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まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
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2015/01/13

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  • 哲人の出処進退を聴く

    佐藤慎一郎先生お別れの言葉心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします【心の講義】最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。私も敗戦後、共産軍に捕ら...哲人の出処進退を聴く

  • 「人間考学」前例執着から善例創造への臨機 11 4/17 あの頃

    「非道」一石百鳥ならぬ百石半鳥岡本義雄少し落ち着き始めると「前例」による紛い物の規制が頭をもたげるようだ。大勢の人を統率し、普遍的という冠をつけることに慣れた職位にある人たちによって前例が巾を利かすようになる。混乱状態になった現況には前例の投網を掛けることが、選択肢の少ない突発的事件には仕方が無いことでもあるが,従前の垂直指示が途切れ、判断不能になったとき現場当事者は少ない過去の例から探さなくてはならないのも現状である。同じようにマニュアルがある。アンチョコや教科書も同類だ。とくに人の管理が過度の規則などで括られると、家畜同様に時間と存在を管理され、考える工夫もないままに行動を習慣化され、創造的な意思さえ発揮できなくなる。そこに仕組みの標準化として「基準」と称する、現世一過性の時流が押し寄せると、それが例...「人間考学」前例執着から善例創造への臨機114/17あの頃

  • 病院は親切でなくてはならないと賀川はいう

    高知に引っ込んだと思ったら時折東京が懐かしく顔を出す伴武澄さん。本人は『色々とやることがある』というが、思春期に恋愛ごっこで失敗したこともなく、ことのほか表層真面目だったせいか、老境に差し掛かってその人生のスキップを埋め合わせているかのようだ。ゆえに当時は記事にも書けなかった人間愛や平和を書き連ねている。その内に心の底まで書いてくれることを期待している。今回はその一章を賀川豊彦の著書抜粋として紹介している。なるほど、視点が鮮やかだ。賀川豊彦の『十字架に於ける瞑想』を読んで面白い部分があった。病院は英語でHospital。本来は「親切院」でなければならない。そして病院は医者がつくったのではなく、看護師がつくったのだというのだ。以下、その部分を転載します。---------------------------...病院は親切でなくてはならないと賀川はいう

  • 人間考学 愚者の親和力 2011 7 あの頃

    津軽ヨシ人形木村ヨシ作「孫文と側近山田兄弟」高いところに登って下界を観る少し下がって遠目で眺める鎮まりを以って、独り観るそんな時節だろう本稿親和力とは化学の世界で、より似たものが結びあう力の姿を言うらしいが、親しく和する、つまり人間に当てはめれば素朴に仲良くなる状態をつくる包容力なり、理解力だろう。安岡正篤氏は、ことを新たにすることのオンである「シン」を親しむと置き換えて「大学」講義で述べている。大学は四書五経にある「大学、小学」のなかのことで文部省官制校の類では「新」を「親」と言い換える感度は教えない。親しく和することと、新たに和することも和することは変わりがないが、こと古典にある君臣の問題となると大きな隔たりがある。宰相が任を退くとき出処進退を騒がしくいわれるが、進むことも退くことも決断できない人物に...人間考学愚者の親和力20117あの頃

  • そもそも黨(党)は、黒を賞する集団である 2020 あの時から

    旧掲載だが、あの頃も同じことがあった。そもそも悪党と言うが、善党とは言わない。犯罪でも黒は容疑者、白は無罪という。党の旧字は「黨」、つまり黒を賞する、まして白は党ではない、連(ツル)まない。群れにならず党からは弾かれるのが白のようだ。黨には掟がある。とくに悪党には厳しい掟がある。口の軽さと裏切りだが、ゆえに嘘が上手くなる。むかし、「政治家は人を騙して雄弁家という」一種の戯言があった。近ごろは「会」を装っても腹は黒が多くなった。市井の陶芸家の作品検察官の人事に黨に政治家の介入があったと騒いでいる。幕府でいえば目付の食い扶持を担保するような話だが、あんたの都合で決められては、タマッタものではないという事らしい。下座から眺めれば、暗記上手の学び舎エリートが一方は政治家になり、一方は官僚となり、お手盛り利権で政治...そもそも黨(党)は、黒を賞する集団である2020あの時から

