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  • 2-XII-3

    「ああ、確かに、仰るとおりです。それは確実に戻って来ない、と言うべきでした。で、そこから私にとっての問題が生じるわけで……貴方がこの大金を私に託してくださるのはひとえに私のためですね?私自身を始め、世の多くの人にとってひと財産とも言えるこのお金を?もちろんそうですよね……そこでなんです。このような犠牲を貴方にしていただく資格が果たして私にあるのでしょうか?私はその御親切に報いることが出来るどうか分からないのに……十万フランというお金を私は貴方に返すことが出来るのか?……そう思うわけなんです」「しかしこの金は貴方がド・ヴァロルセイの懐に飛び込み、信頼を得るために欠かせないものではないですか……」「確かにそのとおりです。もしこのお金が自分のものであれば、私は躊躇などしないのですが……」トリゴー男爵は元からパス...2-XII-3

  • 2-XII-2

    男爵夫人が自然のままでいることを選んでいれば、今頃どんな姿でいることだろう!というのは、もともとの彼女の髪はマルグリット嬢のものと同じく黒であり、三十五歳まではそうしていた。それから赤毛が疫病のように爆発的に流行したときは赤毛に染め、廃れるとやめた。このようにして今でも四日に一度は美容師が彼女の頭に特殊な液を塗りにやって来る。その後太陽光を浴びながら乾かすため、数時間はじっとしていなければならない。そうすることで髪により金色の光沢を与えることになるという……。そんなことはどうでもよい!パスカルがまだこの出会いに気が動転していたとき、召使が男爵の書斎のドアを開けた。それは巨大な部屋で、この一間だけで家賃三千フランのアパルトマンがすっぽり収まるかと思われた。調度品は、気に入った物はなんでも即座に買うことの出来...2-XII-2

  • 2-XII-1

    XIIトリゴー男爵は喜んでパスカルの指示に従うこと、そしてどんな提案も何の異議も唱えず受け入れる、という好意を示してくれた。それを疑うなどは全く子供っぽいことであった。彼と男爵は共通の利害を持っていることを思い出せばそれでよかったのだ。彼らは共通の敵に対し同じような憎悪を抱いていたし、同じように復讐の思いに取り付かれていたからだ。それに、男爵と会って話をしてから起きた数々の出来事も男爵の性格を疑わせるようなものは何もなかった。あれ以来彼が遭遇した場面というのはマダム・ダルジュレとその破廉恥な息子ウィルキー氏の間に起きたおぞましい諍いであり、そのとき彼はコラルト子爵の悪辣さを知ったのだった。しかし不幸というものは、人を臆病にそして疑い深くするものだ。パスカルの警戒心はヴィル・レヴェック通りにある男爵邸に到着...2-XII-1

  • 2-XI-15

    そうは言っても、マルグリット嬢がどうなったのか、様子を知ることは大事なことであった。パスカルは一心に考え、突然叫んだ。「ヴァントラッソン夫人ですよ!彼女がいる。彼女を利用しましょう。何か口実を見つけて彼女をド・シャルース邸にお使いに遣るのは、そう大して難しいことではないでしょう。彼女は召使たちとお喋りをする筈です。僕たちは後で彼女に話をさせるんです。そしたらあそこで何が起こっているか、手に取るようにわかりますよ」パスカルの頭に閃いた解決法は勇気の必要なものであった。ほんの昨日なら、とても取り上げようとは思わなかったであろう……。しかし心に希望を持つ者にとって勇気ある決断は難しくはない。彼はだんだん、言わば一時間ごとに成功の可能性が膨らんで行くのを感じ、最初はとても乗り越えられないと思われた障壁もなぎ倒せる...2-XI-15

  • 2-XI-14

    これまで全く矛盾していると思えた状況に、今や納得が行ったのだった。ほんの少し前まで、彼はまだこう思っていた。マルグリットの父であるド・シャルース伯爵が死の間際に、パスカルを絶望に陥れるような誓いを彼女に立てさせた、という手紙をマルグリットが彼に書いてきた。ところがド・ヴァロルセイ侯爵が言うには、ド・シャルース伯爵の死はあまりに突然訪れたので、マルグリットを認知することも、その莫大な財産を彼女に遺すと言い残すことも出来なかった、と。この矛盾は一体どういうことか。どちらかが間違っていると言わねばならぬ……。どちらが?……手紙の方だという可能性は非常に高い。偽手紙は、マダム・レオンの手になるものであるとしか考えられない。この点での確信は絶対で揺るぎのないものであった。そして動かぬ証拠を手に入れたとまでは言えない...2-XI-14

  • 2-XI-13

    「ええ、それに」と彼女は語調を強めて言った。「この手紙が誰かの文章を丸写ししたものであるだけに、これらの間違いは一層注目すべきものになるわね……」「えっ!」「まさにそのまま、引き写しよ。昨日の夜私はまたこれを取り出して読み返していたとき、これと同じものをどこかで読んだことがある気がしたの。それがどこだったか、どんな状況でだったか何時間もずっと思い出そうとしたけれど駄目だった。ところが今朝になってふと思い出したの。職場の女工員達がそれをよく使っていたのよ。私はそれを読んでよく笑ったものだわ……。それで買い物に出かけた際、本屋に立ち寄ってその本を買ってきたのよ。ほら、そこの暖炉の隅に置いてあるわ。取ってきて」パスカルは言われた通りにし、その本を見て驚いた。タイトルはこのようになっていた。『必携手紙文例集一般的...2-XI-13

  • 2-XI-12

    夫人は立ち上がり、きびきびした動作で引き出しから一枚の汚れてくしゃくしゃになった紙を取り出し、息子の前に置くとこう言った。「これをよく読んで頂戴」それはマダム・レオンがパスカルに手渡した鉛筆書きの走り書きのメモだった。パスカルはこれを街灯の灯りで読むというより推測しながら目で追ったものだった。彼は帰宅するなり、それを母の手に投げ捨てるように渡したのだったが、母はそれを残していた……。この走り書きを受け取った夜、彼はその内容の残酷さにショックを受け、何も考えられない状態だったが、今はそんな支障もなく至って冷静な判断が出来た……。ほんの数行に目を通しただけで、彼は身体を硬直させ、顔は蒼白に険しくなり、いつもとは全く違う声で言った。「これを書いたのはマルグリットではありません!」この意外な発見にパスカル自身も仰...2-XI-12

  • 2-XI-11

    「ええ、そうよ!」彼女は一瞬怯んだかのように見えたが、ややあって言った。「お前は私に言いましたね?マルグリット嬢の教育は幼少時に捨てられたことによって損なわれはしなかったって……」「ええ、その通りです」「彼女は勇気を持って一定の教育を受けることを選んだ、と?」「マルグリットは高い能力を持った子女が四年間の教育で得られることのすべてを身に着けています。彼女の境遇が著しく不遇だったとき、勉強だけが彼女の唯一の避難場所であり、安らぎの場だったのですから……」「彼女がお前に手紙を送ってきていたとしたら、それはフランス語で書かれたものでしょうけど、綴りの間違いが一杯あったのではないこと?」「そんな、まさか!」とパスカルは叫んだ。ある考えが閃いたので、彼は口をつぐみ、自分の部屋へと走って行った。やがてすぐ戻ってきて、...2-XI-11

  • 2-XI-10

    このような気の滅入る考えで頭が一杯になり、食事の間中パスカルはずっと不機嫌な沈黙を続けていた。母が彼の皿に一杯盛り付けてくれたので、彼は機械的に食べ物を口に運んでいたが、出されたものがどんな料理だったか言ってみろと言われたら全く答えられなかったであろう。しかし、ささやかではあっても、この料理は素晴らしい出来であった。『高級家具付き貸し間』のおかみさんであるヴァントラッソン夫人は料理人としてかなりの腕前だったのである。そして今夜の食事は彼女の実力以上の出来栄えだった……。ただ、期待した誉め言葉が貰えなかったことで、彼女の料理名人としての虚栄心が傷つけられた。辛抱しきれなくなって彼女は四、五回も「料理はどうでございますか?」と聞いたのだが、返ってきたのは実にそっけない「大変結構」だったので、この味の分からぬ惨...2-XI-10

