「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
極めて肝要な事は「一大事因縁」をはっきりさせて於いて頂きたいと思います。然うして決して人の力を借りる用は一つも無いと云う事です。必ず自分自身が自分自身に於いて自分自身で其れが処理(解決)が出来るものである云う事です。其処に「無師独悟」と云う事が有(在)るのです。其れで必ず最後は「無師独悟」のものです。其れは何故かと申します自身の事を他の人が知(識)る訳が無いからです。其れで其れを知(識)ってみると(お互いに話し合うと)(指導者の悟りの点検を受ければ)本当にそうだと云う事が通じるのです。其処におシャカ様や歴代の覚者が、代々其れを伝えておいでになったと云う理由が有(在)るのです。道元禅師は此れを一歩進めて(自己と法「悟り」を対待(ついだい)せず自己は指導者と共に本証の全体であると云う「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ...一大事因縁5
此の一大事因縁としての、無自覚に生活を送り続けているのが、現在の私達衆生の在り方です。其処に(事実)と云う事が、はっきりお互いの上に(今)行われている事実を皆捨てておいて、然うして其れ「今の事実のまんまに」知(識)らないなりに行っているのです。此の物(自分自身)が或る縁(六境)に触れて然うして初めて此の今の事実に遭遇して、それも突然の為に此の物(自分自身)はびっくりするのです。其れが「自覚」です。此の「自覚」何方も自分で自分の事ですからはっきりするのが「必然」なのです。其れ以外に法「道」が有(在)るのではないのです。六境とは、六識の対称となる、「色(しき)・声(しょう)・香(こう)味(み)・触(そく)法」の総称です。一大事因縁4
このもの(自分自身)の様子は、人間が知(識)ったから、宇宙が有(在)るのでもないし、人間が知(識)ったから人間が生まれたものでもありません。不知不識生(ふちふしきしょう)なのです。何も知(識)らない物が知(識)らないなりに、其れが「現実に今、此のところに居る」のです。其れが今の事実です。此の今の事実を私達衆生は無視していると思います。此の事は人類全体の欠陥です。此の人類の欠陥である迷いの根源は、こう云う処に有(在)るのです。「此の物(自分自身)の真実」に対しては、然う云う処に有(在)るのです。然う云う事を知識として知(識)って頂いて自分の考えと云うものは捨てていく修行に勤めて頂きたく思います。一大事因縁3
私達衆生は必ず縁(目・耳・鼻・舌・身・心)に触れると、此方は知らないし向こうも識らないのですけれども、犬は犬であり、鳥は鳥であるのです。不知不識(知らず識らず)なのです。一切の物は間違いなくきちんと現れるようにできているのです。然ういうような事を人間が後から捕らえて因縁と名称を付けたのです。それですから此の因縁と云うものには,実体は無いのです.何故なら何も知らない(識らない)からです。一大事因縁2
仏家(ぶっけ)の一大事因縁とは、このもの(自分自身)が、宇宙全体と一つに成って必要な活動をしている、と云う事です。私たち衆生は知らず知らずに発生し、知らず識らずに人間(じんかん)に生まれたのです。この事を不知不識生(ふちふしきしょう)と言います。それが今、現在この通りに「人」も「宇宙」も皆、存在しているのです。この事(今、現在存在している事実)を、おシャカ様は徹底為されて一大事因縁と表現されたのです。おシャカ様の徹見とは、「このもの(自分自身)の実質に徹せられた」ということです。一般的なこのもの(自分自身)の説き方と云うのは、人間の考えで至り得た考えですので仏法(仏道、仏教)ではありません。「一大事因縁」が無くては「仏法(仏道、仏教)」には成らないのです。一大事因縁1
①神道(しんとう)とは、古来、日本で発生した民俗信仰が、外来思想である仏教、儒教などの影響を受けつつ理論化されたものです。平安時代には神仏習合〔日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷し手融合すること〕、本地垂迹(ほんじすいじゃく)が現れます。②仏教とは、(人間の世界の中で人がどういうふうに生きていったらいいのだろう)と、人間に特化した教えと云うものを、神道と仏教ではまず中心とするものが違うので、物事を見る視点が変わってきます。神道(しんとう)では人間も自然の一部であるとの考え方なのです。仏教と神道では聖徳太子は人を中心とした自然というものではてはなくて人に限定した生き方とか教えと云うものを、説いている仏教を取り入れたのです即ち、尊崇の念が厚かったお方だったのです。③仏教と神道では、この世の執着を整理するために、あ...神道と仏教1
仏教では、「人(私)」というものが生じる以前、もともと既に有った森羅万象の状態を自然(じねん)と云っています。全てのものを、「人(私)」と云う者が認識し、名付けた事によって「自己との(距離)」が生じたという事です。ものによって自分が混乱させられるているように思うことがありますがそれは全く逆のことです。「私は悟りを開きました」とか、「私は真理に目覚めました」とか、そういうような表現をあなたは耳にされたり本で読んだことがあると思います。しかし、「悟り」とはそういうものではありません。「六根[目・耳・鼻・舌・身・心]」のうちの一つの縁其の物に成って自己を忘れたと云う事です。一切の物が「空」に成ってしまったと云う事です。「本当に世界中のものが同時に無くなった」と、いうことなのです。あなたへ8
