んでいたのではないか。堕落、そして恥辱を……。もしももしも、息子のウィルキーが真実を知ったとしたら、どれほどの苦痛や怒りが彼を襲うことか?ああ、そうなったら、息子はいかなる言い訳も和解も受けつけないであろ...2-V-3

  • 2-V-2

    「あら、それはちょっぴり残念」とマダム・ダルジュレは呟いたが、その口調は言葉の軽さとは裏腹であった。それから使用人達の興味津々の顔つきや憶測から逃げるように、彼女がいつも使っている私室に入って行った。フォルチュナ氏は彼女のもとに名刺を残していった。つまりそれによって住所が分かるので、彼の家に行ってみるか、召使いを彼のもとに送るかすればよい。ごく簡単なことだった。彼女はすぐにも実行に移そうと思ったのだが、少し待った方が良い、と思い直した。一時間やそこら遅くなったとてどうということはなかろう。彼女は信頼を置いている使用人のジョバンを呼び、トリゴー男爵に会いに行くよう命じた。彼はすぐにも男爵を連れて来てくれるであろうから、男爵に相談すれば良い。彼ならば状況をより正確に見極め、どうするのが正しい判断か教えてくれる...2-V-2

  • 2-V-1

    V「今出て行ったあの男がお前の秘密を洩らしたら、お前は終わりだ!」不吉な声が頭の中で叫んでいた。イジドール・フォルチュナ氏が彼女から出て行けと言われ、サロンのドアを後ろ手に閉めて出て行った後のことだ。その男は彼女がこの二十年間耳にすることもなく、自分で口にするのも憚ってきたド・シャルースという古い由緒ある名前で彼女を呼び、挨拶をしたのだった。皆にダルジュレと呼ばれている彼女がドュルタール・ド・シャルースの一族であることをその男は知っていたのだ。その自信に満ちた口調に彼女はへなへなとなった。フォルチュナと名乗るその男は、自分の訪問の目的は私利私欲を求めてのものでは全くない、と断言した。ド・シャルース家に対し彼が行動を起こそうと考えた理由は、マルグリット嬢という若い娘の気の毒な身の上に同情したからというその一...2-V-1

  • 2-IV-20

    「貴方が受け取る財産は、ド・シャルース伯爵の遺された遺産です。伯爵はあなたの伯父なのです。推定では、総額八百万から一千万フランと言われています」このときのウィルキー氏の痙攣的な身体の動きや目の異様な光を見れば、人は彼がこの途方もない幸運の衝撃に耐えきれず精神に異常をきたしたと思ったかもしれない。「ああ僕がどこかの名門の生まれだということは分かっていたよ!」と彼は叫んだ。「ド・シャルース伯爵が僕の伯父だなんて!それじゃ随分高い地位じゃないですか!同級生の鼻を明かしてやれるぞ!名刺の隅に王冠を印刷しよう。こりゃいいぞ!」ド・コラルト氏は身振りで相手を黙らせた。「いいですか、喜ぶのはちょっと待って」と彼は言った。「そう、確かに貴方の御母上はド・シャルース家の娘で、あなたはその方を通じて相続することになる。ただ…...2-IV-20

  • 2-IV-19

    ただ単に誰かが彼に罠を仕掛けたということではないのか?そもそも既に何らかの罠が仕掛けられていないというのが奇跡的だった。この垣間見えた危険があまりに大きく思えたのでマダム・ダルジュレに対する彼の計画を諦めようかとさえ思ったほどだった。この婦人を敵に回すのはあまりに無謀なことではなかろうか?日曜は丸々躊躇に費やされた。手を引くのはごく簡単なことだ。なにかホラ話をでっち上げてウィルキーに告げればそれでしまいだ。しかし、少なく見積もっても五十万フランもの大金をそんな風にふいにしていいものか……。ひと財産、独立した暮らし、将来の安定……。いや駄目だ。金輪際そんなこと出来るものか、あまりにも大きな誘惑だ!というわけで月曜日十時頃、気持ちの昂ぶりに顔色も蒼ざめいつもより謹厳な面持ちで彼はウィルキーのもとを訪れた。「単...2-IV-19

  • 2-IV-18

    とは言え、彼の怒りは自分のもとに大金が転がり込んでくることを忘れさせるほどのものではなかった。彼にはまだしなければならないことが残っていた。ウィルキー氏にサインさせようとしている証書の合法性を確かめることである。法律の専門家に相談すると、妥当な条件のもとに作成された契約は、もし裁判で争うことになった場合、非常に高い確率で証拠として受理されるであろうという答えが返って来た。しかもこの専門家はちょっとした案を提案してくれさえした。それはこの分野における傑作とも言うべきものだった……。まだ正午にもなっていなかったので、彼には十分行動する時間があった。そのときになって彼はウィルキーに二日待てと言ったことを苦々しく後悔した。「ウィルキーを見つけなければ」と彼は自分に言い聞かせた。しかし彼がウィルキーを見つけたのは夜...2-IV-18

  • 2-IV-17

    「何ということを!あなたのお考えでは……」「私は何も考えてなどおらぬ。私が掴まるに足る支えであった間は、お前は私に献身的だったな……ところが私がぐらつくと、すぐにも私を裏切ろうとする」「お言葉ですが!私が今までどれだけ奔走してきたか……」「何を言う!そうするしかなかったからではないか?」ド・ヴァロルセイ侯爵はすばやく遮った。そして肩をすくめて続けた。「誤解しないで欲しいのだが、お前のことを非難するつもりは毛頭ない。ただ、このことは忘れないで貰いたい。我々二人が生き残るにせよ、滅ぼされるにせよ、一蓮托生だということだ」ド・コラルト氏の目を一瞬よぎった炎によって、侯爵はこの協力者が自分に抱いている憎悪と反逆心のすべてを理解した。しかし彼は不安そうな様子も見せず、今までと同じ氷のような態度で先を続けた。「それに...2-IV-17

