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1件〜100件

  • 2-III-15

    十年以上も彼は自分の娘を探そうとは全くしませんでした。それぐらい敵を恐れていたのです。が、そういう時期を過ぎ、例の夫がどうやら捜索を諦めたらしいと確信を持つようになってようやく彼の方で捜索を始めました。長い時間が掛かり困難な仕事でしたが、ついに見つけ出すことに成功し、その子のもとに辿り着きました。一種の民間人のスパイみたいな怪しげな男の力を借りたのです。フォルチュナという名前の」男爵は激しく興味を惹かれた様子だったが、すぐにそれを圧し止めて言った。「それは……奇妙な名前の男ですな」「姓もそうですが、名もイジドールというのですからね!ああ、この男はさも優しそうに猫を被っていますが、危険な悪党でね。最悪の種類のならず者です。どう見たって徒刑場送りがふさわしい男で……こいつがどういう事情でそういういかがわしい仕...2-III-15

  • 2-III-14

    ド・ヴァロルセイ侯爵が男爵の取り乱すさまを見ながら、それが自分の話が原因なのだと全く気付かなかったのはさほど不思議ではない。この金満家の男爵と一攫千金を夢見てアメリカに渡った貧しい男を結ぶものは何もなかった!片や、カミ・ベイのパートナーであり、マダム・リア・ダルジュレの友人であり、賭け事なしには夜も日も明けぬ男、そして片や、愛に狂い、自分の妻を奪った男、そしてまた彼の人生のすべての幸福を破壊した相手を十年もの間追求してやまない男、この両者につながりがあるとは誰が思うだろうか。それにド・ヴァロルセイがたとえ疑いを持ったにしてもすぐにそれが消えてしまったのは、彼が到着したときトリゴー男爵がかなり動転した様子であったこともある。やがて彼は少しずつ平静さを取り戻していったのであったが……。というわけで、侯爵はいつ...2-III-14

  • 2-III-13

    それから四ヵ月経ったある朝一通の手紙が伯爵の愛人から届き、こう書いてあったのです。『私たち、もうおしまいです。今、夫はマルセイユにいて、明日ここに帰って来ます。もう二度と私に会おうとなさらないで。とにかく夫を避けてください。さようなら』この手紙を受け取るや否や、ド・シャルース氏は駅馬車を雇い、大急ぎでパリに戻ったのです。娘を引き取りたい、引き取らねば、どうあっても、という気持ちで。ところが遅すぎた。夫の帰還の知らせを聞くや否や、若い妻は気が動転してしまったのです。何としてでも自分の過ちを隠さねば、というただそのことしか頭になかった。そして夜、変装をし用心に用心を重ねて出かけ、小さなマルグリットをどこかの家の門の下に置いてきたのです。レ・アール近くに……」彼は突然言葉を止め、急いで尋ねた。「男爵、どうなさっ...2-III-13

  • 2-III-12

    男爵はハッとした。「え!ド・シャルース氏というのは途方もない大金持ちだったということではないですか。彼は独身だった筈です。その娘さんが、非嫡出の娘さんだったにせよ、一文も貰えないとはどういうことですか?」「運命ですよ!ド・シャルース氏は突然死したのです。彼女に財産を遺贈することも認知することも出来なかったのですよ」「予防措置をなにも講じなかったというのは何故でしょう?」「ああ、そうしたものですよ。認知に際してはあらゆる困難がつきまとうものです。危険も存在する。マルグリット嬢は捨て子だったのです。母親の手から離されたと言うべきでしょうか。生後五、六か月のときです。それからド・シャルース氏が八方手を尽くして彼女を探し出すのに何年も掛かったのです」これはもはやパスカルに聞かせるための話ではなくなっていた。トリゴ...2-III-12

  • 2-III-11

    確かなことは、私は虜になってしまったということです。長らく生きて疲弊し、しなびて色褪せ、何事にも無感動になり、もう終わりの人間だと自分では思っていたので、傷つくことなどもうあり得ないと高をくくっていたのですよ。ええそうですとも!ところがある朝目覚めたら、二十歳の若者の心になっていたのです。彼女をちらりと見かけるだけで心臓は早鐘のように打ち、顔には血が上って真っ赤になる始末。もちろん、自分にブレーキをかけようとしましたよ。自分が恥ずかしくなって……。でもどうにも制御が効かないのです。自分の愚かさをいくら自分に言い聞かせても、心はますます依怙地になるばかり……。しかし、私の愚かさの所為だけではなかったようで。というのは、あれほどの純潔な美しさ、高貴さ、情熱、正直さ、そして溌溂たる知性を持った女性と出逢うことは...2-III-11

  • 2-III-10

    主義から言っても、また必要上からも、彼は人に対しては寛大であること、そして赦すことを公言し、実践していた。というわけで、自分を訪れてきた客人を罠にかけるようなことには大いなる嫌悪感があった。しかしパスカルには真実を明確にするために出来る限りのことをすると約束していたし、自分でも明らかになる真実には非常に興味があった。「そうですか」と彼は侯爵に言った。「ニネット・サンプロンには煩わされずに済む、ということですな。それより私がちょっと首をひねってしまうのは、貴殿が結婚を前にして節約を口にされるということですよ。この結婚で少なくとも貴殿の財産は二倍にはなるでしょうに……。よほどしっかりした財政上の基盤がなければ、貴殿が自由を手放したりはするまい、と私には思われるのですが……」「それは違いますよ!」「どういう意味...2-III-10

  • 2-III-9

    「ええ、この私がです……してみると貴殿は噂をお聞きになりませんでしたか?私が正式にクラブで発表したのは三日前のことですよ」「いや、知りませんでした!確かに、ここ三日はクラブには行っていませんのでね。あのトルコの大金持ち、カミ・ベイの集いに行きっきりになっていましてね。八時間から十時間も続くパーティが開かれ、立派な彼の邸宅でゲームをしていたんです。それはもう快適なものでした……」「なるほど……」そんなことはどうでもよかった。男爵は思いがけぬ知らせを聞かされびっくり仰天していた。「そうですか、貴殿が結婚をなさる……」と彼は話題を戻した。「それはそれは!それを聞いて喜ばぬ人が一人おりますな……」「え、誰のことです?」「ニネット・サンプロンですよ、もちろん!」ド・ヴァロルセイ侯爵は大きな声で笑った。「まさか!」と...2-III-9

  • 2-III-8

    何かを売却するとか、所有していた不動産を処理するとか、現金化するというような話は、不吉な響きを持つ。売る、金が要る、ということは収入が不十分ということであり、やがて破産ということにもなろう……。トリゴー男爵はチッチッと舌先を鳴らしそうになるのを懸命にこらえていた。ゲームの際相手が怪しげな手を繰り出してきたときの彼の癖なのである。「競走馬を所有することが大貴族の贅沢以外のなにものでもない限り」と侯爵は続けた。「私は自分にそれを許してきました……ですが、それが相場よりは少し危険が少ない程度の、単なる投機の対象となったら、私は手を引きます。昨今の競走馬の厩舎というのは株式会社ですよ、製鉄会社みたいな。もう私向きではないです。個人は会社には太刀打ちできない。男爵、あなたがお持ちのような莫大な資金が必要です……更に...2-III-8

  • 2-III-7

    「なんと言われる!」「そういうことです……後に引けぬ決意をする羽目になりましてね。私のことを中傷する連中がおりまして」この返答は何でもないことのように言われたが、それでもトリゴー男爵が持っていた確信がなにがしか揺らいだ。「貴殿を中傷する者がいるとは……」と彼は呟いた。「全くけしからんことです!先週の日曜、私の厩舎の中で一番の名馬ドミンゴが三着という惨敗を喫してしまいまして……ドミンゴというのは一番人気で……どれぐらいの人々を落胆させたかお分かりでしょう……それで人がどんなことを言ったと思います?私が密かに自分自身の馬以外の馬に賭け、自分の馬が負かされることによって利益を得た、自分のジョッキーとは予め示し合わせてあったのだ、とこうですよ……そりゃ、こういったことが日常茶飯事のように行われていることは私も存じ...2-III-7

  • 2-III-6

    「どんなことですか、フェライユールさん」「では申し上げます。私はド・ヴァロルセイ侯爵とは面識がありません。それで……ドアをすっかり開け放つのでなく、細目に開けておいていただけませんか。そうすれば声を聞くだけでなく、顔もはっきりと見ることが出来ますので」「承知しました!」と男爵は答えた。彼は食堂に通じるドアを開け、一歩中に入ると愛想よく手を差し出しながら上機嫌な声で言った。「どうもお待たせして失礼いたしました。貴公からの手紙を今朝受け取ったので、お待ちしていたのじゃが、ちょっとした事件がありましてな……貴公はお変わりありませんかな?」男爵が入ってきたのを見て、ド・ヴァロルセイ侯爵は急いで彼の方へ進み出てきた。新しい企てを思いついて希望が出てきたのか、超人的な力で自分をコントロールしているのか、かつてないほど...2-III-6

  • 2-III-5

    「それでは何故?」「簡単なことです。彼女には何百万もの財産があります……」この説明はトリゴー男爵を納得させたようには全く見えなかった。「侯爵は不動産を所有していて十五万から二十万リーブルの年利収入がある筈です。この財産と彼の名前をもってすれば、フランス中の相続財産持ちの娘は選り取り見取りだ。何故あなたの愛する娘さんに言い寄る必要があるのか。納得が行きませんな。もし彼が貧乏だとか、彼の財産が危うくなったとでもいうなら、私の娘婿のように、金持ちの平民の娘と結婚して再び家の紋章を金ぴかにしたいと考えるかもしれませんがね……」彼は言葉を止めた。ドアをノックする音が聞こえたからである。入れという声に応えて従僕が入って来て言った。「ド・ヴァロルセイ侯爵が男爵にお目に掛かりたいと仰っておられます」なんと、当の敵ではない...2-III-5

  • 2-III-4

    パスカルがトリゴー男爵邸に自らのことを打ち明けるに来るには、多少の不安がないわけではなかった。が、ここまで内情を聴いてしまった今はもはや躊躇したり心配したりする必要はない。安心して彼は話すことができた。「ド・コラルト氏が予め準備していたカードを私に配ることで私を勝たせていたということは言うまでもないでしょう」と彼は話し始めた。「全く明らかなことです……何があろうと、私はこの仇は討つ所存です……しかし、彼をやっつける前に、彼が手先となっている黒幕を突き止めねばなりません」「なんと!ではあなたは疑っておられるのか……」「疑っているのではありません。確信を持っています。その悪事をする度胸もない卑怯者のためにド・コラルト氏が働いていることを」「それはあり得るな。しかし、奴にそんなことをさせられる悪党に心当たりがな...2-III-4

  • 2-III-3

    犯罪が行われるのを避けるため、私は前代未聞の予防措置を施こさねばならなかった。私が突然死を遂げたら、家族には一スーも行かないようにしたのだ。それ以来というもの、彼らは私が死なないように気を付けるようになった……」彼は急に錯乱したような様子で立ち上がると、パスカルの腕を掴み、骨も砕けるほどの力で握りしめた。「しかし、それで終わりではないのです!」彼は低くしゃがれた声で続けた。「この女、私の妻、あなたはすべてお聞きになりましたね。彼女のおぞましさ、悪辣さがどれほどのものか、お分かりになったと思います……それなのに……私は彼女を愛しておる」パスカルは一歩退き、思わず叫び声が出た。「そ、そうなのですか!」「そんな馬鹿なことが、とお思いでしょう?……全くのところ理解不能だ……人知を超える不可解さ……しかしそうなので...2-III-3