「増阿含経(ぞうあごんきょう)」に曰く「此の物無くんば彼の物無し、此の物有るが故に彼の物あり」と。このお言葉の如く、自己を認める事に因って一切のものが生じる訳です。生じた事それ自体は何の問題もありませんが、受け取る(請け取る)側に於いて問題を生じるということです。ここで大切なところは、「此の物」を認めて思(想)った時にだけに「此の物(自分)」があるということです。別の言い方をすれば「人(私)という者(事)」が生じる以前に森羅万象(しんらばんしょう)は既にあった」ということです。「人(私)という物(事)」が生じたことに因って森羅万象を認識の対象にしたのです。そして認めることに因って森羅万象を「自然(しぜん)」と人が名付けたのです。しかし「山川草木(さんせんそうもく)」それ自体は自然(しぜん)とも不自然とも、そうい...あなたへ7
「仏教」は、私たち衆生がおシャカ様と同様に「法そのもの(法身自体)」に徹し得て、その処から教えの正しさを「立証し得る教え」なのです。「仏教」は「事実(結果)」を先ず示して「問題意識(疑問)」を生じさせるという構造をとっています。何故なのでしょうか。それはその方が、私たち衆生が「仏教」を求めていただくのに「問題意識(疑問)」を生じやすいと考えたからではないでしょうか。「仏教」は自らを完全に救い得たことを「自覚する(立証し得る)」道です。あなたへ6
おシャカ様は人類で初めて「本質(観念以前の事実)」を究められたのです。知らず識らずにして生(産)まれた者が、知らず識らず世に「今、現存」しているのです。それが、私たち衆生の「今の様子」なのです。この事は誰一人として、疑う余地のない「事実(真実)」ではないでしょうか。おシャカ様はこの事を究めれた時、初めて「認識(観念)の発生」した事を知(識)り、この時点に於いて、「認識(観念)が錯覚を起こして迷う」という事実を確認されたのです。あなたへ5
「自我意識」が生じるのは「法の働き」ですが、「無意識」に生ずるのです。私たち衆生は「実在(実体、事実)」が有(在)ると「錯覚」しています。そして、その最大の錯覚は、自分が生まれた事を自分自身では知(識)らないのに、「自分が生まれた」と認めている事です。人間社会では物心が付いたといいう時に知(智慧)が付いたといいます。しかし、この事は「認識以前の存在事実」を観念化した「錯覚」の第一歩なのです。この「観念化」が「迷い」の第一歩なのです。この事を多くの人は知(識)る由もないし、知(識)り得たとしても、原(もと)を知らないので手の下し様がないのです。この事は子供の時代に物心の付く時の観念、「自我意識(法の働き)」を観念だという「自覚」がないからです。そして成人してからも「本質(観念以前の事実)」を知(識)ること、即ち、...あなたへ4
すべての物は「仏性(ぶっしょう)--永久不滅の性」をそなえています。しかし、「精神作用の識」は「人間」にしかありません。この「識」を本当にはっきり理解する事が仏道修行の根本です。「自分がある」ことに因って、一切の物が起こる訳です。「起こるそれ自体」は、何の問題もありませんが、それを受け取る側において問題が生まれるわけです。すべての物は、「自分がある」ことに因って「自他の見」が起こる訳です。あなたは、日常生活に於いて様々な教えが胸中に去来すると思います。しかし、「このこと」は皆「事実」ではないでしょうか。私たちは「この自分に去来する事実(今のこの事実)」を素直にそのまま受け入れれば、それで宜しいのではないでしょうか。あなたへ3
私たちが「自分と思っている者」は「自分」でも「人」でも何でもありません。「このもの」というのが一番的確な表現です。「このもの」には、働きが存在し、その働きというのは、「眼・耳・鼻・舌・身・心の働き」です。「このもの」は「自分の者」でもなければ、「誰彼の者」といえるものではありません。私たちの生活は「眼・耳・鼻・舌・身・心」という機能が集まって成り立っています。「このもの(肉体と精神)」の「肉体」は「地水火風」という四大元素(しだいげんそ)に因って形作られています。目に見える「このもの」の状態が「色(しき)」です。目には見えませんが、「精神作用(受想行識)」というものがあります。「精神作用(受想行識)」は「このもの」の土台になっている肉体に入り、そして初めて「眼・耳・鼻・舌・身・心」の受ける物に因って精神作用とし...あなたへ2
俗にいう「自我が芽生える」のは「ものの働き」ですが、無意識に芽生えるのです。私たちは「自分がある」と思い違いをしています。その最大の「思い違い」は自分が生まれた事を自分では知らないのに、「自分がある」と思っている事です。そして大人になってからも、「自分はある」という思い違いを続けているのです。自分が生まれた事を自分では知らないのに、「自分は今、生きている」と思い違いをしているのです。おシャカ様は初めてその「思い違い」を見破られた方です。あなたへ1
⑦動物としての本能と人間としての理性「飢え」「貧困」に代表するような「衣食住」が誰でも多少の不備はあるにせよ、一日一日心配しないで生活出来る様な条件が整えれば、やがて人類は「動物としての本能と人間としての理性」に立ち向かい、乗り越えていかなくてはならない時を迎えると思います。その時初めて「宗教」が必要になると思います。何故なら「宗教」は「源(みなもと)の教え」だからです。そこで「止むを得ず」ですが、「宗教」の力を一時借りて、「源(みなもと)の教えである宗教」を自分のものにする以外に「道(活かして生きる道)」はないのではないでしょうか。日本人について4
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「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏、其の物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですから、もっと大きく「活かして生きなさい」といっているのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは、「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ない」という事です。※人間(じんかん)とは、広辞苑に拠れば「人の住む所、世の中、世間」と記されています。差別(しゃべつ)について2