  • 総理・・? 俺たちが当選しやすい看板なら誰でもいい 2022 あの頃も

    青森県弘前市子供議会いつ頃からか議員の資質評価が変わってきた。同時に論議も騒がしくなり、答弁は稚拙で反論もまるで地裁の法廷のような弁護士と検事の応答のようになってきた。それにつれて党首は選挙の顔として実像はともかく、有権者受けする顔と弁舌良し悪しが有効とされてきた。顔は学問や体験で集積された出来上がった容貌ではなく、だだ、器官の位置が整った程度で、弁舌は、まさに舌が言う「話し」ばかりで、吾(自身)を言う「語り」などなく、古人が揶揄した「政治家は人を騙して雄弁家という」そのものになってきた。マスコミとて江戸の瓦版屋が記事の束を振りかざして台の上で庶民の耳目を集める口上を大声で叫んでいたが、政治家も似たようなもので、話す内容は聴衆の興味に合わせて難しいことは云わない。そのせいか聴衆にとっては難解だか、社会や国...総理・・?俺たちが当選しやすい看板なら誰でもいい2022あの頃も

  • 「人間考学」 刮目した野田君 2012 あの頃

    情報サイトより転載「後悔、後に立たず」は、我が国の政治、いや政治家の倣いの様になっている党首討論を観た。視た、見たのではなく「観た」。好き嫌いではなく、政策でもなく、機に臨んだ人物の刮目した姿だ。まして、彼らにとって緊迫した政局なのだろうが、国民は幾分の間をおいて観察している。なかには選挙好きで血が騒ぐ国民もいるが、利他(他のために)は争いに無駄だとする一群はここでは措いて観た。相手は各党首だが,自民党総裁は数年前と少しも変わらぬ様子だ。獲らぬ狸で昂揚しているのか早口がより希薄な人情が表れている。どうしても攻める野党はテレビ向けの演説調になるようだが、野田君の覚悟と比べ軽薄にも映る攻勢だった。生活第一は老練さともみる向きもあるが、「礼」がにじむ聴きごたえのある応答だ。公明党もその姿を見せて、双方、相手の人...「人間考学」刮目した野田君2012あの頃

  • 選挙ポスターはいつから笑う(嗤う)ようになったのか 10 7/28 再

    あの頃と同じく変わらない後藤新平選挙のたびに旧稿を再掲載するが、世は改革と騒ぐが、15年前から相変わらず人間は変わらない。多くなったのは金か色事だ。古臭い考えかと思うが・・・街中のいたるところに掲示されている選挙ポスターだが、今どきはデザインも印刷もナカナカのものである。そして多くが歯を晒して笑っている書きモノの中身は公約が姿を消し、マニフェストやらアジェンダと゛盗って?゛つけたような異文化の文字が約束事として羅列されている。この横文字で有権者の大部分は半知半解のマジックにはまってしまう。昔は「国つくり」「まちつくり」が脚色され、゛お年寄が安全に暮らせる゛゛夢と希望の描ける゛など、曖昧だがどこか納得させるものがあった。近頃では具体性と説明責任が加味され医療や年金、雇用が細かく謳われるが、これもあてにはなら...選挙ポスターはいつから笑う(嗤う)ようになったのか107/28再

