chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
このゆびと〜まれ!
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2015/11/20

arrow_drop_down
  • 家康は秀頼を憎んでいなかった

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――家康が、ほんとうに秀頼を憎んでいるのなら、何で関ケ原のおりに秀頼母子を助けたのか?わさわぎ秀頼を助けておいて、孫娘の千姫を嫁がせたり、度々江戸から京まで秀頼に会いに行ったりする必要がどうしてあろう。そればかりか、秀吉の七回忌には、世界中がびっくりするほど盛大な「皇国祭」を京都でやって、自分は将軍職を退いて駿府へ隠居しているのだ。そして、それらの好意は、淀どのもまたよく知っているし、秀頼も充分に感謝している。つまり、両者の間に殊さら言い立てるほどの憎悪感情もなければ、家康が秀頼母子をいじめたという事実も介在してない。秀頼母子だけではない。大坂方の重臣たちにしても、誰一人として家康に個人的な反感や憎しみを抱いている...家康は秀頼を憎んでいなかった

  • 関ケ原では始めから迷わずに勝敗を見定めた

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――そのため、どっちへ転んでも「わが家は存続」という苦肉の策をめぐらし、父子兄弟が、双方へ別れて戦ったものも少なくない。(石田方)(徳川方)真田昌幸(父)真田信之(子、兄)幸村(子、弟)蜂須賀家政(父)蜂須賀豊雄(子)生駒正俊(子)生駒一正(父)九鬼嘉隆(父)九鬼守隆(子)前田利政(弟)前田利長(兄)京極高次(兄)京極高知(弟)小出吉政(兄)小出吉辰(弟)こうした厄介な戦の中で、始めから迷わずに、勝敗を見定め、はっきりと賭ける方へ賭けて動じなかったのが伊達政宗であったと言える。政宗は誰にも無条件で惚れたり感心したりする男ではない。と同時に、誰にもそう易々とは欺(だま)されない。人間嫌いとか、人間を信じないとか言うの...関ケ原では始めから迷わずに勝敗を見定めた

  • 家康と政宗は「英雄、英雄を知る」関係

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――家康が、正式に諸大名を二条城で引見(いんけん)したのは十日になっている。そして、将軍秀忠と二人きりで密談したのが十一日。十二日には、将軍の命によって高力忠房、板倉重宗らが、大坂の残党狩りを始めていた。政宗の眼に、家康が衝撃から立ち直った…と、見えたのは、将軍秀忠と会見した時からだった。その前の家康はどこかに拭(ぬぐ)いきれない迷いを見せて、「これが、あの家康であったろうか?」二条城に駆けつけた藤堂高虎や、鍋島勝重にさえ首を傾げさせたほどであった。そのため、一部にはあらぬ噂も流れていった。「家康は戦死なされたぞ。生き残ったのは家康ではない。駿府から連れて来た影武者らしいぞ」むろん、それらの噂も間もなく消えて、十三...家康と政宗は「英雄、英雄を知る」関係

  • 家康が政宗に慈悲の徳が足らぬことを指摘

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――「そうであろう。お身自身が、ある時期には忠輝(家康の六男、妻は政宗の娘・五郎八姫)であったからの。才能も、実行力も衆にすぐれていた。天才とでも言おうかの……そのためお身は、父御を畠山に殺させる破目になった」政宗はギョッとなって、思わずいずまいを正し、呼吸をつめた。「舎弟(しゃてい:弟分)を斬らねばならなくなったのも、母御が最上家へ遁(に)げだしたのも、何度も一揆で人を斬らねばならなくなったのも、つまりは、お身という若者ができすぎていたせいじゃ」「………」「わかるであろう。義経が兄頼朝にうとんじられて悲劇の人になったのも、織田どのが、母や弟ばかりか、家来まで敵にまわして、若死しなければならなかったのも、みなそのす...家康が政宗に慈悲の徳が足らぬことを指摘

  • 政宗と家康の関係

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――十一歳の秀頼と七歳の千姫の婚礼まで、あれほど急いだ家康である。当然、忠輝(家康の六男)と五郎八姫(いろはひめ:政宗の長女)の婚礼ももっと急いでよいはずであった。しかし、それが、慶長十一年の十二月まで延びた理由の中には、双方の父親の貪婪(どんらん:たいそう欲の深いこと)なまでに仕事に打ち込む野望と根性が大きく影響した結果であったといってよい。政宗の海外雄飛策は、いうまでもなく家康の外交政策と表裏一体をなす形ですすめられる。しかし、これが、ほんとうの意味の一体であったかどうかとなると、はなはだ疑わしい。性格的にいって、どちらも強烈な個性と自負心を持っている。簡単にいえば、家康の方では、どこまでも年少の政宗を見どころ...政宗と家康の関係