  • 2-XI-9

    母と息子の間に暗雲が立ち込めたのは、これが初めてのことであった。パスカルは自分が心に抱く最も深い愛情と信頼の脆弱な部分を攻撃され、もう少しでかっとなるところであった。苦々しい言葉が口を突いて出かかった。しかし彼はそれを圧し止めるだけの理性を持っていた。『マルグリットだけが』と彼は心に思っていた。『この無慈悲な偏見に打ち勝つことができるんだ。お母さんが彼女に会ってくれれば、自分がいかに不当であるか分かって貰えるのに!』これ以上自制心を保っていられないかもしれないと恐れた彼は、曖昧な口実を呟き、いきなり立ち上がり自室に引き上げていった。身も心もズタズタになった彼は服を着たままベッドの上に倒れ込んだ。フェライユール夫人の時代遅れの主張を呪う資格が自分にはないということを、彼は十分に承知していた。なぜなら、かくま...2-XI-9

  • 2-XI-8

    「それが彼女の罪だなんて、私が言いましたか?いいえ、そんなことは言っていません。ああ神様、ただ祈るのみです。お前が決して明かされることのない秘密の過去を持つ娘を選んだことを後悔する日が来ないことを!」パスカルの顔は蒼白になった。「お、お母さん……」と言う彼の声は震えていた。「私が言っているのはね」と母親は冷ややかな口調で言った。「お前はマルグリット嬢の過去を知ることは決してないだろうということよ。彼女がお前に話すこと以外はね。あのヴァントラッソンの下品で勝手な決めつけをお前も聞いたでしょう……彼女はド・シャルース伯爵の娘ではなく愛人なのだという……。これから邪悪な心を持つ者たちがどんな卑劣な罠をお前に仕掛けてくるか、誰にも分からない……。もしももしもお前に疑いの気持ちが湧いてきたら、お前は何に頼るの?……...2-XI-8

  • 2-XI-7

    「グルルー夫妻が言うには、見習いのマルグリット嬢が、彼らの言葉を借りると『お偉方に貰われて行った』後は、彼女とは会っていないとのことだった……でも、それは嘘ね。少なくとも一度は彼女に会っている。彼女が二万フランを彼らのところへ持って行った日にね。そのお金が彼らの財源なのよ……。あの人たち、そのことを吹聴したりはしなかったけど……」「ああマルグリット、心優しいマルグリット!」そう呟いた後、彼は大きな声で尋ねた。「でも、お母さん、そんな細かいことまでどこで知ったんですか?」「グルルー夫妻に引き取られる前にマルグリット嬢が育った孤児院でよ……そこでも、聞いたのは彼女を褒めそやす言葉ばかりだったわ。修道院長様が仰るには、『あれほど生まれつきの才能に恵まれ、気立てが良く、利発な子供は見たことがありません』と。もしも...2-XI-7

  • 2-XI-6

    「で、彼らに会ったんですね……」「ちょっとした嘘を吐いたけれど、そのことで自分を責める気にはならないわ。それでグルルー夫妻の家に入れて貰って、一時間ほど居たのよ……」パスカルを驚かせたのは、母の氷のように冷静な口調だった。彼女がゆっくりとしたペースで話すのでパスカルは死ぬほどじりじりしたが、それでいて急かせる気にもなれなかった。「このグルルー夫妻というのは」と彼女は続けた。「実直な、というのがぴったりな人たちだと思うわ。法律に触れるようなことは決してしない、という。そして七千リーブルの年利収入をとても自慢に思っているようだった。マルグリット嬢を可愛がっていたということはあり得る、と思ったわ。というのは、彼女の名前を出した途端、彼らは親愛の表現をふんだんに使ったからなの。夫の方は特に、彼女に対して感謝に似た...2-XI-6

  • 2-XI-5

    パスカルは母親の面前に立ったまま、片方の手で椅子の背をぎゅっと掴んで身体を支え、来るべき打撃に供えて身構えているかのようであった。彼自身に関わる悲痛な感情は過去のものとなり、今や彼の全神経は高揚し逆上の域に達するかと思われた。目の前には苦悩の深淵があり、それに呑み込まれそうだった。彼の人生がかかっているのだから!これから母親が語る内容の如何によって、彼は救われるか、決定的に死を宣告され、恩赦を請うことも出来ず、希望もない状態に置かれるか、になることになる……。「それじゃ、お母さんが出かけた目的はそういうことだったんですね?」彼は口の中で呻くように言った。「ええ、そうよ」「僕には何も言わずに……」「そうすることが必要だった?何を言ってるの!お前こそ、私の知らないところである若い娘さんを愛するようになり、彼女...2-XI-5

  • 2-XI-4

    というのも、パスカルは自分の母が厳格な伝統に固く縛り付けられていることは知らないわけではなかったからだ。一般市民階級の古い家柄では、母から娘へと代々受け継がれる貞節の掟のようなものがあり、それは情け容赦なく盲目的とも言えるものだということも……。「男爵夫人は夫から崇拝されていることがよく分かっていたんですよ」と彼は思いきって言ってみた。「夫が帰ってくると知って、彼女はパニックになり理性を失ってしまったんじゃないでしょうか……」「それじゃお前は、その人を弁護するというの!」とフェライユール夫人は叫んだ。「お前は、過ちを償うのに罪をもってなす、なんてことが可能だと、本当に信じているの?」「いいえ、断じてそんなことはありません、でも……」「男爵夫人が自分の娘にどんな苦しみを与えたかを知ったら、お前ももっと彼女に...2-XI-4

  • 2-XI-3

    パスカルは答えなかった。母の言うことは全く正当だと分かってはいたが、それでも彼女の口からこのような言葉を聞くのは身を切られるように辛かった。何と言っても、男爵夫人はマルグリットの母親なのであるから。「そういうことなのね」とフェライユール夫人は、徐々に興奮の度を増しながら言葉を継いだ。「そういう女性がいるというのは本当の事なのね。女はこうあるべきというものをこれっぽっちも持たず、動物にもある母性本能すら持たない、という……。私は貞淑な妻だったけれど、だからって自分が立派だと思っているわけではないわ。そんなこと、褒められるようなことじゃない。私の母は聖女のような人だったし、私の夫を私は愛していた……義務と言われることは、私にとっては幸福だった……だから私には言える。私は過ちを許しはしないけれど、理解はできるわ...2-XI-3

  • 2-XI-2

    仇敵ド・ヴァロルセイの懐に入り込み、否定しようのない証拠を掴むのに役立ってくれると彼が頼みに思っているのが、手の中の十万フランであった。男爵との会見が上首尾に終わったことを母親に早く伝えたくて、彼は足を急がせた。しかし、自分の究極の目的を果たさんがための様々な過程について思わず考え込んでしまい、ラ・レヴォルト通りにある粗末な住まいに着いたのは五時近くになっていた。そのとき、フェライユール夫人は帰宅したばかりであった。母親が外出することを知らなかったので、彼は少なからず驚いた。彼女が乗って来た馬車はまだ門の前に停まっており、彼女はまだショールも帽子も取っていなかった。息子の姿を見ると彼女は喜びの声を上げた。息子の顔を見れば、何も言わなくても彼が何を考えているか分かるほどに息子の顔色を読むことに長けていたので...2-XI-2