  • 本当の姿を出したら、と言われて久しい 18/3

    香港以下は屁理屈だと人はいう人の人生経過はセミや蛇のように脱皮する。いや、しないものもいる。何のことはない暗黒の大宇宙の一塊の誰が名付けた太陽系の親星に近い三番目、地球の表皮に四季のある稀有な地域の環境に順応したと思えば、それも然り。天下思想という生き方のある中国では他人と接するときに「逢場作戯」という妙手がある。「あなたの素晴らしい御高名はこの国でも有名です」大げさとおもっても、普通の日本人なら舞い上ってしまう。これで外交は先手が打たれる。その後に小声で、「ところであの人物は何という名前」これは本当にあった話だ。在中国三十年、北京語が流暢な佐藤慎一郎氏が高官と会った際の逸話だが、佐藤氏は北京語を分からないと思っていたのか、廊下で部下に尋ねていた話だ。たしかに前段では気分悪くないが、その都度、人と逢う場面...本当の姿を出したら、と言われて久しい18/3

  • 嵌って慣らされる、課題(えさ)には喰いつくな。 あの頃 23 2/7

    嵌って・・・ハマって読者からの資料を含む友人の税理士から届いた知らせを転載しますQ&A(質問と応え)これは課題ではなく、今の時点では仮題である。消費税そのものを論ずることは課題だが、想定問答を徴収するする側が仮題であってもクイズもどきの質問と答えを出されると従順と随う民癖には、さぞ丁寧に感ずる国民もいるはずだ。最近、国家を具体的に表す権力為政者の姿は、それに問題意識もなく面従腹背を従順に装う役人、ここでは税官吏の無謬性(間違いがないとの前提)が疑われている昨今、たとえ仮のケースであっても、クイズもどきにして混乱を整える作為には、とこか腑に落ちない。代議士が争論談合して、なんとなく決まったようだが、国民の多くは、どうにかなるだろう、これも慣れるしかないと、種々繰り出される政策同様な諦観(あきらめ感)をもって...嵌って慣らされる、課題(えさ)には喰いつくな。あの頃232/7

  • 安岡が共感し、児玉が師と仰いだ笠木良明

    寺のもみじが色づく頃、毎年のことだが笠木先生の墓前に参って懐かしむことがある。「安岡は先生の葬式のときに、いの一番に到着して墓前には中華月餅を供えてくれた。彼は先生とは袂を別けて権力についたように思うが、かれの目標は別のところにあった。学者としては珍しくも出る場面は政、経、軍に誘われているが、念ずるところはあったはずだ。」「先生は児玉が内地で身を持て余しているのを見て、『君は外地へ行ったほうが能力を発揮できる。すぐにでも行きなさい』と児玉の異質な能力を見抜き促している。」縁者も薄くなった笠木のために世田谷の豪徳寺に同志が墓を建立したとき、傍らには満蒙関係殉職者の墓と児玉が揮毫している。「いゃ・・字を書くのは苦手でねぇ・」と、ようやく動かした筆である。また豪徳寺では宮島大八(詠士)氏が主宰していた鎮海観音会...安岡が共感し、児玉が師と仰いだ笠木良明

  • 毒まんじゅうを喰らう政治 2012 あの頃も

    クリーンハンドの法則という言い方がある賄賂を貰うような汚職について、一度でも手を汚してしてしまうと、余程のことがない限り汚れは付いて回る、つまり何かにつけても弱みとなって言葉や行動が色眼で見られてしまうということである。神様でもあるまいし、と同類に慰められても、あるいは貰った当人しか知らないことでも、どうも居心地が悪い気分になり、言葉も行動も遠慮がちになる。「お前だって・・」と言われれば、「それとこれとは状況が違う・・」「一回ぐらいは・」と反発しても空々しく、日頃の貫禄など吹き飛んでしまう。なにも物のやりとりだけではない。煩雑で道徳域まで入り込んでいる法にかかれば、立ち小便、吸い殻のポイ捨て、行列の割り込み、あるいは何処かの妻持ち、旦那持ちと人情ごとまで邪推されたりするだけの風評で立ちいかなくなることもあ...毒まんじゅうを喰らう政治2012あの頃も

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