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真実の古代史 https://ysaino11.blog.ss-blog.jp/

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

サイの尾・猿田彦
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2015/08/02

サイの尾・猿田彦さんの人気ランキング

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  • 百済の野望と目的達成

    百済の野望と目的達成

    百済の野望と目的達成 ⑴ 藤原鎌足は百済人であった(阿武山古墳)。百済名は翹岐であり、「百済王を倭国王にすり替えるため」に倭国に来た。その手始めが乙巳の変(645年)であった。 その後、倭国王を次々と暗殺していくが、ほぼ目的を達成したのが、宮崎県にいた百済王の聖武天皇を奈良県に遷したときであった(718年)。 ⑵ 扶余義慈・扶余豊璋のように百済人は扶余族であった。扶余族(藤原五摂家=霞会館・春日大社)は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である 。 金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も良い評判も言葉も国も。 倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。 鳥取県にあった地名を、筑紫や日向や葛城や磐余や石上や伊勢や難波や河内や高千穂や宗像(もとは胸形)や稲葉(因幡)などに持っていっ..

  • 百済の野望と目的達成

    百済の野望と目的達成

    百済の野望と目的達成 1 藤原鎌足は百済人であった(阿武山古墳)。百済名は翹岐であり、「百済王を倭国王にすり替えるため」に倭国に来た。その手始めが乙巳の変(645年)であった。 その後、倭国王を次々と暗殺していくが、ほぼ目的を達成したのが、宮崎県にいた百済王の聖武天皇を奈良県に遷したときであった(718年)。 2 扶余義慈・扶余豊璋のように百済人は扶余族であった。扶余族(藤原五摂家=霞会館)は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である 。 金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も良い評判も言葉も国も。 倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。 鳥取県にあった地名を、筑紫や日向や葛城や磐余や石上や伊勢や難波や河内や高千穂や宗像(もとは胸形)や稲葉(因幡)などに持っていった。 ..

  • 古代の都は鳥取県にあった

    古代の都は鳥取県にあった

      古代の都は鳥取県にあった     結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。   今までの調査の結果です。   1 天照大神と徐福 ⑴ 天照大神の名の由来 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。 第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れていき、その国で王(大神)となり帰ってこなかった(史記の淮南衡山列伝)。大神となった徐福は最初に見て感動した光景「光上照天」の「天照」を大神の前に付けた。 ⑵ 徐福と天照大神の来倭コースは同じ ➀ 徐福の来倭コース(史記と徐福文書より) 第2次..

  • 講演会があります

    講演会があります

    7月7日13時より、倉吉交流プラザ(倉吉図書館)2階(鳥取県倉吉市駄経寺町187-1)にて、講演会があります。 当日、受付にて、私の資料(定価800円・限定150部)を販売します。市販はしていません。 申し込みは、以下のサイトよりお願いします。 または https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdOpZmD72hS_COxUay9gAF6_X6sG10ptozSv3Gmb0xE7y89Qg/viewform

  • ​​​youtubeサイの尾・猿田彦chを開設しました

    ​​​youtubeサイの尾・猿田彦chを開設しました

    ​​​youtubeサイの尾・猿田彦chを開設しました。 立体動物キャラクターがしゃべります。https://www.youtube.com/channel/UCoP4goO7QAWB569KsKiIXNQチャンネル登録、よろしくお願いします。 ヤフオクで紙の本「真実の古代史」を発売中です。全10巻です。 読みやすいように時系列で古い順に並び変えました。難読文字にはルビをふりました。 A5版 本文(写真・図)カラー印刷 横書き 左綴じ です。 1巻 「今までのまとめ」40頁 980円 2巻 「序章、藤原氏」196頁 1780円 3巻 「天照大神、須佐之男」181頁 1980円 4巻 「黄泉平坂、大国主命とその一族、伊勢野の天照皇大神宮、 天忍穂耳命(大物主)、閑..

  • 丁未の乱について

    丁未の乱について

    丁未の乱(ていび らん)について 1 宣化・敏達・用明・崇峻は百済王であった。 (1)宣化は百済王であった。 この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。宣化天皇は百済王だから宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)も百済人であり朝鮮半島の百済でなくなっている。また、穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。 (2)敏達は百済王であった。 日本書紀・敏達天皇に「百済の大井に宮をつくった」とある。これについて、河内長野市太井とする説と、奈良県広陵町百済とする説がある。 私見では「百済の大井」はそのまま「朝鮮半島の百済にあった」とする。巧みに倭国の地名と倭人の名前を混ぜているが、敏達天皇は朝鮮半島の百済王であった。この時..

  • 藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した

    藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した

    藤ノ木古墳の4つの特徴 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた 1 横穴式石室の円墳 (1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。 出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用 (2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より) 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】..

  • 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか

    出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか

      第7節 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか 1 私見 出雲族は殷(いん)王朝(おうちょう)末裔(まつえい)の準王一族であった。準王一族はその王の名を代々長髄彦(ながすねひこ)・大己貴(おおなむち)神と呼んでいた。 大国主(大穴持(おおなむち))は歴代出雲国王の通称であり個人名ではなかった。 青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族しか思い当たらない。現在出土している国内最古の銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族が作ったものであった。出雲王家は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔(えい)であり、出雲王家は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族であった。出雲..

