円空は、白川村などをのぞいた飛騨国のほぼ全域を網羅するように行脚し、おびただしい像を造り、いくつもの山岳に登っている。その最後に訪れたのが、乗鞍岳の西に続く山並みに囲まれた、飛騨川およびその支流の青屋川沿いに並ぶ、万石村、浅井村、大廣村、青
「円空仏」で知られる山岳修行僧円空は、冒険家・登山家としてもヒーローだった! 山馬鹿岐阜県民ぼっちがその足跡を5年計画で追跡する記録
2025年7月
円空は、白川村などをのぞいた飛騨国のほぼ全域を網羅するように行脚し、おびただしい像を造り、いくつもの山岳に登っている。その最後に訪れたのが、乗鞍岳の西に続く山並みに囲まれた、飛騨川およびその支流の青屋川沿いに並ぶ、万石村、浅井村、大廣村、青
下呂市に円空が修行した「円空岩」があると知って、いつかは行ってみたいものと思っていた。7月5日、高山市朝日町の円空像を訪問する機会があり、その往路、早立ちをして立ち寄ってみることに。場所は、下呂市門原。2万5千分の1地形図では深谷という集落
27日、Yさんを平湯バスターミナルまで送り、高原川の支流鎌田川沿い鎌田の昭和な温泉旅館に投宿。鎌田は、明治22(1889)年外ヶ谷右岸山腹が大崩壊して蒲田川を閉塞するなどして、江戸時代とは大きく様相を変えている。それでも、個人宅に円空の像が
高原郷の円空の足取り調査(2)は、双六川沿い。 <双六川流域と円空>双六川は、高原川の支流で、その最奥にあった金木戸集落より奥は金木戸川、さらにその奥は双六谷と名を変え、弓折岳と双六岳の間が源頭となる。今は廃村となった金木戸集落に
6月27日は、円空の飛騨における重要な拠点だった一重ケ根の禅通寺にうかがう機会を得た。それに合わせて、28日と1泊2日で、高原郷の調査をまとめて実施。その1:乗鞍岳周辺、その2:双六川沿い、その3:高原川沿い に分けて、調査結果をレポートし
2025年7月
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円空は、白川村などをのぞいた飛騨国のほぼ全域を網羅するように行脚し、おびただしい像を造り、いくつもの山岳に登っている。その最後に訪れたのが、乗鞍岳の西に続く山並みに囲まれた、飛騨川およびその支流の青屋川沿いに並ぶ、万石村、浅井村、大廣村、青
下呂市に円空が修行した「円空岩」があると知って、いつかは行ってみたいものと思っていた。7月5日、高山市朝日町の円空像を訪問する機会があり、その往路、早立ちをして立ち寄ってみることに。場所は、下呂市門原。2万5千分の1地形図では深谷という集落
27日、Yさんを平湯バスターミナルまで送り、高原川の支流鎌田川沿い鎌田の昭和な温泉旅館に投宿。鎌田は、明治22(1889)年外ヶ谷右岸山腹が大崩壊して蒲田川を閉塞するなどして、江戸時代とは大きく様相を変えている。それでも、個人宅に円空の像が
高原郷の円空の足取り調査(2)は、双六川沿い。 <双六川流域と円空>双六川は、高原川の支流で、その最奥にあった金木戸集落より奥は金木戸川、さらにその奥は双六谷と名を変え、弓折岳と双六岳の間が源頭となる。今は廃村となった金木戸集落に
6月27日は、円空の飛騨における重要な拠点だった一重ケ根の禅通寺にうかがう機会を得た。それに合わせて、28日と1泊2日で、高原郷の調査をまとめて実施。その1:乗鞍岳周辺、その2:双六川沿い、その3:高原川沿い に分けて、調査結果をレポートし
ここのところ、羽島市の中観音堂に、2、3か月に1回くらい伺っている。直接の目的は、観音堂で販売している「円空さんの微笑みせんべい」を買い込むこと。各地の円空ゆかりの寺社にお伺いする時のアプローチ用に、大変重宝させてもらっている。そして堂守の
6月13日、「飛騨百山」の尾崎山、本堂山に登った午後、前回6月3日の宮川沿いの円空の足取り調査で回り切れなかった飛騨市宮川町打保集落〜杉原集落間を補足調査。種蔵集落から菅沼谷に入り菅沼集落を経て、洞谷から洞集落などを経て宮川本流に出ると、対
神通川支流の高原川は、乗鞍岳の北麓を源とし、高山市奥飛騨温泉郷平湯、福地の集落を抜け栃尾で蒲田川を合わせる。そして西へ流れ、徐々に進路を北に取りながら、本郷などの集落を通りながら飛騨市神岡町(江戸時代の船津)に至る。日本有数の山岳地帯を流れ
円空は、飛騨において、川に沿う街道を網羅するように、寺社や民家に像を残している。6月7日は、そのうち千光寺から東へ向かう小八賀川(こはちががわ)沿いの円空の足取りを調査。板殿の薬師堂と、旗鉾の慈雲寺のお像を拝観。御神体も多く、ほかは現地のみ