  • 2-IV-16

    「そんなことでしたら」と子爵は遮った。「お安いご用ですとも……」ポケットからいかにも豪華な財布を取り出すと、彼は千フラン札を一枚でなく二枚抜き出しウィルキー氏に渡しながら言った。「どうやら私の言ったことが信用して頂けたようですね?それはよかった。ではまた近いうちに!」ド・コラルト氏がこの内密の約束を確定するのを翌々日まで延期したのは、好き好んでのことでも気まぐれでもなかった。彼はウィルキー氏のことは知り尽くしていたので、このいい加減な若者にこんな重大な秘密を半分握らせたままパリの街をほっつき歩き回らせる危険がどれほどのものか十分に心得ていた。延期というのは大抵の場合、偶然に武器を与えるようなものだ。しかし、今の彼にはそれ以外のやり方を取ることは出来なかった。ウィルキー氏に何らかの取り決めに同意させることを...2-IV-16

  • 2-IV-15

    ウィルキー氏は相手にそれ以上言わせなかった。彼は信用し、喜びが抑えられなくなり、興奮の頂天に達し気が変になりそうだった。「分かりましたよ、もう十分です!僕たちの間でややこしいことなんてなしですよ、子爵!それはこれからもずっと生涯変わりません。僕の言うこと、お分りですよね。いくらご所望ですか?全部?」しかし子爵の方は氷のような冷静さを崩さなかった。「どれぐらいの手当が相当か、私が自分でそれを決めるのは適当ではないでしょう」と彼は答えた。「専門家に相談してみます……。この点については明後日、貴方に提示をした上で正式に取り決めましょう」「明後日ですね!四十八時間の間僕をハラハラドキドキの状態に置いておこうってことですか……」「そうすべきものと考えます。私自身、まだいくつか情報を集めねばなりませんし……。私がこう...2-IV-15

  • 2-IV-14

    「ええとですね」と彼はついに言った。「貴方が僕をかついでいるとすれば、人が悪いですね……。お金を借りている、ということは紛れもない事実です。貴方には二十五ルイの借りがあります……。だから今は何百万という大金の話をするときではないでしょう。僕の親戚は僕に仕送りを送ってくれなくなりました。僕の債権者たちは証紙を貼付した書類を送り付けてきます……もうにっちもさっちも行かない状態です……」ド・コラルト氏は彼を圧し止め、もったいぶった様子で言った。「名誉にかけて申しますよ。私は冗談を言っているのではありません。貴方はいかほど支払うつもりがおありですか……」「ああ!その人がもたらしてくれる額の半分をお支払いしますよ……」「それは多すぎます」「いえいえ、そんなことはありません!」彼は間違いなく本気だった。金がどうしても...2-IV-14

  • 2-IV-13

    彼の偽りの輝きが失われ、転落し泥にまみれるとしたら、それは何によってもたらされるか?偶発的な事故、無分別、不手際……そのようなものだ。こういう思いに捕らわれると、彼の髪の毛穴から冷汗が噴き出るのだった。彼は単なる役者にすぎなかった。ほんの少しでも失敗すれば即終わりとなる。もっとしっかりした基盤を持ちたい、日々のパンを保証してくれるささやかな資産があれば貧困という悪夢を遠ざけておけるのに、と彼は熱望していた。フォルチュナ氏と同じ計画を思いつき、すぐさま実行に移したのはまさにこの切なる思いの故であった。「ウィルキーに知らせてやったらどうだろう?」と彼は考えた。「莫大な財産が手に入るということをあの大馬鹿に教えてやったら、俺にまずますの返礼をしてくれる筈だ……」思い切ってこの計画を実行すれば、マダム・ダルジュレ...2-IV-13

  • 2-IV-12

    通常ならばウィルキー氏をベッドから引きずり出すことは至難の業なのだが、召使が発した名前の効果は奇跡に近いものがあった。彼はぴょんとベッドから飛び降りると急いで着替えをした。「あの子爵が、こんな時間に、家まで訪ねてくるとは」と彼は呟いていた。「凄いことだ!ひょっとして決闘でもしようっていうのかな。で、俺に介添人になってくれとでも?こりゃいいぞ!それで俺の評判もちっとは上がるってもんだ。何にせよ、ただごとじゃないことは確かだ……」彼がこのように推論するのに大した洞察力は必要なかった。ド・コラルト氏は深夜の二時か三時より前にベッドに入ることは決してなかったので、起きるのはいつも非常に遅かった。もし彼が通りで朝の九時前に青い箱馬車に乗ったその姿を見せるとすれば、それは無粋の最たるもので、何か深い理由があるに違いな...2-IV-12

  • 2-IV-11

    そして相手の反応が好ましいものか否かによって、へりくだったり無礼になったりして見せた。そういう態度の差があまりにも明け透けだったので、友人たちは彼の髭の様子を見るだけで彼の懐具合を押し当てるのだった。しかしこうした経験が積み重なって行き、彼が今までに受け取った額を合計してみると、その総額にいささか怖れの念を抱かずにはいられなかった。そして、これほどの金をくれるとは自分の親戚は相当な金持ちに違いないと思うに至った。そうなると彼は自分の出生や幼少期に関する謎に頭を巡らし始め、友人たちを驚嘆させようと考えた。彼らが信じやすいのをいいことに、自分はイギリスの大貴族であり貴族院議員の息子として生まれたのだと自分に言い聞かせ、とてつもない金持ちだと信じるようになった。彼が借金取りたちに、自分の父親は卿であり、いつの日...2-IV-11

  • 2-IV-10

    年二万フランと言えば一日三ルイという計算になる。しかるに、毎日の食事を一流レストランで取り、ズボン一本百フラン以下では作らないという有名な仕立て屋の手になる服しか着ないと豪語するお気楽な若者にとって三ルイがどれほどのものであろうか?劇場の初日公演のボックス席を買い占め、賭けゲームをし、夜食を食べ、黄色い髪の女たちを引き連れ、競走馬に出資するような馬鹿者にとって一日三ルイがどれほどのものか?自分の野望と懐具合とを天秤に掛けてみると、ウィルキー氏はそれらがかけ離れていることを認めない訳には行かなかった。「他のみんなは一体どうやってるんだろう?」と彼は不思議に思った。これは深遠な問いではなかろうか?毎日夕刻になるとアンタンの車道からモンマルトル地域まで何千人という紳士が通って行く。みな煌めくばかりの装いで、口に...2-IV-10