差別(しゃべつ)とは仏教語です。広辞苑では下記のように記されています。●差別〔しゃべつ〕(シャは呉音)①(仏)万物の本体が平等であるのに対して、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること②相違、区別、さべつ③分別(ふんべつ)※もと仏語からしゃべつかい(差別界)〔仏〕↔平等界万物が差別(しゃべつ)のすがたをとっている現象世界●差別〔さべつ〕①差をつけて取り扱うこと、分け隔て、正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと※差別意識②区別すること、けじめ差別化(さべつか)他との違いを明確にして独自性を積極的に示すこと仏教語辞典では差別(しゃべつ)即平等について、差別(しゃべつ)の当相(ありのままのすがた)がそのまま平等という理体本質であることと記されています差別(しゃべつ)について1
其処(そこ)に問題があったのです。其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。衆生(しゅじょう)について5
「衆生」というものも今のように分からないものが分からないなりに生まれて来たというのが凡(すべ)てなのです。其れで其れが大きく成ったのです。ですから内容としては、「仏」と同じものなのです。内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で「此の物を自分勝手にした」のです。物心が付いて始まった其れも子供時代の事ですから、其の「物心が付いた時点」では「其のこと(自分勝手にした事)」を全く知(識)らなかった」のです。即ち「其の事(自分勝手にした事)の自覚」は無かったのです。衆生(しゅじょう)について4
「心」といわれるものは、私たち衆生が何もその発生を知(識)らないまま、分からない不思議な作用を起こします。それが「心」の「事実(真実)」なのです。其れは其のはずです。私たち衆生はこの世に知らず識らずに生まれて来たのです。(不知不識生)知(識)らないなりに、「此の物は今存在している」のです。ですから、「心」とは架空のものではありません。そういう働きをするものを暫く「心」と名付けたのです。それを確実に「自覚」なさったお方が「仏(おシャカ様)」といわれる由縁です。衆生(しゅじょう)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏その物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですからもっと大きく「活かして生きなさい」といってるのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ないという事です。※人間(じんかん)とは広辞苑に拠れば「人の住む所・世の中・世間」と記されています衆生(しゅじょう)について2
衆生とは仏教語で、広辞苑に拠ればしゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。「人類(人)」と認めようがないものです。始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。衆生(しゅじょう)について1
過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。古歌に、「過去を思い未来をここに引き寄せて今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。今日あっても過去です。今日あっても未来です。否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。「今日なくして一生なし」。今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。「地限り場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。「その場その場を空しくするな」という意味です。人の人生2
人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3
「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2
私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1
人は必ず死ななければなりません。如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。「真の成功」は「永久」でなければなりません。「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。何人もその分量が同じでなければなりません。「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。「真の成功」とは
「境遇は結果」です。「結果」はどうすることも出来ないものです。「結果は即ち、真理」です。この事を仏教では「因縁生空」といっています。私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。「私たち衆生は全く一つの物」です。「空」とは「一つの物」ということです。離れることはどうしても出来ないのです。「空」とは6
