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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 一大事因縁5

    極めて肝要な事は「一大事因縁」をはっきりさせて於いて頂きたいと思います。然うして決して人の力を借りる用は一つも無いと云う事です。必ず自分自身が自分自身に於いて自分自身で其れが処理(解決)が出来るものである云う事です。其処に「無師独悟」と云う事が有(在)るのです。其れで必ず最後は「無師独悟」のものです。其れは何故かと申します自身の事を他の人が知(識)る訳が無いからです。其れで其れを知(識)ってみると(お互いに話し合うと)(指導者の悟りの点検を受ければ)本当にそうだと云う事が通じるのです。其処におシャカ様や歴代の覚者が、代々其れを伝えておいでになったと云う理由が有(在)るのです。道元禅師は此れを一歩進めて(自己と法「悟り」を対待(ついだい)せず自己は指導者と共に本証の全体であると云う「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ...一大事因縁5

  • 一大事因縁4

    此の一大事因縁としての、無自覚に生活を送り続けているのが、現在の私達衆生の在り方です。其処に(事実)と云う事が、はっきりお互いの上に(今)行われている事実を皆捨てておいて、然うして其れ「今の事実のまんまに」知(識)らないなりに行っているのです。此の物(自分自身)が或る縁(六境)に触れて然うして初めて此の今の事実に遭遇して、それも突然の為に此の物(自分自身)はびっくりするのです。其れが「自覚」です。此の「自覚」何方も自分で自分の事ですからはっきりするのが「必然」なのです。其れ以外に法「道」が有(在)るのではないのです。六境とは、六識の対称となる、「色(しき)・声(しょう)・香(こう)味(み)・触(そく)法」の総称です。一大事因縁4

  • 一大事因縁3

    このもの(自分自身)の様子は、人間が知(識)ったから、宇宙が有(在)るのでもないし、人間が知(識)ったから人間が生まれたものでもありません。不知不識生(ふちふしきしょう)なのです。何も知(識)らない物が知(識)らないなりに、其れが「現実に今、此のところに居る」のです。其れが今の事実です。此の今の事実を私達衆生は無視していると思います。此の事は人類全体の欠陥です。此の人類の欠陥である迷いの根源は、こう云う処に有(在)るのです。「此の物(自分自身)の真実」に対しては、然う云う処に有(在)るのです。然う云う事を知識として知(識)って頂いて自分の考えと云うものは捨てていく修行に勤めて頂きたく思います。一大事因縁3

  • 一大事因縁2

    私達衆生は必ず縁(目・耳・鼻・舌・身・心)に触れると、此方は知らないし向こうも識らないのですけれども、犬は犬であり、鳥は鳥であるのです。不知不識(知らず識らず)なのです。一切の物は間違いなくきちんと現れるようにできているのです。然ういうような事を人間が後から捕らえて因縁と名称を付けたのです。それですから此の因縁と云うものには,実体は無いのです.何故なら何も知らない(識らない)からです。一大事因縁2

  • 一大事因縁1

    仏家(ぶっけ)の一大事因縁とは、このもの(自分自身)が、宇宙全体と一つに成って必要な活動をしている、と云う事です。私たち衆生は知らず知らずに発生し、知らず識らずに人間(じんかん)に生まれたのです。この事を不知不識生(ふちふしきしょう)と言います。それが今、現在この通りに「人」も「宇宙」も皆、存在しているのです。この事(今、現在存在している事実)を、おシャカ様は徹底為されて一大事因縁と表現されたのです。おシャカ様の徹見とは、「このもの(自分自身)の実質に徹せられた」ということです。一般的なこのもの(自分自身)の説き方と云うのは、人間の考えで至り得た考えですので仏法(仏道、仏教)ではありません。「一大事因縁」が無くては「仏法(仏道、仏教)」には成らないのです。一大事因縁1

  • 神道と仏教1

    ①神道(しんとう)とは、古来、日本で発生した民俗信仰が、外来思想である仏教、儒教などの影響を受けつつ理論化されたものです。平安時代には神仏習合〔日本固有の神の信仰と仏教信仰とを折衷し手融合すること〕、本地垂迹(ほんじすいじゃく)が現れます。②仏教とは、(人間の世界の中で人がどういうふうに生きていったらいいのだろう)と、人間に特化した教えと云うものを、神道と仏教ではまず中心とするものが違うので、物事を見る視点が変わってきます。神道(しんとう)では人間も自然の一部であるとの考え方なのです。仏教と神道では聖徳太子は人を中心とした自然というものではてはなくて人に限定した生き方とか教えと云うものを、説いている仏教を取り入れたのです即ち、尊崇の念が厚かったお方だったのです。③仏教と神道では、この世の執着を整理するために、あ...神道と仏教1

  • あなたへ8

    仏教では、「人(私)」というものが生じる以前、もともと既に有った森羅万象の状態を自然(じねん)と云っています。全てのものを、「人(私)」と云う者が認識し、名付けた事によって「自己との(距離)」が生じたという事です。ものによって自分が混乱させられるているように思うことがありますがそれは全く逆のことです。「私は悟りを開きました」とか、「私は真理に目覚めました」とか、そういうような表現をあなたは耳にされたり本で読んだことがあると思います。しかし、「悟り」とはそういうものではありません。「六根[目・耳・鼻・舌・身・心]」のうちの一つの縁其の物に成って自己を忘れたと云う事です。一切の物が「空」に成ってしまったと云う事です。「本当に世界中のものが同時に無くなった」と、いうことなのです。あなたへ8