  • 2-IV-9

    突然自分のものになったこのアパルトマンをウィルキー氏がじっくり見て回りさえしたなら、この場所が愛情をもって設えられたことがおそらく彼にも分かったであろう。そこにあるすべての調度品は新品でありながら血の通った温かみがあった。注文すればすぐ手に入るような、大抵は値段と家具商の好みに応じた冷たい家具付き住居とは違っていた。些細な点にまで女性の細やかな愛情に溢れた手が行き届いていた。先々まで前もって配慮する母親の優しさが感じられた。若い男を喜ばせそうなちょっとした贅沢品は一つとして忘れられていなかった。西インド諸島産の高級木材の煙草入れにはロンドレス葉巻が入れてあり、テーブルの上や暖炉の上にはタバコの一杯入った壺が置いてあった。ウィルキー氏にはこれらすべてに気づく時間が十分にあった筈だ、本当に!ところが彼は急いで...2-IV-9

  • 2-IV-8

    そのときまでは四半期に一度、五千フランをあなたにお渡しするよう、命じられております。これがそれです。三か月後に同額をお送りいたします。送る、と申しますのは、私にはイギリスに仕事がありましてそこに留まらないといけないのです。これが私のロンドンの住所です。もし何か不測の事態が生じましたら、そのときは私に御一報ください。これをもって私に与えられた任務は終了です。ではご機嫌よう!」「ふん、悪魔にでも食われっちまえ、頓馬なじじい!」パターソン氏が出て行った後ドアをばたんと閉めるとウィルキー氏は呟いた。「シャイヨ修道院へでも行きゃがれ、目障りなんだよ!」十年間彼の親代わりを務めてきた男からの、おそらくこれが最後という別れの言葉を告げられたとき、彼の心に浮かんだのはこれだけだった。つまりこのとき既にウィルキーという若者...2-IV-8

  • 2-IV-7

    ウィルキーは激しく泣き叫び、嫌だと抗議した。が、この仕事を命じられ報酬を貰っていると自ら語ったパターソン氏は、彼をルイ大王高等学校へと連れて行き、彼は寄宿生となった。その学校で過ごした何年間かは彼にとって全くうんざりするものだった。ごく並みの知能しか持ち合わせなかった彼は無為に日々を送ったので、何も学ばなかった。毎週の日曜日及び祭日にはきっかり十時にパターソン氏が彼を迎えに来、いかめしい態度でパリ市内や郊外を散策し、最上のレストランで昼食と夕食を取り、彼の欲しがる物はすべて買い与え、九時の鐘が鳴ると学校まで送るのだった。休暇になるとパターソン氏は彼を自分のもとに引き取り、娯楽を禁じることはなく、彼の欲求を察して何かと世話をしてくれたが、一瞬たりとも彼から目を離すことはなかった。ウィルキーがこの絶え間ない監...2-IV-7

  • 2-IV-6

    彼の表現を借りれば、その女性はメッチャ綺麗でかなり背が高く、金髪だった。その美しい髪の白っぽい輝きと量の多さは驚くばかりだったという。彼以外の人間だったら、このような惨めな子供時代の思い出には苦々しい思いを抱いたであろうが、彼はタフな精神の持ち主だったので、笑い飛ばした。「貧乏の極みだったのさ、諸君!」この話をする段になると彼はこう言ったものだ。「極貧だよ」しかしこの悲惨さは長くは続かなかった。その後すぐ彼は大変立派なアパルトマンに住むことになり救われたからだ。毎日、ムッシュ・ジャックと呼ばれているまだかなり若い男---彼はまだこの名前を覚えていた---がやって来て彼にお菓子や玩具を持ってきてくれた。その頃彼は四歳ぐらいだったようだ。この安楽な暮らしに入って一カ月経つか経たないかというある朝、見知らぬ男が...2-IV-6

  • 2-IV-5

    こういったことをド・コラルト氏は彼に約束していたのだったが、最後まではっきり言ったわけではない。だからといって何なのだ。友達の言葉を疑うなんてあり得ない。ド・コラルト子爵は彼のお手本であっただけでなく、彼にとっては預言者であった。彼ら二人の話すのを聞けば、子供のころからずっと一緒に育ってきたか、少なくとも長年の付き合いであるように見えた。が、実際はそうではなかった。彼らはほんの七、八カ月前に、見かけ上は偶然に知り合ったのだった。しかしその偶然というのはド・コラルト氏がお膳立てしたものであったことを付け加えねばならない。マダム・ダルジュレがエルダー通りを散歩するのには密かな理由があると嗅ぎつけた子爵は、それを確かめたいと思った。彼はウィルキー氏を観察し、彼が夜をどこで過ごすかを突き止め、自分もそこに出向き、...2-IV-5

  • 2-IV-4

    残念なことに、これは長続きのしない幸福であった。他の共同所有者たちが到着し、今度は彼らが騎手と共に巡回を始める番になり、手持無沙汰になったウィルキー氏は馬場を離れた。彼は巧みに馬車の列を潜り抜け一台の馬車を捕まえることが出来た。そこには昨夜彼と夜食を共にしてくれた二人の女性が乗っており、常にも増して真っ黄色の髪を見せびらかしていた。そこでも彼は自分に注目を集める方法をちゃんと見出していた。これぞ粋というところを見せてやるのだ!馬車の荷物置きにシャンペンを詰め込んでおいたのは伊達ではなかった……。そして頃合いを見計らって馬車の座席から身を乗り出すと大声で叫んだ。「さぁ来た来た来た来た!ナントの火消し、ブラーヴォー!火消しに百ルイだー!」ところが残念、哀れなナントの火消しはコースの半分も行かないうちに力尽きて...2-IV-4

