わたしは「作家と住空間」という電子出版をこの4月初めに出版します。住宅にかかわって生きてきたことのNEXT領域感。徐々にご案内をしていきたいと考えております、ぜひよろしくお願いします。作家はその生きた時代が終わったあと、住んでいた住宅空間が「祈念碑」のように保存されたりする。きのうも友人たちとの終末期の交友心情について触れたけれど、人間各個の生死の領域のことまでを大きく深く含めた全存在として、作家という存在はわたしたちといわばこころの交友を重ねていくものだろう。わたしが生きてきたなかで、大きな影響力を持った作家の一人として三島由紀夫がいる。かれのあの最期の自決事件があって、現代世界での一種の「アンタッチャブル」としてあり続けている。その住空間はいまも東京に残され保存されているけれど公開はされていない。ただ...【山中湖畔に「三島由紀夫文学館」を訪ねる】
人間には寿命がある。どんなに深い交流をしてきた人間同士も、黄泉を境するときは必ず訪れる。そういう事前の報告・告白を受ける、その人間の体力の状況をつぶさに直接その人から耳にすることが増えてきた。ちょっと不思議な静けさの時間。だんだんそういった時間・出会いが増える。やがてこいつと、不可逆な別離がやってくると深く知らされる機会。これは避けがたい。自分自身すらそういった状況と正対せざるを得ない時間も幾度か経験している。逃れがたい諸行無常。そういう人間同士の時間・体験が積層してくると、みなさんはどう感じられるだろうか。わたしの場合は、ある「諦念」に似た心理が沸き起こり、覚悟というようなものを自覚するようになる。そしてやがて、今現在の状況に立ち返って、今この時間への深い愛着の心理に満たされるようになる。一期一会。そん...【知友からの「病状」告白の静かな衝撃】
昨日は東京であちこち打合せ。で、無関係ながら街角を歩いているとふとスーパーではない野菜屋さんの店頭風景に目が泳いでしまった。なんとわが家ではしばらく買っていない(泣)キャベツが1玉200円を切って販売されていた。「おお」であります。東京なのに!わたしは、カミさんと週末必ず買い物に一緒に行くライフスタイルを続けております。自分で料理するのが好きなので、オモシロそうな季節感を反映した魚を品定めするのが日課なのですね。最近ではニシンのありがたい豊漁ぶりをこのブログでも書いていますが、わが家ではここ2ヶ月くらい豊漁を反映しての安値のニシンの焼き魚が朝の定番化していることはご報告済み。一方で、ご多分に漏れず最近の憂うべき「キャベツ」を初めとする野菜類の価格高騰ぶりには苦悩。最高の価格時期には日頃通うスーパーで1玉4...【庶民を苦しめる野菜高騰に変化?in東京街角】
さてここのところの雪割り作業で、筋肉痛がジワジワと感じられてきました。10坪超の結氷層、約20cm超を雪割りし続けるのは「良い運動」ではあるのですが、やや年寄りの冷や水か(笑)。出張移動で6kg弱ほどのリュックを背負って歩きまわっていると、筋肉痛に目覚めてしまった。まぁ、そう重症でないのが救い。本日から東京都内での移動ですが、重たい荷物は回避して、基本的には地点間はレンタカー移動で体を労りたいと思います。で、新千歳空港を経由。ここのところいろいろな機会があり3日に1回くらいは空港施設に来ています。活発な海外旅行客の北海道流入があり、また年度末での国内移動の集中ということで、札幌都心以上の混雑ぶり。昨日はとくに国内線エリアでは家族揃っての北海道転勤移動の姿が目立っておりました。やはり子どもさん連れの様子には...【さかな系・和定食と自作料理のコスパ】