  • 不動明王のような心で危機を脱した伊達政宗

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――「恐れてはなりませぬ。不動明王は、この世の悪に対する怒りを退治すべく、自分の体から炎を吹き立てているのでございます」と説明した。そして、「若君も、一隻眼(いっせきがん:独眼)を恥じてはなりませぬ。この不動明王のように、悪を退治するお人におなりあそばせ」といった。あの一言によって政宗はそれ以前の自分とは変わった人間になったことを感じた。つまり、「あの日からおれは生まれ変わった」という自覚が持てた。眠れぬ夜を、箱根山中の底倉の一室で送りながら、政宗は輾転反側(てんてんはんそく:何度も寝返りを打つこと)した。不動明王の姿がちらついて日の裏から離れない。政宗は反省した。(あの日、虎哉宗乙師(こさいそういつ:禅僧で政宗の...不動明王のような心で危機を脱した伊達政宗

  • この世に出て来た黄金は形は変えても永遠に変質しない

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――ある時、武田信玄が、忍びの名人に織田信長の機密を探るように頼んだ。するとその名人は、この仕事は一万両以下では請け負いかねるという。一万両では高すぎるゆえ、三千両に負けておけと交渉したが、名人は断じて値引きはできないと言い張った。そこで、信玄は、当時大蔵藤十郎であった長安の掘り出した甲州金一万両を渡して依頼した。すると、名人は織田勢の軍容から、家臣の数、信長の性格はむろんのこと、家中の派閥までくわしく報告して来たので、信玄はすぐさま、別の一隊を密行させてその名人を殺させた。「まだあの一万両、使うてはおらぬはずじゃ。屋敷のどこかに隠してあろうゆえ、取り返して参れ」そこで暗殺隊が家探ししてみると、鼠(ねずみ)のわたる...この世に出て来た黄金は形は変えても永遠に変質しない

  • 東北地方への積極的な上方文化の導入を行った政宗

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――「東北地方への積極的な上方文化の導入」である。その手始めとして、「伊達軍団の軍装を華麗にしよう」と企てた。一人ひとりの兵士に、「自分で工夫をして、軍装をきらびやかにしろ」と命じた。こんなことを言う大将は当時ひとりもいない。兵士たちは思い思いに自分の軍装を華やかなものにした。集まるとかなりサイケな組織になった。多くの人が「伊達軍団は実に伊達者だね」とささやき合った。当時、華麗な服装をするお酒落な人間を、「伊達だね」という言葉で評価したからである。この言葉は流行し、日本各地においても、「伊達だね」というのは、酒落者をさしている。おもしろいことがある。それは英語でもお酒落な人間を、「*ダンディー」という。伊達に通ずる...東北地方への積極的な上方文化の導入を行った政宗

  • 政宗の危機を救った家康の策

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――とにかく二人は、こうしてくわしく事実を認めた直訴状は渡してあったが、結束をみだることを怖れて、政宗にはまだ報告していなかった。政宗も、薄々そうした動きもあると承知して、不問に付していたものであるのはいうまでもない。こうして二十二日に受け取った書状を、二十三日の朝、伏見城の大奥で、もう一度近侍に読ませ、これに聞き入っている秀吉のところへ布施谷久兵衛、牧野主水、水竹仲左衛門の三人が、家康から、お目にかけたいものがあり、それを持参したといって目通りを願い出た。「なに、江戸の大納言からだと。よし、庭先へ通せ」秀吉は、実は家康が、政宗のことにつき、どのような手を打って来るかと、内心待ちかねていたところなのだ。やがて案内さ...政宗の危機を救った家康の策