  • 著作権を侵害された方は連絡ください

    著作権を侵害された方は連絡ください

    2022年に紙の本を出版する予定です。出版にあたって著作権の問題を心配しております。問題になりそうな記述や写真は削除します。 私のブログの中で自分の写真や文章を使われて迷惑をしていると思われる方は、コメントできるようにしておきますのでコメントしてください。著作権侵害に関すること以外はコメントしないでください。コメントされても返事は書きません。あまりしつこいようでしたらコメントを削除・閉鎖します。 このブログでアフェリエイトも知らないので利益はほとんどもらっていません。出版する本も特殊な分野ですのでそんなに売れないと思っています。少ない数でも未来永劫にわたり語り継いでいってもらうために紙の本にします。それでも著作権侵害で訴えてやろうと思っておられる方はコメントしてください。

  • ​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係

    ​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係

    1 神戸の生田神社の由緒 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。2 三重県の伊射波神社の由緒 稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされて..

  • 八橋の地名由来(伝承)について

    八橋の地名由来(伝承)について

    八橋の地名由来(伝承)について1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。 「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。2 立縫郷は楯縫郷であった。 倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立は..

  • 鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました

    鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました

    1 出雲山について 鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。 宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。 2 石山について 2019..

  • 倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡

    倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡

    稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。 孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。 稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃岡山県岡山市青江170 天野八幡宮岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社岡山..

  • 鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主)

    鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主)

    1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑 蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社 三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。 蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。3 北条八幡神社の祭神と由緒​​ 土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。 当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記..

  • 倭健命ゆかりの地に行ってきました

    倭健命ゆかりの地に行ってきました

     1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。 倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。2 矢止めの荒神 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。 矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。 案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢..

  • 葦原中津国の平定(国譲り)

    葦原中津国の平定(国譲り)

    1 邇邇芸が葦原中津国を平定をした頃(紀元前160年頃)は海面が今より4m高かった。笠沙之御前は鳥取県北栄町の北条砂丘であった。笠沙之御前の右下(天神川河口)は記録によると何度も洪水にみまわれており、土砂がかなり堆積して高くなっている。 邇邇芸の時代はこの辺りも内海であった。長瀬高浜の弥生時代の遺物は洪水で流され(弥生時代の生活痕がないとされる)、笠砂之御前の笠の柄(中州)も洪水で流され、倉吉市清谷にあった神倭磐余彦が到着した楯津は土砂で埋まり、応神天皇の皇居のあった穴窪(軽島之明宮)周辺も土砂の堆積で高くなっている。  葦原中津国は笠沙之御前の左下にあり、徐福(天照大神)と素戔嗚が上陸した大山の裾野の小さな湾(橘)の周辺であった。徐福(天照大神)は祖神の大神(伊邪那岐)に連れてきた三千人の少年少女を葦原中津国で育てるように命じられていた。徐福(天照大神)たちが蒜山周辺で仙薬を探しているう..

  • 八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった

    八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった

      八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった1 須佐之男は徐福一行(紀元前210年の第2次)のメンバーであり、徐福に次ぐリーダーであった。須佐之男も徐福(天照大神)と船で辰韓(のちの新羅)より伯州(伯耆国)に到着した。徐福一行は通り過ぎた出雲国に引き返すのではなく、鳥取県中部の小さな湾に到着し、大神(伊邪那岐)に再会した。伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める場所を指示した。伊邪那岐は須佐之男に「海原を治めよ」と言った。海原とは、縄文海進で以前は海であったが須佐之男の時代には原になっていた地域である。海原(海抜4m~海抜20m)は世界中どこにもあるので、地名が付いていたはずである。それは黄泉の海原であった。黄泉国は根国ともいい、現在の倉吉市中心市街地であった。 徐福(天照大神)一行は蒜山(高天原)に行き、蒜山周辺の山に登り仙薬(水銀)を探した。蒜山周辺の山は「せん」と読む山が多い。 2 須佐之男..

  • 朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

    朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

    朝鮮半島に三韓ができるまでの中国・朝鮮の歴史   1   中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人に譲ったが辰韓の支配権は馬韓が握っていた。馬韓は山東半島にいた韓族だったので、長江文明の流れを汲む中国の南方系の民族であったし、辰韓と弁韓は鉄器製造技術を持った秦語(陝西方言)を使う中国の北方系の民族であった。鉄鉱山もある山東半島や北京以南から遼東半島に掛けて、いろいろな異民族が集まっていた。 ※私見 青銅器文化も、中国の山東半島や遼東半島にいた部族からきたと思われる。それは燕や斉の難民であった。馬韓は衛氏朝鮮によって滅ぼされた箕子朝鮮の残党によって、その支配権を奪われた..

  • 神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った

    神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った

    神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。 1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。  2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神..

  • 葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました

    葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました

    1 北栄町大島(旧島)の全体像。 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。2 大島(室秋津島)の中心にて 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)由緒(抜粋) 「・・・。..

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