本日は昨日のブログテーマの続き。この時期のさっぽろ市民の興味は家の周りの融雪状況。わが家はほぼ正面は北面していてなお角地なので公的除排雪でも前面道路の堆雪が除去されにくい。固い結氷雪が積層せざるを得ない。春の融雪も黙っていては融けにくい悪条件立地。で、出張前に雪割りしそれを建物側に積み上げて時間を掛けて融雪させようという作戦です。昨日の札幌は午前中は雨がかなり強く降って、気温は一昨日と比べて2−3度ほど低下。写真の一番下がその気温状況。午後からはおおむね晴れ間も覗く天気でした。こうした天候条件での1日の融雪状況についてきわめて対比的に写真撮影できたので比較してみました。目視的には総量は3割以上減ったように思われます。とくに写真手前側では明確に凍結雪氷が融けて、そのラインが後退していることがわかる。また雪山...【最高気温7度さっぽろ・固雪の1日融雪状況】
ここ数日、札幌もようやくにして「雪割り」好適の天候が続いております。12月からの冬の間に積層していたわが家駐車場の雪は放って置いても融雪はするのですが、厚さ20cm超ほどの頑固に固い積雪面がそれでも10-15坪ほどは残っていました。春の陽射しとやわらかな雨にノンビリと任せるのが普通でしょうが、自分の健康チェックも含めてこういった残雪に対して、それを自力で処理する努力で立ち向かっておりました。雪割りって結構な「力仕事」なのです。先日来書き続けていますが、こういう「雪との対話」には、北国としての独特の「季節感」の感性が象徴的に込められているように思われる。一種の「庭仕事」的な思いがそこにあるのですね。そのように自覚的に取り組んでみると、季節感とシンクロする「努力目標」みたいなものが盛り上がってきて、いわば「最...【さっぽろ今シーズンの固雪処理、最終の風景】
昨日は「ソトダン21」という住宅団体と「住宅性能向上DXコンソーシアム」という団体の共催での合同セミナーをWEBで参観していました。わたしは住宅雑誌Replanの事業を譲渡した後、引き続き関連企業「リプランハウス株式会社」としての立場で個人的に住宅業界の情報世界に関わり続けています。譲渡してから1年半経過していますので、ようやくリアルタイム感からはすこし開放されてきたと思っております。が、ときどきリアルタイム感に引き戻される瞬間もある(笑)。昨日のセミナーでは東京大学の前真之先生の講演もあって、聞いておりました。先生の講演は3/13のReplanのセミナー札幌会場でもナマで聞いていましたので、ほぼ連続的に聴講できた次第。なんですが、会場にわたしの姿が見えなかった安心感からなのか、昨日の講演ではスライドのな...【東大・前真之先生講演で突如わたしの画像が再登場(笑)】
ことしはニシンの「群来」の様子が北海道西岸に見られているほど豊漁のようです。北海道民として喜ばしい限り。ながく不漁が続いてきていたので、わが家でもニシンを食べる食習慣、それも自分で捌いて焼き魚として食べるということはほとんど絶滅していました。人生を遡って考えても母の手料理でもニシンの焼き魚の食事記憶はほとんどない。それが、この冬には馴染みのスーパー鮮魚コーナーでゴロンと生さかなとして販売されている。さすがにアニサキスが怖いので刺身や寿司ネタとして挑戦しようとは考えませんが、毎朝の焼き魚としてすっかり馴染んできています。それも店頭価格が「3尾399円」というお値頃価格。1尾あたり133円ということになるのでコスパ最強。味わいは淡白でしかも青さかななのに独特のコクがあって適度な油分も感じさせてくれる。なにより...【群来が続くニシン「3尾399円」捌くよろこび】
北海道札幌の戸建て住宅地では冬の間、12月から3月いっぱいまで4カ月間は雪の問題と向き合わざるを得ない。時々刻々と千変万化する気象状況と会話しながら、日常生活の重要な一部として、家の周りの戸外環境を整理整頓する作業が日常の大きな要素として居座っているのですね。ことしの冬との対話では新しい「気付き」として、こういう家の回りの環境コントロールは温暖地域の日本人がながく慣れ親しんできた「庭の整備整頓」と近似した営為なのではないかと思い始めています。もちろん庭仕事は余裕・ゆとりそのもののようであるのに対して、雪との対話・整理整頓には切羽詰まった必需性がある点がまったく違うのですが、日常的営為としては同質性を持っているように感じ始めている。温暖地では山水・自然への美的感受性が刺激されるのに対して、雪への対応はなによ...【さっぽろ住宅街、春の「雪割り」サンデー】
