日本社会では家は「永続」的な概念が強い。それは「一所懸命」というコトバが示すとおり、家族がその私有の拡大を長い年月を掛けて追究し続ける社会を作ってきた。親から子、孫へと資産を受け継がせることが正義。家は永く持たせたい財産であるという認識が強くなっていった。したがって歴史的に放火ということへの罪業の重さは共通認識だった。一所懸命への最大の暴虐だと考えられたのだと思う。一方、上の写真は東京国立博物館所蔵の「蝦夷島奇観」(1810年)から。北海道の先住の人々の「住宅の風習」のひとつに死者の家を焼くというものがあると、先日の古代住宅セミナー発表。先住の人々には「火」に個人やその血統属性が認識されていて夫婦であっても、その炉の火については不可侵性があったとされる。炉や、擦文文化期までの「かまど」の火はその「主人」だけが管...【生き方といのち北海道先住民の家焼き風習】
きょうはどっちかというと、歴史断片篇。近現代史というのは日本ではホント、きちんと教育されていないと実感。明治にどっぷりとハマり込んで開拓使の建築事跡の掘り起こしを最近の大きなテーマにしているけれど、高々150年前のことなので、資料などはたくさん遺されていて客観事実はけっこう正確に掘り起こせる。その事実から、現在に直接つながる昔人の思いが蘇ってくる。とくに住宅を基本フィールドとしているので、建築に遺されたよすがから、当時の人が何を考えていたかが再現できる。いまはちょうど明治14年の時点での札幌の状況を遺された「清華亭」建築を題材にして、この当時の札幌の最大のインパクトを遺したであろう象徴的な出来事である「明治天皇行幸」のことに思いを巡らせている。建築は定置的なものであり、その空間から空気感を想像できる。明治天皇の...【天皇巡幸路in明治14年・東北北海道】
昨年の冬にはフロリダので30数年ぶりという大雪があった一方で日本では夏の高温の凶暴化、台風による被害の大型化など「気候変動」がかなり顕著になってきている実感。この気候変動について、歴史年代で日本国土の地形が大きく変動してきている事実についてわたしもなんどか書いてきた。北海道の、わたしが住んでいる札幌を含めた「石狩低地帯」は8000年前には確実に「古石狩湾」という海だったということや、大阪平野もつい2,000年前くらいまで大きく地形が違っていた事実など。それは「気候変動」が過去何度も繰り返されたことを証明している。この気候変動と人類痕跡について、先日もニュースがあった。〜イスラエルにある古代の防波堤は、文明が海面上昇から身を守ろうとしたことを示す、最も古い証拠だというもの。いまから7000年前の石器時代にイスラエ...【気候変動と経済環境「変動」への対応】
さて明治14年の「清華亭」追撃であります。とくにわたし的に和室の障子に嵌め込まれたガラスに惹かれた。ガラスは建材として江戸期まで日本では発達することはなく、明治の開国以降、異人館建築で開口部の建材の主役として最重要な意匠要素になっていることに日本の建築界は突然の大洪水・ラッシュのように出会った。日本の木造建築では縁という外部とのあいまいな結界が「開口部」とはいえたけれど、むしろ「中間領域」と言った方が正しかった。もっと言えば明確な内外の感覚に乏しい建築だった。障子や雨戸という建具レイヤーで「仕切っていく」という感覚。窓、という明瞭な概念は乏しく、あっても宗教施設での装置くらい。無双窓にしても、外部への視線装置という概念よりも内外の「空気的連続性」の開放、遮断という二者択一装置に近い。そこに「透明な壁」であるガラ...【明治日本ガラスによる住宅意匠・性能革命】