「因縁生」というお言葉があります。全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。「空」というのは何も無いということではありません。「比較するものが無くなった」ということです。別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。「空」とは5
「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。「空のままにものが有(在)る」ということです。「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。「空」とは4
「此の物自体」は「空」なのです。「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。「全ての事実」を「空」と名付けたのです。これは一応説明として「空」と名付けたのです。ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。私たち衆生はもともと「空」なのです。「空」とは3
「今の事実、その物」は前稿で掲げた言葉、即ち「法、道、禅、空、無、如是」と名称は異なりますが、全く同じものなのです。それを「異名同体(いみょうどうたい)」と言います。法、道、禅、空、無、如是というものは「同じ事実(一つの物)」を様々な言葉で表現したものです。誰一人として生まれながらにして覚者である自覚のある人はいません。「真理」は誰のものでもありません。ですから私たち衆生は「自分で自分自身に目醒める」必要性があるのです。異名同体2
世の中では「真理(自分をも含めて一切のもの)」を多くの方々が色々な言葉を用いて説明しています。一例を挙げれば「法、道、禅、空、無、如是」なのです。真理は何時でも何処でも何をしていても「人種、文化、思想、言葉」に左右されることがあってはなりません。真理は偏り様がなく、汚れることもなく、生まれることもなく、滅することもないものでなければ真理とは言えないのではないでしょうか。人類史上で始めてその「真理」に目醒められたお方がおシャカ様なのです。私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実が真理そのものである」と皆様に提示しているのです。異名同体1
「四大仮和合(しだいけわごう)」はどこまでも同じです。因縁は各々(おのおの)異なりといえども無自性なることはどれも同じです。ですからどうしても「自己という塊」を認めようがないのです。全異全同4
般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人のために設けた「応病薬」なのです。「色即是空」も「空」に迷う人のための一時の設けです。本来は「色即色、空即空」なのです。男性は男性、此の男性は彼の男性ではありません。女性は此れ女性、彼の女性ではありません。しかし、「眼横鼻直(がんのうびちょく)」はどこまでも同じなのです。全異全同3
いくらと遠ざかっていても同じものなのです。それほど親しいものはありません。離れていながら同じものなのです。元来同じものなのです。波は変われども水はひとつなのです。全異全同なのです。「同」に偏しては行けないし、「異」に堕してもいけないのです。全異全同2
世間の法は全て有形無形の事物を他の事物と区別して言語で表した呼び方をしています。物物元来同一生(もつもつがんらいどういっしょう)というお示しがあります。四大(地水火風)は古今に通じています。同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。言い換えると千差万別のままで同じものなのです。これを「全異全同」といっています。男性は男性、女性は女性、地は地と、別々ですけれどもそのままで同じものなのです。全異全同1
カレイとヒラメは別の魚ですが人間(にんげん)がヒラメと、人間がカレイと名付けたので魚自身「我はヒラメなり」と「我はカレイなり」と名乗り出たわけではありません。仮の名です。自性は有(在)りません。魚に向かって「貴方は魚に相違ないか」といったところで魚に分かるものではありません。只、一切の諸相は解脱の相なのです。魚と云うから魚です。魚に似たり、だから魚を解脱しているのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり3
「魚に似たり」といえば魚にあらず、「魚行いて」は魚です。ですから「魚にして魚を解脱す」ということです。人は何処から来て何処は行くのでしょうか。「人は人に似たようなもの」です。魚に自性は有(在)りません。魚という名を付けて通用しているから魚といいますが、魚には自性が無いのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり2
「水清うして地に徹す」とは、一点の汚染も無く清中の清ということです。「魚行いて魚に似たり」とは、魚の実体なくしてものに衝突することもなく、魚の自己を見ない自在の境界を指したのです。身心脱落の境界です。六根が六塵に奪われない境界です。ですから、「人行いて人に似たり」ということも出来ます。人という実体が無いから生まれると死ぬ、死ぬと思うと生まれるのです。かくして「無始無終」です。何と自在なものではないでしょうか。「似たりというのは「無自性空」に当てはめることが出来ます。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり1
「縁に対せずして照らす」の「照」は、縁に対せずを照とするのです。「縁は縁なり」です。「縁是れ照なるが故に」です。「対せず」とは「徧界(へんがい)嘗(かつ)て蔵(かく)さず」です。何物も包み隠すことはないということです。真実は至る所にあり、ありのままの姿で現れているといういうことです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6
