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まほろばの泉 https://blog.goo.ne.jp/greendoor-t

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集

まほろばの泉
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2015/01/13

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  • 伴氏が憂う日本の役人 あの頃も

    今は高知の山奥に引っ込んで炭焼きをしたり、ときおり街なかで「夜学会」と称して寺子屋風の勉強会を開いたいる、元共同通信の伴武澄氏のコラムである。人は彼を反骨とか左翼かかっているという。共同通信の待遇はあの朝日新聞をしのぐ高給だといわれているが、そんな位置から世俗を眺めるブンヤとは異なり、ことのほか浮俗の下座観が豊かな人物である。その第四の権力といわれるマスコミの経済部門に位置して、相手からすればイヤらしい視点で書き綴るコラムは、゛政府は嘘をつき隠す゛ことを赤裸々に表している。人々は、すねる・嫉妬する・あきらめる。それらは為政者ですら手のひらで戯れさせる狡猾さだが、数多の国民は承知している問題だ。まずは新年に際して寒気がする初笑いを楽しんでいただきたいと転載します。台湾外交部にて手前左伴氏未成年飲酒防止を名目...伴氏が憂う日本の役人あの頃も

  • :憲法と元号 安岡正篤の鎮考する撰文 あの頃

    「熱狂と偏見が時を経て鎮まりをもった時、女神は秤の均衡を保ち賞罰の置くところを変えるだろう」意訳東京裁判のインド選出判事ラダ・ビノード・バル博士※世の中の熱狂と偏見が静まり、人々に落ち着いた思考がよみがえり、改めて過去の熱狂と偏見に満ちた群動を想い出し、心の平静を取り戻したとき、当時の正邪、善悪の判断すら変更しなければならない状況になるだろう。以下旧稿ですが・・・また、撰文で騒いでいるいつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。ことは憲法前文のことである理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を変えなくてはならない。もちろんその通りだが、どうも胡散臭い...:憲法と元号安岡正篤の鎮考する撰文あの頃

  • 天が墜ちるような

    埼玉県名栗村の夕刻ウイークデーは訪れる人もなく、この日は風もなく鏡のような湖面は上空の雲を鮮やかに映している。画面を逆さにしても判別がつかないくらい幽玄の趣がある。1時間ばかり亡羊とした気分に浸ったが、時折フラッシュバックしたかのように世俗の雑踏が蘇ることがある。なんとも表現しずらい画像だが、その時は無音の中で、足元から脳天に抜ける何かがあったようだ。天が墜ちるような

  • 「人間考学」 更生保護行政酔譚 14 11/23 再

    「保護司が処遇対象者によって殺害される」同僚保護司として深く哀悼の意を捧げます4,6000人余の保護司、ご家族は思いもよらぬ結果に戸惑いと緊張を強いられている。以下は備忘録として改めて想起し、調べなおして難儀な考察を改めて再編しました。少々感情の入り混じった文体となっておりますが、世上の様子として「眺め読み」をしていただければと再掲載します。長々とした備忘録ですが、犯罪者の更生を援けるという目的を掲げた官と民の協働の体験考です。文中にあるPTAやBBSといった外来の仕組みや運動が如何に変容していったのか、その類似点は国家の形式看板である我が国の民主の実態を如実に顕わしている。それは先のブログに記した「官製の地方創生策」が如何に政策遂行の遡上に馴染まないのかを表し、その隠された民意のブラックホールに吸い込ま...「人間考学」更生保護行政酔譚1411/23再

  • 真の言論人と、堕した売文の輩と言論貴族 09 2 再

    ひと昔前の拙稿だが、読んでみると今と変わらない。いや、ますますその傾向が進んでいる。知識人といわれる人々が一見良好と思われる生活の安定や地位保全に陥り、俗に売文の輩,言論貴族と嘲笑されるようになったのは何故だろうか。あるいは架空な話題や、物珍しい題材を高邁な文書に仕上げるモノ書き職人や文化人の発する言葉によって教育者の如く世の先導者に疑せられる様相は、一過性の社会風潮とはかたづけられない問題であり、集積された社会や心の深層を融解しかねない状況でもある。よく、戦後教育やGHQ政策をその因として論じるが、゛民族の考え゛を表現する場所やシステムの選択は、その因として論じる処の阿諛迎合性もしくは他因逃避に視点を置かざるを得まい。その言論出版なりを貫く伝統とか国民意識の発露の場を、どのように培い集積したか、また、そ...真の言論人と、堕した売文の輩と言論貴族092再