きのうの続き、明治13年建築の開拓使建築の華「清華亭」。この建物は周囲を偕楽園庭園が囲み、さらに造園設計としてドイツ系米人ルイス・ベーマーが和洋調和した庭園を造作したとされています。かれはその後の札幌地域名産とされた「りんご栽培」なども手掛けたそうです。お雇い外国人たちというのは、実に深くこの地の開拓に関わっている。わたしたち北海道人には日本中のDNAのブレンドが見られるけれど、同時に日常的なメンタリティ・価値判断にインターナショナル性もある。ちょうど時代が明治に遭遇したこともあって、他地域とはかなり文化や趣向性の組成に違いが出たものでしょうか?和洋混淆という住宅のスタイルは、積極的に「洋造」を取り入れる大方針から、実際の実施段階に立ち至って、やはり日本人としての美意識も反映させる、そういった日本らしい「文明の...【地元産材が彩る和洋混淆の調和「清華亭」】
近代国家に至るにはいろいろなプロセスがあるだろうけれど、有色人種国で日本だけがなぜ明治維新からの急激な近代化を成し遂げ得たか、もと左翼少年であるわたしには、よく理解出来ない部分があった。もちろんいろいろな要因があるだろうけれど、最近ブログで明治の開拓という少年国家日本の軌跡を追体験するに付け、明治ニッポンの国体、明治天皇の存在自体が相当大きいと気付くようになった。明治維新混乱期、薩摩の大久保利通は古色蒼然とした京都公家政権という旧来型「天皇制」を否定し西欧近代君主制に変貌させるべく君主としての明治帝の意識改革・教育を志していたとされる。公家は武家などに天皇に直答させず「奥の院」化させてそのコミュニケーションを担当する公家だけが枢機に参画できる武家政権以前の王朝国家はそういう体制でやってきていた。徳川政権が崩壊し...【明治14年天皇北海道行幸と「清華亭」】
どうもことしは小雪傾向の札幌であります。しかし寒さはこの時期の平年並みには推移しているのでしょうか。早朝散歩時にはだいたい零下10度くらいにはなっている。気合いを入れて出掛けますが、首回りには重厚な「襟巻き」をする。で、口元から鼻までスッポリ覆ってしまうのですが、歩き始めるとすぐにそのあたりが息苦しくなる。息から水分が排出されるけれど、それがすぐに結露してつらくなるのであります。なので、ときどきそのあたりをずり下げて新鮮外気を呼吸する。でも寒いのでまた上げて寒気を防ぐ、またズリ上げる、を繰り返す。人体水分と寒気の相互作用のコントロールは、寒冷地の冬の定番的・習慣的な生きる「戦い」であります(笑)。そういう水分と寒気というものが面白い美感を提供もしてくれる。写真はわたしのここ数日の散歩道、琴似発寒川にかかる橋から...【零下10度前後の朝、氷結美を観劇する】
この写真群は、北大のデータベースに登録されている資料写真。開拓期の北海道の様子を数人のカメラマンが撮影し続けていた。日本民族が一丸となって北地開拓に取り組んだことは、かれらにとっても、身が震えるような思いがしただろうし、きのうまでまったくの未開の地であった札幌が、刻一刻と変貌していく様は、写真というツールを手にしたかれらにとってきわめて興味深い被写体であったに違いない。明治6年の札幌の居住戸数は634軒だったとされる。人口にして見れば4人家族として多分2000-3000人程度。それが現代では200万人に手が届きそうな大都市に変貌した。完全な「計画都市」で非常に人工的に造営された地域中心都市。きっと「平城京」とか「平安京」といった都市もこのように計画され造営されていったのではないか。そういう民族にとっての貴重な直...【145年前の札幌街区写真から立ち上る感覚】
写真はわが家のすぐ近くを流れる「発寒川」緑地から。早朝の散歩の時間帯、午前6時過ぎの様子であります。お利口さんで年中早寝早起き習慣がすっかり身についているせいで、こういった景色をふだんから普通に見られている。自然、ということについて考えることが多い。わたしは小さいときから「遠くまで行きたい」と漠然と夢想する性向。住んだのは記憶に残る時間からはほぼ札幌で、一時期8−9年ほどの東京、の2地点だけですが、行くだけなら日本中、大分県以外はほぼ歩きまわってきた。でも結局地球の上でのことなので、ちっぽけな人間にはその地域の「奥行き」の方が知ることが多いと感じるようになった。この写真のような光景に、いまこの瞬間として強く惹かれる。いつもこの場所に住んでいるのに、こういう風景もあった、というような気付きが得られる瞬間が多い。考...【冬至来たりなば、春遠からじ・・・ではないか(笑)】
