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まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
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2015/01/13

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  • 「義」は人の大本なり 08.6稿 再

    ベンガルの義人シャーカー氏昨日は「利」でした。生活には戸惑いのあるものですが、「義」を理解すれば「利」の効用があるようです。浅学非才の若輩なれど、身の程を忘れ、先人、師、恩人の言を無断で活用いたし、いくばくの利他の増進に役立てばと考え、かつ世代の役割を感じつつ記してみます「義」について「義」は羊と我の合字です。羊は古代いけにえとして神に献上した習慣から吉祥だとか善などの意味が含まれています。ですから、善い、正しい、と解されています。「事宜を知り、恥を知り、為すまじきをなさぬは義」「義は人の大本なり」(准南子人間訓)義は無条件で正しいとおもうことに我を捧げることです。それは、人間のあらゆることの大本であり、根本であると定義されています。「義は己の威義なり」(説文)といいます。威義は、その人の修養の程度によっ...「義」は人の大本なり08.6稿再

  • 上賀茂の葵から観る世 2007 あの頃

    平成19年の初頭、国際フリーターを自称する中野有氏のライフワークとなった上賀茂の「葵」(あうい)を考察するとの名目で、萬晩報の伴主筆、某省の官房補佐官大塚寿昭氏、との京都相伴の機会があった。。訪れたところは、古代における京の豪族、賀茂氏の氏神を祀る賀茂別雷(ワケイカヅチ)神社。別名、上賀茂神社は天武6年(678)に造営され、社殿の後方に在る神山に賀茂別雷神が降臨した地として伝承されている。市内に近い下鴨神社の趣とは異なり、古色蒼然としてまさに京都絵図にある扇の要のような位置に鎮まりを以って座している。社域には社殿、祭殿が深い思慮で配置され、それぞれに意のある存在をつなげるように祷りを奉献するものを包み込んでいる。古都を彩る葵祭の行列や流鏑馬など、今でも残る祭典儀式や陋習などが、上賀茂神社を発祥としているこ...上賀茂の葵から観る世2007あの頃

  • 佐々淳行さんの著書 「私を通り過ぎたスパイたち」投稿読感

    秋篠宮悠仁殿下の御しるし高野槇Amazon投稿レビュー稿題「事件にも近いが、政治にも近かった」懐かしく拝読させていただきましたまさに縦横無尽で臨機応変の「機略」に富んだ公務員だった。『東大法学部』がよく出てきますが、巨悪も検挙する側も学歴ならぬ「学校歴」で、裏も表も明治以降の学制にある立身出世の残像がある。浮俗ではその巨悪も影を潜めでいるが、小悪党の騒々しさにも、どこか通底するものがある。ゾルゲ事件ですが、意図は筆者の推考とおりだが、あくまで内務省管轄の国内事件、つまり内偵、逮捕の手順や経過の記述だが、三田村氏の著書や歴史研究者、はたまた田母神論文でのコミンテルン(ソ連)の策謀とみているが、明確なところはない。いち早く決定を送るのは情報送達、いわゆる国内情報の収集がゾルゲスパイ事件とみる向きもあるが、判断...佐々淳行さんの著書「私を通り過ぎたスパイたち」投稿読感

  • 人間考学から「伸びしろ」をみる 13 ・ 8 再

    新聞の読み聞かせバングラデッシュ多くは「容」「像」「体」から読みとる人物像である「容」は相の具合だが、顔色はもちろん柔和とか溌剌感、目線の落ち着きや口元の締りだ。「像」は容に加えた雰囲気だが、仕草やたたずまい(佇まい)、もしくは圧倒的な威力や謙虚さに観る姿だ。そして「体」は言うまでもなく身体の歪みや緩慢な動作など気力衰退や患いから発する形だが、容と像は体との調和として表れる解り易いイメージと考えるもし相も悪く気分は弛緩して行動が緩慢な人間に財や知恵を付加したkらどうだろう。まだ元気溌剌で柔和な貧乏人の方が感覚を震わせるそれから先は相手の説明や行為から知ることだが、往々にして金と地位とその継続性を詮索することでその価値の優劣が決まるようだ。近ごろは金持ちの未亡人や熟女狙いの狡猾な男が増えたようだが、見えるも...人間考学から「伸びしろ」をみる13・8再