  • 輪ゴムで蟻を釣ると津軽を思い出した 10 9/7 再、

    乾いた土に穴を掘り、暑いさなかせっせと何かを運ぶ蟻の行列を見て、童心に戻って蟻と遊びたくなった。道具は輪ゴムである。ひも状にして一方の端をつまんで穴に差し込むと蟻が釣れる。たわいない遊びだが親に叱られて土間に座っていとき考えた遊びだった。あの頃はナカナカやめられない遊び、いや蟻にとっては迷惑この上ない作業の邪魔だった。近頃は齢のせいか釣られる蟻を自身に模写したり、世の有様に似せたりするが、ふと津軽のことを想起した。今年の津軽は毎日のようにスコールがあった。決まって弘前から黒石までの弘南鉄道に乗ると着く頃は雨だった。スコールと考えたのはすぐあがるからである。なにか地軸が北米大陸に移動したかのように、それにつられて偏西風の帯が北上したような敷島の邦がことのほか暑い。風雨は亜熱帯のように激しくなり、乾いた土地は...輪ゴムで蟻を釣ると津軽を思い出した109/7再、

  • 朋友のリンク 郷学研修会のあの頃

    郷学熱海研修会安岡正明講頭我が家からテレビを放逐して数年経つが、不思議がった方々のほかに疑念を持った人がいた。あのNHKである。アンテナの線は切断、PCは自宅にはない。そんな環境でも何度も来訪した。音のするものもない中で茶をすすり、新聞二紙を読む。読むといっても産経と東京の二紙は観照したり思索するにはホドが良い資料だ。いつごろからか新興宗教の日刊紙が投函されているが、これも世俗を読むには有効な資料だ。ときおり昼食時の飲食店でテレビを視聴するが、お笑い娯楽となったニュースが流れ,晩餐?の居酒屋ではスポーツか娯楽が幅を利かせ光陰のように過ぎ去る世俗を映し出している。ことさらヤルセナイ人生とは思わないが、さまざまな視聴媒体がデモクラシー成立の部分構成だとおもうと、せめて一時でも離れたいと思うのは筆者だけではない...朋友のリンク郷学研修会のあの頃

  • 内憂外患とはいうが、先ずは「内患官倒」であろう 8 12 再

    前号では天安門の命がけのスローガンは民主化とそれを遮る官吏の「官倒」であった「田園まさに荒れなんとする・・」と陶淵明は都を落ちた。逸話では上級役人が視察に来るので正装して待つようにと下級官吏に命じられた折、陶淵明は気骨をもって憤慨している。言うに「食い扶持のために田舎役人に頭を下げるのはごめんだ・・」と、反発して郷里に戻っている。その気風は自然詩情あふれ、今どきの定年待ちの年金田舎暮らしとは心根に天地の差があるが、反骨によくある誹りは免れない。かといって、゛いいんじゃん゛゛俺はオレ゛のいい加減さは無い。詩情に流れるものは「経世済民」であり、あくまで民を済(救う)ことを目標としている。そのために縦割り官吏の似非権力に反抗したのである。その気高き孤高の精神は浮俗のに漂う多くの欲人を儘ならぬ形で誘引をもしている...内憂外患とはいうが、先ずは「内患官倒」であろう812再

  • 人間考学 「布仁興義」 その倣うべき姿 11 4/22

    筆者拙刻「仁を布いて義を興す」よき心を自ら広げて、正しい心を喚起する「布仁興義」東洋では政治の様態を問うときこの意を標識するその標識は世間では法の掲げる標(しるし)として乱立しているが、いまはこのシルシが罰金徴収の題目となっている。標(しるし)は、識(しき)にいう道理がなくては掲げるべきものではない。道徳心を喚起し己を自制する、あるいは想い起こさせる標でなくてはならない。孟子の説く「四端」がある。ことの心(情)の端緒を収斂すると四つあると、それぞれ「惻隠、辞譲、羞悪、是非」として仁、義、礼、智を説いている。仁は惻隠の情が心や行動の端緒となる、という。他人の困窮を見たら察する、心を想うことが陰ながらの意識の発動であり、それが「仁」の姿だという。ちなみに「礼」は心を譲る、「義」は羞悪をみたら本来の姿を想起する...人間考学「布仁興義」その倣うべき姿114/22

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