  • 2-III-2

    「おお、そうであった」と彼は言った。「今思い出しましたぞ」そしてたった今繰り広げられたばかりの悲惨な口論を思い出し、苦し気な口調で尋ねた。「で、いつからここにおいでで?」嘘を吐くべきだろうか、それとも真実を言うべきか……?パスカルは逡巡したが、それも十分の一秒ほどだった。「三十分ほど前からここにいます」真っ青だった男爵の顔に血の気が昇り真っ赤になったかと思うと、目が血走り、威嚇的な身振りをした。彼の隠しておきたい恥ずべき秘密を聞いてしまったこの男に飛び掛かって絞め殺したいという誘惑が容易に見て取れた。しかしそれは彼に残っていた最後の力だった。妻との激しい諍いで彼は憔悴しきっていたので、こう言ったときの彼の声は弱弱しかった。「それでは、何もかも……一言残らず……あちらの部屋での話は聞かれたのですな?」「はい...2-III-2

  • 2-III-1

    III.それは奇妙な信じがたい幻視を見る思いだった。パスカルは説明のつかない恐怖に捕らわれ、振り払おうとしたがうまく行かなかった。そのとき食堂の床を定まらぬ足取りでドスンドスンと歩く音が聞こえ、彼はハッと我に返った。「あれは彼だ、男爵だ」と彼は思った。「こっちへ来る。見つかったら俺は終わりだ。もう俺のことを助けてやろうなんて思わないだろう。こんなところを聞かれたら、その聞いた相手を許す男なんていない……」逃げればいい、姿を隠せば……。モーメジャンという名前が書いてあるカードが残るからといって彼がそこにいた証拠にはなるまい。機会を改めて別の日に、この屋敷以外で彼に会えばいい。そうすれば召使に見とがめられることもない。こういった考えが稲妻のように彼の脳裏を駆け巡り、彼はすでに立ち去ろうと動いていた。そのとき低...2-III-1

  • 2-II-15

    彼は自分が我慢の限界に来ていると感じたのか、自制するのをやめ、嗄れ声で言った。「いいか、これ以上私に刃向かうのはよせ。出て行け、でないと、何があっても責任は持たんぞ」パスカルは椅子の動かされる音を聞いた。そして殆どその直後、一人の婦人が喫煙室を走るように突っ切って行くのが見えた。何故彼女はパスカルに気がつかなかったのか?それは彼が居た場所が原因かもしれない。また、あの勇ましい態度にも拘わらず、彼女が酷く気を動転させていた所為とも考えられた。しかしパスカルの方では彼女を見た。彼は目がんだようになっていた。「なんてよく似ているんだ……」と彼は呟いた。8.312-II-15

  • 2-II-14

    一昨日のことだ、よく聞け。婿が私に会いに来て、十万エキュ出せと言うんだ。私が断ると、もし金を渡さなければ娘がどこかの大根役者に宛てて書いた手紙を公表するといって脅したのだ!私は恐ろしくなって金を渡した。そしたらその晩のうちに、これは彼ら二人の仕組んだ狂言だと知ったんだ。動かぬ証拠もある。婿はここを出てすぐうちへは帰らずに、その良い知らせを妻に伝えようと電報を打ったのだ。ところが喜びのあまり、住所を間違え、電報が届けられたのはここだった。私が電報を開封してみるとこう書いてあった。『愛する君、やったよ!パパはまんまと引っかかった。金を出してくれたよ!』とな。奴はあつかましくもそんな文面を書き、署名までして係の者に渡したんだ。妻宛てのつもりで……」パスカルは呆気に取られていた……。自分は何かとんでもない白昼夢を...2-II-14

  • 2-II-13

    私はこう思っていた。いつの日か、お前が何としてでもお前の子供に会い、その子を抱きしめ、その将来を保証してやりたいと思う日が来るだろうと!は、馬鹿だ!お前はその子供のことなど、既に忘れてしまっていた。私の帰還の知らせを聞き、その子を救済院か、どこかのお屋敷の馬車の出入りできる門のところに置いてきた、というところだろう。……その子のことをお前はたまにでも考えることはあるのか?その子がどうなったか、何をしているのか、お前は一度も調べてみたことはないのだな。自分は贅沢の限りを尽くしていながら、その子はパンにも困る暮らしをしているかもしれず、どんな掃きだめに転落したかもしれないのに……」「相も変わらずその馬鹿げた話をいつまでも続けているのね」男爵夫人が叫んだ。「ああ、そうとも、いつまでもだ」「その子供の話というのは...2-II-13

  • 2-II-12

    夫の方はしばらく妻に好きなだけ言わせていたが、突然ギクシャクした口調で遮った。「も、もう……よせ!偽善は、いい加減にしてくれ……何のために言い抜けするのだ、何の役にも立たないのに!お前は恥知らずなことなど何とも思わぬではないか。更に罪が一つ加わったところで何だと言うのだ!私は出鱈目を言っているのではない。証拠を出せというなら、一時間以内に両手に余る証拠を出して見せよう。私はもう盲目ではないぞ、二十年も前から!あの呪われた日以来、お前のことはすべて知っている。お前の悪辣さ、おぞましさがどれほどのものかを知らされたあの忌まわしい夜以来だ。お前が平然と私の死を企てているのを聞いたのだからな!お前は勝手気儘に生きることに慣れきっていた。一方この私は、カリフォルニアに金を求め出発した最初の一団と共に幾多の危険を冒し...2-II-12

  • 2-II-11

    夫人が黙っていたので、彼は続けた。「返事がないのは何故だ?そうか、私が言ってやろう。もうとっくの昔にお前のダイヤモンドは売られて、まがい物に取り替えられているからだ。お前はすでに借金まみれで、身の回りの世話をしてくれる小間使いにまで金を借りる始末。うちの御者の一人から三千フランを借りているし、司厨長はお前に三割だか四割だかの利子で金を貸している。そんな有様だからだ……。「そ、そんなことはなくてよ……」男爵は口笛を吹いたが、それは夫人には不気味に響いたに違いない。「全くのところ」と彼は言った。「私が実際よりも余程バカだとお前は思っているようだ。私があまり家にいないのは事実だ……お前の顔を見ると絶望的な気分になるんでな……だが、ここで起きていることを私は知っている。どこまでも私を騙し続けられるとお前は思ってい...2-II-11

  • 2-II-10

    世間はみな新聞によって我が妻の身にまとう物ばかりか、まとわぬ時の身体つきまで知っている。足や手の美しさ、輝くばかりの肩、左肩には愛らしく挑発的な黒子があることまで。私は昨夜有難くも、それを読ませて貰ったよ。ああ、まさしく挑発的だった。この私は正真正銘の幸運な夫というわけだ。実に素敵ではないか!」喫煙室からでも、怒りに地団太を踏む夫人の様子がパスカルには分かった。「侮辱とはこのことだわ!」彼女は叫んだ。「あなたが言っている記事を書いたのは無礼者よ、そんな……」「無礼者とは何故だね?彼らが何の罪もない家庭の主婦に群がったりしているとでも?」「私に敬意を払ってくれる夫が私に居たら、彼らも私のことを記事にしたりしなかったでしょう」男爵は神経質な笑いを爆発させた。それは耳障りの悪い笑い声で、その皮肉の下に深い苦悩が...2-II-10

  • 2-II-9

    「大貴族だと!」と彼は叫んだ。「お前はそう呼ぶのか?人に注目されるには、話題にされるにはどうすればいいか、ということしか頭にない軽佻浮薄な女どものことを!奇抜さや贅沢さや騙しのテクニックで売春婦たちに勝つことを自慢にし、夫たちから金を巻き上げる腕と言ったら、自分の客の男たちから金を毟り取る売春婦たちに決して負けぬ!大貴族だと!高名な家系に生まれただけの名優を気取った大根役者だ。酒を飲み、夜食を食べ、煙草を吸い、仮面舞踏会を追いかけ、仲間内の符牒で喋り、『美徳に見せかけなくても大丈夫』だの『めんどくさい男はシャイヨー行き』、だの『あのひとは有名、私はその上を行く』だのとほざく。人々から野次を飛ばされれば賛同の声と思い、不評を浴びれば誉め言葉だと思うバカ女たちだ。女性の高貴さはその美徳によってしか得られないと...2-II-9

  • 2-II-8

    パスカルはほっと息を吐いた。「僕の名刺が今渡されたんだ」と彼は思った。「それじゃここにじっとしていよう。そのうち誰か来るだろう……」男爵は部屋から出て行こうとしたのだろう。男爵夫人が夫に声を掛けた。「もう一言だけ言わせて。本当によく考えた上でのこと?」「ああ、もちろんそうだ」「仕立て屋が私を恥ずかしい目に遭わせるのを許すって言うの?」「ファン・クロペンは魅力的な男だから、お前を悲しませるようなことはしないだろう」「あなたは訴訟を起こしてみろと彼を挑発したわ」「おいおい、お前の仕立て屋が訴訟を起こす筈がないことはよく分かっているだろ……残念だがな。それに、恥ずかしい目って何だ?私には頭のいかれた妻がいる……それが私の罪か?度の過ぎた濫費には私は反対だ……それが間違っているか?世の夫たちがみな私の勇気を持って...2-II-8

  • 2-II-7

    今にも言葉に行動が伴い、ファン・クロペンの襟首を掴んで玄関ホールに放り出そうとするかのようであった。というのは、争って地団太を踏んでいるような足音、それにまるで馬方の罵りのような怒声、女性の金切り声、そしてドイツ訛りの叫び声が聞こえてきたからである。それからドアが場タンと凄まじい音とともに閉まり、館全体が震えるほどだった。喫煙室の壁に取り付けられた素晴らしい大時計が音を立てた。この場面はパスカルにとっては奇跡を見る思いだった。この王侯貴族のような館から債権者が請求書を持って手ぶらで帰るなど、誰が想像できたであろう……。しかし、トリゴー男爵と夫人の間には二万八千フランの勘定以外の何かがある、という思いをパスカルはますます強くした。一晩で眉一つ動かさず一財産を儲けたり擦ったりするような熱狂的な賭けゲーム愛好家...2-II-7

  • 2-II-6

    「ああ、送ってくれ給え」「男爵様が訴訟をお望みとは考えられませぬが……」「そんなことはない!……訴訟大いに結構。貴殿がどのような商売をしているのか、世間に知らしめる良い機会だ!夫を単なる金貨製造機としか考えない妻たちにうんざりしている夫たちがいるとは思わんのかね!貴殿のやり方はあまりに強引すぎますよ、クロペンさん。表立っては誰も言わんことを私は大声で言うつもりだ。ちょっとした十字軍を組織しようというわけだが、うまく行くかどうか、それはやってみなければ分からぬ……」彼は自分の言葉に興奮し、怒りがまた戻ってきた。次第に声のトーンを上げながら彼は続けた。「ああ、そうとも、スキャンダルになると脅すのがあんたのやり方だ。だがこの私には通用せんぞ。あんたは訴訟を起こすと私を脅す……いいとも、裁判で争おうではないか。よ...2-II-6

