もし今日死ぬとしたら、誰に何て言う?誰の声が聞きたい?「ありがとう」を伝えたい人は誰?思い残すことなく死ぬなんてきっと誰もできないけど、自分を大切にしてくれた人には「ありがとう」を伝えたい。自分を蔑ろにした人のことは考えなくていい。時間がないんだから。#死別
もし今日死ぬとしたら、誰に何て言う?誰の声が聞きたい?「ありがとう」を伝えたい人は誰?思い残すことなく死ぬなんてきっと誰もできないけど、自分を大切にしてくれた人には「ありがとう」を伝えたい。自分を蔑ろにした人のことは考えなくていい。時間がないんだから。#死別
突然死での遺されて何年か経つと、「せめて最後の言葉が聞きたかった。遺書でもあれば...」と、そんなふうに思うことはありませんか?死を覚悟した時の人間の言葉にはおそらく真実があります。もう失うものはない、と覚悟した時に人間は嘘をつく必要がないからです。例え嘘だ
過去記事にも何度か同じことを書きましたが、私は「運命の相手」というのは確実に誰にでも存在すると思っています。それは前世がどうの、というスピリチュアル系の話ではありません。伴侶、親、子ども、友人、同僚など関係性を問わず、「自分の最も良い部分を引き出してくれ
伴侶やパートナーを亡くすのは死因が何であれ、同じように辛いものですが、その亡くなり方によっては周りがどう慰めていいかわからなくなるような、何ともいえない気持ちにさせられる亡くなり方もあります。昭和天皇の第三皇女である鷹司和子さんのケースは本当にお気の毒だ
私の亡くなった伴侶は、自己肯定感が高く、一歩間違えるとナルシストになるのでは、という感じでした。自分 の名前や容姿、才能など全てに自信を持っているように思えました。名前はトルコではありふれた名前で、イスタンブールの街中で彼の名前を呼べば10人中6人
もう覚えている方も少ないと思いますが、3年前、自殺した男子高校生の巻き添えになって女子大学生が亡くなるという事件がありました。自殺した男子高校生、巻き添えになった女子大生、一緒にいた友人、男子高校生のご両親、女子大生のご両親… もう何と言っていいかわ
私の場合、「死別」はまだ「思い出」にはなっておらず、自分自身の中に現在進行形で存在しています。「過去」にならない「過去」を抱えるというのは重く苦しく、未来へ進む歩みを必然的に遅らせます。死別からしばらくは「魂は生きている」という感じの話に慰めら
まだ死別の苦しみを知らなかった頃、「千の風になって」が流行って、CDを買って泣きながら聴いていました。当時、東京に住んでいて、感動してわざわざ中国に赴任していた友人に海外小包でCDを送ったほどです。ところが、実際に死別をするとこの曲が聴けなくて、聴いても感動
死別が辛いのは、その辛さがいつ終わるのかわからないところです。戦争やパンデミックと同じです。死別も3年、5年、10年と苦しむ期間が明確に決められているのであれば耐えられますが、先が見えないというのは本当に辛いものです。ただ死別の場合は、個人レベルではコント
死別をしてから、時間が止まってしまったというか時代に取り残されたというか、周りのひとと自分の時間の進み方が違うと感じることがよくあります。自分がパラレルワールドにいるような、異世界にいるようなそんな感覚がつきまとっています。現実がつらすぎて直視できな
「早く立ち直って」「もっと前を向いて」「泣いてばかりいても亡くなったひとは還ってはこない」「死にたいだなんて…生きたくても生きられないひともいるのに」死別後、周囲からこんな風に言われた方も多いと思います。全て正論です。然し、正論というのは死
「寿命」や「運命」という言葉の捉え方、感じ方はそのひとの死生観にもよりますが、大切なひととどんな形で死別したか、つまりその死因にも影響されると思います。過酷な闘病生活の末に大切な家族を看取った遺族や自死遺族の方にとっては、「寿命だった」「運命だった」
いつだったか忘れましたが、「恋は見つめ合うもの、愛は同じ方向を向いて歩いていくもの」と、こんな感じのことを読んだ記憶があります。 確かに、見つめ合うというのはお互いに向き合っているので別の方向を向いているんですよね。フランスの作家、サン=テグリュペリも同様
人間の意識は何らかの形で繋がっていて、しかも時間や空間を超越するという考え方があります。 否定するひとも多いですが、私はこの考え方を支持しています。 実際「意識が時空を超える」と考えれば納得できる現象が世の中にはたくさんあります。彗星探検家で三度の臨
誹謗中傷や差別的発言は当事者を深く傷つけるので、誰からみても受け容れられるものではないのですが.....。実は感動的な話も知らないうちに誰かを傷つけていることがあります。例えば「子どもは肉体をもつ魂の段階で親を選んで生まれてくる」というスピリチュアル的で感動的