しばらく現実世界とはやや離れた過去住宅取材にブログで没頭(笑)。それは一種の「ライフワーク」といえるので、今後とも継続していく考えですが、現実世界も大きなうねりが。マルクスではないけれどいま現代世界は「グローバリズムという怪物」への対応が試されているのではないか。日本では「現代史」というのはほとんど学校で学ばない。それを忌避するなにかがあって、現実の現代世界の中で日本はどう舵取りしていくべきか、という「現実論」が出てこない。空想的理想論はなんの役にも立たないのは歴史が雄弁に物語るのに。情動的な「正義感」論に欺されてはいけない。ちょうど好きなNHK番組「英雄たちの選択」スピンアウト版で「昭和の選択」と題して太平洋戦争・真珠湾攻撃に至った山本五十六連合艦隊司令官に焦点を当てた番組があった。これまで過去史について楽し...【現代世界の怪物「グローバリズム」対民主主義】
北海道住宅始原への旅、スピンアウト6-7世紀の竪穴住居、きのうからの続篇。蝦夷地と言われた北海道島では、やがてアイヌ文化に収斂したけれど、その過程ではいろいろな民族的混淆があった。大きな動きとして「オホーツク文化人」の人々の進出痕跡が色濃く残っている。かれらは北東アジアから「南下」した人々で海生生物狩猟が主たる生業。で、これまで北海道の古代史探究から以下のような推測を強くしております。かれらは北海道東部海岸部を中心に、宗谷半島を回り込んで日本海側の北部、礼文島や利尻島、さらに南下して奥尻島まで居住痕跡がある。きのうみたように大型海生動物、クジラ捕獲まで生業としていた。既存の居住者である(のちの)アイヌ民族とはまったく社会を異にしていた。しかし交易の対照としては、日本社会との直接交易を目指していた。かれら側からは...【古代北海道へ進出の海民生業と大型住居】
さて「北海道住宅始原期への旅」ですが、本日は日本国家が本格進出して札幌に開拓使本庁を設置した明治初期から一気に1200年遡って「古代集落遺跡群」セミナー資料からの論考。北海道では11-12世紀アイヌ期に竪穴から平地住宅・チセに変わりますがやはりそれ以前の竪穴住居について、強い興味を持っています。というのは、いったいどうやって「穴を掘ったか」に興味がある。写真下は6-7世紀の特異な存在である海民・オホーツク文化の遺跡「カリカリウス遺跡」に建てられた復元住居内部。こちらの竪穴は現代寒冷地の「凍結深度」並みで、なんと1mもの深さ。「オホーツク文化」では竪穴が大型で5−6家族が同居と言われるので、もちろん共同作業の人数も多いのだけれど、それにしても1mも掘るのはなかなかの重労働だと思えるのです。その上、かれらの家では地...【6-7世紀北海道海民・竪穴掘削の「鯨骨スコップ」】
ここのところ、ワンテーマ的に明治初年の北海道住宅始原期への過去探索を続けてきておりますが、本日はちょっと小休止。ブログという形式の特徴として毎日適度な分量を書けるので、ワンテーマを継続探究することはやりやすい環境条件だなぁと実感。SNS情報交流というまったく経験したことのない人間環境も知人のみなさんとの「共同作業」的な対話を構築できる。きっとこうした試みはかなり多く実践されているのではと思います。さて季節はどんどん過ぎてきて師走まっ盛り。年末進行の出版作業も進行していた雑誌類が製本仕上がりラッシュ。ということでやや一段落、すっかりサボっていた散歩を思い立ってここ数日、再開しております。わたしの散歩コースは北海道神宮境内から円山公園周辺。リスたちは雪の少ない残りわずかなこの時期、あちこちで出没。必ず寄り道する写真...【冬の散歩道の「メム」札幌の豊かな伏流水系】