昨日は久しぶりの「住宅取材」で午前中いっぱい興味津々。すっかりあれこれのポイント満載でツッコミどころのあまりの多さに驚かされておりました。「作家と住空間」の取材も自分的には非常に刺激的なのですが、イマドキの住宅建築最前線事情もまた、いまの経済社会をすべて投影しているので分析しがいがある。で、帰ってきたら今度は電話連絡で東京の「中央省庁」とのやり取り。最近強く思っているのですが、政策についての申請〜やり取りが電子化してきてからどんどん「複雑化」してきていて、非常にナーバスな対応力を必要とされるようになってきた。むしろ書面と対面での作業の方がはるかに簡便なのではないかと思います。こういう困難はたぶん、電子化という情報交換手段の進化に対して人間社会の側の「常識化」がまだ追いついていないということのように思えます...【忙中閑・さっぽろ琴似の空中回廊壁画】
先日の握り寿司パーティの前に、北海道積丹半島・余市の名物鮮魚店・新岡鮮魚店に買い出しに行ったのですが、そこで驚かされたのが、この「タコまんま」。Wikiで調べたら以下のよう。〜タコまんまとは北方系のタコ・ヤナギダコの卵巣を呼ぶときの北海道太平洋沿岸地域における呼称。マダコの卵である海藤花に相当するが小卵型のタコで幼生が長期間プランクトン生活を送るマダコと違い、ヤナギダコはイイダコと同様の底生生活の幼体が直達発生する大卵型のタコであるために、ずっと大粒の卵である。ヤナギダコの卵は長径5mm、短径3mm程度と、マダコの卵の2倍以上の大きさの回転楕円体型で、色は白色がかっている。生のままだと透き通っているが、茹でると炊いた米状(まんま、まま)になるためこう呼ばれる。〜ということだったのですが、これはあとでわかっ...【道東海産珍味「タコまんま」初体験】
きのうは表題のような会議に参加しておりました。で、写真は北海道開拓の初源期の移住民による住宅建築の記録写真。北海道はほかの日本列島地域とは違ってその積雪寒冷条件から、江戸期までは「米作不適地」として移住は促進されていなかった。明治期に至って、むしろ国防的な主要因から急速に移民促進政策が政府によって開始され、この写真のような入植移住が進行していった。こうした経緯から北海道の開拓政策と移住促進の政策にとって「住宅政策」はもっとも核心的なこととして追究されてきた。最初は「北海道開拓使」という名前の「中央政府官庁」がその政策を主導してきたが、その後は地方政府自治体としての「北海道庁」が主体となって、その政策的DNAを受け継ぎ、地道に住環境の寒冷地対応研究を進めてきた歴史を持っている。ほかの地域ではこうした行政側の...【道庁「民間住宅施策推進会議」に参加】
先週末、やや疲れが溜まっていたので、寿司を握っておりました。家族が集まって食してくれた。わたしは料理が趣味でふつうの家庭料理が主なのですが、その延長線上で感じる好みとしてはこの寿司握りに向かいます。人によっては蕎麦打ちに向かう方も多いと思うのですが、これは「好み」なのではないでしょうか。人から勧められて蕎麦打ちのための準備はしてあるのですが、どうも「食わず嫌い」なのか、やる気はまったく出てこないのです。あ、食べるのは大好きなんです、単に食べるだけで、その清涼感にも似た食感、味わいは堪えられません。ただ、自分ではやる気が起きない。とくに「蘊蓄〜うんちく」系のテーマにはついて行けないし。一方、寿司の方はとくにネタの捌き、そのプロセスなどのさまざまに対して強く興味を持っている。魚へのこだわりが大きいのでしょうね...【久しぶりに寿司握り、魚への忘我と三昧】