  • 2-II-5

    おいおい、そいつぁなしにして貰いたい、淑女専門の仕立て屋さんや!自分の妻がしでかした愚行により貴殿に対し支払い義務があると考える馬鹿な夫も世の中にはいるかもしれないが、私はその手の人間ではない。私はマダム・トリゴーに毎月八千フランの衣装代を与えている。適切な額だ。妻はその範囲でなんとかやって行くべきで、貴殿もそうだ。去年、妻の未払い分四万フランを清算したとき私はどう言いましたかな?今後妻の借金は一切承認しない、と言いませんでしたか?口でそう言っただけではない。私のところの門衛から貴殿にその旨はっきり通告させた筈です」「そう、覚えておりますよ……」「それなのに、そのような請求書で私を脅すとは!貴殿が口座を開いたのは私の妻のでしょう。なら、妻のもとに押しかければいいでしょう。私は放っておいて貰いたい!」「男爵...2-II-5

  • 2-II-4

    喫煙室の中のパスカルは凍りついたように佇立していた。ファン・クロペンの厚顔無恥の極致には感嘆を覚えるほどだった。これらすべての品物を注文した奥方の狂気の沙汰、及びその支払いをすることになる夫の我慢強さにも。やがて、果てしなく思われた読み上げも終り、クロペンが言った。「以上、でございます」「以上、ですわよ」と男爵夫人が木霊のように続けた。「有り難き仕合せだ!」男爵が言った。「つまりこういうことだな。この後四カ月もすれば我が奥方の肩には七百メートルほどの絹、天鵞絨、サテン、モスリン等々が着せかけられることになる、というわけだ」「今日のドレスは潤沢に生地を使いますもので……。男爵閣下にもご理解いただきとうございますが、バイアステープ、ルーシュ、裾飾りなどは……」「おお、そうだろうとも!で、総額二万七千フランとな...2-II-4

  • 2-II-3

    彼は出来る限り物音を立てないように注意しながら、話されていることを一言も洩らすまいと耳をそばだてた。今話しているのは女で---男爵夫人であろう---その澄んだ冷淡な声は苛立ちを懸命に抑えようとして抑えきれないのか、震えていた。「パリで指折りの金満家の妻であっても何の意味もないわね。必要な物を買うのに、こんな風にいちいち難癖をつけられたり、出し惜しみされたりするのではね」次に男の声が聞こえてきたが、ドイツ語訛りときつい発音により、オランダ出身のファン・クロペンのものと分かった。「そうですとも。ぜぇったいてきな必需品です。それに、お怒りになる前にですね、男爵閣下、わたくしの一覧をお調べになっていただきたいもので……」「要らぬ!そんなものはうんざりだ!くだらん議論に時間を費やしている暇はないのだ。ホイスト(トラ...2-II-3

  • 2-II-2

    「で、ファン・クロペンの方は?」「ああ、あっちの方じゃこんな修羅場には慣れっこさ。さんざん罵倒されても、水から上がってきたプードルみたいにブルブルと耳を振り回したらそれで仕舞だ。旦那様の事なんざ気にしないさ。だって商品はもう売りつけてあるんだ……いつかは払わなきゃならねぇ」「なんだって!じゃまだ払ってないのか?」「さぁね。やっこさん、まだ居るよ」この教訓的なやり取りの間にガチャンと皿の割れる大きな音がした。「ほうら、来なすった」と制服を着た従僕の一人が言った。「二、三百フランもする皿を割りなすったぜ。さすがは旦那様だ。うっぷん晴らしにそんだけの値をつけられるには金持ちじゃなきゃならん、ってことだよ」「しっかしなぁ!」ともう一人が言った。「もし俺が旦那様だったら、良い気分じゃねぇなぁ。自分の女房が男の仕立て...2-II-2

  • 2-II-1

    II.トリゴー男爵邸の内部は、その豪華さにおいて外観の威容に引けを取らぬものだった。玄関からして、百万長者であるその主人が気まぐれには金に糸目を付けぬ趣味の持ち主であることは明らかだった。玄関ホールは高価なモザイクが敷き詰められ温室と化していた。毎朝ここには新しい花々で一杯になるのだった。珍しくも奇妙な植物が純金のトレリスを這い、その後は壁をつたわり天井から古代中国の陶器の花瓶へと垂れ下がっていた。そしてその緑の葉の隙間からは著名な彫刻家の手になる大理石の像が姿を見せていた。ニスを塗った籐の長椅子はまるで古ぼけたベンチみたいに見えたが、その上に座った二人の大男の従僕はたった今鋳造所から出てきたばかりの金貨のようにピカピカの身なりをしていた。彼らはちょうど顎も外れんばかりの大あくびをしているところだった。「...2-II-1

  • 2-I-8

    男爵はヴィル・レヴェック通りに住んでいた。彼の住まいはその界隈で最も広く豪壮な建物の一つで、幸運な実業家、悪賢い金融家、鉱山の所有者といった存在を匂わせる場所だった。その贅沢さはパスカルの度肝を抜いた。このような豪邸に住んでいる人間が一体どうやってダルジュレ邸のテーブルで賭けゲームをして楽しめるのか、と不思議に思わずにいられなかった。その邸に到着すると、召使いが五、六人中庭でぶらぶらしていた。彼はそのうちの一人の方にまっすぐ歩いて行き、帽子を手に持って尋ねた。「トリゴー男爵は?」相手はまるでトルコ皇帝の名を聞いたかのように、酷く驚いて彼をじろじろと眺めた。その驚き方に彼は自分が間違ったかと思い、重ねて尋ねた。「男爵はここに住んでおられますよね?」相手は大きな声で笑った。「ああ、そうだとも」と彼は答えた。「...2-I-8

  • 2-I-7

    彼女は一言も返さなかったが、心の中で神に感謝した。母なればこそ、彼女は息子の中に躊躇と気力の萎えを感じ取り不安になったのだったが、今や思う通りの息子になった……。事実パスカルは自分の気の弱りを反省し、感情に流されてしまった自分に腹を立てていた。その償いとして、これから五、六日はヴァントラッソン夫人にあれこれ問い質さないことを自分に課した。もし彼女がなんらかの不審を抱いたとしても、それだけ日を置けばほとぼりを冷ますのに十分であろう。朝食の間、彼は言葉少なだったが、それは彼が早く戦いを始めたくてじりじりしていたからだ。行動を起こしたいと思うものの、どのような戦い方をすればよいか、を自問していた。何より肝要なのは、敵の位置を探ること、これから事を構える相手をよく知ること、とりわけド・ヴァロルセイ侯爵及びド・コラ...2-I-7

  • 2-I-6

    「あなたはマルグリット嬢の過去を正確に知っているの?知らないのね……あなたが知っているのは、彼女のこれまでの人生が波乱に富んだものだったということだけ……そういうことであれば、彼女がいろんな中傷に曝されるのは当たり前のことだわ……」パスカルを前に、このように堂々と自分の考えを表現することが出来るのはフェライユール夫人だけであった。「ならば、お母さん」とパスカルははっきりと言った。「ヴァントラッソン夫人を遮ったのは間違いでしたね。おそらく彼女はいろんなことを教えてくれたでしょうに……」「ええ、確かに私は彼女を遮りました。そして追い払いました……あなたには何故だか分かっている筈です。でも彼女が私達のもとで働くことになった今、あなたが冷静でいれば、あなたが理性を失わなければ、いくらでも彼女に喋らせることが出来ま...2-I-6

  • 2-I-5

    しかし可哀想な息子の方は彫像になってしまったかのようだった。彼が返事もしなければ身動きもしないのを見て、夫人は厳しい調子で続けた。「あなたの決意や誓いとはこの程度のものだったのですか!あなたは立派にやり遂げてみせるとはっきり言いましたね。忍耐、策略、そして敵に悟られないことが必要な難しい仕事を。それなのにちょっと思いがけない事態が出現した途端、あなたは冷静さを失い、すっかり動転してしまう。私がいなかったら、あなたはあの女の前で正体を顕わしてしまっていたわ。私たち復讐は諦めねばならないわね。そしてド・ヴァロルセイ侯爵にむざむざと勝利を収めさせるのよ。もしあなたの顔が今みたいに開けっぴろげなままならね。あなたの顔をみれば考えていることが丸わかりよ。まるで開かれた本を読むようにね!」パスカルは絶望的な身振りで頭...2-I-5

  • 2-I-4

    この名前を聞いたとき、パスカルと母はハッと身体が震えるのを抑えることが出来なかった。しかし、フェライユール夫人は懸命に無関心を装って聞いた。「ド・シャルース様、ですって?」「ええ、ええ、そうでございますよ、伯爵の。あまりにもお金持ちなもんで、ご自分の財産がどれくらいか把握することも出来ないぐらいで……。もしあの方が御存命でしたら、あたしも人様の家で家事労働をするところまで身を落とすこともなかったでしょう……でもあの方は亡くなられ、今日埋葬が行われる筈です……」彼女は仄めかしたっぷりの笑みを浮かべ、それから秘密めかした調子で言った。「昨日ド・シャルース屋敷に行ったんですよ、金銭的援助をお願いしにね、そのとき伯爵が亡くなったことを知らされたんです。ヴァントラッソンが、あたしの亭主ですがね、一緒に行ったんですが...2-I-4

  • 2-I-3

    そして双方がせめぎ合うのもこの点である。料理女が威丈高にこの合法的な盗みを沈着に主張すると、雇い主側は遠慮がちに異議を唱えることになる。「買い物は私がします」とフェライユール夫人は大胆にも宣言した。「それでしたら」とヴァントラッソン夫人は切り返した。「三十フラン頂きます」パスカルと母は目で相談し合った。このがみがみ女を二人とも同じように気に入らなかった。こんな女は追っ払ってしまえばいい、造作もないことだ、と二人は結論した。「それは高すぎます!」とフェライユール夫人は言った。「私は今まで十五フラン以上支払ったことはありません」しかしヴァントラッソン夫人は、おめおめと引き下がる人間ではなかった。この口を逃してしまったら、次のを見つけるのは容易ではないと分かっていたからだ。彼女を自分の家に雇い入れようなどと思う...2-I-3

  • 2-I-2

    「俺は歯を食いしばって戦わねばならぬ。それが義務だからだ」彼は呟いた。努力が実らぬことを予見している男の口調であった。それでもなんとか立ち上がり、着替えたとき、部屋のドアをそっと叩く音が聞こえた。「私よ、パスカル」と外からフェライユール夫人の声がした。パスカルは急いでドアを開けた。「いま下にヴァントラッソン夫人という人が来ているの。あなたが昨夜言っていたお手伝いの人よ。正式に雇い入れる前にあなたの意見を聞いておきたいと思って」「ということは、その人はお母さんの気に入らないんですね」「会ってみて欲しいのよ」彼が下に降りていくと、一人の太った女がいた。顔は青白く、薄い唇で伏し目がちだったが、彼にばか丁寧な挨拶をした。これは確かにあの『高級家具付き貸し間』の女主人その人だった。朝のうちの暇な三、四時間は外で働け...2-I-2

  • 第2部 マダム・ダルジュレ I-1

    第二部マダム・ダルジュレI.復讐!邪悪にして不当な仕打ちを受けたとき、最初に心に浮かぶ考えはこれしかない。奸計をもって仕掛けられた罠にはまり、名誉、財産を失い、現在ばかりか未来も、更に希望さえも消え去ってしまったのだ。このようにして被った苦痛を和らげるのは、それを百倍にして返してやるという思いしかない。この思いに取りつかれると、最初はどんなことでも可能に思える。憎悪が怒涛の如く頭に押し寄せると同時に鬱勃たる憤怒が口角に溢れ、いかなる障害も打ち倒さずにおくものかと息巻く。というよりむしろ何物も目に入らなくなるのだ。現実と夢想を隔てる深淵を、そして計画の実行可能性を測り始めるのは理性を取り戻した後だ。その仕事に取り掛からねばならなくなると、意気を阻喪する多くの要因に気づく。情熱は去り、やがて諦める……。運命を...第2部マダム・ダルジュレI-1