  • 一服 憂さ晴らしの学・・・? 2017

    暇まかせに字引をひらいてみると、漢字ではあるが原典とは違う意味もあれば、錯覚なのか、はたまた「そのように呼称せよ」と指示されたような熟語があれば、日本流に作った俗字もある。漢字は単なる文字記号ではないために意味の錯誤は日本人そのものの印象すら嘲笑の対象にされることもある。「俺」とは、我とか自分という意味で使われるが、「奄」を見ると、宦官とか門番とある。碩学は、伸びるものが「大」という重しに押され「申」の縦線が曲がった状態で、男性器が折れ曲がって使えない意味だと古老は説く。大陸では我が身を「俺」とは言わないという。それと同様に「黄門」といえば水戸黄門だが、黄は皇帝色といって高貴な色であり、その「黄門」を守護しているものは去勢された宦官である。中国文化特有の文字遊びか、はたまたそのように教えられたのか「俺」も...一服憂さ晴らしの学・・・?2017

  • 無名で有能な人たちを探す

    板橋区在住根岸さん東京の片すみに90才の工作者がいます。人々はその自由な発想と精密な細工におどろき、彼を芸術家とよびますが、根岸さんは、好きで、楽しく、熱中できる作業を自分で探し、60才くらいから始めました。多くはニホンザルを人間のおもしろい動きを模してつくります。粘土をこねて乾かして焼く。その作業は無言で一人の作業です。このような自由工作をおこなう無名な人は昔から数えきれない作品をのこし、日本中の海辺,山間に生活しながら、一生発見されることなく工夫精密化された生活の道具や玩具、鑑賞作品をいまでもつくり続けています。根岸さんは自分の作品を売るためにつくるのではなく、集中することと緊張する時間を楽しみ、作品対象としたサルがまるで生命のあるように目の前で遊ぶ姿を想像します。そこには難しい芸術論など入り込む隙間...無名で有能な人たちを探す

  • 数寄屋橋の鬼に酔わされた

    教員免許など無用大学校にて「大学の道、明徳」自身の徳(特徴や意志)を明確にする学び舎(大学校)で、自己を語る。2008記赤尾敏氏を知っているだろうか。この様な書き出しは筆者の出自や思想を云々されそうだが、その云々の無用さを赤尾氏のエピソードから記してみたい。銀座数寄屋橋の街頭で、通称、街宣車(ガイセンシャ)の上で仁王立ちになって演説していた民族運動家である。筆者は赤尾氏の自宅兼道場に伺ったことがある。たしか知事選に立候補した時の選挙の真っ只中、夕刻の7時であった。紹介者とはいっても、安岡氏と懇意な岡本義雄氏である。「赤尾さんに会いに行く、君も来なさい」いつものことだった。強引にも筆者を文京区白山の安岡邸に誘い込んだのも、今回の赤尾氏に連れて行ったのも岡本氏である。好奇心もあったが、そのたび明治人に面白いよ...数寄屋橋の鬼に酔わされた

  • 門田隆将のフルスイング あの頃 08 2 1

    先日、門脇(門田)さんから氏の著書「慟哭の海峡」に記した台湾南部の潮音寺で慰霊祭があるので、との誘いがあった。じつは、その前に戦前の台中の霧社であった事件の慰霊にも誘われた。両方とも門脇氏が記念講話をするという。同伴する予定だった門脇氏の土佐校の先輩の諸都合もあり筆者も遠慮したため、8月2日の潮音寺は行こうと思っている。「ところで、小泉君がアナタの愛読者だと云っているが、会ったことあるのか」『そうらしい、演説でも言っているらしいが、まだ会ってない」「実は台湾映画のKANOのことで彼も関東学院野球部、アナタも少年野球のコーチで、お互いに台湾に関係が深い。できれば21世紀の枠を作って台湾選抜を甲子園に招待できないかと思っているのだが・・・」『選抜は難しいとおもうので、エキジビションならいいのではないか・・・」...門田隆将のフルスイングあの頃0821