  • あなたへ7

    「増阿含経(ぞうあごんきょう)」に曰く「此の物無くんば彼の物無し、此の物有るが故に彼の物あり」と。このお言葉の如く、自己を認める事に因って一切のものが生じる訳です。生じた事それ自体は何の問題もありませんが、受け取る(請け取る)側に於いて問題を生じるということです。ここで大切なところは、「此の物」を認めて思(想)った時にだけに「此の物(自分)」があるということです。別の言い方をすれば「人(私)という者(事)」が生じる以前に森羅万象(しんらばんしょう)は既にあった」ということです。「人(私)という物(事)」が生じたことに因って森羅万象を認識の対象にしたのです。そして認めることに因って森羅万象を「自然(しぜん)」と人が名付けたのです。しかし「山川草木(さんせんそうもく)」それ自体は自然(しぜん)とも不自然とも、そうい...あなたへ7

  • あなたへ6

    「仏教」は、私たち衆生がおシャカ様と同様に「法そのもの(法身自体)」に徹し得て、その処から教えの正しさを「立証し得る教え」なのです。「仏教」は「事実(結果)」を先ず示して「問題意識(疑問)」を生じさせるという構造をとっています。何故なのでしょうか。それはその方が、私たち衆生が「仏教」を求めていただくのに「問題意識(疑問)」を生じやすいと考えたからではないでしょうか。「仏教」は自らを完全に救い得たことを「自覚する(立証し得る)」道です。あなたへ6

  • あなたへ5

    おシャカ様は人類で初めて「本質(観念以前の事実)」を究められたのです。知らず識らずにして生(産)まれた者が、知らず識らず世に「今、現存」しているのです。それが、私たち衆生の「今の様子」なのです。この事は誰一人として、疑う余地のない「事実(真実)」ではないでしょうか。おシャカ様はこの事を究めれた時、初めて「認識(観念)の発生」した事を知(識)り、この時点に於いて、「認識(観念)が錯覚を起こして迷う」という事実を確認されたのです。あなたへ5

  • あなたへ4

    「自我意識」が生じるのは「法の働き」ですが、「無意識」に生ずるのです。私たち衆生は「実在(実体、事実)」が有(在)ると「錯覚」しています。そして、その最大の錯覚は、自分が生まれた事を自分自身では知(識)らないのに、「自分が生まれた」と認めている事です。人間社会では物心が付いたといいう時に知(智慧)が付いたといいます。しかし、この事は「認識以前の存在事実」を観念化した「錯覚」の第一歩なのです。この「観念化」が「迷い」の第一歩なのです。この事を多くの人は知(識)る由もないし、知(識)り得たとしても、原(もと)を知らないので手の下し様がないのです。この事は子供の時代に物心の付く時の観念、「自我意識(法の働き)」を観念だという「自覚」がないからです。そして成人してからも「本質(観念以前の事実)」を知(識)ること、即ち、...あなたへ4

  • あなたへ3

    すべての物は「仏性(ぶっしょう)--永久不滅の性」をそなえています。しかし、「精神作用の識」は「人間」にしかありません。この「識」を本当にはっきり理解する事が仏道修行の根本です。「自分がある」ことに因って、一切の物が起こる訳です。「起こるそれ自体」は、何の問題もありませんが、それを受け取る側において問題が生まれるわけです。すべての物は、「自分がある」ことに因って「自他の見」が起こる訳です。あなたは、日常生活に於いて様々な教えが胸中に去来すると思います。しかし、「このこと」は皆「事実」ではないでしょうか。私たちは「この自分に去来する事実(今のこの事実)」を素直にそのまま受け入れれば、それで宜しいのではないでしょうか。あなたへ3

  • あなたへ2

    私たちが「自分と思っている者」は「自分」でも「人」でも何でもありません。「このもの」というのが一番的確な表現です。「このもの」には、働きが存在し、その働きというのは、「眼・耳・鼻・舌・身・心の働き」です。「このもの」は「自分の者」でもなければ、「誰彼の者」といえるものではありません。私たちの生活は「眼・耳・鼻・舌・身・心」という機能が集まって成り立っています。「このもの(肉体と精神)」の「肉体」は「地水火風」という四大元素(しだいげんそ)に因って形作られています。目に見える「このもの」の状態が「色(しき)」です。目には見えませんが、「精神作用(受想行識)」というものがあります。「精神作用(受想行識)」は「このもの」の土台になっている肉体に入り、そして初めて「眼・耳・鼻・舌・身・心」の受ける物に因って精神作用とし...あなたへ2

  • あなたへ1

    俗にいう「自我が芽生える」のは「ものの働き」ですが、無意識に芽生えるのです。私たちは「自分がある」と思い違いをしています。その最大の「思い違い」は自分が生まれた事を自分では知らないのに、「自分がある」と思っている事です。そして大人になってからも、「自分はある」という思い違いを続けているのです。自分が生まれた事を自分では知らないのに、「自分は今、生きている」と思い違いをしているのです。おシャカ様は初めてその「思い違い」を見破られた方です。あなたへ1

  • 日本人について4

    ⑦動物としての本能と人間としての理性「飢え」「貧困」に代表するような「衣食住」が誰でも多少の不備はあるにせよ、一日一日心配しないで生活出来る様な条件が整えれば、やがて人類は「動物としての本能と人間としての理性」に立ち向かい、乗り越えていかなくてはならない時を迎えると思います。その時初めて「宗教」が必要になると思います。何故なら「宗教」は「源(みなもと)の教え」だからです。そこで「止むを得ず」ですが、「宗教」の力を一時借りて、「源(みなもと)の教えである宗教」を自分のものにする以外に「道(活かして生きる道)」はないのではないでしょうか。日本人について4

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