  • 2-XI-1

    XIマルグリット嬢のパスカル・フェライユールの人と為りを見る目は確かであった。順風満帆のさなかに突然前代未聞のスキャンダルに打ちのめされた彼は、しばし茫然自失でぐったりしていたが、フォルチュナ氏が推測したような臆病な行動に身を委ねることはなかった。彼についてマルグリット嬢が言った言葉は、まさに彼を正しく言い表したものだった。「もしあの方が耐えて生きることを選ばれたのなら、それはご自分の知力、体力、意志の力のすべてを捧げて、あの憎むべき中傷と戦うためです……」このとき彼女はパスカル・フェライユールの身に降りかかった厄難の全貌を知ってはいなかった。彼女付きの女中であるマダム・レオンがシャルース邸の庭木戸で彼に手渡した手紙により、パスカルが自分に見捨てられたと思っている可能性があることなど、どうして彼女が知る筈...2-XI-1

  • 2-X-20

    ただ、行動を開始する前に、フェライユールさんのお考えを聞くことがどうしても必要です……」「それはどうも出来ない相談のようです」「何故ですの?」「フェライユール氏がどうなったのか、分からないからですよ。私だってですよ、復讐をすると誓ったとき、最初に考えたのは他でもないフェライユール氏でした。私は彼の居所を突き止め、ウルム街に走りました。ところがそこはもぬけの殻。あの不幸が見舞った翌日にはもう、彼は家財道具を売り払って、母親とともに出て行ったのです」「それは存じておりますわ……。私がここに参りましたのは、あなた様に彼を探し出してくださるよう依頼をするためでした……。彼がどこに身を隠しているか、それを探し出すのなんて貴方様にとっては子供の遊びのようなものでしょう」「まさか、お嬢様は私が探そうとしなかったとお考え...2-X-20

  • 2-X-19

    彼が金持ちの女性と結婚し、将来の妻の父親をうまく丸め込んで、自分の財政状態を立て直したいという希望を彼から聞いた限りでは、正直、それがさほど悪いことだとは私には思えませんでした。確かに褒められた所業ではございません。が、今日そのようなことは日常茶飯事として行われていることでございます。それでは今日、結婚とは何ぞや?それは取引です。互いが相手を騙すことで自らを益しようとする行為、そうでなければ取引などとは呼ばれません。騙されるのは花嫁の父かもしれませんし、婿の方かも、花嫁かも、あるいは三者全員がそうかもしれませんが、それはさほど目くじらを立てるようなこととは私には思えません……。ですが、フェライユール氏を陥れる計画が持ち上がったときには、ちょっと待った、それはならぬ、と。私の良心が許さなかったのです。無実の...2-X-19

  • 2-X-18

    「ヴァロルセイはもはや一銭の金も持ってはいない、と証明できますよ。この一年彼は警察沙汰になってもおかしくない怪しげな弥縫策に頼って生計を保ってきたのです」「そうなのですか!」「彼が真っ赤な偽物の書類を見せてド・シャルース氏を騙そうとしたことを証明できます。また彼がフェライユール氏を陥れるためド・コラルト氏と共謀したことを明らかにすることが出来ます。どうです、お嬢様、ちょっとしたものではございませんか?」マルグリット嬢は微笑んだが、その笑い方はフォルチュナ氏の虚栄心を大層傷つけるものであった。彼女は、信じがたいがまぁ大目に見ようという口調で言った。「口では何とでも言えますでしょう」「それを実行することだって可能です」とフォルチュナ氏は素早く言い返した。「私が出来るとお約束するときには、それを可能にする方法を...2-X-18

  • 2-X-17

    「ド・ヴァロルセイ侯爵がいまだにのうのうとしていられるのは何故なのか?それは私には奇跡のごとく思われます。もう既に六か月前、彼の債権者たちは彼を差し押さえると脅していたのですよ。ド・シャルース伯爵の死後、一体どのようにして彼らをなだめて来られたのでしょうか?こればかりは私にも分かりません。確かなことはですね、お嬢様、侯爵が貴女様との結婚という野望を諦めてはいないということです。それを実現するためなら、どんなことでも、よろしいですか、どんなことでも彼はやる気だということです……」今やすっかり落ち着きを取り戻したマルグリット嬢は、まるで関係のない話を聞くかのように全く表情を表さず聞いていた。フォルチュナ氏が一息吐いたので、彼女は氷のような冷たさで言った。「そのことはすべて存じております」「な、何ですと!御存知...2-X-17

  • 2-X-16

    フェライユール氏が卑劣な手段で陥れられたのは、貴女様が目的だったからに他なりません。そしてこの私は、氏を破滅に追い込んだ悪党どもの名前をお教えすることができます。この犯罪を画策したのは最も大きな利益を得る人間、ド・ヴァロルセイ侯爵です……。その手先となったのはド・コラルト子爵と自称している凶悪なる人物。その者の本名及びその恥ずべき過去については、ここにおりますシュパンがお伝えすることができます。お嬢様はフェライユール氏という方を見初められました。それ故その方が邪魔になったのです。ド・シャルース様はド・ヴァロルセイ侯爵に貴女様との結婚を約束なさったのではありませんか?この結婚こそが侯爵にとって起死回生の手段、まさに溺れる者を救ってくれる舟だったのでございます。というのも侯爵にとって状況は破綻寸前だったのです...2-X-16

  • 2-X-15

    「私どもへの御依頼の具体的内容については、確かにまだ伺ってはおりません。ですが、失礼ながら推理をさせていただきました……」「まぁ!」「つまりこうでございます。お嬢様は私めの経験、それにささやかな能力を頼みと思って下さったと理解しております。憎むべき中傷をお受けになった弁護士のパスカル・フェライユール氏の無実を晴らし、名誉を回復せんがための……」マルグリット嬢はぱっと立ち上がった。真から驚き、恐ろしくなったのだ。「どうしてそのことをご存じなのです!」と彼女は叫んだ。フォルチュナ氏はいつのまにか自分の椅子を離れ、暖炉の前でチョッキの袖つけ線に親指を差し込んだ姿勢で立っていた。それが自分を最も良く見せるポーズだと思っていたのだ。そして奇術師が自分の術の意図を述べるときのような口調で答えた。「驚かれるのはごもっと...2-X-15

  • 2-X-14

    しかし彼女のそのような感情は全く表には出なかった。気品ある美しい顔の筋を一本も動かすことはなく、目は誇り高く澄んだままだった。内心は緊張で一杯だったが、澄んだよく響く声で彼女は言った。「わたくしはド・シャルース伯爵に後見を受けておりました者でマルグリットと申します。貴方様はわたくしの手紙を受け取って下さいましたか?」フォルチュナ氏は、結婚相手を探すために出かけて行くパーティでするような、この上ない優雅さでお辞儀をし、やり過ぎなほど気取り返ってマルグリット嬢に椅子を勧めた。「お嬢様のお手紙は確かに届いてございます」と彼は答えた。「お越しをお待ち申しておりました。私どもに信頼を寄せて頂くとはまことに名誉なことと存じます。お嬢様から以外の依頼はすべて断ってございます……」マルグリット嬢が座ると、しばしの沈黙があ...2-X-14

  • 2-X-13

    というわけでマルグリット嬢は誰にも気づかれることなく家を出ることが出来た。それはまた、もし帰宅の際誰かに見られたとしても、どれくらいの時間外出していたかを知られずに済むということでもあった。彼女が外に出た途端、ピガール通りを一台の馬車がやって来たので彼女は呼び止め、乗り込んだ。彼女が今取っている行動は彼女にとって非常に苦痛の伴うものであった。若い娘であり、元来大変内向的な性格の彼女が、見ず知らずの他人に、自分の心の奥の最も秘めておきたい感情、すなわちパスカル・フェライユールへの愛情、を曝け出すなどということが簡単にできる筈もない……。しかし、ド・ヴァロルセイ侯爵の手紙の複製を作って貰おうと写真家のカルジャット氏のもとを訪れた昨日に較べれば、自分は冷静で自分自身をちゃんとコントロールしていると彼女は感じてい...2-X-13

