饒速日墳墓は矢田丘陵の北端にある。生駒市体育協会総合SC(生駒市白庭台)の広いグランドを南から北へ横切り、山道に入り道なりに進むと約15分ほどでたどり着く。石柱には「傳稱饒速日墳墓」と、左下に「浪華藤澤章」と個人名が彫られている。石柱の後ろ側には小さな石が約1㍍位の高さで三角山に積まれており、墳墓らしさが「演出」されている。饒速日(ニギハヤヒ)は物部(もののべ)氏の祖先神といわれ、天磐船(あめのいわふね)にのって天くだり、その後大和国の「鳥見の白庭山」に移り、長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ)を妻とした。一度は勝った神武天皇と再び戦が始まったが、金鵄が飛んできて神武天皇の弓先にとまり、長髄彦は目がくらみ戦うことが出来なくなった。しかし、長髄彦は神武天皇より先に降臨した饒速日に忠誠を誓っていた...富雄川流域探索「大和には出雲系が先に存在したっ」
「長髄彦の本拠地」。学研北生駒駅西へ直線距離1.2㎞の旧集落内にある。高千穂から河内湾(現・大阪湾)まで来た神武天皇(磐余彦(いわれひこ))は、旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近を支配していた神武天皇は長髄彦の抵抗により上陸を阻まれる。長髄彦は、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされて、長髄彦の娘を娶っていた饒速日(にぎはやひ)と言う神に忠誠を誓っていた。ところが、長髄彦が戦っているうちに饒速日は磐余彦(神武天皇)に仕えてしまう。磐余彦は長髄彦に「天は一人でない」と諭すが、改心しないので殺してしまう。「あー私はあなたが唯一の神と信じていたのに…」この饒速日は後の物部氏の祖であると日本書紀にあると言う。今日の暦:天...富雄川流域探索「信じていたのに…」
長髄彦が信じた神「天忍穂耳(あめのおしほみみ)」。神武天皇顕彰碑の先にある、天忍穂耳神社。天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた五皇子の長男「天忍穗耳尊」を祀る。神武天皇の東征に初めて抵抗した長髄彦が唯一の神と信じて忠誠を誓った「天忍穂耳」。天忍穂耳の子「饒速日命」に娘を娶らせていたが、しかし饒速日は長髄彦を裏切って神武天皇(磐余彦)の味方になる。今日の暦:天正13(1585)年、豊臣秀吉が四国を平定し、長宗我部元親を土佐に封じる。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川3」
「孔舎衙で戦に負けた神武天皇は河内湖を南に進み和歌山県熊野から八咫烏の案内により大和国に入り、再び長髄彦と戦うことになった。孔舎衙では東に向かって長髄彦軍に矢を放ったことは、天照大神向かって矢を放たことになった反省から、此度は東から西に向かって長髄彦軍と戦った。その時、神武天皇の弓の先に金鵄が留まった。それを見た長髄彦軍は目がくらみ矢を放つことが出来ず戦に負けた」とされている。子供の頃から聞かされていた話だ。今日の暦:安政1(1854)年、日の丸の旗を日本船のしるしとする。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川2」
西村橋西詰の少し南にある「出垣内」バス停の少し南側に案内標記がある。日本書紀にも記載されている、神武天皇東征の聖蹟を顕彰するため、即位してから2600年後にあたる1940年(昭和15年)の記念をお祝いする奉祝事業で建立された。顕彰碑は、大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山に点在する。九州を出発した神武天皇が率いる皇軍は、難波の碕を通って草香邑(くさかむら)から上陸し、大和へ入るために日下直越道(くさかただごえみち)を進むが、途中の孔舎衛坂(くさかえざか)で長髓彦(ながすねひこ)に行く手を阻まれ、紀伊半島を迂回する行動に出る。(国立デジタルコレクション、神武天皇聖蹟調査報告書より抜粋)。今日の暦:(1609)年、徳川幕府が、琉球を島津氏に与える。富雄川流域探索「日本書紀と富雄川」
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