  • 2-IV-3

    実はド・ヴァロルセイ侯爵は彼にそんなことは言っていない。というのはウィルキー氏とは殆ど面識がなかったからだ。しかし、そんなことは構うものか、かの侯爵を友達呼ばわりすることは気分が良いものだ。『あの愛すべき侯爵』と言う時の彼は得々としていた。しかし彼の言葉には誰も耳を貸さなかった。そのことを忌々しく思った彼は矛先を『彼の騎手』に向け、彼に合図をして場外へと連れ出した。この騎手というのは役立たずの怠け者で、大酒飲みで無気力なので、どこの厩舎からも追い出された男であった。自分を雇っている若い主人たちを馬鹿にしきっており、臆面も際限もなく彼らから金をふんだくっていた。年俸八千フランという非常に高い俸給を要求する以外に、馬丁、調教師、騎手の三役をこなさなければならないからという口実のもと、毎月穀物屋、獣医、蹄鉄工、...2-IV-3

  • 2-IV-2

    しかし侯爵に有利な動かしがたい状況もあった。彼の財産である。少なくとも人々の頭にある彼は大変な財産家であった。「あれほどの金持ちが」彼を擁護する人々は言った。「盗みに等しいような行為をするだろうか?今非難されているようなことは、一般大衆から金を巻き上げて自分の懐に収めるのと同じではないか。カードでインチキをするよりもっと酷いことだ!あり得ない。ヴァロルセイはそのような惨めな中傷を受けるような人間ではない。彼は完璧な紳士だ」「完璧な紳士、ねぇ」と懐疑的な人々は応酬した。「その言葉はクロワズノワやH公爵やP男爵にも当て嵌められていた。しかし彼らは皆ヴァロルセイと同じペテンの罪を犯したと認められたではないか」「破廉恥な中傷だ……もし彼がインチキをしようと考えたならもっと巧妙に疑いを掛けられぬよう立ち回った筈だ。...2-IV-2

  • 2-IV-1

    IV.あの抜け目ないフォルチュナ氏ともあろう者が、何故日曜日を選んでしまったのであろうか。しかもヴァンセンヌで競馬の行われる日曜日に、ド・コラルト子爵の魅力的な友人であるウィルキー氏宅を訪れ、自らの存在を知らしめたのであった。この失敗の原因は彼の不安にあったのかもしれないが、だからと言ってそれを正当化することは出来ない。他の日であったら、これほど無礼に厄介払いされることはなかったであろうに。彼は自分の提案を滔々と述べ、結局は断られることになったかもしれないが、そこからどういう発展があったかもしれないのだ。しかし、その日は競馬の行われる日だった。ウィルキー氏は自分がその三分の一の所有権を持つ障害物レースの競走馬『ナントの火消し』を視察せねばならず、同じく三分の一しか権利がないとは言え、騎手の雇い主としていろ...2-IV-1

  • 2-III-22

    突然すばやい動作でパスカルは男爵を遮った。彼の目に希望が輝いていた。「そうです、男爵」と彼は叫んだ。「ド・ヴァロルセイ氏の身辺にある男を送り込むのです。観察眼があって、使える男だと思わせることが出来、必要ならば彼の役に立つこともできる男を……。僕にやらせてください、男爵、お願いします。たった今あなたのお話を聞いて思いついたのです。ド・ヴァロルセイ氏のもとに僕を使いに出してください。あなたが彼のもとに遣わすと約束なさった代理人というのに僕をならせてください。向こうは僕を知りませんし、僕は見破られないように応答できる自信があります。あなたから言われて来たと自己紹介すれば、向こうも僕を信用するでしょう。あなたからのお金か約束手形を持っていけば、快く迎えてくれるでしょう。そうです、すっかり計画ができました……!」...2-III-22

  • 2-III-21

    「いいですか」男爵は再び口を開いた。「このことの背後には私たちの想像もつかない何か良からぬ謎があるようです……」「僕の母も同じことを言っていました」「ああ、マダム・フェライユールもそういう御意見なのですね!……賢明なお方だ。それではもう少し考えてみましょう。マルグリット嬢はあなたを愛していたのですね……」「はい」「ところが突然、彼女はあなたを遠ざけた」「彼女は手紙でこう言ってきました。ド・シャルース伯爵が死の床で、ドヴァロルセイ侯爵と結婚することを彼女に誓わせた、と」男爵は椅子から飛び上がった。「待った!」彼は叫んだ。「ちょっと待ってください……ここに真実に辿り着く手がかりがあるかもしれませんよ。マルグリット嬢はあなたに手紙でそう言ったのですね。死を前にしたド・シャルース氏が、侯爵と結婚するようにと彼女に...2-III-21

  • 2-III-20

    私たちはあなたの名誉を回復させるのです!あの卑劣なコラルトの仮面を剥いでやりましょう。ヴァロルセイをやっつけましょう、もし彼が本当にあなたを陥れたおぞましい事件の首謀者ならば。「なんですって!彼と話した後でもまだ疑いを持っておられるのですか!」男爵は首を振った。「ヴァロルセイが破産状態であることは」と彼は答えた。「疑いの余地はありません。彼に十万フランを貸したとすればそれは返ってこないと賭けてもいい。指弾されているように、彼が自分の持ち馬以外に賭けて、自分の馬が勝たないように命じたということは断言してもいい」「よく分かっていらっしゃるじゃありませんか……」「ええ、ですがちょっと待ってください……あなたの非難と彼の言葉の間には大きな食い違いがあります。彼はマルグリット嬢のことなどどうでもいいと思っている、と...2-III-20

  • 2-III-19

    「ああ、それが分かれば!」「最初に浮かぶのは復讐、ということではありませんか?私の場合はそうでした。しかし、誰に復讐するのか?ド・シャルース伯爵?彼は死にました。私の妻に?そうすべきかもしれませんが、私にはその勇気がない。残るはマルグリット嬢だ……」「しかし彼女に罪はありません。男爵、彼女があなたに対しどんな悪いことをしたというのですか!」この叫びは男爵の耳に届かないようであった。「どうすればいいかだ」彼は言葉を続けていた。「マルグリット嬢に生涯最も惨めな人生を送らせるために何をすべきか……侯爵と結婚させるだけでいい……そうすれば自分が生まれたことの罪を残酷に贖わせることになる……」「でも、あなたはそんなことはしないのです!」とパスカルは我を忘れて叫んだ。「それは最も恥ずべき行いです。僕が許しません。決し...2-III-19