  • 秀吉の詮議における小さな穴による言い訳

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――蒲生氏郷(がもううじさと)は証拠として、伊達政宗が書いた一揆煽動の文書を提出した。こういうふうに証拠がそろっていては、いい逃れることはできまいと思ったのに、政宗は堂々といい抜けた。彼は、「確かにその文書の文字はわたくしのに似ておりますが、判が違います」といった。「判が違うというのはどういうことだ?」きき返す秀吉に、政宗はこう答えた。「わたくしの判は、鳥のセキレイをかたどっております。そのセキレイの目に、小さな穴をあけております。お手元の判のセキレイには、目に穴があいておりましょうか?」「この政宗から、殿下や浅野どのに差し上げました書簡の花押は、セキレイの眼がことごとく開いております。ところが、須田の倅(せがれ)...秀吉の詮議における小さな穴による言い訳

  • 政宗は秀吉の杖で首を叩く行為が許せなかった

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――(政宗と秀吉の対面の異説)今までの「政宗伝」では、箱根の底倉において、七人の使者に申し開きをしたのが六月七日。秀吉が改めて政宗を諸侯の前で引見したのが、同九日とされている。しかし、家康側の、内藤清成の手になる「天正日記」では、これとはまるで異なった記事が書き残されている。政宗は、実は、九日の引見の前に、秘かに家康を訪れ、さらに秀吉にも会っているのだ…家康の本陣に政宗を伴っていったのは結城秀康で、秀康は、二度政宗を実父に会わせている。その結果、三人の話がどうまとまったのか、その後、家康は、秀康と政宗伴って、秘かに秀吉のもとを訪れているのだ。したがって、巷間に流布されている政宗と秀吉の、石垣山における初対面は、対世...政宗は秀吉の杖で首を叩く行為が許せなかった

  • “敵は自分の中にいる”との教えに自己改革ができた伊達政宗

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――彼は眼を一つ失ったために、「親をはじめ、みんなが自分を見捨てた」と思い込んできた。が、そうではなかった。いつも脇にいて学問を教えてくれる虎哉(こさい:臨済宗妙心寺派の僧)が、きょうは人生の勉強をさせてくれた。しかも、自信をあたえてくれた。「心身の障害など、何も気にすることはありません。逆にそれが輝きを持つように、ご自身なりのご努力をなさい」と言ってくれたのである。帰り道、虎哉はポツンとこう言った。「若君、わたしはかなりの高齢になりますが、いつも思うことがあります」「何でしょう」政宗の問いに虎哉はこう答えた。「敵は、決して外にいるのではなく、自分の中にいるのだということです」「敵が自分の中に」政宗は歩きながらその...“敵は自分の中にいる”との教えに自己改革ができた伊達政宗

  • 政宗の師・虎哉宗乙

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――人間、師となり弟子となる…それは何の奇もない行き会いのようでありながら、しかしそこには無限の生命の通路がある。伊達政宗の人生に、もしもこの虎哉宗乙(こさいそういつ:臨済宗妙心寺派の僧)の登場がなかったら、彼の生涯もなかったのではなかろうか?虎哉は、決してこの地に骨を埋める気などあってやって来たのではない。東昌寺の康甫(こうほ:住職)に乞われて、やむなく掛錫〔けしゃく:修行僧が行脚(あんぎゃ)の途中で他の寺にとどまること〕したのだが、それがついにここに居付くことになってしまった。政宗が、彼の魂に執拗にからみついて離れない。というよりも、虎哉のすべてを吸いとって育ってゆくのが、ハッキリとわかるからであった。もともと...政宗の師・虎哉宗乙

  • 伊達政宗は信長、秀吉、家康で軌道が敷かれた時に誕生

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――伊達政宗は、永禄十年(1567)八月三日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生れた。この時父の輝宗は二十四歳。母は山形の城主最上義守の長女義姫で、二十歳の初産であった。この永禄十年はどんな年であったろう?日本の統一に最初の道をつけた織田信長はこの年すでに三十四歳で、当時の将軍足利義昭を擁して入京を遂げる直前に当り、二十六歳の徳川家康は、長子信康のために、信長の長女を祝ってやった年にあたる。後に政宗を苦しめた秀吉は三十二歳で、信長の部将として盛名を馳せだした頃だ。後年、伊達政宗が、自分をして、もう二十年早く、この世に生を享けさせていたら、決して彼らの下風には立つまいものをと慨嘆させたのは、この年齢差を指...伊達政宗は信長、秀吉、家康で軌道が敷かれた時に誕生

  • 伊達政宗(1488-1565)