北海道住宅始原期への旅シリーズ、2日間にわたって明治6年開拓使建築の住宅サイズ「洋造建築」を見てきたのですが、読者のShigeruNarabeさんから「洋造弐邸も本庁分局も、基礎に石山軟石を使っているのではないか」という指摘をいただいた。どちらも貴賓なり外国人教師なりの宿泊利用を想定した建築であり、また同時期に平行して初期開拓使建築の白眉といえる「開拓使本庁舎」が建設されているので上の写真を子細に見れば、たしかに本格的な「洋造」として基礎を石材で造作したことは蓋然性が高い。どちらも和風建築と違って、玄関へは数段の階段を上る仕様になっている。基礎がしっかりと積み上げられていると見える。で、さっそく北海道内有力建築研究家〜本人希望で名は伏せます〜へ確認の連絡を差し上げたら「史跡開拓使札幌本庁舎跡および旧北海道庁本庁...【開拓使明治6年建築・基礎に地元産石材?】
明治6年というのは開拓使の建築がもっとも活況を呈した1年とされる。象徴的建築としての「開拓使本庁舎」の大工事が進捗し、さらに「お雇い外国人」たちがどんどん入地してきて、いかにも北米的な「洋造新都市」がその骨格を表してきた時期。北海道開拓という大事業が小さな歯車の住宅建築とともに進展する。そういった「遠い記憶」の実相を見続けることは、いま令和というあらたな時代の開始にあたって明治からの遠雷。150年のタイムスリップは、しかしまったく古さを感じない。むしろ日本を進化させようとする明治の必死さに深く打たれる。明治5年以降、洋造方針が確立して北海道の建築はそれまでの日本の伝統建築から大きく離脱を開始する。そのときに「お雇い外国人」という存在は大きな役割を担った。ケプロンさんは、アメリカの「農務省」の次官から極東の小島の...【ケプロンも滞在?明治の端正デザイン「洋造弐邸」】
一見するとこれが明治の公共建築として建てられたことに驚かされる。非常に装飾性が強い建築であり、開拓使の建築の中で異彩を放つ。こうした建築はどのような色彩で彩られたのだろうか?もしカラー写真で残っていれば、そのまま現代といわれても不思議はない。この建物は建坪59坪・起工明治6年4月、竣工8月。総経費7,872円余。開拓使本庁舎、洋造弐邸に次ぐ経費を要したとされる。洋造弐邸についてはあす、触れてみたい。この本庁分局は開拓使を訪れる「貴賓」のための宿館とされている。開拓使が札幌で次々と建築を建てて、洋造新都市を建設していることが多くの要人たちの注目を集めたものか。北辺の開拓の実情、その進展具合に接したいという希望は強かっただろう。この当時判官職にあった岩村通俊の方針に沿ったものか、設計者として岩瀬隆弘がこうした「洋造...【明治6年開拓使デザイン住宅「本庁分局」】
先日ブログを書いていて、なにげにいただいたコメントで強く響いてきた言葉があった。ここ3ヶ月以上明治初年の北海道住宅の始原期に取材した「日本の住宅2.0」の原初を探る、みたいな「歴史の根掘り」作業に集中してきている。住宅と自分との証しのようなことかもと。それなのに時折「マグロ勝手丼」みたいなブログも書く。そういう様子を「三木さんはどこに行こうとしているのか(笑)」みたいなコメントをいただいてしまった。これがひどく自分自身のなかで「不意を突かれた」部分があったのです。そのコメントをいただいたのが、高校時代のわたしをよく知っている方。一気に、自分の出発点のようなことにタイムスリップ。で、この言葉「どこにいくのか」フレーズの原点マンガ読書体験。自分にとってこれが決定的なフレーズだったことに気付いてしまった。それが上のマ...【乱世・影丸の絶句「遠くから来て遠くまで行くのだ」】
引き続き「北海道住宅始原期への旅」。きのうは江戸期からの貴賓用の宿泊施設「本陣」を見ましたが、本日はより庶民向き旅館の「脇本陣」であります。きのうの本陣建築は基本的には和風の伝統的建築で新築されその後、お雇い外国人のための滞在用施設に転用することで「洋造」的な改修を加えたとされています。このあと、開拓使の記念碑的な洋造建築の代表作品になる明治天皇を主賓として建設された日本最初の本格的洋風ホテル「豊平館」が建設されるけれど、それに先行した「旅店」建築の日本国家関与の最終形になるものと思われます。和風宿館の江戸から明治への結節点ともいえるのでしょう。明治4年段階の開拓使建築では仮本庁、本陣とも「石置き屋根」だったが、こちらの脇本陣では柾葺き屋根が採用されている。建築の目的について、開拓使営繕報告書では以下の記述。「...【開拓使「脇本陣」明治4年11月➡5年1月竣工】