  • 2-III-18

    ついさっき侯爵は自分の苦しい胸の内を一瞬見せてしまったが、今回は押し寄せてきた大きな喜びをうまく隠すことが出来た。ごく単純な事柄であるかのように、この上なくさりげない口調で彼は礼を述べた。が、すぐに出て行くことはせず、ありきたりな台詞を並べると、「では明後日」と繰り返して立ち去った。男爵は肘掛椅子にへたり込んだ。理性では抑えきれないような強い感情に翻弄され、軽蔑に値する破滅的な愛情を、しかしどうしても捨て去ることができず、彼はこれまでずっと手酷い苦痛を味わってきた。しかし彼が長年追求しても得られなかった秘密の答えが偶然もたらされた今ほど、完璧に打ちのめされたことはなかった。心に受けた傷が時間の経過によってその痛みを鈍化させていたのに、半分かさぶたが出来かかっていた傷口が新たにえぐられるように焼けるような痛...2-III-18

  • 2-III-17

    「ええ、ええ、いつも同じことですよ、男爵」と彼は答えた。「今朝はまだカードに手を触れておられないので、手がムズムズなさっているのではないですか……お時間を取らせてしまって申し訳ないですが、今お話ししたのは前置きでして……」「え、単なる前置きだったと?」「ええ、さようです。ご安心ください、それはもう終わりで本題に入ります……」トリゴー男爵が八十万リーブルの年利収入を得ていることはよく知られていたので、彼は平均して一年に百万フラン以上の援助や借金の申し込みを受けていた。というわけで、その手の依頼を嗅ぎ分けることにかけては彼の右に出る者はいなかった。「ああ勘弁してくれよ」と彼は思っていた。「ヴァロルセイは俺に金をねだりに来たのか」確かにヴァロルセイ侯爵のいつもの鷹揚さの奥に、ある種の気まずさが感じられ、彼は言葉...2-III-17

  • 2-III-16

    カンヌまで逃げて行きましたが、彼女はその後を追いかけました。何か月間か分かりませんが、彼はイタリア各地を偽名で転々としたようですが、無駄な努力に終わりました。とうとうどこか地方の修道院に娘を入れなければならなかったのです……。ですが、亡くなる前の数か月は平安な日々を過ごせたようです。つまり、それは金で買った平和でした。その女の夫は金に困っていたか、吝嗇かのどちらかでした。ところが彼女の方は気が狂ったように浪費をする人間だったのです。ド・シャルース氏は相当な額の手当てを彼女に与え、衣装代も支払っていたのでした」男爵はバネ仕掛けのようにパッと立ち上がった。これ以上耐えられなかったのである。「なんという女だ!」と彼は呻いた。しかし彼はすぐに座り直した。この思わず発せられた言葉はド・ヴァロルセイ氏を驚かせることも...2-III-16

  • 2-III-15

    十年以上も彼は自分の娘を探そうとは全くしませんでした。それぐらい敵を恐れていたのです。が、そういう時期を過ぎ、例の夫がどうやら捜索を諦めたらしいと確信を持つようになってようやく彼の方で捜索を始めました。長い時間が掛かり困難な仕事でしたが、ついに見つけ出すことに成功し、その子のもとに辿り着きました。一種の民間人のスパイみたいな怪しげな男の力を借りたのです。フォルチュナという名前の」男爵は激しく興味を惹かれた様子だったが、すぐにそれを圧し止めて言った。「それは……奇妙な名前の男ですな」「姓もそうですが、名もイジドールというのですからね!ああ、この男はさも優しそうに猫を被っていますが、危険な悪党でね。最悪の種類のならず者です。どう見たって徒刑場送りがふさわしい男で……こいつがどういう事情でそういういかがわしい仕...2-III-15

  • 2-III-14

    ド・ヴァロルセイ侯爵が男爵の取り乱すさまを見ながら、それが自分の話が原因なのだと全く気付かなかったのはさほど不思議ではない。この金満家の男爵と一攫千金を夢見てアメリカに渡った貧しい男を結ぶものは何もなかった!片や、カミ・ベイのパートナーであり、マダム・リア・ダルジュレの友人であり、賭け事なしには夜も日も明けぬ男、そして片や、愛に狂い、自分の妻を奪った男、そしてまた彼の人生のすべての幸福を破壊した相手を十年もの間追求してやまない男、この両者につながりがあるとは誰が思うだろうか。それにド・ヴァロルセイがたとえ疑いを持ったにしてもすぐにそれが消えてしまったのは、彼が到着したときトリゴー男爵がかなり動転した様子であったこともある。やがて彼は少しずつ平静さを取り戻していったのであったが……。というわけで、侯爵はいつ...2-III-14

  • 2-III-13

    それから四ヵ月経ったある朝一通の手紙が伯爵の愛人から届き、こう書いてあったのです。『私たち、もうおしまいです。今、夫はマルセイユにいて、明日ここに帰って来ます。もう二度と私に会おうとなさらないで。とにかく夫を避けてください。さようなら』この手紙を受け取るや否や、ド・シャルース氏は駅馬車を雇い、大急ぎでパリに戻ったのです。娘を引き取りたい、引き取らねば、どうあっても、という気持ちで。ところが遅すぎた。夫の帰還の知らせを聞くや否や、若い妻は気が動転してしまったのです。何としてでも自分の過ちを隠さねば、というただそのことしか頭になかった。そして夜、変装をし用心に用心を重ねて出かけ、小さなマルグリットをどこかの家の門の下に置いてきたのです。レ・アール近くに……」彼は突然言葉を止め、急いで尋ねた。「男爵、どうなさっ...2-III-13

  • 2-III-12

    男爵はハッとした。「え!ド・シャルース氏というのは途方もない大金持ちだったということではないですか。彼は独身だった筈です。その娘さんが、非嫡出の娘さんだったにせよ、一文も貰えないとはどういうことですか?」「運命ですよ!ド・シャルース氏は突然死したのです。彼女に財産を遺贈することも認知することも出来なかったのですよ」「予防措置をなにも講じなかったというのは何故でしょう?」「ああ、そうしたものですよ。認知に際してはあらゆる困難がつきまとうものです。危険も存在する。マルグリット嬢は捨て子だったのです。母親の手から離されたと言うべきでしょうか。生後五、六か月のときです。それからド・シャルース氏が八方手を尽くして彼女を探し出すのに何年も掛かったのです」これはもはやパスカルに聞かせるための話ではなくなっていた。トリゴ...2-III-12