伴侶であれ、子どもであれ、親であれ… 大切なひとを喪ったあとにひとつの支えとなるのが亡くなる前の「最後の言葉」です。ただ、突然死の場合には「最後の言葉」はどうしてもありふれた日常的な言葉になります。「行ってきます」かもしれないですし、「ごちそうさま」かもし
死別をしてから「ひとは誰でもいつかは必ず死ぬんですよ」と慰められたことが何度かあります。間違ってはいません、その通りです。ただ、だからこそ「いつ」「どんな形で」「誰を残して」ということが重要になります。両親を事故で喪った10代の若者を思い浮か
人生においては「思い出を作れる」ということはとても幸せなことです。ただ年を重ねると、親子であれ伴侶であれ友人であれ、その思い出を振り返って語り合えるというのもとても幸せに感じるものです。大切なひとを喪う辛さのひとつは、思い出はあっても一緒に振り返って語り
フランスの精神学者、フレデリック・ファンジェ博士は「自信」についての研究の第一人者で著作も多くあります。大切なひとと死別をすると、誰でも「自信」を失います。 誰でも、というのは語弊があるかもしれませんが、ほとんどのひとが悲嘆と辛さの中でもがきます。 逆に言
鬱の症状を緩和させたいので、精神科医や脳科学者、心理学者の方々が書いた記事などをよく読んでいた時期があります。その中でかなり共通して言われることで面白いなと思ったことがあります。それは以下の2点です。① 脳はエネルギー消費を避けるため、常に怠けることを考え
死別後の心の痛みを少しでも軽くする方法は色々あるのだとは思いますが、結局のところ本当の癒しは「夢でもいいから会えることだけ」なのかなと思います。夢の中で笑顔を見たり、手をつないだり、声を聞いたり… 。目が覚めた時にそれが夢だとわかって
死別直後、周りのひとからよく言われました。「死別というこれだけ辛い経験をしたのだから、これからは大抵のことには耐えられる」と。自分でもそう思いました。けれどもそれは大きな間違いです。死別を経験したからこそ、その直後は心も体も極限まで弱り切り、今まで耐えら
『間違ったことがいつか君を救うから』これはELLEGARDENというバンドの「ジターバグ」(作詞: 細美武士) の歌詞の中の一節です。死別を経験すると (それが突然死の場合は特に)、どうしてあの時出かけてしまったのだろう、どうしてあの時もう少し早く帰らなかったのだろう、ど
死別をしてから悪いことばかり起こる、というのは誰もが感じたことがあるのではないでしょうか?精神的に大きなダメージを受けますから、健康を損なうというのは容易に想像できます。また、死別だけではなく、壮絶な虐待やイジメなどもそうですが、そういった経験はIQを著しく
皆さんはゴルダ・メイアという方をご存知でしょうか? イスラエルへ行ったことのある方や欧州在住の方はご存知だと思いますが…。 イスラエルの第5代首相です。 彼女の在任期間は私が小学生の頃で、国のトップが女性というのは珍しかった時代です。 私と同世代の方は彼女の
死別の悲嘆を更に悪化させるかどうかは死別後の人間関係に大きく関わってきます。死別後に絶対に関わってはいけないのは、幸せそうなひとでも冷たいひとでもなく、支配型のひとです。死別後は判断能力が欠如するので「支配型」のひとを「いいひと」と勘違いして
死別をしても人間の本質はそんなに変わりませんが、それでも人生を揺るがすほどの体験ですから考え方や価値観が変わることはあります。私の場合、その一つが「効率性」ということです。死別前は全てにおいて「効率性」を重視していました。それは、生きるということは「より
本気で自死を考えたことのあるひとならばわかると思いますが、絶望の危うい淵に立った時にそのまま押されるように身を投げるか、踏みとどまるかというのは、本当に些細な違いが要因になることが多いように思います。本気で自死を考えた時に家族や親友に相談出来る人は稀
「神は乗り越えられない試練は与えない」という言葉は非常によく使われますが、この「試練」が「誘惑」の誤訳であることはあまり知られていません。これが誤訳であると知ったのは或る教会のホームページです。タブレットのメモ欄転記しておいたので、どこの教会だったかは
*この記事は予約投稿のためコメントの受付不可に設定しております。記事の作成は2022年12月ですので、記事内に「今年」という形で西暦等の表記がある場合は2022年を指し、記事内の経過年数等も2022年が基準になります。いくつかの記事を1月、2月を中心に予約投稿済です。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの名前や曲は誰でも知っていると思いますが、「ハイリゲンシュタットの遺書(独: Heiligenstädter Testament)」という言葉は知らない人が多いかもしれません。ベートーヴェンが1802年10月6日に当時聖地と言われたハイリゲン
ほとんど更新していませんでしたが、今年アクセスしてくださった方、お読みくださった方、ありがとうございます。