1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大御神は徐福であった。悔しいが、これが真実であると思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫であった。倭迹迹日百襲姫も道教の祭祀をしていた。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つと思われる。 2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)また徐福に船出して神仙を求めさせたが、戻って、私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬を..
邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった 1 古事記によると「邇邇芸は筑紫の日向の高千穂のくしふるねに天降り、『この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて・・・』といった」とある。 (1)筑紫とは 木を切り「つくし」たところである。千五百の産屋・家・船を造らなければならなかった。 (2)日向とは 日当たりの良いところである。 (3)高千穂とは 中国山脈でも特に高い大山・烏ヶ山・蒜山三座の裾野から穂のように切立った山肌が見える。 (4)クシフルネとは 「川などの向こうの丘」という意味であり、鳥取県北栄町亀谷丘陵のことを指していた。 (5)「韓国に向きて」とは 朝鮮半島にある韓国(辰韓)のことである。天照大神や大国主に協力して天忍穂耳は稲作を導入して日本列島の国造りをするために、常世の国(雲南省周辺)より、稲作技術を持った人々を日本列島に入植させていたが、..
蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった
1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。 2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間..
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