  • 2-III-11

    確かなことは、私は虜になってしまったということです。長らく生きて疲弊し、しなびて色褪せ、何事にも無感動になり、もう終わりの人間だと自分では思っていたので、傷つくことなどもうあり得ないと高をくくっていたのですよ。ええそうですとも!ところがある朝目覚めたら、二十歳の若者の心になっていたのです。彼女をちらりと見かけるだけで心臓は早鐘のように打ち、顔には血が上って真っ赤になる始末。もちろん、自分にブレーキをかけようとしましたよ。自分が恥ずかしくなって……。でもどうにも制御が効かないのです。自分の愚かさをいくら自分に言い聞かせても、心はますます依怙地になるばかり……。しかし、私の愚かさの所為だけではなかったようで。というのは、あれほどの純潔な美しさ、高貴さ、情熱、正直さ、そして溌溂たる知性を持った女性と出逢うことは...2-III-11

  • 2-III-10

    主義から言っても、また必要上からも、彼は人に対しては寛大であること、そして赦すことを公言し、実践していた。というわけで、自分を訪れてきた客人を罠にかけるようなことには大いなる嫌悪感があった。しかしパスカルには真実を明確にするために出来る限りのことをすると約束していたし、自分でも明らかになる真実には非常に興味があった。「そうですか」と彼は侯爵に言った。「ニネット・サンプロンには煩わされずに済む、ということですな。それより私がちょっと首をひねってしまうのは、貴殿が結婚を前にして節約を口にされるということですよ。この結婚で少なくとも貴殿の財産は二倍にはなるでしょうに……。よほどしっかりした財政上の基盤がなければ、貴殿が自由を手放したりはするまい、と私には思われるのですが……」「それは違いますよ!」「どういう意味...2-III-10

  • 2-III-9

    「ええ、この私がです……してみると貴殿は噂をお聞きになりませんでしたか?私が正式にクラブで発表したのは三日前のことですよ」「いや、知りませんでした!確かに、ここ三日はクラブには行っていませんのでね。あのトルコの大金持ち、カミ・ベイの集いに行きっきりになっていましてね。八時間から十時間も続くパーティが開かれ、立派な彼の邸宅でゲームをしていたんです。それはもう快適なものでした……」「なるほど……」そんなことはどうでもよかった。男爵は思いがけぬ知らせを聞かされびっくり仰天していた。「そうですか、貴殿が結婚をなさる……」と彼は話題を戻した。「それはそれは!それを聞いて喜ばぬ人が一人おりますな……」「え、誰のことです?」「ニネット・サンプロンですよ、もちろん!」ド・ヴァロルセイ侯爵は大きな声で笑った。「まさか!」と...2-III-9

  • 2-III-8

    何かを売却するとか、所有していた不動産を処理するとか、現金化するというような話は、不吉な響きを持つ。売る、金が要る、ということは収入が不十分ということであり、やがて破産ということにもなろう……。トリゴー男爵はチッチッと舌先を鳴らしそうになるのを懸命にこらえていた。ゲームの際相手が怪しげな手を繰り出してきたときの彼の癖なのである。「競走馬を所有することが大貴族の贅沢以外のなにものでもない限り」と侯爵は続けた。「私は自分にそれを許してきました……ですが、それが相場よりは少し危険が少ない程度の、単なる投機の対象となったら、私は手を引きます。昨今の競走馬の厩舎というのは株式会社ですよ、製鉄会社みたいな。もう私向きではないです。個人は会社には太刀打ちできない。男爵、あなたがお持ちのような莫大な資金が必要です……更に...2-III-8

  • 2-III-7

    「なんと言われる!」「そういうことです……後に引けぬ決意をする羽目になりましてね。私のことを中傷する連中がおりまして」この返答は何でもないことのように言われたが、それでもトリゴー男爵が持っていた確信がなにがしか揺らいだ。「貴殿を中傷する者がいるとは……」と彼は呟いた。「全くけしからんことです!先週の日曜、私の厩舎の中で一番の名馬ドミンゴが三着という惨敗を喫してしまいまして……ドミンゴというのは一番人気で……どれぐらいの人々を落胆させたかお分かりでしょう……それで人がどんなことを言ったと思います?私が密かに自分自身の馬以外の馬に賭け、自分の馬が負かされることによって利益を得た、自分のジョッキーとは予め示し合わせてあったのだ、とこうですよ……そりゃ、こういったことが日常茶飯事のように行われていることは私も存じ...2-III-7

  • 2-III-6

    「どんなことですか、フェライユールさん」「では申し上げます。私はド・ヴァロルセイ侯爵とは面識がありません。それで……ドアをすっかり開け放つのでなく、細目に開けておいていただけませんか。そうすれば声を聞くだけでなく、顔もはっきりと見ることが出来ますので」「承知しました!」と男爵は答えた。彼は食堂に通じるドアを開け、一歩中に入ると愛想よく手を差し出しながら上機嫌な声で言った。「どうもお待たせして失礼いたしました。貴公からの手紙を今朝受け取ったので、お待ちしていたのじゃが、ちょっとした事件がありましてな……貴公はお変わりありませんかな?」男爵が入ってきたのを見て、ド・ヴァロルセイ侯爵は急いで彼の方へ進み出てきた。新しい企てを思いついて希望が出てきたのか、超人的な力で自分をコントロールしているのか、かつてないほど...2-III-6

  • 2-III-5

    「それでは何故?」「簡単なことです。彼女には何百万もの財産があります……」この説明はトリゴー男爵を納得させたようには全く見えなかった。「侯爵は不動産を所有していて十五万から二十万リーブルの年利収入がある筈です。この財産と彼の名前をもってすれば、フランス中の相続財産持ちの娘は選り取り見取りだ。何故あなたの愛する娘さんに言い寄る必要があるのか。納得が行きませんな。もし彼が貧乏だとか、彼の財産が危うくなったとでもいうなら、私の娘婿のように、金持ちの平民の娘と結婚して再び家の紋章を金ぴかにしたいと考えるかもしれませんがね……」彼は言葉を止めた。ドアをノックする音が聞こえたからである。入れという声に応えて従僕が入って来て言った。「ド・ヴァロルセイ侯爵が男爵にお目に掛かりたいと仰っておられます」なんと、当の敵ではない...2-III-5

