前漢武帝後 平帝 王莽はまだ9歳の平定を即位させ、平定側の外戚も排除して権力を独占する
王太后は王莽を大司馬に復帰させ大司馬王莽が真っ先に決めなければならなかったのが、次の皇帝です。そして、彼が選んだのは元帝の孫にあたる劉箕子でした。名前を見て分かる通り、彼が即位するのは大変な問題です。諱の関係で使うことができなくなる言葉が大量に生まれますからね。そこで、劉箕子は劉衎と改名した上で即位しました。これが平帝です。 平帝は2歳で父(元帝の末子劉興)と死に別れ、中山王の爵位を継いで…
前漢武帝後 哀帝の死 董賢を寵愛した哀帝はそれを諌めた臣下を獄死させるなど、部下を厳しく統制するが、25歳で死去する
しかし、哀帝の場合はそれが公的な領域にまで甚大な影響を与えたため、大変な問題になります。 これほど愛する人物に何かプレゼントをしたくなるのは人の当たり前のあり方ではあるでしょう。それは理解できます。ところが、哀帝はなんと、大司馬の位を董賢に与えてしまったのです。それはいけません。董賢はただの男色の相手に過ぎないのです。有能な人物の中から自分の好む者を抜擢する、というのとはわけが違います。 …
前漢武帝後 哀帝 前1年に哀帝は皇帝の印綬を董賢に与え、25歳の若さで世を去る 王太后は印綬を奪い、董賢は自殺した
しかし、哀帝の場合はそれが公的な領域にまで甚大な影響を与えたため、大変な問題になります。 これほど愛する人物に何かプレゼントをしたくなるのは人の当たり前のあり方ではあるでしょう。それは理解できます。ところが、哀帝はなんと、大司馬の位を董賢に与えてしまったのです。それはいけません。董賢はただの男色の相手に過ぎないのです。有能な人物の中から自分の好む者を抜擢する、というのとはわけが違います。 …
前漢武帝後 哀帝 哀帝は社会格差の是正を狙って限田法を定めようとするが反対され失敗に終わる 哀帝が寵愛した美少年董賢
哀帝は即位した前7年に商人や大土地所有者の制限する限田法を定めようとします。この頃には荘園の大規模化が進み、多くの土地を持たない貧しい人々が小作農として囲い込まれていました。貧富の差は非常に大きくなり、社会不安が醸成されていたのです。 富者がますます富み栄え、貧者は這い上がることすらできないという状況を防ごうとしたのでした。 法案では、諸侯王や列侯は封国内においてのみ土地所有が認められ…
前漢武帝後 外戚勢力の変遷 哀帝は即位すると、権力を握っていた王一族に代えて祖母傅太后、母丁姫の一族が登用される
哀帝は賢かったようで、漢書によれば入朝の際、傅、相、中尉らを皆連れてきて、成帝に何故かと問われると、「漢の法律ではその国の2千石以上の者を連れてきて良いことになっております」と応え、成帝を感心させています。また、『詩経』を暗唱してみせ、必要な知識を身に着けていることを示しました。 この振る舞いで哀帝は成帝の覚えがめでたかったことに加え、哀帝の祖母と母は子が生まれないため皇帝が身罷れば後ろ盾…
前漢武帝後 成帝の急死 前7年3月に成帝は急死し、夜を共にしていた趙合徳は暗殺を疑われて自殺する 実子がなかったため、甥の哀帝が即位
彼女たちは寵愛を集めたのですが、成帝との間には子どもが生まれません。そんな中で成帝と別の後宮の女性との間に子どもが生まれると、寵愛が移ること(すなわち、権力を失うこと)を恐れて殺してしまいます。それもまた、2人の立場を悪くさせていきます。 前16年、王鳳の後を継いで大司馬となっていた王音が世を去ると、その座は王鳳の弟の王商、王商の次は王根と継がれていきます。この頃には大司馬が絶大な力を持つよ…
前漢武帝後 成帝の放蕩生活 成帝は「張公子」を名乗って夜な夜な遊び歩き、そこで知った卑賤の出の趙飛燕を寵愛するようになる