石ノ森章太郎生家探訪シリーズは本日で10回目になった。「作家」という名詞はわたしのような昭和中期生まれの人間には、どうしても芥川賞的な「文学」者がその対象という刷り込みが大きい。少なくとも文学が最上位という固定観念。AIによると作家という名詞は「文章や書画などの作品を創作する専門家」という概念規定。やはり「文章」が最初にある。こういう社会全体の考え方が、文化を学び始める子ども時代の心理の基底に折り重なって文筆者がその筆頭概念になっているのでしょう。わたし自身も「作家と住空間」という電子本を書き始めて最初に取り上げたのは芥川龍之介。そういう刷り込みの大きさが自明なのでしょう。コトバの最優位性。しかし一方で現代人として、テレビや映画などの映像表現世界のビッグバンを経験してきて、ビジュアル情報の方がはるかに「先...【幼少年のときからの作家の「発想の仕方」痕跡】
1945年(昭和20年)の太平洋戦争の終結以降、日本社会は大きな転換期を迎えていく。敗戦後間もない1947年1月に手塚治虫は日本マンガ文化の記念碑的作品「新宝島」を出版し、ベストセラーとなった。1938(昭和13)年生まれの石ノ森章太郎がこの生家の自分の部屋で空想の羽を膨らませていたのは、1955(昭和30)年前後の時期。やがて仲人も務めてくれることになる手塚治虫の作品に出会った少年は、その豊かな才能を見出した手塚治虫から直接コンタクトを受ける存在になっていた。この生家の展示にはそういう時期の資料類も展示されていた。いちばん上は、手塚治虫が後輩たちを育成する目的で1952-1954年に掛けて「漫画少年」誌で掲載した「漫画教室」のひとこま。いかにも手塚的な挿絵と自筆で漫画制作の「手ほどき」が語られていて、ま...【マンガ天才少年への手塚治虫の導き】
昨日は石ノ森章太郎の「デスク環境」に絞って検証してみたけれど、本日はかれが高校卒業まで過ごしていた自室空間についてです。間取り図と窓の様子などから、この部屋はおおむね細長い6畳空間であることが推認できる。上の写真が部屋の奥から入口方向を見返した全景で、視界の手前左側に「ベット」と記載されたベッドが置かれていたことがわかる。畳を縦に1枚敷いて、それが横並び6枚並列されるような空間。そのままでは短辺方向に圧迫感が生じることが容易に予測されるので、新設の「出窓空間」が外側に張り出されたと受け取れる。この家屋自体は詳細な建築記録を参照できてはいないけれど現在で築100年を超える建築で、この石ノ森少年の自室の内装には昭和中期の「新建材」とおぼしき市町模様の床面フロア材や、当時の先端木製品工場から出荷された合理的建材...【石ノ森少年の「ベニヤ板壁」改装洋間】
さてマンガ作家としての石ノ森章太郎のロケット的なデビューへの助走期、高校卒業までの「こころの痕跡」を探る機縁。と思ったのがロケットランチャー・発射機ともいえる部屋の様子とデスク環境。「作家と住空間」というテーマにとっては、いかにもコアな領域と言える。もちろん作品などの創造過程自体はかれ石ノ森の脳味噌の中から発酵し表出してくる部分なので、きわめて「個人的」な部分であり余人からうかがい知れることは限られてくる。しかしその部分にもっとも「肉薄」できるのは、その作家の遭遇していた周辺環境、住のありようであることは紛れもない。それがわたしたちに体感可能な状態で残され、公開されていることは稀有なことだろう。同じ日本人としてほぼ同時代を体験し事跡を知っている人間としては、深く刺激的。で、この石ノ森少年が囲まれていたデス...【大工造作か?夢想を育んだ少年時デスク環境】
人間は自分ひとりで生きていける存在ではない。親があってはじめてこの世に生を受け、家族というぬくもりに支えられて成長していくもの。そしてその後「世に出た」後も、その出自の環境からさまざまに支えられながら、人生という波濤のなかに漕ぎ出していくものだろう。わたし自身も自ら顧みて、そうした大きな「繭」のようなものに深く抱かれていたことが実感させられる。この石ノ森章太郎生家を探訪していて、おばあちゃんや実姉の残影が色濃く感じられて、作家の内面を「覗き見た」思いが強い。さまざまな断面からのぞき得たけれど、さらに父親や母親の思いなども掘り起こすことが出来たらと思っている。そしてそのことが身を締め付けるように愛おしいと感じられる。こういう部分を注目していると柳田國男の掘り起こした民俗、いわば日本人的な「前世」観という思想...【マンガ家志望・思春期の石ノ森章太郎の部屋】