  • 2-X-12

    それで説明は十分だと判断したのか、彼はフロランに向かって言った。「着替えを手伝ってくれ。明日は早い時間に出発しなきゃならんのだ……」この命令はシュパンの耳にもちゃんと入ったので、彼は翌朝七時にはド・コラルト邸の門の前に張りついて見張りを開始していた。そしてその日は一日中コラルト氏の後をつけた。まずド・ヴァロルセイ邸、それから事業関係の事務所、次にウィルキー氏宅、午後にはトリゴー男爵夫人のもとへ、そして夕方にはマダム・ダルジュレの館へと……。そして使用人たちに混ざり、館の前に次々と横付けされる馬車のドアを甲斐甲斐しく開けに行くという仕事を手伝いながら、母親と息子の間でたった今繰り広げられたばかりの恐ろしい諍いについて小耳に挟んだのだった。やがてウィルキー氏が乱れた服装で出て来た。その後ド・コラルト子爵も出て...2-X-12

  • 2-X-11

    このような考えで頭が一杯だったので、帰り道は行きよりずっと短く感じ、ダンジュー・サントノレ通りのド・コラルト邸まで来たときも危うく通り過ぎるところだった。門番のムリネ氏のもとに出頭せねばならなかったわけだが、彼は出来る限り興奮が目に顕れないようにし、役者が隈取りをするようにこの上なく無邪気な表情を作って入っていった。ところが、驚いたことに門番小屋にいたのはムリネ氏とその妻だけではなかった。フロランもそこに居て、彼らとともにコーヒーを飲んでいたのだ。それだけではない、下男のフロランは主人から拝借したエレガントな装いを脱ぎ、赤いチョッキ姿に戻っていた。彼はひどく不機嫌そうであったが、それも至極尤もなことであった。ド・コラルト邸から男爵邸はほんの目と鼻の先であったが、不運が見舞ったのである。男爵夫人は小間使いの...2-X-11

  • 2-X-10

    あのパスカル・フェライユール、極悪非道な悪党たちの被害者となった彼を救い出すために大きな働きをすることが出来れば、自分がかつて犯した犯罪の償いにある程度までなるのではなかろうか!それにしても、この状況は彼の理解力を越えるものであった。どのようにしてああいう悪党がパリという大都会に忽然と姿を現し、いくら自ら幅を利かせるような行動を取ったにせよ、彼が何者なのか、どこから来たのか誰も知らないままに人々に受け入れられるようになったとは?ド・コラルト子爵のようなならず者がパスカル・フェライユールの名誉を傷つけるようなことが、そもそも出来たのは何故なのか?全く、なんということか!正直に生きている人間の名誉などというものは、どこかの陰謀家に目障りな奴と思われた途端、木っ端みじんにされてしまうというわけか!してみれば人生...2-X-10

  • 2-X-9

    「わたしには決心がつきませんわ」と彼女はムション氏に言っていた。彼の腹黒そうな横顔が暗がりの中に浮かんでいた。「本当に、どうしても……。だって、この手紙を出してしまえば、あの人が戻ってくるという希望を永遠に失ってしまうことになりますもの……何が起ころうとも、あの人は私を決して許さないでしょう」「そうなったら」と老紳士は答えた。「今までよりもっと悪くなると言うのかね?さぁさぁ、考えてごらん、手袋をしたネコが鼠を捕まえられた試しはないんだ(時には手を汚すことも必要だ、という意味の諺)……」「あの人は私を憎むでしょう」「いやいや、犬を懐かせるにはまず打つことだ……それに、葡萄酒を汲んできたのなら飲まなければ(一旦始めたことは最後までやらねばならない、という意味の諺)……」この奇妙な論法で彼女は納得した。シュパン...2-X-9

  • 2-X-8

    「ここにはしょっちゅう来るの?」「うん、毎晩。いつもポケットに美味しい物を持ってて、ママと僕にくれるんだ」「どうしておじさんはあの部屋にいるの?明かりも点けないで……」「それはね、お客さんに姿を見られちゃいけないからだって」このような尋問を続けることは、何も知らぬままこの子を母親の告発者にしてしまうことになる。それはおぞましい行為ではなかろうか……。シュパンは自分がもう既に入ってはならない領域にまで足を踏み入れていると感じた。そこで彼はその子の顔の一番汚れていない場所にキスをし、床に降ろすと言った。「それじゃ遊びに戻りな」その子は残酷なまでに正確に母親の性格を暴いたのであった。母親から自分の父親のことをどう聞かされているかというと……彼はお金持ちで、いつか戻ってくるときにはたくさんのお金と綺麗な洋服を持っ...2-X-8

  • 2-X-7

    しかし性格はおとなしそうで、人を寄せつけないような態度ではあったが、利発そうであった。金髪で顔立ちはびっくりするほどド・コラルト氏に似ていた。シュパンは子供を膝に抱き上げ、隣室に続くドアがきちんと閉まっていることを確かめてから尋ねた。「名前は何ていうんだい?」「ポール」「パパのこと、知ってる?」「ううん」「ママはパパのこと何も言わないの?」「ああ、言うよ!」「どんなことを言ったの?」「パパはお金持ちだって、すっごくお金持ちだって!」「それから?」その子は返事をしなかった。母親がそれ以外のことは何も言わないのか、夜が明けはじめる前の曙光のように、分別に先立つ本能が見知らぬ人間の前で喋ることを制止しているのか、どちらとも分からなかった。「パパは君に会いに来たりしないの?」とシュパンは尚も尋ねた。「ううん、全然...2-X-7

  • 2-X-6

    自分の妻が姿を現し、自分の本当の名前と過去を世間に言い触らそうものなら、自分は終りだということが分かり過ぎるほど分かっているからだ。しかし彼には金がない……。ド・コラルト子爵のようにお気楽な人生を送っている若い男は節約とか貯金をするという考えは持たないものだ。それが、絶え間ない消費欲にがんじがらめになっている彼らのような生き方に付いて回る宿命というものである。さて、このように言わば喉元にナイフを突きつけられた状況に追いこまれたド・コラルト氏は妻に待ってくれ、と手紙を書き、男爵夫人には懇願あるいは命令---それは彼らの関係によって決まるだろうが---の手紙を書いて要求されている金額の金を貸してくれるよう頼んだのだ。それにしてもシュパンには一つ腑に落ちないことがあった。かつてフラヴィ嬢ほど気位の高い女はいない...2-X-6

  • 2-X-5

    そして彼女は老紳士の後に従って奥の部屋に入り、ドアを閉めた。「そういうことか、結構だね!」とシュパンは思ったが、内心ではちっとも嬉しくなかった。「これからいよいよ佳境に近づく、お楽しみが始まるってわけだ……」シュパンはその波乱に富んだ人生経験のためか、若さに似合わぬ洞察力を持っていたが、たとえそんなものがなくとも、マダム・ポールの十語足らずの言葉と老紳士の諺だらけのもの言いだけで、この場の状況を理解するには十分だった。彼は今や、自分が届けた手紙の中味を、自分の目で読んだのと同様にはっきり知ることができた。これでド・コラルト氏の怒りに満ちた態度の理由が呑み込めた。彼が何故急ぎの命令を下したのかも……。シュパンは最初漠然と、男爵夫人への手紙と彼の正式な妻への手紙の間にはなんとなく繋がりがあるような、そして一方...2-X-5