    今回のシリーズは、伊達政宗についてお伝えします。――――――――――――――――――――――――父は米沢城主・伊達輝宗の子として生まれる。幼名梵天丸、元服して藤次郎政宗と称する。天正十二年(1584年)家督相続し、翌年父が二本松義継のために不慮の死をとげたのち、積極的に領土拡張に乗り出す。天正十七年(1589)芦名義広を摺上原(すりあげがはら)の戦に大敗させて会津地方を収めたのを契機に、南東北一帯に広大な勢力圏を築きあげた。こうしたことが豊臣秀吉の惣無事令(そうぶじれい:大名間の私闘を禁じた法令とされるもの)にふれて追及されたが、天正十八年(1590)小田原征伐に参陣して豊臣政権の支配下に降(くだ)った。父祖伝来の地・伊達郡や会津地方は没収されたが、秀吉の奥州仕置きに従って葛西・大崎一揆を平定し、領内の検...伊達政宗(1488-1565)

  • 「心が折れる」のは、どのような人か(後編)

    (心が折れる人の特徴③――利己主義者)「心が折れた」と言う人の特徴として、一番目に、「頭が固い」ということ、二番目に、「完全主義、完璧主義の傾向が非常に強い」ということを挙げました。さらに、三番目の特徴として挙げられるのが、言葉はきついかもしれませんけれども、「利己主義者である」ということです。本人は、まったくそうは思っていないのですが、はっきり言って、利己主義者なのです。こういう人の場合、「自分は利己主義者である」と気づいていないことが多いのです。「自分は、純粋にきれいな気持ちで生きている」と思っていて、いつも被害者の立場にいるつもりでいます。彼らは、「経済や景気などの外部環境に害されている」とか、「会社の人間関係において、社長や上司など他者から害されている」とか、とにかく、今の自分の不幸や苦しみ、自分...「心が折れる」のは、どのような人か(後編)

  • 「心が折れる」のは、どのような人か(中編)

    (心が折れる人の特徴②――完全主義者)二番目に言えることは、「完全主義者である」ということです。「心が折れた」と言える人のなかには、意外と完全主義的な人が多く、自分が最高度に輝いているときや、よい状態でいるときには、機嫌よく生きています。しかし、人間には、個人的なスランプもあれば、周りのさまざまな状況の影響を受けたり、チームメイトや仲間などの影響を受けたりすることがあります。そのようなときに、完全主義者だとうまくいかないことがあるのです。「心が折れた」と言いやすい人は、この「完全主義者」や「完璧主義者」と言われる種類の人のなかに数多くいます。前述した「ポキンと折れる線香」ではありませんが、そういう人は自分で自分を勝手に折れやすくしているわけです。「心はゴムのようなものだ」と思っていれば、本当に心は折れない...「心が折れる」のは、どのような人か(中編)

  • 「心が折れる」のは、どのような人か(前編)

    (心が折れる人の特徴①――頭が固い)今、「心が折れた」と言う人が数多くいるわけですが、これは宗教的なテーマでもあるため、おそらく、宗教施設でも、そのような相談をする人は多いことでしょう。では、「心が折れた」と言う人には、どのような特徴があるのでしょうか。一番目に言えることは、「頭が固い」ということです。たいてい、柔軟ではありません。すなわち、「物事を柔軟に考え、対応していこう」というような姿勢がないわけです。とにかく頭が固いため、何か、予想していないような変化が起きたとき、要するに、震災や不況、事故や人間関係の問題など、予想外、想定外のことがあったとき、非常にもろいのです。したがって、「心が折れた」と訴えてくる人に対しては、まず、「あなたは、頭が固いのではありませんか。その頭を、もう少し柔らかい頭につくり...「心が折れる」のは、どのような人か(前編)

  • 心は折れるものではない(後編)

    (「心が折れてたまるか」は一喝の言葉)「心が折れてたまるか」という言葉は、仏教的には「一喝(いっかつ)」に相当するものです。すなわち、「今の日本は、あまりにも弱くなりすぎているのではないか」と私は言いたいのです。特に、「三・一一」の東日本大震災と、それに伴う大津波、原発事故等における政界の迷走、マスコミの大騒ぎなどを経て、国自体が自信を失いつつあり、日本は、「世界のリーダー」としての地位から、ずり落ちようとしています。将来の見通しがなく、リーダーシップもなく、何か発展しない雰囲気が漂っていて、とうとう、「田んぼから出てきた“ドジョウ”を総理に指名した」という時代になっています。そのように、今の日本には、あまり見通しの明るくないような話ばかりがあり、国民は、泥のなかに潜(もぐ)って生活しなければいけないよう...心は折れるものではない(後編)