さて石ノ森章太郎生家の探訪取材。この家は建築後100年前後という「伝承」との説明。大正の末期から昭和の初め頃の建築と言うことになる。1926年前後。世界情勢としては日露戦争のあとロシア革命が勃発しソ連が成立したての時期。日本は日露戦争に勝利したあと、複雑な国際政治外交の世界にアジアの国としてはじめて参入する。そういった時代に生きていた日本人のひとつの間取り、家という社会の基本構成要素のありようが表現されている。登米市の中田町が現在名だけれど、当時は「石森町」という地域名。石森と書いて「いしのもり」と呼称するのが地域の習慣だったので、石ノ森章太郎はごく自然に最初は「石森」とペンネームを表記していた(本姓は小野寺)けれど、全国的にはふつうに「いしもり」としか発音されないことに違和感を持っていたのだそう。画業3...【石ノ森章太郎生家の間取り】
作家と住空間というわたしのNEXTライフテーマですが、どちらかといえば「住空間」の方に7:3くらいで力点があると認識しています。作家自身についてはたくさんの情報データもあるので、そちらには配慮しつつもあくまでもサブ的にと考えているところ。たまたま石ノ森章太郎のことを考えて見て、その作品については同時代的に耽溺していた自分自身の「体感」があって、作家とその作品世界理解という意味ではそう深くは触れる必要性を感じていなかったのです。正直。・・・なんですが、この住宅で触れた実姉・由恵さんの「人形作品」を目にしてこころが完全に奪われてしまった次第。昨日の人形と並んで、上の人形作品もまた展示されていた。昨日アップした人形が「正」であるとすればこちらは「奇」の表現だと思う。同一人物にして、このように違いが生み出されると...【トキワ荘のマドンナ・石ノ森章太郎実姉の残影】
石ノ森章太郎の「生家」取材シリーズです。わたしの場合、特定テーマについて気付くことを書いていくときに、この「毎日更新」のブログという機会設定はちょうどいいと感じています。取材現場では写真撮影と、そのときに「感受したこと」とが同期してその本然的興味のおもむくままにアングルとテーマを決定していく。住宅という空間を記録する、記憶するにはそういうプロセスが肉感的でふさわしい。もちろん住宅を記録するのには一定の作法があり、その部分については個人的に師事したと認識している写真家から言われたコトバをいつもアタマのなかで復元させながら、しかし自分なりにイメージ構成に取り組んでいる。そしてそこで得られた「体感」を大事にしながらデスクに復帰してから、写真を整理整頓する。この整理整頓作業では、その場で感じていたことが純粋化され...【石ノ森章太郎の実姉がつくった人形】
昨日の続きで、宮城県登米市の石ノ森章太郎生家で感じたことシリーズです。少年・石ノ森章太郎は、この生家で祖母が往来の繁華な道路に面した店舗を営業しながら、その成長を支え続けたのだという。こうした店舗守りという暮らし方が大きな人格形成に与った事例として、大阪堺の繁華街商店で店番をしていたという与謝野晶子の店舗という空間事例も体験している。彼女の場合は「夢見る少女」がその夢想を大きく涵養させた空間、というように感じたけれど、この店番空間では、もうちょっと違う印象を受けた。この台所空間は広い店舗にきわめて機能的な位置していて、隣接する、まるで店守りのための「休憩場所」のような居間・食堂の座空間のバックグラウンドになっていた。最近、祖母のやさしさということについて、いろいろ思いが至ることが多くなっている。子どもたち...【祖母の「母性」痕跡の空間】