北海道住宅始原への旅であります。札幌建設草創期の追体験「取材」。この建物は明治5年の7月に完成した「本陣」建築。本陣というのは、江戸期の「高級ホテル」というべきもの。貴人(通常、身分制社会では大名などが相当する)のための宿泊施設。江戸期にわたしの家系先祖は広島県福山市近郊の「今津」という宿場で河本さんという古代の「国造」家以来の名家が経営する「今津本陣」から備品資材など一切の納入先「阿賀屋」として用命いただいていた。本陣は参勤交代などのときに、殿様クラスが利用する。肥前平戸藩主・松浦静山が1800(寛政12)年10月29日に参勤交代途中で宿泊時、その様子をかれの「甲子夜話」という記録文学の一節に書いている。ホテル側としての応接の用を果たすために先祖一族が雑魚寝して立ち働く様を「一族和合のきわみなり」と描写記録し...【明治10年「教師館」前・クラーク博士送別儀礼】
本日は「北海道住宅始原への旅」であります。明治5年には実にさまざまな建築が建てられるラッシュの時期ですが、建築労働者を中心に本州各地域からの「出稼ぎ」札チョン人口の拡大は治安維持の重要性にもつながった。そこで明治5年9月に最重要施設として「札幌邏卒屯所」建設。邏卒という言い方は、どれくらいの時期までの名前であるのか、非常に面白い言い方。さすがに「王政復古」の政権である明治新政権らしい王朝的な言い方と感じられる。「明治の頃、patrolに対する適切な日本語が存在せず、<巡邏査察>(じゅんらささつ)を当て嵌めその省略形としたことが呼称の起こり。欧米のポリスを模範に邏卒をおき取締組を編成,国家組織として邏卒総長には川路利良が任じられた。3分の2にあたる2000名が鹿児島県士族であること,帯刀を禁じ3尺棒を持たせたのが...【明治5年9月札幌邏卒屯所(警察署)】
先日の投稿で、「石置き屋根」のことにちょっと触れた。で、なにげに確認したいとGoogleで検索した。そうしたら、なにやら見覚えのある写真がトップに表示された。「あれ、この画像、なんか見た覚えがあるような・・・」と思って画面の下を見てみたら「コトバンク」の次にこれも聞き覚えのあるブログタイトル。(!)であります。わたしとしては、石置き屋根と瓦屋根の「進化プロセス」を知りたかったのですが過去の自分の影を捕まえたというか、めぐり会ったというか(笑)。こういった経験、ときどきあって、自分でもなにやら気恥ずかしいような気分になります。それとこういう記事の順番についての「アルゴリズム」はどうなっているのか、Googleにしても相当に研究してWEBの世界の羅針盤機能を果たしているのだろうと強く興味を持ってしまった。長く書いて...【Google検索したら、自分の投稿が表示された(笑)】
https://youtu.be/0aONxxguSQE<クリックでYouTube動画〜市場で仕入れ篇>本日で12月も二ケタ目に突入。あと残りも少なくなってきましたが、本日は元気注入「社長食堂」。ごくごく庶民的・家庭的なメニューで展開してきましたが、前回「けんちんうどん」開催時にリクエストを受けたら出てきたのが「マグロ食いてえ!」のひとこと。本州関西出身スタッフからは「寒ブリ!」の声もあったのですが、わたしの行きつけの「札幌中央市場場外店」の魚屋さんで聞いたら「寒ブリは、ちょっと時期が終わったかな・・・」という情報。京都付近ではサケ以上に「ブリ」人気。なんですが、最近はブリも北陸沿海というよりも北海道近海が主な漁場だそうです。で、マグロ料理法について札幌市内の「マグロ専門」料理店に取材。煮たり焼いたりというのは...【本日「勝手のっけマグロ丼・定食」にて社長食堂】