劉向の上奏分を目にした成帝は、その主張を認めながらも、現実に移すことはできませんでした。それだけ王鳳を始めとする王一族の力が強かった、ということでしょう。 いえ、成帝の行動を見ると、或いは考えるのが億劫だったのかも知れません。 成帝は皇后の許氏を寵愛しましたが、2人の間には子どもは生まれませんでした。臣下たちは世継ぎを得るため他の女性にも目を向けるべきだと進言したのですが、皇帝はそれは…
前漢武帝後 王鳳 外戚王氏のトップ、王鳳はライバルの王商を追放して権力を握る 儒学者の劉向が王氏を批判
長安に洪水が来るという流言が流れた際、王鳳は成帝や皇太后らに船にのり、他の者は長安城に上って避難することを主張しますが、王商はこれが流言に過ぎないと冷静に喝破し、長安城に登れば民は更に驚き、パニックになると指摘します。王商の指摘通り、洪水云々は流言飛語に過ぎず、やがて沈静化していきました。王商はこのように、冷静な人物でした。 王鳳が王商排除に動いたのは、ほぼ私怨です。彼は自分の姻族の太守を…
前漢武帝後 王昭君1 成帝即位の年、呼韓邪単于が来朝して後宮の女性を求めたのに対し、王昭君が送られる 彼女を悼んで多くの伝説が生まれた
成帝が即位すると、権力を握っていた宦官の石顕は悪事を告発され、失脚に追いやられました。これにより宦官の専横は多少は軽減したのではありますが、成帝の場合には本人がとんでもない問題行動を起こすのを、後に見ることになるでしょう。 同年、呼韓邪単于が来朝します。この時、彼は後宮の女性を求めました。その要求に応えて送られたのが、王昭君です。 王昭君は呼韓邪単于との間に男児1人を設けた後、呼韓邪単…
前漢武帝後 王昭君2 甚だ怪しい王昭君伝説の1つ、王昭君の墓 成帝が即位すると、その母である王政君の一族が高位を占める
更に、輪をかけて怪しいものに、王昭君の墓なるものがあります。複数の墓が知られているということで、骨を全部集めたらゾウより多いと言われるゴータマ・シッダルタよりはマシなのでしょうが、この時点で怪しさ満点です。最も有名なものは内モンゴル自治区フフホト市にあるとのことなので、近くに行くことがあれば上記を踏まえた上で行ってみても良いかもしれません。 さて、成帝の母は王政君といい、魏郡出身の人物です…
前漢武帝後 皇帝廟の整理 古礼に「天子の廟は7つ」とあることから、誰の廟を残すべきかを巡る生産性のない、議論のための議論が続く
これだけの数の廟を維持するにはそれなりに経費が必要だったわけですが、改革が必要とされたのは経費削減ではなく、「天子の廟は7つ」という古いしきたりに対して廟が9つになってしまっているという問題を解決するためでした。しかも、儒教の家論理だと、父を祀るのは直系の男児となるわけなのですが、郡国はもう他所の家ですから、郡国廟はすでに規範から外れた存在なのです。 郡国廟の廃止は意見の一致を得ても、ではど…
前漢武帝後 郅支単于の復活 匈奴の郅支単于、呼韓邪単于ばかりが漢と結んだことに危機感を抱き、康居の力を借りて勢力を伸ばす
貢禹は塩鉄専売制復活を見ることもなく、前44年の提言の後、程なくして世を去ります。貢禹の後を継いで御史大夫となったのは、韋玄成という儒家です。韋玄成の父親は宣帝の時代に丞相に至った韋賢で、礼や書経、詩経に詳しい大儒でした。韋玄成は翌年には丞相に昇進することになります。 同じく前44年、郅支単于は漢に使者を送り、子を漢の宮廷に侍らせることを求めます。12月、漢は衛司馬の谷吉を郅支単于に送ったので…
前漢武帝後 儒家官僚の問題2 なんと、古代にはなかったという理由で貨幣経済すら破壊しようとした儒家官僚・貢禹