  • 心は折れるものではない(前編)

    (大震災以降、気になりだした、「心が折れる」という表現)近年、「心が折れる」という表現がよく使われています。この言葉が広まるきっかけとなったのは、あるスポーツ選手の引退時の発言だったようです。その人は、試合終了後、プツンと気持ちが切れて引退を決意し、「心が折れた」と語ったそうです。特に、『三・一一』の東日本大震災以降は、その「心が折れる」といった表現を耳にすることが多くなったように感じます。そのような使われ方をよく聞くため、私も気になりつつあるのです。「心が折れる」と言うと、「立てておいた線香が、ポキッと折れたのか」という感じに聞こえますが、心はそれほど簡単に折れるものではありません。割り箸などは二本に割れますが、それでも、横向きに折ることはなかなかできません。そのように考えると、「『心が折れる』とは、ど...心は折れるものではない(前編)

  • リーダーとしての器づくり(後編・下)

    (成長の過程を楽しみ、「永遠の挑戦」をしていこう)上の立場にある人が器を大きくするためには、どうすればよいのでしょうか。それは「永遠の挑戦」をしていくことです。簡単に出来上がらず、「自分の成功は、これで完成した。最終点に到達した」と思わないことが大事です。そして、「まだまだ、これからだ。毎年毎年、前進し、成長していこう。能力的にも、経験的にも、知識的にも、いろいろな面で成長しよう」と思うことです。もちろん、年を取れば体力や気力は衰えてきますが、体力や気力の衰えを、知識や経験、あるいは、深い洞察力で補い、「別なかたちで成長し続けよう」と思うことです。上に立つ者が成長し続けるかぎり、その人に続く人たちも成長し続けることができます。上の者が、「もう、これでよい。これ以上、何もする必要がない」と思う“天井状態”に...リーダーとしての器づくり(後編・下)

  • リーダーとしての器づくり(後編・上)

    (若い部下に嫉妬しない上司になる)自分の年齢が上がることには、ありがたい面があります。若いころには難しいのですが、年を取ると、自分より優秀な年下の人を使えるようになるのです。自分と同年代であれば、才能が拮抗(きっこう)したり、お互いにライバル関係になったりして、一緒に仕事ができないことがあるのですが、そういう人についても、自分と年が離れてくると、だんだん、部下として使えるようになります。やはり、世の社長族がたいてい年を取っているだけのことはあります。確かに、自分が五十代、六十代、七十代になってくると、「この人は、三十歳のころの自分より十倍ぐらい仕事ができる」と思うような人でも使えるようになります。例えば、「現在六十歳の社長が三十年ほど前に会社を起こしたときには、その会社は“おんぼろ会社”で、ろくな人材がい...リーダーとしての器づくり(後編・上)

  • プーチン大統領の4州併合式典の演説(抜粋版)

    ノルド・ストリーム(海底天然ガスパイプライン)の爆破につづき、クリミア大橋の爆破、世界はとても危険な状況をつくり出しているように感じます。数日前、私のブログで、今後の戦いで最終局面の状況になると、プーチン大統領の核使用が懸念されると述べましたが、プーチン大統領は敬虔なる信仰者であり、安易な行動には出ないと推測しています。その根拠となる動画を皆さんにも見ていただきたい。この動画は、2014年6月13日、フランスで行われた「ノルマンディー上陸作戦70年記念」で、欧州やロシアなど20カ国以上の首相が参加しました。盛大なイベント会場では、大スクリーンに日本への原爆投下のモノクロ映像が流れた。原爆投下に拍手したNATO首脳たち。アメリカのオバマ大統領は、ガムを噛みながら、原爆投下の瞬間に拍手をしていた。ドイツのメル...プーチン大統領の4州併合式典の演説(抜粋版)

  • リーダーとしての器づくり(前編・下)