  • 2-III-4

    パスカルがトリゴー男爵邸に自らのことを打ち明けるに来るには、多少の不安がないわけではなかった。が、ここまで内情を聴いてしまった今はもはや躊躇したり心配したりする必要はない。安心して彼は話すことができた。「ド・コラルト氏が予め準備していたカードを私に配ることで私を勝たせていたということは言うまでもないでしょう」と彼は話し始めた。「全く明らかなことです……何があろうと、私はこの仇は討つ所存です……しかし、彼をやっつける前に、彼が手先となっている黒幕を突き止めねばなりません」「なんと!ではあなたは疑っておられるのか……」「疑っているのではありません。確信を持っています。その悪事をする度胸もない卑怯者のためにド・コラルト氏が働いていることを」「それはあり得るな。しかし、奴にそんなことをさせられる悪党に心当たりがな...2-III-4

  • 2-III-3

    犯罪が行われるのを避けるため、私は前代未聞の予防措置を施こさねばならなかった。私が突然死を遂げたら、家族には一スーも行かないようにしたのだ。それ以来というもの、彼らは私が死なないように気を付けるようになった……」彼は急に錯乱したような様子で立ち上がると、パスカルの腕を掴み、骨も砕けるほどの力で握りしめた。「しかし、それで終わりではないのです!」彼は低くしゃがれた声で続けた。「この女、私の妻、あなたはすべてお聞きになりましたね。彼女のおぞましさ、悪辣さがどれほどのものか、お分かりになったと思います……それなのに……私は彼女を愛しておる」パスカルは一歩退き、思わず叫び声が出た。「そ、そうなのですか!」「そんな馬鹿なことが、とお思いでしょう?……全くのところ理解不能だ……人知を超える不可解さ……しかしそうなので...2-III-3

  • 2-III-2

    「おお、そうであった」と彼は言った。「今思い出しましたぞ」そしてたった今繰り広げられたばかりの悲惨な口論を思い出し、苦し気な口調で尋ねた。「で、いつからここにおいでで?」嘘を吐くべきだろうか、それとも真実を言うべきか……?パスカルは逡巡したが、それも十分の一秒ほどだった。「三十分ほど前からここにいます」真っ青だった男爵の顔に血の気が昇り真っ赤になったかと思うと、目が血走り、威嚇的な身振りをした。彼の隠しておきたい恥ずべき秘密を聞いてしまったこの男に飛び掛かって絞め殺したいという誘惑が容易に見て取れた。しかしそれは彼に残っていた最後の力だった。妻との激しい諍いで彼は憔悴しきっていたので、こう言ったときの彼の声は弱弱しかった。「それでは、何もかも……一言残らず……あちらの部屋での話は聞かれたのですな?」「はい...2-III-2

  • 2-III-1

    III.それは奇妙な信じがたい幻視を見る思いだった。パスカルは説明のつかない恐怖に捕らわれ、振り払おうとしたがうまく行かなかった。そのとき食堂の床を定まらぬ足取りでドスンドスンと歩く音が聞こえ、彼はハッと我に返った。「あれは彼だ、男爵だ」と彼は思った。「こっちへ来る。見つかったら俺は終わりだ。もう俺のことを助けてやろうなんて思わないだろう。こんなところを聞かれたら、その聞いた相手を許す男なんていない……」逃げればいい、姿を隠せば……。モーメジャンという名前が書いてあるカードが残るからといって彼がそこにいた証拠にはなるまい。機会を改めて別の日に、この屋敷以外で彼に会えばいい。そうすれば召使に見とがめられることもない。こういった考えが稲妻のように彼の脳裏を駆け巡り、彼はすでに立ち去ろうと動いていた。そのとき低...2-III-1

  • 2-II-15

    彼は自分が我慢の限界に来ていると感じたのか、自制するのをやめ、嗄れ声で言った。「いいか、これ以上私に刃向かうのはよせ。出て行け、でないと、何があっても責任は持たんぞ」パスカルは椅子の動かされる音を聞いた。そして殆どその直後、一人の婦人が喫煙室を走るように突っ切って行くのが見えた。何故彼女はパスカルに気がつかなかったのか?それは彼が居た場所が原因かもしれない。また、あの勇ましい態度にも拘わらず、彼女が酷く気を動転させていた所為とも考えられた。しかしパスカルの方では彼女を見た。彼は目がんだようになっていた。「なんてよく似ているんだ……」と彼は呟いた。8.312-II-15

  • 2-II-14

    一昨日のことだ、よく聞け。婿が私に会いに来て、十万エキュ出せと言うんだ。私が断ると、もし金を渡さなければ娘がどこかの大根役者に宛てて書いた手紙を公表するといって脅したのだ!私は恐ろしくなって金を渡した。そしたらその晩のうちに、これは彼ら二人の仕組んだ狂言だと知ったんだ。動かぬ証拠もある。婿はここを出てすぐうちへは帰らずに、その良い知らせを妻に伝えようと電報を打ったのだ。ところが喜びのあまり、住所を間違え、電報が届けられたのはここだった。私が電報を開封してみるとこう書いてあった。『愛する君、やったよ!パパはまんまと引っかかった。金を出してくれたよ!』とな。奴はあつかましくもそんな文面を書き、署名までして係の者に渡したんだ。妻宛てのつもりで……」パスカルは呆気に取られていた……。自分は何かとんでもない白昼夢を...2-II-14

  • 2-II-13

    私はこう思っていた。いつの日か、お前が何としてでもお前の子供に会い、その子を抱きしめ、その将来を保証してやりたいと思う日が来るだろうと!は、馬鹿だ!お前はその子供のことなど、既に忘れてしまっていた。私の帰還の知らせを聞き、その子を救済院か、どこかのお屋敷の馬車の出入りできる門のところに置いてきた、というところだろう。……その子のことをお前はたまにでも考えることはあるのか?その子がどうなったか、何をしているのか、お前は一度も調べてみたことはないのだな。自分は贅沢の限りを尽くしていながら、その子はパンにも困る暮らしをしているかもしれず、どんな掃きだめに転落したかもしれないのに……」「相も変わらずその馬鹿げた話をいつまでも続けているのね」男爵夫人が叫んだ。「ああ、そうとも、いつまでもだ」「その子供の話というのは...2-II-13