実は、中国の鉄生産は近代に至るまで漢代がピークです。三国時代以降は、長引く戦乱の影響もあって、鉄の生産能力は大きく低下するのです。中国では供給不足に陥り、三国時代には葬儀を盗賊が襲い、棺桶の釘を奪おうとした話が記録されてるそうです。これに合わせ、刑具も鉄製から木製に変わっています。 おまけに、漢代は都市へ人口が集中していった時代です。その背景にあるのは人口増で、端的に言ってしまえば田舎には…
前漢武帝後 儒家官僚の問題1 「古代にはこれほど華美なものはなかった」ことを理由に奢侈に反対 鉄官すら廃止して農村へ帰せと主張する
元帝は頁禹なる儒家官僚を招聘します。貢禹は2度仕官し、1度は病で、1度は譴責を受けて辞任していました。元帝は齢80歳近いこの老人を召して諫議大夫とします。 「諫」と「議」が入る役職であることから推察される通り、皇帝を諌めるのが仕事です。 貢禹は早速儒教に基づく政策を提言します。まず、宮廷費の抑制です。宮廷の衣料は官営の工場で作られていたのですが、『秦漢帝国』によれば「それらは莫大な出費を…
前漢武帝後 外戚王氏 宦官と並び、外戚王氏もまた列侯に封じられるなど力を伸ばす 更に、儒家官僚も増加し、3者の争いが激しくなる
宦官は生殖機能を失っていますから、家族に権力を握らせるようなことはありません。基本的にはどれだけ力を握るようになってもそれは一代限りのことなので、皇帝からすれば「使い勝手の良い」集団だったのです。しかし、彼らには同じ宦官との間に極めて強い紐帯が結ばれていました。なにせ、他に彼らと付き合ってくれる相手などいないのですから。 一方で、彼らが力を握れば握るほど、反発は激しいものになります。石顕は…
前漢武帝後 元帝即位 宣帝は儒教かぶれの元帝を嫌っていたが、孫が生まれたため廃太子を取りやめる 宦官勢力の増長
許皇后との間の子で早々に皇太子に立てられていた劉奭が即位します。これが元帝です。 元帝は若い頃から儒学を好み、父の宣帝が法家官僚を用いるのを見て、儒家を登用するよう進言したことがあります。宣帝は「国は覇道(法家)と王道(儒家)を共に用いることにしている。それなのに、徳を唱えるばかりの儒家に傾倒するとは何事か!しかも、儒家は古代を称揚して現代に難癖をつけるだけで、今まさに何が必要なのか分か…
前漢武帝後 宣帝の死 匈奴が分裂して弱体化した中、前49年に宣帝は世を去る 文武に功績を残し、中興の祖と言われる名君の1人だった
宣帝は呼韓邪単于に金印を与えるなど歓待し、呼韓邪単于は長安に1ヶ月ほど滞在して帰国しました。 郅支単于もまた漢に使者を送りましたが、その扱いは呼韓邪単于よりも低いものでした。漢が呼韓邪単于に肩入れしていると知った郅支単于は攻撃されることを恐れ、烏孫と接近を図ります。 しかし、このような状況で郅支単于と結ぶのは火中の栗を拾うようなものですから、烏孫は郅支単于との連携を拒否しました。い…
前漢武帝後 河西回廊の危機2 匈奴の虚閭権渠単于が没し、内紛の末に呼韓邪単于が漢に投降して重用される
当面の対応を終えると、趙充国は金城において屯田を開始し、守備兵自身に食料を生産させることで支配を固めようと図ります。その実施により、羌族は漢に屈しました。金城には護羌校尉が置かれ、羌族を監督することになりました。前60年には亀茲に西域都護府が設置され、初代の都護は車師国を降伏させた鄭吉が任じられました。 河西回廊付近の小国が漢に確保されたことは匈奴にとってはダメージとなりました。加えて、内紛…
前漢武帝後 河西回廊の機器1 国力を回復してきた匈奴、周辺の異民族を誘って漢の河西回廊を脅かす