  • 2-X-4

    現れたのは、五十ぐらいの腹の出た、頭が扁平で禿げた男だった。愚鈍そうで、だらしない、それでいて腹黒そうな男で、帽子を手におずおずと出て来た。「そうだろう、そうだろう」と彼は猫なで声で言った。「私が言ったとおりだろう。果報は寝て待てって」彼女は既に封を破っていた。一息に読み終えると、途端に嬉しそうに手を叩いて叫んだ。「あの人は同意したわ!恐くなったのよ、だから私に少しだけ待ってくれ、って頼んでいるわ。ほら、読んでみて頂戴!」しかしムション氏は眼鏡なしでは読めなかった。ポケットを探って眼鏡を見つけるのにたっぷり二分は掛かった。それから更に、眼鏡を掛けてからも光が弱すぎたため、文面を解読するのに三分かかった。その時間を利用してシュパンは彼をじっくり観察し、鑑定していた。「この年寄りは一体何者なんだ?」と彼は考え...2-X-4

  • 2-X-3

    彼がガラス戸の前でぐずぐずしていたのは、彼女が誰かと話をしていることが見て取れたからであった。カウンターのすぐ後ろのドアが開けっ放しになっており、その向こうには別の部屋があるらしく、彼女はその部屋にいる誰かと話をしている様子だった。その相手が誰なのか、シュパンはなんとか一目だけでも見られないかといろいろやってみたが無理だった。仕方がないので中に入ろうとしたそのとき、彼女が突然立ち上がり、何か気に入らぬ様子で二言三言喋りかけるのが見えた。彼女の視線は奥の部屋でなく、目の前の店の隅っこに注がれていた。「おや、あそこに誰かいるのかな?」とシュパンは訝しく思った。彼は立つ位置を変え、爪先立って覗いてみると、確かに三、四歳の小さな男の子が見えた。やせ細り、青白い顔にぼろ着を身に着け、同じくぼろぼろになった紙製の馬で...2-X-3

  • 2-X-2

    自分の妻を飢え死にさせるがままにしておくとは……!この店をやっているのはド・コラルト氏の妻であることに間違いはなかった。彼女をかつて一度見たことのあるシュパンは、カウンターの向こう側にいる女性が彼女だと認識した。残酷なまでに面変わりしていて、殆ど見間違うほどだったのではあるが。「確かに彼女だ」と彼は呟いた。「間違いなく、フラヴィー嬢だ……」彼が口にしたのは、若い娘だった頃の彼女の名前だった。「可哀想に!」確かに可哀そうな人間であった。彼女はまだ若い筈であった。しかし不幸と悲しみ、後悔、恐ろしいばかりの窮乏、この貧弱な生活を支えて行かねばならぬ日々、涙にくれて眠れぬ夜、そういったものが彼女を老けさせ、しなびさせ、生気を失わせ、抜け殻のようにしていた。天井から吊り下げられた頁岩油ランプの弱弱しい光が彼女の顔を...2-X-2

  • 2-X-1

    X目的地に着いたので、シュパンは歩を緩めた。そしていかにも事情を心得ているといった様子で慎重に店に近づき、ガラスに鼻をくっつけんばかりにして中を窺った。予め中の様子を見るのは、自分がどんな感じで入っていったらいいかを決めるのに役立つだろうと考えたのだ。確かに、たっぷりと心行くまで観察するのを妨げるものは何もなかった。夜の闇はすっかり濃くなり、河岸に人の気配はなかった。物音ひとつ聞こえてこない……。悪臭を含んだ濃い霧が息苦しいほどに立ち込め、陽気なざわめきのある隣の市門までずっと続いていた。パリの街ならすべて知り尽くしていて驚くことなどない生粋のパリっ子のシュパンでさえ、ぞっとするような場所だった。『おいらの街』の中ならどんなにさびれた場所に居ても、ブルジョアが自分のアパルトマン内の部屋ならどこであろうとく...2-X-1

  • 2-VI-20

    このド・コラルト氏の妻に宛てた手紙と男爵夫人宛てに持って行かせた手紙の間には何らかの繋がりがある、とシュパンは思った。きっとそうに違いない。それら二通は同じときに書かれ、同じ感情に支配されていたと考えられる。なにか問題でも起きたのか?ラ・ヴィレットのタバコ屋とヴィル・レヴェック通りの大富豪の男爵夫人との間にどんな関係があるのか、シュパンは頭を捻って考えたが、どうしてもありそうな関係は思いつくことが出来なかった。とは言え、思案の方は前に進まなかったが、彼の脚は動きを止めなかった。果てしなく思われるラファイエット通りを上がって行き、フォブール・サン・マルタンの高台まで出ると、外周道路を横切りフランドル通りに着き、ようやく息を整えた。「やれやれ!乗合馬車に乗るよりはちっと速く着いたかな……」と彼は呟いた。河岸通...2-VI-20

  • 2-VI-19

    しかし彼は独り言を言うのをやめ、馬車の通れる立派な門の陰に用心深く身を隠した。粋な身なりのフロランはヴィル・レヴェック通りでもひときわ豪華な邸の門の呼び鈴を鳴らしていた。門が開けられ、彼は中に入っていった。「ふうむ、長い距離じゃなかったな」とシュパンは思った。「抜かりはないな、子爵と男爵夫人……近所なんだから、花を送ったりするのも便利というわけだな……」彼はあたりを見回し、一人の老人が自分の店の前でパイプを吹かしているのを見つけた。その老人に近づいて行き、丁寧に話しかけた。「ちょっとものをお尋ねしますが、あちらの立派なお宅はどなたのお住まいかご存じですか?」「あれはトリゴー男爵邸さ」と相手は口からパイプを離さず答えた。「それはどうも有難う存じます」とシュパンは鹿爪らしく答えた。「こんなことをお聞きしました...2-VI-19

  • 2-IX-18

    彼の自制心は相当なものだったとは言え、内心の動揺はあまりにも大きかったのでその場に居た者たちの目に止まらずにいなかった。「おい、お前、一体どうしたんだ?」と彼らは同時に尋ねた。「どうかしたのか?」意志の力を振り絞ってシュパンはなんとか冷静さを取り戻し、自分のヘマを取り繕うべく口実を素早く探した。「そうっすねぇ」と彼はむすっとした口調で答えた。「そりゃまぁ、やるとは言いましたがね……こっからラ・ヴィレットまで遠路はるばる行くんしょ……旦那が行くのを渋るようなとこまで。こりゃもうお使いってなもんじゃない、出張っすよ……」この説明はすんなり受け入れられた。自分の労力が当てにされていると知って、この若者はもう少し値を吊り上げようとしている……まぁ当然のことか。「それじゃ不満だってのか!」と赤いチョッキのフロランは...2-IX-18

  • 2-IX-17

    ド・コラルト子爵は手早く手紙をしたためたようだ。まもなくまた姿を現し、手にした二通の手紙をテーブルの上に投げ出しながら指示を与えた。「一通は男爵夫人に。奥様自身か、奥様付きの小間使いに直接手渡しする以外誰にも渡すな……返事は貰わなくていい……それからもう一通は書いてある住所に届けて、返事を貰って来るんだ。それを私の書斎のデスクの上に置いておくように。急いで行け」こう言い捨てて、子爵は入って来たときと同じように、つまり走りながら出て行った。その後すぐ彼の馬車の音が聞こえた。赤いチョッキの下男、フロランは怒りで真っ赤だった。「これだよ!」と彼は門番にというよりシュパンに向かって話しかけていた。「だから言ったろ?男爵夫人に直接手渡し、それかマダム付きの女中に、だってさ。つまりは、こっそり隠れてってことさ。言わず...2-IX-17