もう少しで電子書籍「作家と住空間」が上梓されるのですが、そこで探訪した作家群の取材以降も、折に触れて全国各所で探訪を続けています。基本的にはその作家の「住んでいた」住宅そのもの、あるいはそのの残滓が感覚できる空間〜作家記念館などを探訪するワケですが、そうするとごく最近の人、まだ生きていてその評価がいまだ定まっていない作家などは、そういう住宅保存とかの段階に至っていない。勢い、死後であってその評価が定まっている作家人物に対して取材するということになる。そういった意味では、わたしのちょっと上の年代というのがもっとも若い年代ということになる。わたしの幼少期〜青春期はマンガ一色の文化模様。いわゆる文学としては三島由紀夫や大江健三郎、司馬遼太郎とかがあったけれど、文化としてはマンガがもっとも熱い領域だった。手塚治虫...【作家の住空間探訪の「奥行き」感】
3月の声を聞いて集中除排雪も来てくれたのですが、冬将軍さまはいじわるのように毎日頑張っております。昨日も夫婦でおおむね30分ほどは除雪していましたが、この時期になってくると北海道の真冬らしい「軽い」雪質ではなくて、本州日本海側の湿度の高い雪質に感じられてくる。って、生活したことはないのでこういうのは想像による感覚ではあります。ただ、実際に雪かきはしていないけれど、この写真のような光景は目にすることは多い。こちらの家は「太宰治〜斜陽館」として知られるかれの生家の最近の様子。2025年2月24日の様子。この部位は斜陽館として知られるかれの生家に近接して建てられた「疎開していた家」。ということなので、今から80数年〜90年前頃の家と言うことになる。太宰は超富裕層の出身で生家は江戸期に高利貸しで儲けていた家系。幕...【津軽と北海道。雪と住宅のワンシーン】
雪国人にとってほぼ半年にわたる「雪との対話」は、生きている証のようなもの。雪は個人の状況とは無縁にそれこそ自然の営みそのものとして関与してくる。一方年々加齢は進行してくるけれど、毎年、雪と体を通して相対しているとそれ自体が生命活動に深く関与していると感じられてくる。自分自身の健康感覚は毎年試され続けていると言えるだろう。マンション暮らしではたしかに雪と「縁遠く」はなるけれど、しかし無縁とは言えない。雪道歩行やクルマの問題だとかで否応なく自然環境と対話しながら生き続けていかなければならない。クルマでは常に「雪道にハマる」スタックの恐怖と隣り合わせ。いわんや戸建て住宅ではまさに直接的に日々の降雪具合に万全の注意を払って、イヤも応もなく対応を迫られることになる。例年11月くらいから、いつなんどき到来するかわから...【雪との対話もいよいよ晩冬期、除排雪風景】
大阪豊中の民家園でみつけた「十津川の家」参観体験から、北海道人としてすぐに思い至った新十津川の由来、その地域同士の関係性について想念を巡らせてみた。本日でひと区切り。敬愛する作家・司馬遼太郎の著作でも「街道をゆく」シリーズで母村の十津川について「十津川街道」があり、そして子村にあたる新十津川についても同じシリーズで「北海道の諸道」で訪問記が記されている。そうした記述に導かれながら、こうした「母子関係」ということが、いかにも北海道らしい「民俗」の起点のひとつになるのではと感じている。わたし自身のことだけれど、自分の家系が江戸期、それ以前にどこの地に生きて、はるかに自分という人間がこの世に生成したか、いわばルーツに強く惹かれている部分がある。それが兵庫県の各地、そして広島県福山市、そして漠然としているけれど「...【母村という新たな民俗概念十津川と「新十津川」-9】
前章までで触れたような独特の地域風土と歴史経緯をもった十津川の地を大水害が明治22年夏におそう。地域産のスギ材などを出荷する地域の大動脈となっていた十津川自体の流路が大破綻してしまって、その復元のメドすら立たない中で、母村の破綻を知った明治政府に出仕していた同郷人たちが即座に政権中枢に働きかけて、折から移民を募り続けていた北海道への集団移住実現のために奔走し、超スピードでその難民救済という国家的な政策対応が実現する。明治22年8月の発災から10月には神戸港から集団移住の船が総数2691人を乗せて出航したという。すごい速度感。船は北海道・小樽港に着岸し、そこから汽車や徒歩で内陸部に入り、翌年6月半ばまで「屯田兵屋」で越冬した後、入植地として定められていた「トック」に入っていった。この地名はアイヌ語の「トック...【明治22年北海道への集団移住十津川と「新十津川」-8】
