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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 迷いの根源4

    実は、「言葉に迷っている」のです。 「迷い」というものが実際に在るわけではありません。 「迷いという言葉」に迷っているという事が「事実」なのです。 それを「法(道)」に依って「消滅」させていく、それを「修行」と言っているのです。

  • 迷いの根源4

    実は、「言葉に迷っている」のです。 「迷い」というものが実際に在るわけではありません。 「迷いという言葉」に迷っているという事が「事実」なのです。 それを「法(道)」に依って「消滅」させていく、それを「修行」と言っているのです。

  • 迷いの根源3

    本来「一つ物」とも言えないぐらいにその物の状態を「悟り」と言ってるわけです。 そういう「悟り」を妨げているものが「我見」というものです。 何時の間にか知らず識らずに「一つの物(此の物)」を認めて「自分だ」「私だ」と言って他と区別を付けて、いわゆる「認識」を起こしたのです。 「我見」を持って物を認めるようになったというような事から「迷う」のです。

  • 迷いの根源3

    本来「一つ物」とも言えないぐらいにその物の状態を「悟り」と言ってるわけです。 そういう「悟り」を妨げているものが「我見」というものです。 何時の間にか知らず識らずに「一つの物(此の物)」を認めて「自分だ」「私だ」と言って他と区別を付けて、いわゆる「認識」を起こしたのです。 「我見」を持って物を認めるようになったというような事から「迷う」のです。

  • 迷いの根源2

    ですから、私たち衆生は悟りを開くとか、開かないとかという事に関係なく、何時でも何処でも何をしていても「安心(仏教語で使用する時は、あんじんと読みます)」の中にいて、本来本当に満足の状態で何時でも生活が出来ているのです。 「出来ていない」という事は、成長するにしたがって知らず識らずのうちにだんだん見たり聞いたり考えたりすることが出来、そういう「ひとつの物(此の物)」を認めて「私だ」と考えているところに大きな問題が在るわけです。

  • 迷いの根源2

    ですから、私たち衆生は悟りを開くとか、開かないとかという事に関係なく、何時でも何処でも何をしていても「安心(仏教語で使用する時は、あんじんと読みます)」の中にいて、本来本当に満足の状態で何時でも生活が出来ているのです。 「出来ていない」という事は、成長するにしたがって知らず識らずのうちにだんだん見たり聞いたり考えたりすることが出来、そういう「ひとつの物(此の物)」を認めて「私だ」と考えているところに大きな問題が在るわけです。

  • 迷いの根源1

    おシャカ様は自分というものを削ぎ落し「眼・耳・鼻・舌・身・意」という「六根の働きだけのものに成った状態の時(明星を見た瞬間)」に悟りを開かれました。 それが二千五百余年前だといわれておりますが、そのおシャカ様の悟りが実は「私たち衆生の今の事実」なのです。 時間、空間を飛び越えて何時でも何処でも何をしていても「私たち衆生の今の事実」として在るという事なのです。

  • 迷いの始まり3

    ですから「香厳(きょうげん)」という和尚さんは、只「カチッ」という「音」を聞いただけで大悟したのです。 それはそのはずです。 「事実」を御覧ください。 「車の音」は考える以前に「事実としてちゃんと在る」という事です。 只、音がしただけで、「その音」が善いとか悪いとか分別(考える)するところから「迷いが始まる」のです。 善いとか悪いとかではないのです。 只、「どんな音」でも「その音、その物が在った」だけなのです。

  • 迷いの始まり2

    「只(ただ)事実が事実として先に(考え方より先に)在る」のです。 必ず「事実の方が考え方より先に在る」のです。 「無いもの」は問題に出来ないのです。 「在る事」しか「問題に出来ない」という事は、「在る事」が先に在って、そして「在る事」に対して何故(なにゆえに)と行ったからです。 これが「考え方」です。 ですから「本来の面目」として本質的なものがちゃんと在るのです。 ここに着目していただかなければなりません。

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