  • 2-IX-16

    それを上手く聞き出そうと、仕事の後二人が勧めてくれるワインを味わいながらシュパンは策を練り、機会を窺っていた。そのとき中庭に一台の馬車が乗り入れる音が聞こえてきた。「あれはきっと旦那様だぜ」と窓に駆け寄りながら下男が叫んだ。シュパンも同じように窓辺に飛んで行くと、非常にエレガントな青い箱馬車が高価な馬に引かれているのが見えた。しかし、子爵の姿は見えない。ド・コラルト氏は既に馬車から降り階段を二段抜きで駆け上がっていた。その直後、アパルトマンに入るや彼の苛立った大声が聞こえた。「フロラン!どういうことだ?ドアが全部開けっ放しになっているじゃないか!」フロランとは赤いチョッキの下男のことだった。彼は軽く肩をすくめた。主人の考えそうなことは知り尽くしているので何も怖れるものはない、という召使の余裕だった。で、彼...2-IX-16

  • 2-IX-15

    下男はまた、子爵の青い天鵞絨の部屋着、毛皮の裏地の付いたスリッパ、果ては就寝時に身に着ける絹の飾り紐の付いたシャツまで見せてくれた。しかしシュパンが息をのみ、呆気にとられたのは化粧室だった。巨大な大理石の化粧台を見たとき、彼は口をポカンと開けて立ち尽くしてしまった。そこには三つの流しがあり、あらゆる種類のタオル、箱、壺、ガラス瓶、皿が並んでいた。またブラシは、柔毛、剛毛、顎鬚用、手用、マッサージ用、口髭のためのオイル塗布用、眉毛用、などがダース単位で揃えてあった。身だしなみ用の奇妙な道具類がこのように勢ぞろいしているのを、彼は今までに見たことがなかった。銀製のものも鋼鉄製もあったが、ピンセット、ナイフ、小刀、ハサミ、研磨器、ヤスリ、柳葉刀、等である。「まるで足治療医か歯医者みたいっすね」と彼は下男に言った...2-IX-15

  • 2-IX-14

    「ここだ、さぁ入って!」ド・コラルト氏が、フォブール・サンドニに住む自分より良い暮らしをしているであろうとは思っていたシュパンであったが、この控えの間の豪華さは予想を遥かに上回るものだった。天井から吊るされた照灯器具は目を見張るようなものだったし、数脚の長椅子はフォルチュナ氏のソファと同じくらい立派なものだった。「この悪党は小銭を掠め取るような悪事じゃ満足しないんだな……」とシュパンは思った。「スケールが違うってわけか……だが、こんな暮らしもそう長くは続かないぞ!」仕事はすべての部屋の花の鉢を庭師が運んできた鉢と取り替えることだった。それからバルコニーの半分を占める非常にお洒落な小さな温室にも、そして絹の布を木枠に張りめぐらした綺麗な小部屋が喫煙室として使われていたが、そこにも運び込んだ。結局のところ、門...2-IX-14

  • 2-IX-13

    「ああ、もちろん、何か厄介なことで来たわけじゃありませんよ」と彼は答えた。「つまりこういうことでして。マドレーヌのパサージュ(マドレーヌ寺院のある広場から始まるガラス屋根のアーケード)を歩いていると凄い綺麗なご婦人が俺を呼び止めてこう言ったんです。『ド・コラルトさんはダンジュー通りに住んでいらっしゃるってことだけど、私は番地を知らないの。まさか一軒一軒尋ねて歩くわけに行かないから、お願い、もしあなたが彼の住所をここまで知らせにきてくれたら百スーあげるわ!』そんなわけで百スー頂き、ってわけなんですよ」パリっ子ならではの豊富な経験を活かし、シュパンは今の場面にぴったりな言い訳を選んだので、聞いていた二人はどっと笑い出した。「聞いたかい、ムリネ爺さん!」と赤いチョッキの召使が叫んだ。「爺さんの住所を知るために百...2-IX-13

  • 2-IX-12

    お前が死ぬまで後悔し続けるような罪から、今回免れられたのは神様の御加護だよ。お前の雇い主は今のところ善良な気持ちを持っているけれど、お前にそのマダム・ダルジュレの後をつけるよう命令したときは邪な気持ちだったんだ。気の毒なご婦人じゃないか!息子さんのため、ご自分を犠牲になさってたんだよ。息子さんの目に触れないよう隠れておられたのに、お前はその方を裏切るようなまねをした!お気の毒に……どんな苦しみをお耐えになければならなかったか。それを思うとわたしは堪らないよ!今のあの方の境遇、しかも自分の息子から軽蔑されるなんて!わたしは何の身分もない女だけれど、わたしなら恥ずかしくて死んでしまうよ……」シュパンは窓ガラスを震わせるような大きな音を立てて洟をかんだ。気持ちが高ぶって涙が出そうになるとき、彼はいつもこうやって...2-IX-12

  • 2-IX-11

    そして最後に、テーブルの上に掛けられた小さな鏡に一瞥をくれたき、自分の様相に驚いてしまった。「なんてこった!」と彼は呟いた。「昔の俺、なんてチンケだったんだ!」彼は着替えている間ずっと極力音を立てないようにしていたのだが、無駄な努力だった。目の見えない人間が身に着ける恐るべき聴力のおかげで彼女は息子の動きをすべて察知していた。まるで傍に立って彼を観察していたかのように……。「お前、着替えをしたね、トト?」と彼女は尋ねた。「ああ、うん……」「なんでシャツを着たのかい?」母親の鋭い洞察力をよく知っている彼ではあったが、それでもこれにはギクッとした。しかし嘘を吐こうとは思わなかった。母親が手を伸ばしただけで嘘はばれてしまう。「これからやる仕事のために必要なんだ」と彼は答えた。目の見えない母親の優しい顔つきは一変...2-IX-11

  • 2-IX-10

    「戻ってくるだなんて」と彼は口の中で呟いた。「まっぴら御免だね!いい加減な連中だ。俺の『お宝』を手にした途端、あいつらが何をするかと思っただけで……!」しかしこの恐怖はすぐに消え去った。彼はフォブール・サン・ドニへの最短距離の道を辿りながら、自分の作戦が功を奏したことに満足していた。「ようし、これであの子爵の奴を捕まえたぞ」と彼は思っていた。「ダンジュー・サントノレは番地が百もない通りだ。たとえ一軒ずつ虱潰しに当たったとしても、たかが知れてる!」彼が帰宅すると、いつものように母親は編み物をしていた。それが殆ど完全に視力を失った彼女に出来る唯一の仕事だったのだが、彼女の仕事への熱中ぶりは凄まじかった。「ああ、お前帰ったのかい、トト」と彼女は嬉しそうに言った。「こんなに早く帰ってくるとは思わなかったよ。良い匂...2-IX-10

  • 2-IX-9

    「この手紙を届けるためですよ!」給仕たちは肩をすくめた。「そんなの、うっちゃっておきなよ」と彼らは言った。「わざわざ届けてやるこたねぇよ……」こういう反応をシュパンは予想していた。「それがですね」と彼は言った。「中にお金が入ってるようなんですよ」彼は封筒の口を少し開けて中の札を見せた。その途端、給仕たちにとって状況が変わった。「そうなりゃ話は別だ」と、金が入っているのを見た途端、一人が言った。「届けなくちゃな……しかし、わざわざ家まで行くのも大変だぜ……ここに預けておきなよ、カウンターに。そしたらその人が次に来たとき渡してあげられるよ……」シュパンの背筋に冷たいものが走った。彼の札が失われて行く図が見えたのだ。「それはちょっとどうかな」と彼は叫んだ。「おいらのめっけた掘り出し物をここに置いとくなんて!それ...2-IX-9