写真は金曜日開催の「古代集落遺跡」セミナーで配布されたパンフから。この写真は第2次世界大戦直前の1937年に樺太で撮影されたもので、「20世紀初頭まで使われていた」という「廃屋」の様子。網走市の「道立北方民族博物館」に所蔵されている。人物がふたり写っているけれど、この人たちが「住んでいた」のではない。しかし、周辺の状況なども含めてリアリティに満ちていて驚かされる。いま北海道住宅始原の旅をこのブログで書き続けているけれど、北海道で「洋造」建築がさかんに建設された一方で樺太ではこういった住宅が現役で利用されていたということ。竪穴住居というのは人類に普遍的な住居ですが、さすがにそこに現実に住んでいる様子というのは見たことがない。人体と住居が対照されると想像力が強く刺激される。11世紀頃には北海道アイヌ住居は「チセ」と...【20世紀初頭まで利用の竪穴住居in樺太】
本日はふたたび「北海道住宅始原の旅」です。このブログで明治初年の開拓使の「建築工事」の受注業者として「中川組」のことについて触れました。この建設業者は江戸に本拠のあった建築業者で、江戸時代末期建設の「函館奉行所」の受注業者であり、札幌での「新府建設」についても積極的に関与し、はじめは現地発注側に建築専門家がいなかったことからその設計などについてもあわせて受注していた、とされる。「洋造」以前の日本在来の建築工法で対応していたと思われる。この写真は、明治4年5月撮影のものということなので、かれらが考える建築の基本形式が表現されているのでしょう。ちなみに明治3年に2代目判官として札幌開発責任者になった岩村通俊はそれ以前開拓使本拠が置かれていた函館にいた。この岩村と函館奉行所の元請け事業者で函館がほぼ本拠になっていた中...【明治4年・札幌の建築業者自邸〜中川源左衛門邸】
住宅のジャーナリズムとして、現代生活の暮らしの器を考える、それに特化するばかりではなく、その由来にかかわる人間居住の本質をみつめたい、というのは基本的欲求スタンス。北海道島の場合、明治以降の「開拓」は現代に直接つながるテーマですが、しかし人間居住の探究という根源的テーマでは縄文からアイヌ期まで強く連関する痕跡が多く残されている。この「遺産」を世界遺産登録を目指す動きも近年盛んになってきている。北海道には知床の「自然遺産」はあるけれど、人為的な遺産登録はまだない。遺跡としての「価値」は認定されているのだけれど、「どこに普遍的な価値があるのか」というポイントでまだ道程があるようです。そういった北海道島の人間居住痕跡についてきのう、北海道大学学術交流会館でセミナーが開かれました。図は北海道東部の竪穴住居群の遺跡マップ...【北海道の古代「集落」遺跡群セミナー】
北海道住宅始原期への旅、やはり独特の文化風土の根源にも触れたい(笑)。ススキノというのは、日本の風俗文化史のなかでも特異な存在。いわゆる「繁華街」というもの、風俗というものを北海道開拓という目的のための有益な「手段」として意図して作り出したという意味で、驚くべきことだったのだろうなと思います。明治5年という年は黒田清隆による新都市「洋造」方針が基本方針として決定され旺盛に建築事業が興された年とされている。象徴的建築として「開拓使本庁舎」の建設が開始され、翌年6年に完工することになる。同時進行で各種建築工事が行われ建築工事「人足」が大量に札幌に投入されていた。「開拓使事業報告」ではこの本庁舎工事のためだけの分として5年7月に東京で「大工木挽鍛冶などの諸職工1,225名東京より招募す」とあります。その他も考えれば当...【昼はアメリカ建築・夜はススキノの札チョン文化初源】
北海道住宅始原期への旅、というシリーズ展開。すっかり明治初年の北海道探偵団のようなブログになってきた(笑)。こういうディープラーニングというのも楽しいものだと実感しています。というのは、その時代の空気感がさまざまに想像されてくる楽しみ。きのうは明治の「コトバの文化大革命」について書きましたが、総体としてのこの時代の状況が、断片的にスピンアウトして迫ってくる。知識としてアタマに入っていることにリアリティが湧いてくる、そんなような感覚に包まれるようになります。こういう作業を進めるほど、明治の北海道開拓と寒地住宅創造との強い相関関係が明瞭に浮かび上がってきます。北海道人、それも住宅に関わっている人間として知っておくべき原点ですね。島義勇は「開拓使判官」という高級官僚ではありますが、口述記録資料では雑魚寝の寝床で、誰か...【島義勇の最初期開拓使本府「金銭出納簿」】