    (自分より力のある人を部下として使えるか)人生においては、途中で、おそらく、自分を評価する基準が変わっていき自己評価は変化していくだろうと思います。私は、若いころには、「自分一人の努力によって自分の能力を磨く」ということに力を注ぎました。当時の私は、自分より十歳もニ十歳も三十歳も年上の人とチームを組み、一緒に仕事をしていました。それから二十年以上の歳月が過ぎ、ようやく、組織の長として、働くことができました。組織の長としては、自分の指示をよくきいてくれる人のほうが使いやすいに決まっています。自分よりも年齢が若く、知識も経験も少ない人であれば、指示したとおりに動いてくれるため、使いやすいのは当然です。ただ、そういう人は、知識や経験が足りないからこそ、上の人の言うことをよくきくわけです。その意味で、大きな仕事を...リーダーとしての器づくり(前編・下)

  • リーダーとしての器づくり(前編・上)

    (多くの人の力を結集できる「大きな器」をつくる)若いころには、特に、自分の能力に頼る傾向があります。そのため、「自分の能力を鍛える」ということ、つまり、「自力」に力点があるのは当然ですし、むしろ、そうであるべきだと思います。若いうちに、あまり人に頼ってばかりいては駄目なのです。そのように、若いうちは、「自分に厳しく、自分を見つめ、自分を鍛える」ということが中心であってよいと思いますが、一定の年齢を超えると、「自力だけではどうにもならないもの」を感じるようになります。大きな成功を求めれば求めるほど、「自分一人の力では、どうにもならない」ということが分かるのです。多くの人の協力を得ずに、大きな成功を成し遂げた人など、いません。例えば、革命や建国のリーダーたちは、優秀なリーダーであったことは事実でしょうが、自分...リーダーとしての器づくり(前編・上)

  • 不完全なあなたで、いいんです。

    魂的に、霊的に、自分を非常に責め、毎日、夜も眠れずに苦しんでいる人がいるならば、完璧な自分のみを求めてはいけない、と言いたいんです。80%主義でよいから、とにかく生き抜くことです。そして、完全な人生、完璧な人生、欠点のない人生、傷のない人生ではなく、よりよい人生を選び取ることが大事です。皆さんは仏神にむけて、霊的に進化することを目指してはいますが、仏神ではありません。この世に生きている以上、毎日毎日、失敗を重ね、苦しみながら生きているのです。したがって、よりよく生きることを目指すべきです。人間は仏の子であると同時に、この世においては、不完全に生きている不器用な生き物であるということを、知らなければいけません。不器用に生きている自分というものを、認めなければいけないのです。---owari---不完全なあなたで、いいんです。

  • 幽霊の条件

    幽霊の存在を信じたくない、という人も多かろう。その気持ちも少しだけ分からなくはない。たいていは「恐怖心」の問題だろう。人間には肉体に魂が宿っている。死とは肉体と魂が分離することで、あたり前のことである。天上界に還った魂には苦しみはなく、安らぎのみがある。幽霊と呼ばれるのは、この世しか住処(すみか)を知らず、未練がある魂のことである。本物の宗教を信じることが大事である。---owari---幽霊の条件

  • 「動員」「4州併合」でプーチン・ロシアはどうなる???

    国際関係アナリスト・北野幸伯さんの「現代ビジネス」に掲載された記事からお伝えします。―――――9月の後半、ロシア・ウクライナ情勢が大きく動いた。プーチンは9月21日、「部分的動員令」を出した。続いて9月30日、ルガンスク州、ドネツク州、ザポリージャ州、ヘルソン州併合に関する条約に署名した。なぜ、プーチンは、国民の反発を覚悟して、動員を決断したのか?なぜ、国際社会の批判を無視して、4州併合に踏み切ったのか?(ハリコフ州での大敗)先月の記事にも書いたが、プーチンは最近まで「停戦交渉派」だった。たとえば、プーチンは9月16日、ウズベキスタンでインドのモディ首相と会談した際、「私たちは全てをできるだけ早く終わらせたいと思っているが、ウクライナ側が交渉を拒否している」と語っている。トルコのエルドアン大統領は9月16...「動員」「4州併合」でプーチン・ロシアはどうなる???