  • 1-XXI-12

    それでもド・フォンデージ夫妻言うところの『可愛い大切な娘』がダイヤモンドを持参しないことを治安判事が彼らに伝えると、彼らの顔に隠しようのない渋面が浮かんだ。「ふんっ!」と将軍は不満を思わず口にした。「こういうところにあの父親らしさがよく表れておる!慎重に処すべきというわけだな。間違いない!まぁったく御丁寧なことだ。やりすぎだ、むしろ」しかし治安判事が、おそらく裁判所ではダイヤモンドを返却する決定がなされるであろう、と話すと、彼の顔は晴れやかになり、自らマルグリット嬢のトランクや身の回り品などの荷物を監督するために階下に降りていった。そこではカジミール氏が邸の荷馬車の一台に荷物を積み込ませているところであった。やがて出発の時が来た。マルグリット嬢は召使いたちの別れの挨拶に応えた。彼女から解放されることに召使...1-XXI-12

  • 1-XXI-11

    その住所の一覧を見せて貰えないかと彼女は治安判事に頼んだ。そして嬉しいことに、Fの項目に次のような記載事項を見つけた。『フォルチュナ(イジドール)、よろず相談屋、ラブルス広場二十八番地』「ああ、これでパスカルが見つけられると確信が持てましたわ!」と彼女は叫んだ。今一度判事にお礼を述べた後、心に生まれた大きな希望を隠し、出来る限り打ちのめされた様子を装って彼女は自分の部屋に戻っていった。「まぁ何て長く掛かったんでしょう!」とド・フォンデージ夫人が言った。「いろいろとご説明しなければならないことがあったものですから」「辛い目に遭うわね、可哀想に!」「ほんとうに酷いものですわ……」この言葉はごく自然に、夫人の先ほどからの忠告へと話を戻すきっかけとなった。しかし、マルグリット嬢の方でもそう簡単には説得されず、さん...1-XXI-11

  • 1-XXI-10

    こうなれば後は、マルグリット嬢が出発する際の状況を整理するだけだった。彼女は見事なダイヤモンドをいくつかと高価な宝石類を所有していた。それらを持って行くべきか?「それらは確かに私のものです」と彼女は言った。「でも、泥棒の疑いをかけられた後では、それらを持って行く気にはなれません。それで判事様、私が常日頃身に着けているものを除いて、あなた様にそれらをお預けしたいのです。後日、裁判所が私に返還を決定したら、そのときは私の手に戻ることになるでしょう。恥ずかしげもなく言ってしまえば、そうなれば嬉しく思います」治安判事はマルグリット嬢の当座の生活費や資金のことを気遣った。「あぁ、お金なら持っています」と彼女は答えた。「ド・シャルース様は大層気前の良い方でしたし、私はと言えば、極めて質素な趣味です。この六か月足らずの...1-XXI-10

  • 1-XXI-9

    治安判事の口調に圧倒され、マルグリット嬢は放心したかのようにじっと聞き入っていた。「私に忘れろと忠告なさるのですか……」と彼女は弱弱しく言った。「忘れろと仰っているのですか!」「そうです!貴女が心に抱いている至極尤もな疑い、それを貴女は胸の奥深くに隠しておかねばならぬのです。悪人どもを追い詰めて罪を白状させるだけの証拠を十分集めるまでは……確かに、あの金が横領されたという動かぬ証拠を掴むことは困難なことでありましょう……が、不可能ではない。時間を掛ければ、犯罪のほころびはきっと顕れるものです……私が長年の経験から得た力の及ぶ限り貴女を助けます……私を信用なさい……。寄る辺ない娘を救う道がありながら、私が見殺しにしたなどとは誰にも言わせぬ!」マルグリット嬢の長い睫毛の間に、今はしみじみとした優しい涙が揺れて...1-XXI-9

  • 1-XXI-8

    「まぁ、そうですわ!」と彼女は叫んだ。「私って何て馬鹿だったんでしょう!そんなこと、考え付きませんでした。あぁ、なんという悪辣な女でしょう!それなのに問いただして白状させることも出来ないなんて!真実を突き止めた後でも、以前と同じように彼女に接しなければならないなんて、なんと呪われた状況でしょう!」治安判事は自分の任務から気を逸らされるようなことはなかった。「ド・フォンデージ夫人のことに話を戻しましょう。そのやり取りの内容をまとめてみると、こういうことですかな。夫人は貴女が世間に出て行くのを極端に恐れている。それは愛情のためか?いや、そうではない。では何故か?それを探らねばなりません。次に、貴女が彼女の家に行くか、あるいは修道院に入るか、どちらでも良いと考えているようだ」「どちらかというと修道院に入れたがっ...1-XXI-8

  • 1-XXI-7

    彼はゆっくりと部屋に入ってきた。いつものように温厚な笑みを浮かべていたが、彼の鋭い目はじっとド・フォンデージ夫人に注がれていた。彼は挨拶をし、礼儀正しい言葉を口にした後、マルグリット嬢に向かって言った。「お嬢さん、貴女と今すぐお話しせねばなりません。ですが、十五分ほどで済みます。その後こちらの奥様のもとに戻られると仰ればよろしいでしょう」マルグリット嬢は判事の後に従い、故ド・シャルース氏の書斎に入った。ドアが閉められると老判事が言った。「貴女のことを随分考えていましたよ、そう、たっぷりと。で、貴女にいくつかの点を説明せねばなりません。しかしその前に聞かせてください。わたしが帰ってから何がありました?」「ああ、判事様、とても多くのことが起こりました」それから彼女は簡潔にではあるが非常な正確さで、この二十四時...1-XXI-7

  • 1-XXI-6

    マルグリット嬢は頭を垂れたまま何も言わなかった。『将軍夫人』の本心をさぐるには、相手に大いに喋らせておくのが唯一の方法であろうと考えたのだ。沈黙はド・フォンデージ夫人を不安がらせたようであった。彼女は再び口を開いた。「人生にはいろんな困難や危険が付き物ですよ。そんなものに一人で立ち向かうなんてこと考えられて?ああ、私にはそんなこと考えられない!そんなこと、狂気の沙汰だわ。いいこと、貴女みたいに若くて、綺麗で魅力的で、素晴らしく才能のある娘さんが、一人で自立して生きていくなんてこと不可能よ。清く正しく生き抜いて行くだけの強さが貴女にあるかしら?世の中は貴女の高潔さを認めてはくれないものよ。たった一人で生きている女の子の身持ちが良いとは誰も思ってくれないわ。そんなの偏見だ、と貴女は言うでしょうけれど……そうい...1-XXI-6

  • 1-XXI-5

    彼が自分でその号令を掛けることを口にし始めたとき、ド・フォンデージ氏が現れた。それから棺覆いの紐を持つ役目の故ド・シャルース氏の友人たちが進み出、豪華な葬儀馬車が動き出した。ちょっとした混乱があったが、いよいよ葬列が進み始めた。しいんと鎮まり返った中に、舘の門がひとりでに閉まる際のギイッという音が陰気に響いた。「さぁ行きましょう」フォンデージ夫人が呻くように言った。「すべては成し遂げられました(十字架上でキリストが最後に言ったとされる言葉)」マルグリット嬢は言葉では答えず、悲しみに沈んだ身振りを示しただけだった。声を出すことさえ出来なかった……涙で喉が塞がっていたのだ。彼女は一人になりたくて堪らなかった。そうすれば身を切るようなこの感情に身を任せることができるのに。だが、こんなときでも慎み深さが彼女を縛り...1-XXI-5

  • 1-XXI-4

    マダム・レオンが予め侯爵に、ド・シャルース氏の葬列参加者の第一陣の一人として来てくれるよう頼んでいたことは明白であった。それでいま彼にド・フォンデージ夫人の存在を警告しに行ったのだ。こういったことは実に些細なことであった。しかし人生を決定することになるのは往々にしてこのような些事である。そしてマルグリット嬢にとっては、闇の中に見出す光のようなものであった。か細い手がかりではあっても、それを手繰っていけば真実に辿り着くことが可能かもしれない。今の出来事はフォンデージ夫妻とド・ヴァロルセイ侯爵の利害が対立していることを彼女に教えた。従って彼らは互いに激しく憎み合っているに違いない。辛抱強く機会を窺っていれば彼らが互いに攻撃しあうようにもって行けるかもしれない……。それに、マダム・レオンがスパイとして仕えている...1-XXI-4

  • 1-XXI-3

    相手から何の反応も得られなかったので、悲しみに威厳を添えて彼女は付け加えた。「今すぐに私たちをお頼りなさいとは言いませんわ、愛する可哀想な子……信頼というものは長い時間をかけて互いに敬意を持つことによって初めて生まれるものです。貴女にもそのうち私という人間が分かってくるでしょう。そしてお母さんという優しい名前で私を呼んでくれるでしょう。私がその名にふさわしい人間だということが分かったらね……」将軍は少し離れたところに立ち、自分の有能な妻が何をやってのけるか十分分かっている夫として、惚れ惚れと妻を眺めていた。「これで氷が融かされたぞ」と彼は思っていた。「アテナイスの手にかかれば、あの社交嫌いの無作法娘を丸め込むことなど造作もないことだ!」彼の希望的観測は彼の表情に顕れていたので、横目で彼の様子を窺っていたマ...1-XXI-3

  • 1-XXI-2

    ド・フォンデージ夫人は全くそんなことはなかった。彼女は文字通り、また法律的な意味でも貞節な妻であった。だがそのやり方たるや、まるでかたき討ちでもしているようだった。確かに彼女は道徳的に正しい行動を取る女性であったが、あまりにも猛烈だったため、それは彼女のもともとの性格のようには見えず、彼女自身後悔しているようにさえ見えた。彼女は夫を、まるで黒人奴隷のように、指先や目で厳しく情け容赦なく操っていた。そして夫の方でも、外では尊大に振る舞い、ヴィクトル・エマニュエル風の口髭を得意そうに捻り上げ、酔っ払った軽騎兵も顔負けの悪態を吐くくせに、妻の前では子供のように従順に、羊のようにおとなしくなるのだった。妻があるやり方で彼の前に立ち、ナイフの刃より冷たい光を湛えた淡い青い目を向けるとき、彼は震えた。妻に口答えでもし...1-XXI-2

  • 1-XXI-1

    XXIマルグリット嬢は飛び上がった。憤慨で身体に生気が漲った。目はきらりと光り、唇を震わせ、うっとりするような身振りで頭を左右に振ると、見事な黒髪が肩の上に乱れ落ちた。彼女の内でいろんな感情---猜疑心、怒り、憎しみ、それに軽蔑---が高まり、張り裂けんばかりに胸が膨らんだ。「ああ、マダム・ド・フォンデージがここに」彼女は皮肉の中に威嚇を込めて繰り返した。「いらしてますのね。あなたの奥様が!」あの見え見えの甘ったるい言葉を並べた手紙を昨夜寄こした夫人、ひとりぼっちになった自分の悲しみに付け込む卑怯者の共犯者。そんな女を迎え入れなければならないと思うと彼女は嫌悪感で一杯になった。良心もなければ羞恥心もない、そんな女が、盗まれたと思っている大金を息子に与えようと卑屈な笑みを浮かべてすり寄ってくる、と考えただけ...1-XXI-1