わたしは高校生時代に新左翼系学生運動に没入経験があります。その後、その思考の呪縛から逃れられたのは、政治での「革命」よりも人間の生き方を変革することの方がはるかに意味がある、政治権力闘争で解決できる事なんてたいしたことはない、っていうように思うようになったからです。左翼運動政治って突き詰めれば本質は「ヤツは敵である。敵を殺せ」となる。<埴谷雄高さん言。もちろん政治的抹殺であって肉体的殺人行為ではない>なんかおかしい。人を変えるという本来の意味がない。で、革命っていうことのホントの意味合いを考え始めて、共産主義を理想とする思想からは中途半端な「改革」とされた明治維新について深く学び、知るようになっていった。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」読書なんかもきっかけでしょうか。そして「北海道住宅始原期への旅」で掘り起こし体...【明治ニッポンの「東アジア言語」文化大革命】
江戸から明治へ、局地的な戦闘はあったけれど、権力の中心首府江戸は無血で開城されその主人が徳川将軍から天皇に代わった。政変に伴う大破壊は回避され、あらたな権力意志表現の建築機会はなかった。それは消滅の危機にあった都市江戸の再生延命につながったので民族史的には喜ぶべき事だったように思えるけれど、では明治という新政府は、どういう「概念思想」で国民に臨むのかは必ずしも明確な意志を表明する建築機会がなかったともいえる。明治の変革は貨幣制度・暦・欧米との「外交」など信じられないほどの「革命」を社会にもたらしたと思います。令和のいま、振り返る機会を作ってこのブログで追体験しているけれど、その「青年国家」ぶりが非常に清々しい思いを抱かせてくれる。そういうなかで明治国家は北辺国防も兼ねた北海道開拓・札幌都市建設をもって新国家思想...【明治国家の「ホワイトハウス」開拓使本庁舎】
<開拓使仮役所〜札幌市北4条東1丁目><官員たちの宿泊施設になった「本陣」>さて引き続き、「北海道住宅始原期への旅」シリーズです。明治初年のことがらでいろいろ調べながらなので、ブログ記事としては行きつ戻りつというようになります。でも、ブログに書くことで「絶対毎日」という強いメンタルが生まれるのでイマドキのテーマ追求にはこういうカタチはいいかもと思っています。自由さがあって、毎日ワンテーマ的というのは書きやすい。で、本日は「洋造」以前の開拓使建築。島義勇が札幌開府に猪突猛進しほかの上司たちから独断専行のそしりを受け転任させられるのが、明治2年後半から明治3年3月という短期間。しかし札幌の基本の「街割り」は決定し都市計画の基盤は確定した。その後、明治4年には政府側の主導者・黒田清隆の方針が確定して建築については「洋...【明治3年段階開拓使札幌建設工事】
「北海道住宅始原への旅」シリーズ。きのうの【江戸城から開拓使本庁へ建築技術者のDNA移植】の続篇、スピンアウト篇です。わたしは住宅取材という仕事をしてきている人間。年間住宅数は最盛期には200軒くらい「取材」していた。その経験から住宅を「どう作ったか」という設計思想のようなものは雰囲気から「つたわってくる」という実感を持っています。江戸後期下級武士の「公営住宅」ともいえる「八王子千人同心組頭の家」を江戸東京たてもの園で体感した経験がある。ブログでも書いている。その後、明治「武人住宅」の琴似・屯田兵屋をあらためて訪れたとき、「どうも似ているなぁ」という強い感覚を抱いておりました。八王子千人同心は、下級の武士団であり半農半士的なありようだったことも琴似屯田兵との類縁性を強く感じさせられる。住宅全体の中での農事作業の...【なんか似てる幕末八王子武家住宅と琴似屯田兵屋】
「ブログリーダー」を活用して、性能とデザイン いい家大研究さんをフォローしませんか?