  • 地獄も知らないで・・・

    世の中には、勉強をすればするほど、知恵を失い、バカになる人がいる。シンプルな真理が分からなくて、複雑に考えすぎたり、「エポケー」という判断中止に逃げこんだり、懐疑論者になることを、知者になることだと思い込んでいる人がいる。今の学校教育では、魂も、天国、地獄も教わらない。調査報道とかにあこがれるマスコミ人も、この世のことしか扱わない。幽霊話はエンタメになり、幽体離脱は、脳と神経の作用ということにしてしまう。いつから人間は、こんなに愚かになってしまったのだろう。善悪が分かるということは、天国的か地獄的かが分かるということだ。地獄も知らないで、地位や名誉、財産や異性への欲望を追い求めて、「知の巨人」もあったものではない。死後、漆黒の闇の中に取り残されて、自分は総理大臣だ、とか、東大名誉教授だ、とか言っても、誰も...地獄も知らないで・・・

  • 手段としての学問

    子供時代、やみくもに勉強させられた、という人がいる。一番遊びたかった時代だ。また、お金と、人手と、情報を使って、他人の子供と差をつけたがる親もいる。いずれ、子供は「燃え尽き症候群」になる。伸び切ったゴムが戻る力をなくし、引っ張りすぎたバネが、元には戻らなくなるのだ。それでも学歴を身分制社会と思い込み、資格取得を人生の目的だと、勘違いする人の種は尽きない。子供も幸福になりたいし、親も幸福を味わいたいのだろう。しかし、私は思うのだ。標準的にみて、人生の三分の二は終わっただろうが、自分の勉強は、「手段としての学問」ではなかったと。「目的としての学問」は言いすぎかもしれない。しかし勉強することは愉(たの)しかった。テストで採点される身としては、「奴隷の学問」だったかもしれないが、自分が好んで勉強するのは愉しかった...手段としての学問

  • 体力の壁

    年齢をとったので何をするにもおっくうだという人がいる。また、「社長病」といって、一日二千歩しか歩かず、水分ばかり摂り過ぎている人もいる。しかし、勇気を出して、体力の壁を乗り越えていこう。それはこまめな努力あるのみである。私も同期の人たちが、次々と年金生活になって、年老いていくのが淋しくてならない。大学時代の同期の人が、私の写真を見て、「学生時代と変わらない」と言う。その人の写真はまるで別人で、学生時代の面影すらないのだ。若いころ、髪の毛がふさふさとあった人が、今は髪の毛一本もないこともある。生きがいや、使命感の問題もあろう。しかし、継続して、体も頭も鍛え込む努力は大切だ。「因果の理法」は、決してあなたを見放さない。慈悲の女神は、すでにいるのだ。---owari---体力の壁

  • 年齢の壁

    都会のトンボは、窓ガラスにぶつかって落ちるということはまずない。しかし、山の中の家では、トンボも、チョウチョも、蝉も、運悪く窓ガラスにぶつかって、頭を直撃し、落下することが多い。生まれて、わずか一週間や十日では、経験も積めず、教え合う文化も、ないのだろう。明治の時代に洋風文化が始まった時、銀座のスズメが、窓ガラスにぶつかって落下したり、舗装道路に着地失敗してころんだ、という『世相史』を大学時代に読んだことがある。やがてガラス窓や舗装道路が増えて、彼らの失敗もなくなっていった。教育、経験、年齢は、自然界にもあるらしい。人間界では若い人はメカに強い。しかし、それだけでは超えられない、年齢の壁がある。大人になるということは、本当に難しい。一年一年それを感じる。---owari---年齢の壁

  • 出世を責任逃れに使うな

    人の心は弱い。仏法真理を学んでいるつもりでも、結局のところ、自分に都合のよいところだけ、摘み食いしている人も多い。地位が上がれば信仰心があるようにふるまい、地位を下げられると、何もかも否定されたかのように、暴れ回る人もいる。どうしてそこまで、自分がかわいいのだろう。それなのに、他の人々の目には、見栄だけで生きているようにしか、映らないのだ。私は何十年も、こんな人々を見てきた。近ければ甘え、遠ければひがむ。かつて愛された者は恨み、深く愛されたことのない者が、淡々と教えについてくる。人には、長所もあれば欠点もある。仕事には、成功もあれば失敗もある。諸行は無常で、この世に永遠なものはない。だから一言いっておきたい。出世を責任逃れに使うな。一定の地位(ポスト)が与えられたからといって、過去の悪さや失敗が帳消しにな...出世を責任逃れに使うな

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、このゆびと〜まれ!さんをフォローしませんか?

ハンドル名
このゆびと〜まれ!さん
ブログタイトル
このゆびと�・まれ!
フォロー
このゆびと�・まれ!

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用