  • 疲弊する国家 良くも悪くも、多い少ないも 08 5/23 あの頃

    国会で舌鋒火を噴く「切腹問答」を行った浜田国松氏あの頃より進捗しているここでは人間の問題、とくに群れとなった人々の生き方について、明確かつ隠蔽されたかのように矛盾をはらんだ事柄について記してみたい。それはある隣の酒席の話だが、ことさらコソコソ話をダンボ耳にしたわけではないが、妙に納得した会話だったので紹介します。『ところで公務員は450万人といわれるが、隠れ公務員はそれと同じくらい居るが、家族3人で2400万。隠れ公務員というか税で生活している人のには、各種天下り法人、外郭団体、あるいは民間法人を設立して食い扶持を公共に特化している組織もある。近頃では駐車違反の摘発をする「民間」と称する警備会社もある。ともかく、税や手数料ほか特別予算に依存している組織や人間が多い。これが問題の高給取りで待遇は抜群。定年後...疲弊する国家良くも悪くも、多い少ないも085/23あの頃

  • 人々は分断され、一極で管理される世界 2013 06 再

    それは、見惚れ、憧れ、競争している間に起きていることだ。年齢を重ねて気がつくことがある。それは人々の関係が希薄になり、その都度離合集散を繰り返す、つまり融通無碍な関係になっていることだ。近頃は物を所有するということが一昔前からの価値観とは変化して、リース、ローン、リサイクル、など見方によっては便利性が備わった消費経済との考え方があるが、払い終わるまでは所有権は使用者ではなく、あるいは飽きれば残債ごと利用者は移転し、債務が終わればリサイクルに転用し幾許かの小遣いが残る。ともあれ消費は増え、生産は伸び、金利は稼げる。オリンピックはレガシイー(遺産)だと騒いでいるが、アレも同じパターンだが、地球のどさ回り興行が終われば、あとは片ずけが遺るだけだ。ここでは、゛思いのこもった゛゛愛着のある゛固有の品物の継続性という...人々は分断され、一極で管理される世界201306再

  • 吾 平民なり

    吾平民なり明治の大日本帝国憲法では天皇を内閣が輔弼(助言、沿う行為)すると明記されている。戦後の憲法では天皇は国政に関する権限や統治権もなくなり、象徴としての位置にある。その象徴もオブジェのようなものではなく、国事行為である認証(裁可ではなく)は、内閣、条約、法制について多くの認証御璽を自らの御名によって行っている。つまり天皇は権力を所持しない、国政に関与しないという制約下での象徴としてのご公務を執っている。その意味では英国女王も象徴ではあるが、形式的には元首・君主としての言葉や行為を国民に現示しているのと同様だ。国民からすれば日英の立憲君主は似て非なるものと考える向きもあるが、建国から歴史的経過をたどると「依って立つもの」の異なりと、多文化との干渉なり、あるいは融和によって運用の姿は異なるっているのは当...吾平民なり

  • 敢えて再々読 出処進退 「あるボスの話」

    国会の腹きり問答浜田国松氏《舌鋒火を噴くような議論は時の陸軍大臣に切腹を迫っている》【平成6年、あの当時は、゛変わり者゛゛はじかれ者゛と世間から非難された意見文だが・・・・再度,問う】震災後に海外ジャーナリスト達が集まっての懇談が放映されていた要はこの「まほろばの泉」で読者にはくどいように映る人間(人物)の問題だった。制度・マニュアル・コンプライアンスなど人間を括る方策はあっても、土壇場では能力発揮の自由度と責任感がなければ役に立たない。一人がこう述べていた。「・・・原発や震災の現状をみると作業員の連帯と調和は世界でも驚嘆するの力がある。しかしそれを指揮し背後で支えるべきエリートの醜態は世界ても稀な非能力だ。日本の教育でのエリートの選別はそれほどひどい。どこで間違ったのだろう・・・」この種の人間に囲まれた...敢えて再々読出処進退「あるボスの話」

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