円空は、飛騨において、川に沿う街道を網羅するように、寺社や民家に像を残している。6月3日は、そのうち宮川沿いの円空の足取りを、清峯寺のある高山市国府町から、飛騨市古川町・宮川町、越中国の関所のある富山市猪谷まで調査。画像は、宮川の古川大橋か
6月3日、高山市国府町鶴巣の清峯寺を訪問。宮川の支流、荒城川と安峰山(1,058m)から続く山並みの接点にある鶴巣集落の背後に続く石段を登っていく。真正面に白山神社の鳥居があり、その脇に円空像3体の納められた円空堂、その奥に清峯寺の本堂があ
5月25日に、高山市丹生川町下保の千光寺を訪問(ブログ掲載順は、清峯寺の記述を続けたいため、あえて変えています)。<千光寺と円空>真言宗袈裟山千光寺の開山は、仁徳天皇65年(伝377年)、両面宿儺(りょうめんすくな)との伝えられる。この両面
目下飛騨の円空を追跡しているけれど、飛騨に接する美濃の加茂郡白川町にも円空像が17体残されている。同町は、西端の飛騨川沿いが尾張藩領、それに接する和泉(旧和泉村)周辺が天領、その他の大半は苗木藩領だった。苗木藩領は、明治初年の廃仏毀釈が特に
ぼっちが把握しているだけでも、550体以上,260カ所以上と密度濃く円空像が残る飛騨の地。地図にプロットしてみると、主要な寺社だけでなく、民家にも120数か所と数多く残されているのが他地域と異なる点。その中でも、最も集中しているのは、高山市
下呂市は、2004年に益田郡の4町1村(金山町、下呂町、馬瀬村、萩原町、小坂町)が合併してできた。下呂市には、円空が飛騨で活動したその終わりの時期、元禄4(1691)年頃を中心とした180体以上の円空像が確認されている。そのうち30体以上が
信州の円空探訪(4)は、現在松本市波田公民館にあるという円空の像。同像の情報はきわめて少なく、長野市立博物館の特別展『信州ゆかりの作仏聖ー弾誓派から円空・木喰へ』にも出されなかった謎多き像。おそらく損傷が激しいのだろう、「鬼子母神像」とされ
信州の円空調査その(3)は、円空が関東の旅から(おそらく往路ではなく)帰還する時にたどったであろうルートの調査。円空は、上野国(群馬県)から、峠越しで信濃国に入ったと考えられる。信濃国に入ってからの足取りの手掛かりとなるのは、浅間山の和歌、
円空当時は信濃国だった長野県には、円空の像が21体確認されている。近年荒子観音寺から移入された像を除くと、19体。円空は、何のために信濃を訪れ、どのようなルートで行脚したのだろう。これを調べる信州の円空調査、第1回目は、4月12日、御嶽のお
4月30日は、とある事情があって、円空最後の山籠修行の地、高賀山に行くことに(「とある事情」は、いずれご報告)。高賀の森公園の登山口から登山開始。長良川の支流板取川、さらにその支流高賀川の源流部に沿って登高していく。水音が心地いい。高賀山は
4月13日〜15日、2泊3日で円空を追って栃木県日光へ。日光は、昨年9月の日光秋峰修行の折の調査以来2度目、栃木県としては11月に鹿沼市廣濟寺に行って以来3度目の調査となる。13日、円空がたどっただろう上野国(群馬県)大間々から日光に至る足
1 埼玉県の円空像把握の現状江戸時代武蔵国であった埼玉県は、円空像が愛知県、岐阜県に次いで多く残されている地域で、約170体の像が確認されている。注:あべのハルカス美術館『円空展』図録では、埼玉県の円空像は、2023年12月現在 173体(
翌29日は、埼玉県東部を南へ・北へと移動して調査。1 八潮市大経寺・春日部市香林寺まず八潮市まで南下して、浄土宗の大経寺へ。こちらには、埼玉県最大の円空像である千手観音菩薩立像(243.0�)がある。子年と午年の4月にのみ開帳されるので、再
5月に観音院と薬王寺のご開帳に合わせて行った、第1回埼玉遠征調査。その折、正法院さま、圓蔵院さま、谷下自治会長さまにお願いして、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像を拝観させていただく許可を得て、6月28日、同博物館で特別に「熟
円空は、長く過酷な大峯修行を終え、延宝4(1676)年には尾張周辺に戻り、爆発的なエネルギーで諸像を造顕していく。この時期に造顕された尾張の諸像は、尾張四観音の龍泉寺および荒子観音、音楽寺、庄中観音堂、津島地蔵堂、善昌寺などに伝わる。6月2