  • 1-XX-15

    ついに九時半少し前になったとき、マダム・レオンが叫んだ。「いらっしゃいました!お嬢様、聞いてらっしゃいます?将軍がいらっしゃいましたよ」一分後、つまり階段を二段抜きで上がってくるのにちょうどそれだけ掛かったわけだが、部屋のドアをそっと叩く音がして、家政婦がドアを開けると、ド・フォンデージ氏が姿を現した。氏の言葉を借りると『りゅうとした』礼服に身を包んでいる。「いやいや遅れてしもうたわい!」と彼はまず言った。「これはしたり!しかし、これはわしの所為ではない!」彼はじっと動かずにいるマルグリット嬢に驚き、彼女の方に進んできた。そして彼女の手を取りながら言った。「しかし、可愛いマルグリット、一体どうしたのだ?身体の具合でも悪いのか?顔色が恐ろしく真っ青だ」彼女は殆ど麻痺しているような無気力状態に陥っていたが、そ...1-XX-15

  • 1-XX-14

    こういった些事の一つ一つが、煮え湯を傷口に注ぐように、彼女の心を苛んだ。しかし、この二日間で散々苦しみを味わってきたので、彼女は一種の無感覚の状態に達していたため、彼女の五感は機能を停止したかのようだった。まるで彫像のように蒼白になり、肘掛け椅子に座るというより、倒れ込んだ。彼女の後をついて来て、せわしなく動き回り、話しかけるマダム・レオンにも気づかないほどだった。しかしこの家政婦の方は不安気で、それも無理もないことだった。ド・シャルース伯爵に血縁者がいないということで、彼の最も古くからの友人であるド・フォンデージ氏が喪主となり弔問客を迎える手筈になっていた。彼は、軍服に身を固め必ずや早朝に参る、武人に二言はない、と宣言していた。ところが、葬式の始まる予定の時刻が近づき、弔問客が既に何人か姿を見せ始めたに...1-XX-14

  • 1-XX-13

    このような嘆かわしいブローカーに近づいてこられる人こそ気の毒である。大切な人を喪い、心は千々に乱れている。そんなときには何を言われても上の空だ。業者の方ではこのときとばかり香具師の口上よろしく一言片句も惜しまずセールス・トークを開陳する。これで商売が上手く行かない訳があろうか?カジミール氏に対しては、上々の首尾であった。治安判事からすべてを一任されていたので、彼は門番のブリジョー氏に告げたごとく、『盛大な葬儀を執り行う』のがふさわしいと判断した。とはいっても、誰にも話さなかったが、仕事を契約したブローカーたち全員から、彼は正当な手数料を請求した。シュパンに回してやると約束した百フランなにがしかの金が、彼にやる気をおこさせたのだ。それでもしかし、すべてが盛大に行われるべく彼は手間を惜しまなかった。中庭での作業が終...1-XX-13

  • 1-XX-12

    パスカルにあのおぞましい汚名を着せたことで利益を得るのは一体誰なのか?ド・シャルース伯爵の突然の死を度外視すれば、そしてマルグリット嬢のパスカルへの揺るぎない愛情を度外視すれば、だが。答えは明らかにド・ヴァロルセイ侯爵だ。パスカルがいなくなれば彼の独壇場となるであろう……。このような思いが次々と浮かんできてマルグリット嬢の目を冴えさせ、なかなか眠れなかった。しかし彼女は二十歳であり、その日は気を動転させるような出来事が起きた日であり、しかも二晩目であった。疲労が彼女を包み込み、ついに彼女は眠り込んだ。翌朝七時ごろ、マダム・レオンは深い眠りからマルグリット嬢を目覚めさせるため、彼女の体を揺さぶらなければならなかった。「お嬢様!」と彼女はとっておきの一番優しい声音で言った。「お嬢様ったら、早くお起きになってください...1-XX-12

  • 1-XX-11

    彼女の考えでは、この扉のところまで来てマダム・レオンと話をする人間といえば、ド・フォンデージ氏かド・ヴァロルセイ侯爵のどちらかしかあり得ない……つまりマダム・レオンはスパイとして雇われ、自分の言動を事細かに報告する命令を受けているのだ……。最初に浮かんだ感情は怒りであった。そしてあの性悪女の計画を挫き、追い出してしまおう、と思った。しかしド・シャルース伯爵の寝室まで戻る間に、ある考えが浮かんだ。狡猾な外交官も顔負けの策である。マダム・レオンの素性が明らかになった今、もはや彼女は恐れるに足りぬ存在であると考えた。然らば、彼女を手放す要などないではないか!こちらは見破っているが自分では何も気づいていないスパイは、役に立つ道具として使えるだろう。「あの性悪女を利用することが出来ない筈ないわ」とマルグリット嬢は思ってい...1-XX-11

  • 1-XX-10

    口先ばかりのマダム・レオンが、何らかの方法で自分を陥れようとしていることを彼女は疑わなかった。彼女に分からなかったのは、マダム・レオンがどのように自分に害を及ぼすことが出来るのか、ということだった。彼女は長いことあれこれと推測を重ねていたが、突然あることを思いついてハッと身体を震わせた。庭にある小さなくぐり戸のことを思い出したのだ。「あの嘘つき女はあそこから外に出たに違いないわ」と彼女は考えた。確かめてみるのは簡単なことだった。庭の小さな扉は締め切りになっていたというわけでもないが、最後に使われてから何か月も、あるいは何年も経っていると思われた。ごく最近その扉が使われたかどうか調べてみるのは造作もないことだ。「一時間以内に確かめてみせるわ!」と彼女は自分自身に言い聞かせた。こう決心すると彼女はうとうとしている振...1-XX-10

  • 1-XX-9

    マルグリット嬢は騙されなかった。彼女はこう思っていた。「何か言語道断な振る舞いの証拠がここにあるわ」しかし、彼女は疑心を外に表さない自制心を保っていた。この家政婦がでっち上げた嘘を見破ってはいたが、彼女はそれを信じたふりをした。「まぁ、そうだったの、可哀想なレオン」彼女はあっさりと言った。「貴女ったら怖がり屋さんね。恥ずかしいわ」マダム・レオンは首を振った。「恥ずかしいところをお見せしたことはよく分かっておりますの」と彼女は答えた。「でも、どうしようもないでしょ、お嬢様、やってしまったことは取り返しがつきませんもの。怖いって思ったら、理屈じゃないんですよ。何か白い物が確かに見えたんです。今ここでお嬢様の顔を見るぐらいはっきりと。あれは一体何だったんでしょう?」自分の吐いた嘘がまんまとまかり通ったと思った彼女は話...1-XX-9

  • 1-XX-8

    「こんな時間に?」「ええ、ええ、そうですとも!でも好き好んでじゃありませんですよ。そんなことがある訳ございませんでしょ!あ、あの、わたくし、ちゃんと目が見えなくなって、その、困ってしまったんですのよ……」言い訳をしなければならないのだが、彼女はまだ何も思いつくことが出来ず、必死に探していた。時間稼ぎをしようと意味不明の言葉を呟きながら、何か知恵を授けてくれと天に祈っていた。「さぁ、どういうことなの?」じれったそうな口調でマルグリット嬢は詰め寄った。「何故外に出ていたの?」「そ、それはですね、こういうことでございますのよ。つまり、その、ミルザが庭で吠えている声を聞いたように思ったんでございます……ほら、家の中は上を下への大騒ぎになっていますでしょう、皆があの子のことを忘れてしまったんだと思ったんですの。それでもっ...1-XX-8

  • 1-XX-7

    もう真夜中近かった。部屋の中で人の動く気配がし、衣擦れの音が聞こえたので彼女は振り返った。マダム・レオンが部屋から出て行ったのだった。そして一分も経たないうちに玄関から庭に通じる大きなガラス扉がガタンと閉まる音がした。それはごく当たり前の何でもないことのようにも思えたが、マルグリット嬢は漠然とした胸騒ぎを覚えた。何故だか、その理由は自分でも分からなかったであろう。しかし、それまで大して気にも留めて来なかった些細な出来事が突然脳裏に蘇り、何か不吉なことを意味しているように感じられた。そして彼女は、マダム・レオンが今夜中ずっと、ひどく気に掛かることがあるかのようにそわそわと落ち着きがなかったことを思い出した。普段の彼女は殆ど動くことがなく、何時間も肘掛け椅子にぐったり座っていることが多かったのに、今日は階段を上がっ...1-XX-7

  • 1-XX-6

    これらの推測は確かに状況に適合していた。しかし、かの治安判事が述べた意見とは食い違いがある。ド・フォンデージ氏は消えた数百万フランの行方を知っているであろう、というのが判事の見解であった。しかしマルグリット嬢は、この二十四時間、そういう食い違いについて考えようという気にはならなかった。それに彼女は冷静さを失っていた。金を横領したという疑いを掛けられたのである。その考えが頭の中をぐるぐる回っており、近づいてくる人間全員の目に疑いが読み取れるような気がしていた。ジョドン医師からド・ヴァロルセイ侯爵に至るまで。あの治安判事は確かに自分の味方をしてくれ、召使い達を黙らせてくれた。しかしそれだけで十分と言えるか?あの身の毛もよだつような非難を受け彼女の心は弱っていたが、それが少しでもましになるのか?自分が潔白だからといっ...1-XX-6

  • 1-XX-5

    今の時代、こういう深慮に富んだ立派な計算ずくの行為ほどありふれたものはないと言ってもいいぐらいだ。盗みは、まぁ放っておけ。だが汚いやり方だ。自分はそんなことはしない。わざわざそんなことをするものか。それに自分たちは善人なのだ。しかし、盗みの上前をはねて利益を得るとなると話は別だ。特に、何の危険も冒さずに済むことを思えば。するものか手紙をもう一度読み返してみると、マルグリット嬢は『将軍』と彼の妻がこの数百万フランの素晴らしいお宝の一部分をどのように手に入れるか、その方法を話し合っている様子が目に浮かぶように思った。ド・フォンデージ夫人が考え深げな様子で夫にこう言っている声が聞こえるようだった。『あなたったら、やり方が下手なんだから!あなたみたいにぶっきらぼうに性急な物言いをしたらあの子を怖がらせてしまうわ。幸いに...1-XX-5

  • 1-XX-4

    私の年齢に免じ、また母親として一家を支えてきた資格に免じて貴女に言わせてください。どうかお受けくださいませ。貴女の気高い賢明なお考えをもってしても、他にどんな選択がおありになるというのでしょう?何処に行かれるおつもりなのですか、親愛なるマルグリットちゃん?いずれにせよ、そのことについては明日お話いたしましょう。そうすれば私どもの真情を理解し、私どもを愛してくださり、私どもに貴女を愛させてくださると信じております。私にとって貴女は、亡くなった私の愛する娘の代わりとも思っております。あの可憐な優しいバティルドのため私はどれほど涙を流しましたことか……。では明日、お目に掛かります。貴女の一番の友として貴女を抱きしめさせてくださいませ。アテナイス・ド・フォンデージ』マルグリット嬢はこの手紙に驚き茫然とした。こんな手紙を...1-XX-4