  • 2-II-12

    夫の方はしばらく妻に好きなだけ言わせていたが、突然ギクシャクした口調で遮った。「も、もう……よせ!偽善は、いい加減にしてくれ……何のために言い抜けするのだ、何の役にも立たないのに!お前は恥知らずなことなど何とも思わぬではないか。更に罪が一つ加わったところで何だと言うのだ!私は出鱈目を言っているのではない。証拠を出せというなら、一時間以内に両手に余る証拠を出して見せよう。私はもう盲目ではないぞ、二十年も前から!あの呪われた日以来、お前のことはすべて知っている。お前の悪辣さ、おぞましさがどれほどのものかを知らされたあの忌まわしい夜以来だ。お前が平然と私の死を企てているのを聞いたのだからな!お前は勝手気儘に生きることに慣れきっていた。一方この私は、カリフォルニアに金を求め出発した最初の一団と共に幾多の危険を冒し...2-II-12

  • 2-II-11

    夫人が黙っていたので、彼は続けた。「返事がないのは何故だ?そうか、私が言ってやろう。もうとっくの昔にお前のダイヤモンドは売られて、まがい物に取り替えられているからだ。お前はすでに借金まみれで、身の回りの世話をしてくれる小間使いにまで金を借りる始末。うちの御者の一人から三千フランを借りているし、司厨長はお前に三割だか四割だかの利子で金を貸している。そんな有様だからだ……。「そ、そんなことはなくてよ……」男爵は口笛を吹いたが、それは夫人には不気味に響いたに違いない。「全くのところ」と彼は言った。「私が実際よりも余程バカだとお前は思っているようだ。私があまり家にいないのは事実だ……お前の顔を見ると絶望的な気分になるんでな……だが、ここで起きていることを私は知っている。どこまでも私を騙し続けられるとお前は思ってい...2-II-11

  • 2-II-10

    世間はみな新聞によって我が妻の身にまとう物ばかりか、まとわぬ時の身体つきまで知っている。足や手の美しさ、輝くばかりの肩、左肩には愛らしく挑発的な黒子があることまで。私は昨夜有難くも、それを読ませて貰ったよ。ああ、まさしく挑発的だった。この私は正真正銘の幸運な夫というわけだ。実に素敵ではないか!」喫煙室からでも、怒りに地団太を踏む夫人の様子がパスカルには分かった。「侮辱とはこのことだわ!」彼女は叫んだ。「あなたが言っている記事を書いたのは無礼者よ、そんな……」「無礼者とは何故だね?彼らが何の罪もない家庭の主婦に群がったりしているとでも?」「私に敬意を払ってくれる夫が私に居たら、彼らも私のことを記事にしたりしなかったでしょう」男爵は神経質な笑いを爆発させた。それは耳障りの悪い笑い声で、その皮肉の下に深い苦悩が...2-II-10

  • 2-II-9

    「大貴族だと!」と彼は叫んだ。「お前はそう呼ぶのか?人に注目されるには、話題にされるにはどうすればいいか、ということしか頭にない軽佻浮薄な女どものことを!奇抜さや贅沢さや騙しのテクニックで売春婦たちに勝つことを自慢にし、夫たちから金を巻き上げる腕と言ったら、自分の客の男たちから金を毟り取る売春婦たちに決して負けぬ!大貴族だと!高名な家系に生まれただけの名優を気取った大根役者だ。酒を飲み、夜食を食べ、煙草を吸い、仮面舞踏会を追いかけ、仲間内の符牒で喋り、『美徳に見せかけなくても大丈夫』だの『めんどくさい男はシャイヨー行き』、だの『あのひとは有名、私はその上を行く』だのとほざく。人々から野次を飛ばされれば賛同の声と思い、不評を浴びれば誉め言葉だと思うバカ女たちだ。女性の高貴さはその美徳によってしか得られないと...2-II-9

  • 2-II-8

    パスカルはほっと息を吐いた。「僕の名刺が今渡されたんだ」と彼は思った。「それじゃここにじっとしていよう。そのうち誰か来るだろう……」男爵は部屋から出て行こうとしたのだろう。男爵夫人が夫に声を掛けた。「もう一言だけ言わせて。本当によく考えた上でのこと?」「ああ、もちろんそうだ」「仕立て屋が私を恥ずかしい目に遭わせるのを許すって言うの?」「ファン・クロペンは魅力的な男だから、お前を悲しませるようなことはしないだろう」「あなたは訴訟を起こしてみろと彼を挑発したわ」「おいおい、お前の仕立て屋が訴訟を起こす筈がないことはよく分かっているだろ……残念だがな。それに、恥ずかしい目って何だ?私には頭のいかれた妻がいる……それが私の罪か?度の過ぎた濫費には私は反対だ……それが間違っているか?世の夫たちがみな私の勇気を持って...2-II-8

  • 2-II-7

    今にも言葉に行動が伴い、ファン・クロペンの襟首を掴んで玄関ホールに放り出そうとするかのようであった。というのは、争って地団太を踏んでいるような足音、それにまるで馬方の罵りのような怒声、女性の金切り声、そしてドイツ訛りの叫び声が聞こえてきたからである。それからドアが場タンと凄まじい音とともに閉まり、館全体が震えるほどだった。喫煙室の壁に取り付けられた素晴らしい大時計が音を立てた。この場面はパスカルにとっては奇跡を見る思いだった。この王侯貴族のような館から債権者が請求書を持って手ぶらで帰るなど、誰が想像できたであろう……。しかし、トリゴー男爵と夫人の間には二万八千フランの勘定以外の何かがある、という思いをパスカルはますます強くした。一晩で眉一つ動かさず一財産を儲けたり擦ったりするような熱狂的な賭けゲーム愛好家...2-II-7

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