毎月21日は、名古屋市千種区覚王山日泰寺の縁日で、隣接する鉈薬師は、この日の10:00〜14:00に開帳される。この3月に伺ったばかりだけれど、改めてじっくり拝観。何度拝しても新たな感動と発見がある。 今回気になったのが、本尊薬師
目下、全国山の日協議会のHPに、『円空の冒険』諸国山岳追跡記 を毎月ひとつの道県の円空の足取りを紹介中。画像なども載せるので、あらかじめ所有者などご関係者のご了解を得ておくのに結構手間がかかっている。ただし、ご了解をいただくために、ご関係者
今まで行ってきた以下の踏査を踏まえ、円空の山岳修行の中で最も重要な意味を持つ、寛文後期から延宝3(1675)年におよぶ大峯山周辺での修行について総括させてもらいます。<踏査記録>2023年11月 大峯・小篠ノ宿・笙ノ窟・鷲ノ窟踏査行2024
戸隠山(1,904m)は長野市戸隠(旧戸隠村)に位置し、岩の戸を立てかけたような峻険な山容で知られる。中腹に戸隠神社(奥社)があり、摂社に地主神の九頭龍社が祀られている。伝承によれば嘉祥2(849)年に学門行者によって開山されたとされ、平安
5月30日、早朝宿を抜け出し、ご来光を仰ぎに伊勢市の二見浦(ふたみがうら)へ。伊勢湾に注ぐ五十鈴川の河口に形成された三角州状の地帯で、神宮参拝の禊場でもあった。夫婦岩でも知られる。高賀神社に伝わる円空が詠んだ和歌は、大般若経の見返しの裏紙の
円空は大峯山での厳しい修行を経て、延宝2(1674)年に志摩国を訪れていたことが分かっている。同年3月、志摩国片田村(三重県志摩市志摩町片田)の三蔵寺の『大般若経』六百巻を巻子装から折帖装に改め修復、その扉に添絵58枚を描き、観音菩薩像を残
北海道の洞爺湖観音島観音堂にあった円空作の観音菩薩坐像(現在は有珠善光寺安置)の背中に「うすおくのいん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内 寛文六年丙午七月廿八日 始山登 円空(花押)」の銘がある。当時円空35歳。この銘文によって
5月11日 山上ヶ岳(1,719m)の山上にある大峯山寺に向け、早朝4:40清浄大橋の登山口から入山。橋を渡ったところが女人結界で、ここまで連れ合いが見送ってくれた。それでは行ってきます。修験者の装束の先達さんに追い越された。ところどころの
円空大峯修行の全容踏査第1日目の5月10日のメインは、13時にお約束した栃尾観音堂の訪問。連れ合いと愛車OUTBACKの奥地君で天川へ向かい、少し時間があったので、まず、大峰山寺を支える5ヶ寺の護持院のうち、唯一洞川にある龍泉寺を訪問(他の
ご開帳の時期から埼玉追跡を先行させ、時期は延宝後期(1680年頃)に飛んでおりましたが、このへんで時系列に円空大峯修行まで戻します。 1 大峯修行前後の円空の足取り寛文11(1671)年3月28日 廿屋(岐阜県美濃加茂市)観音洞の
埼玉遠征調査(2−1)で計画した調査概要に対し、その結果をまとめてご報告。 〇調査概要<調査のポイント>「日本で3番目に円空像が多い埼玉県。その中でも、なぜ県の南東部の低湿地帯で、円空は集中的に造像したのか?」という疑問。これを、
あちこち回り過ぎて、肝心の薬王寺に伺うのがだいぶん遅くなってしまった。薬王寺の縁起については、恐縮ながら門前の案内板の画像をご覧いただくとして、お堂に急ぐとしましょう。薬王寺の公式ブログにお伺いする旨コメントしていたので、待っていてくださっ
5月8日 埼玉遠征3日目の最終日。今日は早くから活動する代わりに、昨日も車中連泊した、道の駅あぐりパークゆめすぎとの公園テーブルにパソコンを置いて、埼玉県立歴史と民族の博物館に寄託されている円空像の「熟覧」申請に必要な、所有者の許可書の原紙
今回の埼玉県の円空追跡は、6日の春日部市小渕の観音院と、8日のさいたま市見沼区の薬王院の開帳に合わせて計画。その間の7日は、円空像こそ拝観できなかったけれど、以下のとおり、非常に充実した調査の一日でありました。 杉戸町の道の駅で車
春日部市小渕の小淵山観音院は、本山修験宗の寺院で、聖観音菩薩立像(194.0�)、不動明王立像(132.0�)、毘沙門天立像(134.0�)の大作をはじめ、7体の円空像を伝える、円空巡礼の聖地。かつて日光道中(日光街道)の宿場町だった粕壁は
埼玉県の円空像の集中する南東部の像は、おおよそ岩槻城を中心に円周状に分布している。そんなことで、遠征踏査第1日目の6日昼間は、➀円空は、誰かに呼ばれて当地に来たのか(例えば不動院や岩槻藩など)について、旧岩槻藩領:今の行政区で