  • 「ポルトン言行録 第二部」出版しました

    著者フリーマンも時計大好き人間だったのでしょう。少年ポルトンが時計の本に邂逅し夢中になるくだりは、とても創作とは思えませんでした。自分も時計を組み立ててみたい、という思いに駆られました。歯車というのはロマンを掻き立てられますね。というわけで「ポルトン言行録」、第一部だけで完結しているとも言えますが、二部構成なので最後まで訳してみました。今回の語りはソーンダイク博士お気に入りの弟子、おしゃべりでおっちょこちょい、性格は良いがちょっと抜けているジャーヴィス、なかなか良かったのではないでしょうか。以下のごとく、出版開始いたしました。「ポルトン言行録第二部」はこちらから「ポルトン言行録第二部」出版しました

  • 1-XX-3

    パスカルを見つけること、どんな場所であっても彼と一緒になること、いかなる運命であろうと彼とそれを分かち合うこと、それがマルグリット嬢の勇気が彼女に与えた尊厳ある命令であった。決心を固めてド・シャルース邸に帰ってきたとき、彼女はいつもの威厳のある平静さ取り戻した。そのようにして十分も経たないとき門番のブリジョー氏が上がってきて、今届けられたばかりだと言って彼女に一通の手紙を手渡した。こんな遅い時刻に、と少なからず彼女は驚かされた。名宛人は次のように書かれてあった。マルグリットお嬢様マルグリット・ド・ドゥルタル・ド・シャルースド・シャルース邸気付クールセル通りマルグリット嬢は赤面した。自分には名乗る資格のない名前で呼ぶのは一体誰なのであろう?彼女はしばらく筆跡を調べてみたが見覚えはなかった。女文字であったが、記憶を...1-XX-3

  • 1-XX-2

    しかし、マダム・レオンは人生のどんな局面にも適合する決まり文句を心得ていたので、それを用いて彼女を慰めに掛かった。「お泣きなさいな、お嬢様、思いきり泣いたら楽になりますよ……ああ、本当に、大変なことになりましたわねぇ……でも幸いなことに、お嬢様はまだお若うございます……時というのは偉大な癒し手でございますわ……フェライユール様だけが殿方というわけじゃありません……他にいくらも男の方はいらっしゃいます……お嬢様を愛する方も出てきましょう……もう既にそういう方がいるかも……」「お黙りなさい!」彼女は遮った。女たらしが胸のむかつくような言葉を囁くのよりもっと激しく気分を害していた。「お黙りなさい。これ以上一言も言ってはなりません」他の男とは!なんという冒涜!可哀想な娘!彼女は生涯ただ一人の男を愛するべく生まれてきた女...1-XX-2

  • 1-XX-1

    XX夜の十時頃、身体を震わせ心かき乱されたままマルグリット嬢はド・シャルース伯爵が息を引き取った寝室を後にし、ウルム通りのパスカル・フェライユール宅に向かった。将来に絶望するのはまだ早い、と思いながら……。しかしその思いも虚しく、生まれたときから容赦なく彼女を襲ってきた不幸はその追求の手を休めることがなかった。父親、恋人、名誉ある家柄、地位、安定、財産といったものを全て一瞬で失った……しかし、それが何だ!遥か彼方に灯台の灯りのようなものが霧に包まれぼうっとではあるが、彼女には垣間見えていた。幸福の兆しのようなものが。苦痛は感じていたが、自分の人生を一人の不幸な男にしっかりと結びつけることが出来るのだと考えると、ある苦いよろこびを感じてもいた。自分と同じように中傷され、不当な嫌疑を掛けられ、打ちのめされ、皆から排...1-XX-1

  • 2-19-7

    ここに至って、完全に虚偽の供述に出くわしたのだ。彼の話が真実である可能性がたちまち消し飛んだ。そしてその結果、ダブリンでのヘヤーはモックスデールであったことが確実になった。それで私は確信した。モックスデールがヘヤーを殺し、なりすましを実行したのだと。そこで私はタイミングを計り、不意を突くことで彼に自白させようとしたのさ。だからね、結局ハッタリの要素はそんなにはなかったのだよ」「そうでしたね」と私は認めた。「あれはハッタリじゃありませんでした。取り消します。証拠がそれほど完全に揃っているなんて気づきませんでしたよ。それにしても、あなたの質問はドラマチックな効果満点でしたね」「それが狙いではなかったのだよ」とソーンダイクは答えた。「私はどうしても正直に真実を話して貰いたかったのさ、他ならぬモックスデール自身のために...2-19-7

  • 2-19-6

    にも拘わらず、モックスデールは一見ありそうな作り話を我々に押しつけようとした。ブランディがその話を信じたかどうかは分からない。彼は信じたと言う。だが、ブランディはブランディだからね。確かに言えることは、彼は大いに当惑したということだ。モックスデールをここへ連れてきて我々に質問させようとしたことで、それが分かる。それに死体の身元に関し我々が知っていることをブランディは知らなかったということも斟酌せねばならない。私に関して言えば、あの話は一瞬たりとも信じなかった。全くの作り話に聞こえたし、何よりもあの話のどこを取っても確認のしようがない、という点は驚くべきものだった。謎のオグレイディなる人物は全く影のような人物で、彼について何も確実なことは分からず、調べることもできない。それから彼が恐喝していたということを裏付ける...2-19-6

  • 2-19-5

    というわけで、第四段階はヘヤーが火事を起こしたことがほぼ確定、彼がモックスデールを殺した可能性は高いが、殺そうと揉み合ううち自分の方が殺されてしまった可能性もある、という結論になった。そして二つのうちどちらが真実なのか、我々には知る方法がなかった。するとまたしてもポルトンが決定的な事実をもって事態を打開してくれた。ヘヤーは斑状歯を持っていてモールドンの出身だという事実だ。それを聞いた途端、私は焼死体の歯と、それらが斑状歯ではないかという自分の推測を思い出した。すぐさま私はモールドンで開業している歯科医師に連絡を取った。私とは全く面識がないにも拘わらず、彼は私に助力を惜しまなかったばかりか、斑状歯のワックス模型と、実験用にと斑状歯を数本送ってくれることまでしてくれた。それらの歯を私は詳しく調べ、ポルトンが引き延ば...2-19-5

  • 2-19-4

    この段階において、ヘヤーがモックスデールを殺害したという疑いが明確なものになった。尤も、まだヘヤーが火事を起こせた筈はないと思っていたので、いくらか不安がないではなかったが。それからポルトンの驚くべき発見だ。これで事態は急激に変化した。今や、ヘヤーが火事を起こすことが可能だっただけでなく、彼が実際にそれを行ったであろうことは殆ど確実だった。しかしこの新事実が他の事実にも影響を与え、その証拠能力を著しく高めたので、今やヘヤーのモックスデール殺しは疑いの余地のないものに思えた。しかしヘヤーの行方不明の謎は依然として解けないままだった。彼はポルトンの発見のことは知らないのだから、彼にとってすべては計画通り運んで、帰ってきても何の危険もない筈だ。それならば何故彼は姿を消したままなのだろう?伯父が死んだ今となっては彼の目...2-19-4

  • 2-19-3

    さて、これらを考慮した上でどんな結論が立ち現れてきたか?私もブランディも、これは殺人であると思った。私の暫定的な仮説は次のようなものだった。ヘヤーはモックスデールを殺し、殺人を隠すために放火をした。その殺人は前もって周到に計画され、準備されていた。そして何らかの理由で、ヘヤーは死体がセシル・モックスデールであると確認されるよう特別に注意を払った、と。これらが、さっきも言ったように、この事件のプラスの側面だ。では今度はマイナスの側面を見てみよう。私の仮説と矛盾する事実が二つあった。一つ目は、火災が起きたときヘヤーはダブリンにいた、しかも五日前から、という点。それは揺るぎないアリバイのように見えた。専門家や警察の把握している発火装置が存在した痕跡はなかった。五日間もの時間を経て発火させる装置なんてものが存在すること...2-19-3

  • 2-19-2

    さて、検死審問で得た一連の証拠とそれらが意味するものを考えてみよう。私には---そしてブランディの目にも---全体の印象は計画的放火と思えた。明確な目的を持って予め準備された放火だ。そしてセシル・モックスデールの死がその計画の一部のように思えるところから、---もしも計画というものがあるとしたらだが---それが放火の目的だと考えるのは妥当なことだろう。私が放火を疑った第一の理由は、準備の形跡があったことだ。問題の部屋は極めて引火性の高い物質で一杯だった。しかし最も疑念を掻き立てられたのはヘヤーからグリーンに伝えられた情報だった。それはまるで火事が起こるかもしれないぞという疑いをグリーン氏に植え付けるため---実際そうだったわけだが---のように思われた。しかしそれだけではなかった。実際に火事が起きた場合、すぐに...2-19-2

  • 2-19-1

    第十九章ソーンダイク博士、事件を振り返る「すばらしいフィニッシュでしたね、驚くべき事件の」訪問客たちが階段を降りていく足音が遠ざかるのを聞きながら私は感想を述べた。「そして、我が敬愛する先輩のハッタリが見事に決まった一件でしたね」ソーンダイクは微笑し、ポルトンは、何ということを、という顔をした。「君の表現に異議を唱えるつもりはないよ、ジャーヴィス」とソーンダイクが言った。「しかし、結論は殆ど必然と言ってもいいくらいだったさ」「正解である確率が高かった、でしょう」と私は訂正した。「現実場面においては」と彼は答えた。「確率が最高値のときには必然と言ってもいいのさ。もし君がこの事件の証拠事実を全体として見るならば、ただ一つの結論しか可能でないことに同意すると思うよ。ハッタリの要素は殆ど入り込む余地がない、とね」「まぁ...2-19-1

  • 1-XIX-18

    彼はすぐさま歩道に飛び降り、フォルチュナ氏を手助けして馬車の中に座らせ、その後自分も乗り込んだ。「ラ・ブルス広場二十七番地へ!」と御者に一声掛けると、馬車は走り出した。あんなにも喜びに満ち自信満々だったフォルチュナ氏がかくも絶望に打ちひしがれている様子を見るのは実に痛ましい限りであった。「ああ何もかも終わりだ……」と彼は呻いた。「金を奪われ、身ぐるみ剥がれ、破滅だ……確実な案件だったのに……不幸は俺だけにやって来る……誰か他の奴に出し抜かれた……他の奴がお宝をそっくり手にする……ああ、そいつが誰か分かっておれば、くそ、分かってさえおれば!」「ち、ちょっと待ってくださいよ、ボス」とシュパンが遮った。「あっしが知ってます、そいつを!」フォルチュナ氏は身体をびくっと震わせた。「そんな馬鹿な!」「いや、そうなんすよ、ボ...1-XIX-18

  • 1-XIX-17

    もし天井が崩れてフォルチュナ氏の頭の上に降りかかってきたとしても、これほど悲惨な状態に彼を陥れることはなかったであろう。彼は口をぽかんと開け、目には激しい狼狽の色が浮かび、茫然自失の態であまりにぺしゃんこになっていたので、ウィルキー氏はどっと笑いだした。それでもフォオルチュナ氏は必死に態勢を立て直そうとした。しかし溺れる人間と同じで、無闇に水を飲んで流されるばかりだった……。「い、いや、私に説明させて下さい」と彼はもごもごと言った。「ど、どうか……」「ああ、もう無駄ですよ……僕は自分の権利を知ってます。いいですか、もう既に口頭での交渉は終えて、明日か明後日、合意書に署名することになっているんです……」「誰との合意書ですか?」「ああ、それは、個人的な事柄なんでね」彼はココアを飲み終え、コップに冷水を注ぐと、それを...1-XIX-17