  • 2-IX-8

    「ボック(4分の1リットル入りのビールのコップ)を一つ」と彼は注文し、同時に書くもの一式を持って来てくれと頼んだ。障害にぶち当たったときのこの解決法は、彼がかつて手を染めていたあるいかがわしい仕事の名残りであった。他の場合であれば、こんな危険な方法を取ることに躊躇したであろうが、今は急を要するときだったし、他に頼る当てもなかった……。給仕が頼んだものを持って来てくれるや否や、彼はそこからインスピレーションを得ようとするかのようにビールを一気に飲み干し、ペンを持つと、達筆とは言えないものの、出来るだけ綺麗な字でこう書いた。『親愛なる子爵殿、ピケのゲームで借りた百フランをお返しする。リベンジ・マッチはいつにしようか?君の友、ヴァロルセイ』この手紙を書きあげた後、彼はそれを三度読み返した。社交界で『最高にシック...2-IX-8

  • 2-IX-7

    しかし彼の皮肉な笑いの下に激しい怨嗟のエネルギーが蠢いているのが感じられたので、フォルチュナ氏は全く不安を感じることはなく、この憎悪から派生した意志が、いわゆる『ロハで』働いて貰うよりずっと自分の助けになるだろうと確信していた。本来この手の手助けは最も高価なものにつくのだが……。「そうか、そうか、それは結構だ」と彼は言った。「なら、お前を当てに出来るな、ヴィクトール……」「もっちろんでさぁ。ご自分の分身だと思ってくださいよ。いつでも、どこへでも行きますよ」「で、火曜日には確かな情報を持ってきてくれるというわけなんだな?」「それより前かも……もし何も邪魔が入らなかったら」「ようし。では私の方は専らパスカル・フェライユール氏に掛かることにするよ。ヴァロルセイの企みについては、彼より私の方がよく知っている。我々...2-IX-7

  • 2-IX-6

    ああ、そうは行くかって!あの手の若造は残念ながらそこら中にうようよしてますが、あいつら、社会の害虫ですぜ。待ってろよ、コラルト、お前からは目を離さないからな。お前には借りがある。そして俺は借りは必ず返す男だ!ムッシュ・アンドレが俺を窮地から救い出してくれたとき、実際俺は首をちょん切られても文句を言えないことを仕出かしたのに、あの人は条件を付けたりしなかった。ただこう言ったんです。『もしお前が骨の髄まで腐っているのでなければ、これからは正直に生きるんだ』ってね。それを言っているときのあの人の姿といったら酷いもんでしたよ。あの墜落がもとで身体中ズタズタ、肩は包帯でぐるぐる巻き、顔は真っ白で廃人同然といった有様で……こん畜生め!俺はあの人の前で自分がミミズみたいにちっぽけに感じましたよ。そのとき俺は誓ったんです...2-IX-6

  • 2-IX-5

    ボスは俺の家庭をご存じですよね---彼はこの言葉を非常にもったいぶった様子で口にした---俺の母親にお会いになりましたね。いろいろと金が掛かるんです……」「つまりお前の言いたいのは、私の出す報酬が十分でないと……」「いえ、その逆ですよ、ボス、最後まで言わせてください。確かに俺は金が好きです。ですがね、この件に関しては報酬は頂きません。給料も経費も、一サンチームも、何も要りません。ボスの仰るとおり働きます。が、それは俺のためであって、俺の満足のためです。ただでやります。ロハですよ」フォルチュナ氏は驚きの叫び声を抑えることが出来なかった。腕の力が抜けて肩をすくめることも出来なかった。シュパンといえば金にガツガツした奴の代名詞、貪欲さにかけては年老いた高利貸しも顔負けの、あのシュパンが金など要らないと言うとは!...2-IX-5

  • 2-IX-4

    シュパンは心の動きがすぐ顔に出るタイプだったが、今はそれを押し隠していた。まず第一に、フォルチュナ氏にいちいち自分の行動を報告する義務はなかったし、第二に、今は自分の主義を宣言するのに適当なときではないと判断したからだ。それでフォルチュナ氏が言い終わった途端、彼はすばやく答えた。「つまりそれって、悪党どもをやっつけるってことっすね……ああ、分かってますって!そういうことなら、俺自慢するわけじゃないすけど、大いにボスのお役に立てますよ。あのド・コラルト子爵の過去についての具体的な事実なんかどうです?実はですね、俺知ってるんすよ、あの悪党野郎のことは、何から何まで!言ったように奴は結婚していて、あいつのカミさんを一週間以内に連れて来ることも出来ますよ。どこに住んでいるかは知らないんすけど、タバコ屋をやっている...2-IX-4

  • 2-IX-3

    なんと!十五フラン六十五サンチームも!他の場合であればこのような予想外の大盤振る舞いにシュパンの顔には大満足の皺が寄せられる筈であった。ところが今日の彼はにこりともしなかった。彼は放心したようにポケットに金を滑り込ませると、酷く気乗りのしない口調で「どうも」と言った。フォルチュナ氏の方は自分の考えに耽っていて、この些細な出来事には気がつかなかった。「あいつらをやっつけるぞ、ヴィクトール」と彼は再び口を開いた。「コラルトとヴァロルセイには裏切りの代償を支払って貰う、とお前にも言ってたろう。その日も近いんだ。ほら、この手紙を読んでみてくれ……」シュパンは有能そうな様子でその手紙を注意深く読んだ。読み終えるとフォルチュナ氏が言った。「さぁ、どう思う?」しかしシュパンは軽々しく自分の意見を述べるような青年ではなか...2-IX-3

  • 2-IX-2

    いろんな感情が激しく入り乱れ、いつもは無表情な彼の顔彼の態度があまりに奇妙だったので、ドードラン夫人は好奇心に駆られ、口をぽかんと開け、目を一杯に見開いて耳をそばだて、フォルチュナ氏の前にじっと立ち尽くしていた。それに気づいた彼は怒りの口調で言った。「そこで何をしている?おかしな真似をするな!じっと見ていたんだな!さっさと戻って台所の監督でもしていろ……」彼女は震えあがって逃げていった。フォルチュナ氏自身も書斎に入った。じっくり考えてみると喜びが沸々と湧き上がって来て、やがて来るべき復讐への期待に頬が弛み、悪意のこもった微笑が浮かんだ。「あの娘はなかなか良い勘をしている」と彼は呟いた。「それにツキにも恵まれている……。俺が彼女の味方をしよう、そしてあの恋人、極悪人どもに名誉を傷つけられるがままになったあの...2-IX-2

  • 2-IX-1

    IXアキレスの腱にまつわる神話はいつの時代にも通じる真実を語っている。身分が低かろうが高かろうが、身体が強壮であろうがなかろうが、どこかに弱点を抱えない人間はいない。そこだけが極めて脆く、傷つけらればその痛みは耐え難い。イジドール・フォルチュナ氏のアキレス腱は、彼のふところにあった。彼のその部分が攻撃されることは、彼の生命の源そのものがやられるも同然であった。そこは彼の感受性が最も鋭敏なところであり、彼の心臓が鼓動しているのは胸の中などではなく彼の幸福な財布の中だった。彼が喜んだり苦しんだりするのはその中身によってであり、素晴らしい才覚によって仕事が上首尾に終り、財布が膨らんでいるときには幸せになり、不手際がもとで失敗して空っぽになったときは絶望感に襲われるのだった。さて、かの呪われた日曜日、意気盛んなウ...2-IX-1

  • 2-VIII-19

    「レースでね、もちろん!」とマルグリット嬢は思った。そしてその夜はずっと、良く言えば独創的とは言える節約の仕方についての話題に終始するのを聞いていなければならなかった。真夜中頃になって自室に戻った彼女は腹立ちを抑えることができなかった。そしてもう十回は頭の中で繰り返したであろう言葉を独り言ちた。「一体私のことを何だと思っているの、あの人たちは!私が完全な馬鹿だと思っているのね。私の目の前で私の父から盗んだお金で手に入れたものを並べ立てるなんて!私から盗んだお金でもあるじゃないの!下賤なペテン師たちには自制心がないから、騙し取った金品を使わずにいられなくて夢中になって使いまくる図、というのは分からないでもないけれど、あの人たちは!あの人たちは頭がおかしいんだわ」マダム・レオンはしばらく前に就寝していた。マル...2-VIII-19