「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。覚知は小量です。了知の知でもありません。了知は造作です。ですから「事に触れずして知る」のです。「事に触れずは知」なのです。その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。また「坐破す嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5
宗教の第一義は只その物のみに成ることです。「知は知なり」です。「知の外に知なきが故に」です。「単」は「正(しょう)」です。「正」の字を分析すれば「一(いつ)に止まる」です。死ぬる時は生を見ず、死ばかりにして生を見る暇はないのです。「朝顔やその日その日の花の出来」と。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす4
坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。「坐禅は坐禅なり」です。外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。道歌に「おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。生は生の生にして、生の外に生なしなのです。「空即是色、色即是空」なりです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3
「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。相手なりに相手が無いことです。どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。「不回互にして成ず」と同じです。「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。「暗し」とは同化ということです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2
「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。事、即ち、知です。知るの外に知るものが無いのです。「真知は不知なり」です。相手が無いから知り様がないのです。つまり、「事実は真理の證明者なり」です。道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。明らかに聞くばかりです。これを「真に知る」というのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1
「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。格言6
意識の未発達の段階では、外の世界に現れている現象が、自分の想念に因って造り出しているものであるという事に気付かず、実体のあるものとして認識してしまいます。それに翻弄されて不必要な混乱を招いている場合が非常に多くあります。ひとりの人間(にんげん)の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されています。何もしていない様に見えても、いつもニコニコして暮らしている人の方が、世の中には貢献しています。何ということもない、日常の生活のひとつひとつに正しく関わっていくことが、人間(にんげん)の究極の望みの目的にとって最も大きな効果があり、しかもその人にとって最短の進歩を与えてくれます。格言5
「法」をもとめるどんな努力も「最後まで続けた人」だけが、「解脱」に到るのです。人間(にんげん)が地上に肉体を持っているという事実は、人間の数だけそれぞれの人生を通して「修行方法」が用意されているという意味です。私たち衆生は原則としては「真理」を自分自身の内側に向けて求めるべきであり、外側の誰かに対して求めてもそれを得ることは出来ません。しかし、その一方でどんな人でも最初は「迷いの真っ只中にある自我意識の状態」から始めなければならないのです。「人を呪わば穴二つ」というお言葉がありますが、否定的な想念を誰かに向けたようなときは確実に自分が害を受けることになります。これは「カルマの法則」です。格言4
どのような宗教集団であっても「自分意識の人間(にんげん)」が関わっている限り、その教義や活動に多かれ少なかれ問題が生じてしまいます。私たち衆生は人間(にんげん)としてのおシャカ様という「人格(個性)」を考えてはいけないし、又そのような「人格(個性)」も想像してはいけないのです。何故ならば、こうした考えが「法(真理)」を識るうえで私たち衆生の目を覆うからです。誰かに追随することは易しいです。その人物が大きければ大きいほど、追随するのは容易となります。しかし、それは「本人の解脱」にとっては妨げとなります。何故なら、「追随する者(その人物)」は、決して「解脱」するものではあり得ないからです。「追随と随身の識別」ははっきりしなければなりません。格言3
必ず来る最後をふだんから考えている人は、生きるとはどういうことか、最後はどう締めくくるべきかの覚悟が出来ています。死は自分の思いを越えたところで起きるので、自分の思い通りにはいきません。生き方は自分の思いの範囲内で充実させることが出来ます。ですから、結果を気にせず、しかも死は視野に入れながら思い通りに出来る範囲の事を思い通りにすればいいのであって、あとは「おまかせ」です。「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に任せて人事を尽くす」のです。「有難(うなん)」とは、人の生を受くるは難く、限りある身の今、生命ありは有り難し。格言2