宣帝が酷吏をも用いながら、循吏も重用したことがよく分かる事例ですね。 霍光も宣帝も基本的に恤民政策を採用したこともあり、武帝期から比べると国力は回復基調にありました。ということは、異民族とも戦わなかったということで、異民族もまた力を回復していきます。 匈奴はこれ以前より勢力を回復して漢と敵対するようになっていました。そして、当然のように河西回廊周辺の小国にも匈奴への服属を要求します。 …
前漢武帝後 宣帝親政3 酷吏と循吏を併用することで安定をもたらした、前漢中興の祖・宣帝
『概説中国史〈上〉古代‐中世』はこのよう…
前漢武帝後 宣帝親政2 権力を取り上げられた霍一族は、許皇后の急死が霍光婦人の原因との噂に追い詰められて反乱を図り、族滅される
皇太子が定められたということは、次世代を睨む人々は皇太子の側に立つことになります。この措置は外戚である霍氏の力を削ぐことにもつながります。霍光の未亡人の顕は、この皇太子の毒殺も謀りますが、警戒が厳重で実行には移せませんでした。 同10月、宣帝は霍一族から兵権を取り上げます。霍禹や霍山は当然、女婿で度遼将軍・光禄勲の范明友、散騎騎都尉・光禄大夫の趙平らも兵権を取り上げられました。 取り上げ…
前漢武帝後 宣帝親政1 前68年に霍光は死に、国葬される 霍一族は引き続き高官を占めたが、奢侈や不正を繰り返し、皇帝に疎んじられる
前68年、霍光は病に冒されます。宣帝が自ら病床の霍光を見舞うと、霍光は感謝して涙を流しました。外戚として、功臣として絶大な権力を握りながらも、霍光が皇帝に接するのはこれほどの丁寧さでした。 皇帝が見舞っても病は軽くならず、3月に大将軍霍光は世を去りました。武帝死後の漢を担った人物であったとまとめることができるでしょう。 霍光の葬儀は国事として営まれ、その墓は武帝と昭帝の墓の間に造られまし…
前漢武帝後 霍光独裁8 民間に逃れて生きていた衛太子の遺児の劉病已が探し出され、皇帝として擁立される
困り果てた霍光に、光禄大夫の丙吉が「私が幼い頃から知っており、今は民間にいる年齢18、9歳の病已という若者が、実は武帝の曾孫に当たります」と言い始めます。 聞けば、劉拠が巫蠱の乱で一族を滅ぼされた際、赤子だった病已も獄舎に入れられたのですが、丙吉が助けて母方の祖母に育てさせた、というのです。しかも、張賀が資金を出して教育も受けさせていました。 何やら甚だ怪しい気もしますが、霍光は渡りに船…
前漢武帝後 霍光独裁8 霍光は自分の孫娘のもある上官皇太后に謁見、劉賀廃立を決める 劉賀は在位わずか27日で廃される
6月28日、霍光は未央宮に丞相や御史大夫をはじめ、文武百官を集めて朝議を開きます。そして、おもむろに劉賀は無道で漢を危うくするとして廃立を提案したのです。大司農田延年は離席して剣を握り、霍光のこれまでの忠節を論じた上で、霍光に賛同できない者は斬り捨てると宣言しました。さらに、霍光が皇帝廃立の責任は自分一人が負うとしたことで、大勢は定まりました。 霍光は自分の孫でもある上官皇太后に謁見し、皇帝…
前漢武帝後 霍光独裁7 昭帝急死を受け、霍光は昌邑王劉髆の子の劉賀を擁立したが、あまりに暗愚で困り果てる
昭帝には子がありませんでしたので、後継者を誰にするかが問題となります。 重臣たちは皆、存命している武帝の唯一の子である広陵王劉胥を推しました。しかし、この劉胥は粗暴で快楽を追求してばかりという問題だらけの人物でした。猛獣すら素手で討つという怪力の持ち主では有りましたが、それは一介の戦士には求められる特性でしかなく、皇帝に求められるようなものではありません。 霍光はただ1人この劉胥擁立に…
前漢武帝後 霍光独裁6 霍光は恤明政策に務め、国力は回復する 阿諛追従の輩が霍光に革命を説くが、逆に処刑される