  • 1-XIX-16

    壁には額絵は一枚もなく、あるのは立派な馬の写真ばかりで、それらは所有者の紳士が競馬で第八位に入ったことを物語るものであった。それらを見たフォルチュナ氏の顔に微笑が浮かんだ。「ははぁ、君は」と彼は思っていた。「いわゆる見栄を張りたがる御仁の一人のようだな。私の手に掛かればいちころだ……」少年の召使いが戻って来て言った。「主人は食堂にいます。どうぞこちらへ……」フォルチュナ氏はそちらへ向かった。するとたちまちウィルキー氏と顔をつき合わせる格好になった。相手は朝食のココアを飲んでいた。ウィルキー氏は起床していたばかりでなく、頭のてっぺんから足のつま先まできちんと服装を整えていた。それはもう見事ないでたちで、どこかの大家の馬丁と見紛うほどだった。ほんの数時間眠っただけで彼はすっかり元気になっていた。彼の性格のもっとも顕...1-XIX-16

  • 1-XIX-15

    彼は満足のあまり、思わず次のような思い上がった独り言を口にした。「そうとも、成功しない筈があるか?これほど簡単でかつ素晴らしい結果をもたらすものが他にあるかってんだ……俺は好きなだけ搾り取ることができる。十万、二十万、いや三十万フランも可能だ!ああド・シャルース伯爵はよくぞ死んでくれた……こうなりゃヴァロルセイも許してやろうじゃないか……俺の四万フランはくれてやる……マルグリット嬢と結婚でも何でもするがいい、子宝に恵まれることを祈るよ……マダム・ダルジュレに幸いあれ、だ!」彼は自分の先行きが上々だとすっかり思い込んだので、正午になるとシュパンと共に辻馬車に乗り込み、ウィルキー氏に知らせなければならぬ、と宣言して彼の家へ向かった。エルダー通りに到着すると、彼は今一度シュパンに馬車の中で待つようにと命じ、家に入ると...1-XIX-15

  • 1-XIX-14

    彼が急いでいたには理由がある。今日は日曜だったからで、フォルチュナ氏は殆ど毎日曜田舎に出かける習慣があり、彼に会えないかもしれないと怖れたからだ。ラ・ブルス広場までずっと走りながら、シュパンは頭の中で話すべき内容を考えていた。そして『真実をすべて話すことは必ずしも得策ではない』という格言の意味をよくよく吟味した。あのレストランでの場面のことを報告すべきだろうか?コラルトの名前を出して、ウィルキー氏には何も教える必要はないのだということを言うべきか?熟考の末、やめておくことにした。もし言えば、フォルチュナ氏はこの件から手を引く決心をするかもしれない。彼の不利益を自分自身で発見させ、後ですべてを明かした方が良かろう。そうすることで彼の怒りを利用して復讐の機会が得られるのではないか……。好都合にもこの日曜、フォルチュ...1-XIX-14

  • 1-XIX-13

    それか、かつて息子を悪の道に引き摺りこんだ悪い連中の一人にばったり遭ったか……。それとも彼の父親であるポリト・シュパンにたまたま出会ったのかもしれない。この男を彼女は今でも愛していた。何といっても彼女の夫だったのだから……。とは言え、どんな悪事にでも手を染める男だということも彼女には分かっていたのだが。そしてこのような不運な巡り合わせ以外に、事故という可能性もあった。命に関わるような事故……しかしその場合、彼女の怖れは一番小さかった。下層階級の彼女の気高い心の中では、圧倒的な母性本能よりも信義を重んじる心の方が上位を占めており、重罪院の被告席にいる息子を見るより、死体安置室の板の上に横たわっている姿を見る方がましだったのだ。彼女はもう涙も尽き果てていたが、そのとき廊下の端から聞き慣れたシュパンの足音が聞こえてき...1-XIX-13

  • 1-XIX-12

    確かなことは、彼らがシュパンを酷く苛立たせていたことである。シュパンは彼らのあとをつけていたが、車道を挟んだ向こう側からであり、かなり距離をおいてであった。自分の姿を彼らに見せてしまったので、自分と見定められることを恐れていたからだ。「性根の腐った弱虫どもめ」と彼は口の中で呟いた。「あいつら六人の身体をカラカラになるまで絞り上げても一ショピーヌ(昔の液量単位で、0.5リットル)の男の血にもなるまい!あいつらが酔っぱらってさえいたら!……いや、そいつは駄目だ!…ああ、俺がムカついてるってこと、あいつらに思い知らせてやりたい!」しかし、さほど長く待つこともなかった。ドルーオ通りで二人が集団を離れ、更にもう二人がペルティエ通りに消えて行った。二人残されたウィルキーとコラルトはブールヴァールを歩いて行った。彼らは腕を組...1-XIX-12

  • 1-XIX-11

    千鳥足の者もいれば、飲み過ぎて理性を失い、頭を低く垂れたまま立ち去ったり、訳の分からない言葉を不機嫌にぶつぶつ言ったり、同様に泥酔しているものの、もっと威勢の良い者たちは歌いながら、あるいは大声で道路掃除人たちに話しかけたりしていた。あまり酔っていない者たちは、日が昇っているのに恥ずかしさを覚えるのか、全速力で道の端をそそくさと去っていった。自力で立っていられない客を馬車まで抱えていく数人のウェイターたちの姿もあった。やがて店の前には夜の馬車が五、六台残っているだけとなった。御者たちは声を涸らして呼びかけ、元の持ち場に帰る前に最後の客を拾おうと奮闘していた。「四人乗りですよ!」彼らは叫んでいた。「さぁさぁお客さん、四人乗り!」シュパンの前に立ちはだかって彼を通すまいとした、あの黒い制服を着た男、そしてウィルキー...1-XIX-11

  • 1-xIX-10

    しかし実際は、彼がそのことを知っているという事実が、決定的に事を左右するであろう。自分の持っている秘密を武器に使えば、時宜を見て介入することにより、フォルチュナ氏に勝利をもたらし、ド・コラルト氏を降伏させることも出来るのだ。そうとも、もしコラルトが、彼が誰であるかに気づかなかったら---そのことには確信があった---、あるいはそもそも彼の存在自体を知らなかったら、もっと好都合だ。彼は、怒りに任せて行動してしまったことを後悔した。彼の敵に自分が彼の秘密を知っていることをばらしてしまったのだ。が、それは大したことではなかろう。ということであれば、自分を縛るものは何もない。フォルチュナ氏に手を貸すことで、一石二鳥の効果が得られるというものだ。彼はコラルトに復讐を果たし、自分の雇い主であるフォルチュナ氏に利益をもたらす...1-xIX-10

  • 1-XIX-9

    「ああ、あいつが憎い。あの男が」と彼は食いしばった歯の隙間から激しい怒りを漏らした。フォルチュナ氏には打ち明けたことがあるのだが、彼はかつて一度だけ卑劣で言語道断な行為に及んだことがあった。それはすんでのところで一人の人間の命を奪うところだったのだが、その計画がもし成功していればある若い男を益することになる筈であった。その若い男とは現在ド・コラルトという響きの良い名前の下に忌まわしい本性を隠している男だった。そんなことがあったというのに、何故シュパンは最初に顔を見た瞬間に彼と分からなかったのだろうか?それはシュパンが何も知らずに、言わばこの偽の子爵の側の手先として働いていたからであった。彼の早熟で悪知恵の働く性質を利用しようとした悪党たちが彼を唆したのだ。シュパンは偽子爵を二、三回垣間見ただけで、言葉を交わした...1-XIX-9

  • 1-XIX-8

    「まぁ、何てこと思いつくの……」と黄色い髪の女たちは悲嘆の呟きを洩らした。しかしウィルキーは有頂天になった。「こいつぁお洒落だ!」と彼は宣言した。「すっげぇお洒落!」その言葉にシュパンは振り返りさえしなかった。彼はドアを半分開け、敷居の上に立つと、ド・コラルト子爵に皮肉な身振りで挨拶をした。「ではまた、ムッシュ・ポール」はっきりした口調で彼は言った。「マダム・ポールによろしくとお伝えください」居合わせた者たちがこれほどびっくり仰天していなかったら、この名前がどれほど子爵に衝撃を与えたかに気がついたであろうに。彼は真っ青になり、椅子の上でよろめいた。それから突然立ち上がると、たった今このポールという名前で彼を打ちのめした男の後を追いかけようとした。しかし無駄だった。シュパンはもう既に通りに出ていた。朝になろうとし...1-XIX-8

  • 1-XIX-7

    長年自分の表情を制御する訓練を積んでいる彼は無表情を通していた。微笑みさえ浮かべていた。が、それも表面だけのことで、よくよく観察すれば目の中に苦悶が表れているのが見て取れたであろう。顔色も蒼白になっていた。ついに我慢しきれなくなった彼は財布の中から百フラン札を一枚取り出すと、それを両手で丸め、シュパンに投げつけながらこう言った。「君の話はなかなか面白いね。だがもうたくさんだ。その金を持って出て行ってくれないか……」運の悪いことに、その丸められた札はシュパンの顔に命中した。彼は荒々しい叫び声を上げ、酒瓶を一本掴むとそれを振り上げた。ド・コラルト氏は脳天をぶち割られる、と誰もが思った。だがしかし、そうはならなかった。超人的な努力で、シュパンは狂気の行動に訴えることを自ら思い留まった。彼は酒瓶を置くと、切り裂くような...1-XIX-7

  • 1-XIX-6

    ……そのうちに……朝に乞食をしていた者が夜には金持ちになるって喩えもある。運は天下の廻りものだって言うだろ?ひょっとしたら、あんたらが有り金を食い潰しちまったとき、俺には金があるかもしれない……そのときは大笑いだ……俺は人が好いからあんたらに煙草を半分恵んでやるよ……」ウィルキーは大喜びしていた。彼の中にはイギリス人特有の奇抜なことを好む血がほんの少し流れているらしかった。彼はピアノの上に座り込み、鍵盤に両足を乗せ、裁判官の席から法廷を見下ろすような格好で、シュパンとド・コラルトを代わる代わる応援したり、拍手したりしていた。「ブラボー、小僧!いいぞ、コラルト!」これには子爵もついに頭に来たようだった。「よしわかった!」と彼は叫んだ。「もうこうなったら巡査を連れてくるしかない」「巡査だって?」とシュパンは喚いた。...1-XIX-6

  • 1-XIX-5

    シュパンの撫で付けられた頭髪は怒りのため逆立った。「何だって、何だって!」彼は叫んだ。「ごろつきというのはどういう者か教えてやろうじゃないか、この性根の腐った弱虫めが!」彼の身振り、態度そして目つきが凄まじい挑発と威嚇を帯びていたので、その場にいた男たちの二人は恐くなり立ち上がってシュパンの腕を捕えた。「さぁ帰ってくれよ」と彼らは言った。しかしシュパンはもがきながら答えた。「帰るだと!何があっても動くものか!ごろつき呼ばわりされて、侮辱をおとなしくポケットに入れてハンカチで抑えて帰れると思うか!まさかそんなこと思ってはいまいな!まずは謝罪を要求する……」これはド・コラルト子爵にはあんまりな要求だった。「そんな馬鹿者、相手にするな」と彼は平静を装って言った。「ベルを鳴らしてウェイターを呼べばいい。そしたら外につま...1-XIX-5