  • 2-VIII-18

    あまり、どころではなく、全然問題にならなくなった、のかもしれなかった。『将軍』はその後すぐ、友人の一人を伴って帰宅した。彼を晩餐に招待したのである。その晩餐の席でマルグリット嬢はフォンデージ氏が夫人に負けず劣らずその日を有効に過ごしたことを知った。彼もまたくたびれた様子だったが、確かにその理由はふんだんにあったようだ。まずフォンデージ氏は投資で大損をしたという紳士から馬を数頭買い取ったのだが、それらの見事な姿を見れば、代金が五千フランとは破格の安値であった……。その後一時間も経たないうちに、ある有名な馬の目利きであるブリュール・ファヴァレイ氏から、殆ど二倍の値で買いたいという申し出があったのを断ったのだった……。このことで彼はすっかり気を良くし、立派な鞍付きの馬の周囲をうろついた挙句、それが百ルイで手に入...2-VIII-18

  • 2-VIII-17

    幸いにも味方と頼れる人が一人いた。あの老治安判事である……。彼に相談しようかと考えたことは今までもあった。彼女のこれまでの行動はそのときどきの状況に応じてなんとか切り抜けてきたものだった。が、事態の進展の速さを考えると、状況を制御するには自分よりもっと人生経験を積んだ人が必要だと感じていた。今彼女は一人なので、スパイされる恐れはない。この時間を利用しないのは愚かなことだ。彼女は旅行鞄から筆記用具を取り出し、不意に誰かが入って来ることのないようドアにバリケードをし、治安判事に宛てて手紙を書き始めた。最後に会ったときから起きた出来事の数々を、稀に見る正確さで、細部に亘り省略することなく、すべてを彼女は記した。そしてド・ヴァロルセイ侯爵からの手紙の中味を再現し、何か不測の事態が生じたときには写真家のカラジャット...2-VIII-17

  • 2-VIII-16

    興奮が冷めると、彼女は自分が手に入れた優位を過大評価するのでなく、むしろ疑いをもって吟味し始めた。それというのも疑いの余地のない完璧な勝利を望んでいたからだ……。ド・ヴァロルセイ侯爵の犯罪を暴くことにさほどの意味はないように彼女には思われた。それよりは、彼の計画の真意を見抜くことが必要だと心を決めていた。彼が執拗に彼女を追い求めるその隠された理由を突き止めることだ……。自分自身素晴らしい武器を手にしていると思ってはいるが、侯爵の手紙に書かれていた脅しのことを考えると不吉な不安を追い払うことが出来なかった。『協力者のおかげで』と彼は書いていた。『かの気位高き娘を非常に危険かつ悲惨な状況に置き、一人では脱出できぬと思われるその状況の中で……』この文言はマルグリット嬢の頭から離れなかった。この今にも自分の頭の上...2-VIII-16

  • 2-VIII-15

    マルグリット嬢がフォンデージ邸を出てから一時間超が経っていた。「ときが経つのってほんとに早いのね!」と彼女は呟いていた。人目を引かぬ範囲内で最大限に足を速めながら。それでも、いかに急いでいたとはいえ、ノートルダム・ド・ロレット通りの裁縫材料店に立ち寄り、五分ほどを費やさねばならなかった。黒いリボンやその他の喪のしるしの小物を買うためである。召使の誰かが出て来て外出の理由を聞かれることがあった場合に備え、説明できるように、であった。そういうこともないとは言えず、むしろありそうなことであった。あらゆる可能性を彼女は考えていた。しかし、『将軍』邸の前の階段を上がり、門の呼び鈴を鳴らしたときは緊張のあまり鼓動が胸を突き破りそうになった。この彼女の計画と冒険が成功するか否かは、彼女の行為とは無関係な外的要因に依存し...2-VIII-15

  • 2-VIII-14

    そうこうしている間に助手が機具を持って戻って来たので、彼はその機具を小サロンの中で組み立て設置した。準備がすべて整うと彼は言った。「ではそのお手紙をお渡しくださいますか、マダム」一瞬の戸惑いが感じられた。しかしそれはほんの一秒ほどのものだった。この写真家の誠実で親切な顔つきから、彼は信頼を裏切ることはないだろうと彼女は確信した。この人ならむしろ自分に力添えをし、救ってくれるであろう、と。彼女はド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を悲痛な威厳を持って差し出し、はっきりした口調で言った。「貴方様の手に託しますのは、私の名誉と未来でございます……。でも私には不安はありません。何も怖れてはおりません」写真家はマルグリット嬢が何を考えているのかが分かった。秘密にしておいてくれ、と敢えて口にしなかったこと、それは不必要だと彼女...2-VIII-14

  • 2-VIII-13

    きっとそうであって欲しいと彼女は願っていたのだった……。彼女が突然思いついたこの計画の成否はこれらの点に掛かっていた。それでもまだある懸念が彼女の希望に影を落としていた。その心配を振り払おうと決心したのだが、いざ口を開こうとすると、今度はいろんな不安材料が頭に浮かび、彼女は躊躇した。今言おうとしているのは、彼女の計画の核心に触れる部分だったからだ……。しかし必要なことは聞かねばならない。彼女はためらいを押し殺し、やや上ずった声で言った。「もう一つお尋ねしなければならないことがありますの。私は何も知らない女ですので、お教え頂きたいのです……。私がここに持っている手紙は、明日差出し主に戻され、多分焼却されることになります。もし、今後訴訟という事態になり、私があることを申し立てたら、相手方は否定するでしょう。そ...2-VIII-13

  • 2-VIII-12

    「貴方にお願いしたいことがあるんです。とても大事なことです」「この私に?」彼女はポケットからド・ヴァロルセイ侯爵の手紙を取り出し、相手に見せた。「貴方にこの手紙の写真を撮って頂きたいのです。どうかお願いです……今すぐに、私の目の前で、です。これには二人の人間の名誉が掛かっています。今こうしている一瞬一瞬がそれを危険に晒しているのです!」マルグリット嬢を突き動かしているものの激しさは誰の目にも明らかだった。彼女の頬は真っ赤になり、全身がぶるぶると震えていた。それでいて、彼女は誇り高い態度を崩さなかった。高潔な思いの一途さが彼女の大きな黒い目を輝かせており、その口調の静かさに彼女の強い心が感じられ、正義のために最後まで戦うという決意がにじみ出ていた。若い娘の恥じらいと恋する者の逞しさという相反する力が彼女の中...2-VIII-12

  • 2-VIII-11

    「ノートルダム・ド・ロレッタ通りを下りて行きゃ、すぐのところにありますよ」と彼はついに答えた。「坂を下り切ったところの左手にカルジャット写真館てのがあります」「ありがとうございます!」食料品屋の主人は店の敷居のところに立って彼女の姿を目で追った。「どこのお邸のお嬢さんか知らねぇが」と彼はひとりごちた。「あまりものを知らないんだな」彼女の様子はいかにも異様で、しかも猛烈な速さで歩いていたため、通りすがりの人々が振り返るほどであった。彼女もそれに気づき、意識的に歩調を緩めるようにした。やがて教えられた場所の近くまで来ると、馬車の出入りできる大きな門の両側に、たくさんの肖像写真が額縁に入れられているのが見え、その上に『E・カルジャット』という名前があった。マルグリット嬢は中に入っていった。大きな中庭の右手に建物...2-VIII-11

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