内朝については、尚書令の張安世(既に記した通り、張湯の息子です)を右将軍兼光禄勲として自分の副官に据えたことをはじめ、重要な役には息のかかったものを送り込んで支配を確立しました。 こうして、霍光は内朝も外朝も握ることになったのです。昭帝はこの時まだ15歳ですから、漢の権力を一手に握ったと言っても過言はない状態になったのです。霍光はそれでも謹直を忘れず、誠実に少年皇帝に仕え続けました。 霍…
前漢武帝後 霍光独裁5 霍光を亡き者にせんとする上官桀らの計画は露見し、上官桀親子や桑弘羊らは誅殺され、外朝と内朝を手中に収めた霍光が全権を握る
クーデター計画は、蓋長公主の召使いがその父に告げたことから発覚します。上官桀、上官安親子はそれぞれ丞相府の官吏に捕らえられて斬られ、桑弘羊と丁外人も誅殺され、蓋長公主は自殺します。反乱計画の場合の例に漏れず、上官桀や桑弘羊の一族は滅ぼされました。いえ、上官桀については、霍光の孫娘でもある上官皇后だけは生き残りました。彼女はまだ11歳に過ぎず、反乱にも関与していませんでしたから妥当な判断でしょう。…
前漢武帝後 霍光独裁4 上官桀は燕王劉旦からの霍光弾劾の上書をでっち上げるが、粗雑なもので皇帝に見抜かれ、信用を失う
捏造されたものとはいえ、蘇武が生きている証拠なるものを突きつけられてしまえば、匈奴も認めざるを得ません。こうして蘇武は漢に戻ることになったのです。外交使節として国を出てから、19年もの歳月が流れていました。 しかし、全てがめでたく終わるわけはありません。蘇武の母親は既に世を去り、妻は別の男に嫁いでいました。死んだとされていたのですから当然でしょう。この後に、蘇武にはまだ辛い未来が待っているの…
前漢武帝後 霍光独裁3 塩鉄会議で桑弘羊に敗北した霍光、大司農へ自分の信頼する楊敞を送り込み、外朝を骨抜きにしようと図る
上掲書は霍光の更に後ろに、均輸法や平準法で損をする側となった地方豪族との連携によって外朝を攻撃しようとした、と指摘しています。 塩鉄会議と呼ばれるこの会議は結局、酒の専売のみが解除され、均輸法と平準法、塩鉄の専売については儒者たちの意見は採用されず、現状維持が決められました。 総合的に見れば、儒者を使って桑弘羊に代表される外朝を攻撃しようとした霍光の意図は挫かれた、というところです。 …
前漢武帝後 霍光独裁2 外朝のトップ、桑弘羊追い落としを狙って霍光は塩鉄会議を主催する
省庁主催のなんちゃら審議会が単に議論させるだけのものではないのと同じように、当時の会議も目的は会議をすることではありません。いえ、あるべき姿について会議で決定することでも有りません。主催者が望む答えを出させ、「専門家がこう言うから」という言い訳を作ること或いは反対派を排除することこそが目的です。 今回霍光が標的としたのは、塩や鉄、酒の専売廃止です。これらは匈奴遠征により苦しくなった漢の財政…
前漢武帝後 霍光独裁1 娘を皇帝と結婚させた上官桀は徐々に増長し、霍光との仲が険悪化する 死んだはずの皇太子劉拠の偽物事件
皇后の父となった上官安は車騎将軍となり、更に翌年には列侯となりました。 外戚となった上官安は増長します。霍光は実質は漢の最強の権力者であっても常にへりくだっていましたが、上官安は皇帝を婿と呼び、父の側室の女性と関係に及ぶなど、眉を顰めるしかない行動を取るようになっていきます。 そうした中で、上官安は自分の出世を助けることになった丁外人に官位を与えるよう、霍光に願い出ます。しかし、霍光は…
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