  • 1-XIX-4

    テーブルの上には数本の殆ど手を付けられていないボトルがあった。そのことを指摘されるとウィルキーは肩をすくめた。「俺を誰か他の奴と間違ってやしないか!」と彼は言い放った。「気の抜けたワインなんか飲まないんだよ、もうすぐ相続財産が舞い込んでくることが分かってる人間は……」「ウィルキー、よせ!」ド・コラルトが急いで遮った。しかし時すでに遅し。シュパンはちゃんと聞いており、理解した。彼がそうではないかと疑っていたことが確実なものとなった。ウィルキーは自分に相続の権利があることを知っていたのだ。フォルチュナ氏は子爵に先を越され、彼の苦労は単に骨折り損に終わったということだ。「気の毒に」とシュパンは思った。「ド・ヴァロルセイの後にこれとはね!さぞかし悔しい思いをすることになるんだろうなぁ!」シュパンは彼の年齢の青年にしては...1-XIX-4

  • 1-XIX-3

    「おーい、そこの誰か……俺の帽子を拾ってくれた人!正直な行いは報われるぞ。シャンパンを一杯とロンドレス葉巻一本、進上する。持ってきてくれたらな、六号室だ」シュパンは躊躇した。上がっていくとすれば、彼の任務が折角うまく行きそうなのに、ふいにしてしまう危険もある。しかし一方で、好奇心が搔き立てられるのを感じていた。あの若い紳士連中がどのような楽しみ方をしておられるのか自分の目で確かめてみるのも悪くない。それに、あの子爵を至近距離で観察する機会にもなる。どこかで会ったことがあると確信があるのに、それがどこだったか、どのようにしてだったか思い出せない、あの男を。そうこうしているうちにウィルキーは窓から彼を見つけていた。「さぁ、持って来てくれよ、あんた!」彼は叫んでいた。「喉が渇いてないのか!」子爵のことが決め手になった...1-XIX-3

  • 1-XIX-2

    それに、こういった馬車は『夜馬車』と呼ばれる別種のものに属しており、破損個所があるか、あるいは廃棄された馬車を再利用したうらぶれた乗り物で、息も絶えそうな馬が繋がれていた。毎夜乗せる酔客や博奕打ち連中の残り香なのか、自堕落な悪所の臭いが漂い、まるで屠殺業者から盗んできたかのような代物であった。しかしシュパンは本当に本心からこれらの馬車や痩せこけた駄馬、そして御者たちのことが好きだった。怒りの後には哲学的な諦めが続いた。避けられない運命は潔く受け入れようという。夜の大気がひんやりしてきた。彼はフロックコートの襟を立て、侘しい気持ちで歩道を大股で歩きまわった。その日起こったことを反芻しながら百回ほども往復した頃であろうか、突然ある考えが頭に閃いて彼はぴたりと立ち止った。今夜中のウィルキーとド・コラルト子爵の態度を思...1-XIX-2

  • 1-XIX-1

    XIX「ああ、なんてえ生活だ、たく!」シュパンは愚痴った。「こんなポリシネル(イタリアのコメディア・デラルテに出てくる道化プルチネッラ。自堕落な生活をする意味で用いられる)みたいな生活は終わりにするんだ!さもなきゃ、警察を呼びに行くぞ」彼は疲労困憊だったし眠気に襲われてもいたが、それ以上に彼を絶望的な気分にさせたのは、彼の『可哀想なおっ母さん』のことを思うからであった。彼の帰りを待ち、今頃は心配で死にそうになっていることであろう……。というのも、かつて悪童であった頃の彼は破茶滅茶な生活態度であったが、改心した今は老いた年金生活者のように規則正しい生活を送っていたからだ。しかし、これからどうすべきか?家に帰れ、と理性は命じていた。あのウィルキーという男を再び見つけるのは造作ないことだ。彼がエルダー通り四十八番地に...1-XIX-1

  • 2-18-13

    もちろん、そんな事件については何も知らないと白ばっくれることもできたでしょう。でもそれは通りません。だってあのグリーン氏が私にとって致命的な証言をするでしょうから。私に残された道は事実に合致するような何かもっともらしい話をでっち上げることでした。あれこれと考えた挙句、架空の人物をでっち上げることを思いつきました。そして警察にその人物を捜索して貰おうと。その人物は私の殆ど知らない人間で、しかも私にかなり外見の似た男である必要があります。ヘヤーと一緒に部屋に入っていくのをグリーン氏が見た男として通用するように。というわけでオグレイディという男を作り上げ、かなり曖昧な話をしたのです---でもこれ以上お話することはありませんね。その後のことはご存じな訳ですから。さて、警部さん、お手元にお持ちの供述はどうなっているのでし...2-18-13

  • 2-18-12

    しかし用心して慎重にやらなければ。私がイギリスを離れている間何が起こったか分かりませんのでね。ヘヤーの死体はもう発見されただろうか?もしそうならどういう処置が取られただろう?私はホーム氏の法律事務所に出頭する前に、これらの疑問に対する答えを知っておかねばなりませんでした。移動中に考えをまとめ、まず最初にするべきことは、あの家に行ってみてまだ窓にブラインドが下りたままになっているかどうか確かめることだと思いました。もしブラインドが上がっていたら、周辺で何らかの情報を集めよう、と。そこでヴィクトリア駅に着くと、鞄を荷物預かり所に預け、バスでピカデリー・サーカスまで行き、そこから歩いてビリントン通りまで行きました。歩いているときも周囲に油断なく目を配り、グリーン氏に見られた場合に備え、目的地を探してキョロキョロしない...2-18-12

  • 2-18-11

    彼の衣服をきちんど畳んで椅子の上に置くと、懐中時計を見ました。六時二十分になるかならないかでした。この恐ろしいドラマが繰り広げられたのはほんの三十分足らずの間だったのです。私は座って呼吸を整えました。体力を消耗する出来事だったのです。そして自分の痕跡を残していないか、部屋の中を見回しました。もし何かあったら持ち去らないといけなかったからですが、自分の鞄以外は何もありませんでした。部屋に入ったときに気づいていましたが、窓のブラインドは下ろしてありましたので、そのままにしておきました。おそらくヘヤーは出かけるときにはそうしておく習慣だったのでしょう。で、これからどうするかを考えました。辺りは奇妙なほど静まり返っていました。グリーン氏と従業員たちは店を閉めて帰宅してしまったからでしょう。部屋の中はしいんとして、隅にあ...2-18-11

  • 2-18-10

    でもほっと安心したのも束の間、私は気がついたのです。一つ危険は脱しても、まだもう一つあると。ヘヤーは死にました。死をもたらしたのは私の手です。私が彼を謀殺したのでないと誰が信じてくれるでしょう?安堵はすぐに消え、心配になり、パニックになりました。どうしたら自分の身を護れるか?最初に頭に浮かんだのは走っていって警察官を探してくることでした。実際そうすべきだったかもしれません。でもそうはしませんでした。自分の首から紐を取り外して手に持っていると、それが不吉な運命を囁いているように思えました。仮に、ここからそっと立ち去って誰にも何も言わないでいたらどうなるだろうか。ヘヤーは一人暮らしです。誰も部屋に入って来た者はいませんでした。死体が発見されるのは何カ月も先のことかもしれません。逃げ出して何も知らないことにしたらどう...2-18-10

  • 2-18-9

    その日ヘヤーとずっと一緒にいたわけですが、その間中、特にティールームで彼の態度がなにか普通でないのに気づいていました。興奮が抑えきれないというか、なんかピリピリしていて、ちょっとしたことにも飛び上がるといったような。彼が自分の部屋に入りドアを閉めてしまうと、それは更に顕著になったので、私は彼をじっと見つめていました。彼がそわそわと落ち着きがなく、目はぎらぎらして手が激しく震えていたからです。そんな彼の様子からただならぬものを感じずにはいられませんでした。怖気づいたと言ってもいいでしょう。あの四千ポンドのことは頭から去りませんでしたし、ハロルド伯父さんは容態が悪く、いつ死んでもおかしくない状態だったのです。でもまだ死んではいませんでした。そこで私は油断なくヘヤーから目を離さぬようにして、なにか良からぬことを彼が企...2-18-9

  • 2-18-8

    彼はしばらく沈黙して考えをまとめ、それから話し始めた。「まずこのことからお話した方がよいでしょう。私の従兄弟は、もし私が伯父のハロルド・モックスデールより早く死んだら、四千ポンドを得ることになっていたということです」「それは知っていましたよ」とブランディが言った。「そうですか!それなら、もう一つ。死んだ人間のことを悪く言いたくはないのですが、本当のところヘヤーというのは平気で悪事を働く男でした---紛れもない悪党と言えます」「そのことも我々の知るところとなりました」とブランディが言った。「彼があの家に放火した犯人であると分かった際に」「それなら、これ以上は言う必要はないですね。ただ、伯父が遺言で私を贔屓したということで彼は私に深い恨みを持っていた、と付け加えておいた方がいいでしょう。実際、彼の嫉妬が時々私に対す...2-18-8

  • 2-18-7

    モックスデールは訳が分からないという顔つきだったが、ソーンダイクの言葉に多少安心したらしかった。しかしまだ彼は核心に触れるのを避けようとしていた。「どうやら」と彼は言った。「これ以上否定しても無駄なようですね」「無駄です」とソーンダイクが同意した。「私達に事件のすべてを明確な言葉で包み隠さず話して貰うのが一番でしょう」モックスデールは半信半疑の様子でブランディ警部を見、どちらかというと問いかけるような口調で言った。「もし私が従兄弟の死を企てた廉で告発されるのでしたら、なるべく何も言わない方が有利なのではないのでしょうか」このように訴えかけられると、ブランディは突如平常心を取り戻し、いつもの微笑みさえ浮かべ始めたので、私は彼の状況把握の素早さに感嘆してしまった。「警察官としては、あなたに忠告を与えることは出来ませ...2-18-7

  • 2-18-6

    「そのとおりです」とブランディ警部が言った。しかし問題は、彼を特定するための写真なり、彼の身体的特徴なりを我々が掴んでいないという点でしてね」「身体的特徴と言えば」とソーンダイクが言った。「彼の歯は非常に珍しい形状をしていると聞きました。それについて何か仰ることはありませんか?」モックスデールはこの問いに対し、非常に言いにくそうな態度を示した。私には何故だかよく分からなかったのだが。それでも彼は、ためらいがちに、こう答えた。「はい、かなり奇妙な歯をしています。まるでタバコの染みがついているように見えるのですが、タバコの染みではありません。というのは少年のときからずっとそうでしたから」答え終わると彼はブランディを見、次にソーンダイクに視線を移した。どちらからもそれ以上質問がなかったので彼は機嫌よく言った。「さてと...2-18-6

  • 2-18-5

    「それは何とも言えません。彼は美徳の鑑という人物ではありません。が、恐喝者に狙いを定められるような事は何も知りません。それに彼は私の従兄弟ですのでね。思うに、私がそういう疑いを持った理由は彼ら二人の間の奇妙な関係ではなかったかと思います。彼らは長い時間を共にしていましたが、本当の友達ではなかったようです。ヘヤーはオグレイディを毛嫌いしているように思えました。彼がたまたま洩らした言葉から察するに、オグレイディはときどき彼からかなりの金をせしめていたようです。どういう事情でかは私には分かりませんでした。借金という形かもしれません。が、もしそうでないとすれば、それは恐喝のように思えます」短い沈黙があった。それからブランディが珍しくいつもの愛想良すぎる態度を捨て、むしろぶっきらぼうな口調で尋ねた。「さてモックスデールさ...2-18-5

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