【山間集落の中核・丸田家の間取り 十津川と「新十津川」-7】
この十津川郷の人びとの暮らしようとして対外的な交易による収入手段は林業生産。とくにスギの植林がさかんだった。そういった植林と伐採・出荷が営々と行われてきた。当然、十津川という河川を使った運搬が交易路。その運搬のためには伐採したスギなどを川原まで落としてそこで集約して結束させて、新宮などの海に面した港湾地域までいかだ流しをする。急峻な山間地域としてこうした「生産物」を出荷・育成管理するのに最適化した住宅建築が求められるだろう。スギなどの樹木の育成地に近接して山を背にした傾斜地に対して横に細長い敷地条件が必然になる。この丸田家住宅は、十津川に沿って開けた村の中心に建てられ山の斜面を削り取って盛り土していた。当然、南面する傾斜地が敷地として利用されるので、その方向に縁がまわされる間取り構成になる。奥行きは取れな...【山間集落の中核・丸田家の間取り十津川と「新十津川」-7】
上の写真は、今も使われる十津川の村旗で上には朝廷への勤皇思想を表す菊の紋章があしらわれ、その下に「十」の字がマークされている。もとは丸に十だったけれど、薩摩家と類似するので菱にしたという。北海道の新十津川も同じ紋章。右の石碑は「天誅組本陣跡石碑」。その下の文書写真は、1863年朝廷側近から十津川郷士に出された文書で天誅組に与力せずに京都御所に出仕すべきだと勧めている内容の記載。きわめて政治的に機微なことがらに十津川人が絡んでいることがわかる。東北での講演での出張日程ですっかり本来のブログ記事執筆のテーマの継続性が途切れていましたが、本日から再度「十津川と新十津川」シリーズ再開。北海道は日本全国からの移民が多様に住み着き、それが混淆してきた歴史ですが、そういった特異な「民俗」形成論を地道に掘り起こすべきだろ...【幕末明治の勤皇十津川と「新十津川」-6】
わたしのブログ記事ではときどき魚の捌きなどを書くのですが、今回久しぶりの八戸周辺訪問と言うことで、敬意を表して「八食センター」を探訪しておりました。扱われている魚種は、その時期の旬の魚たちなので、訪問中の食事でなにかと参考になるのですね。穴子やハモなど系統は北海道ではあんまり見かけない。ホヤはさすが三陸海岸ということで、たくさん出荷されている。また、ニシンはいまどき北海道では久しぶりの「群来」で沸いていて、わが家でも毎週3匹程度を捌き続けております。また、カレイで「オイラン〜花魁という意味だとか」と接頭語がついたヤツがたくさん出回っているではありませんか。どうも聞いたら、その腹部のビーナスラインが絶世の美しさで男達の目線を釘付けにするということ(笑)。まぁそういわれてみれば、肌つやといい、なかなかの美形と...【青森県東部と北海道のさかな大好き談義】
一昨日2/27に仙台空港から空路北海道へ帰還しましたが、どうも仙台空港でクシャミを発症して以来、体調がすぐれず2/28にはかかり付け医に伺って、風邪の投薬をいただきました。かかり付け医にかかった時には、仙台空港で外国の方とも接触があったので、一応念のため、院内に入る前にコロナの簡易検査もして大丈夫との診断も受けていました。用心は長引きますね。そのあとには出張で延期してもらっていた歯科の施術もあって、帰ってからはひたすら薬を飲んで睡眠確保でベッドで9時間以上。なんとかカラダの平穏感が戻って来ましたが、薬の作用もあって、ボーッとした感じで全然アタマは回転してくれない。「回転しない」という表現は日本語としてすごく優秀だなぁと思い至るほど、まことに脳味噌がしずかに佇んでいる感じでありました。このブログの記述はだい...【疲労&風邪から、元気復活・再起動へ】
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