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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 因果9

    「今」と言う言葉は有(在)っても実体はありません「今」と言う時はありません。それを、おシャカ様や歴代の覚者方は「法」と説明したのです。「人」の考えられるものはいつも「過去と未来」だけなのです。「過去と未来」を現在に持ってきて考えているのです。ですから、「今」と言う言葉を使って実体の無い「今」と云うものを、自分のものにする以外にないのです因果9

  • 因果8

    「今の事実(法・仏)」と「言葉(教え)」には明らかにズレがあるのに私達衆生の日常では、本当のこと(今の事実)が解らずに曖昧のままに過ぎてしまっています。問題とすべきことは、「人」と言う者を土台にした教え方なのです。もともと「人」と認める者は存在しませんから、「有(在)ると思っているのは間違いです。因果8

  • 因果7

    しばらくの間は、おシャカ様の説かれた「法」を借りて「自分自身の法」に目覚めるように努めていくのが「仏道の修行」なのです。仏道には必ず修行の過程があります。すなわち「発心・修行・菩提・涅槃(ほっしん、しゅぎょう、ぼだい、ねはん)」です。この経路無くして仏道は実現致しません因果7

  • 因果5

    経に曰く諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)無去来故無所得(むこらいこむしょとく)無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)無量広大(むりょうこうだい)発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)--------------------------------------------------------------------------------------------本来、私達衆生(わたしたちしゅじょう)は、分かる分からないとか、明確になるならないにかかわらず、自分自身で一杯一杯の生活が出来ているのです。「三宝(さんぼう)」とは、仏・法・僧のことです。「南...因果5

  • 因果4

    経に曰く諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)無去来故無所得(むこらいこむしょとく)無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)無量広大(むりょうこうだい)発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)--------------------------------------------------------------------------------------------諸々の現象は因縁より生まれて来ているので、「自性(じしょう・もの自体)」がありません。ですから行ったり来たりしないので、場所も距離も時間もありません。所在が無い故に「空」なのであり、故にそれを...因果4

  • 因果3

    経に曰く諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)無去来故無所得(むこらいこむしょとく)無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)無量広大(むりょうこうだい)発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)--------------------------------------------------------------------------------------------それから多くの人は、「無」と言うと、「ない」と思い込んでしまうのです。分別を去らせんが為に「無・空」の字を説くのです。「無・空」は、異名(いみょう)にして同体なのです。私達衆生(わたしたちしゅ...因果3

  • 因果6

    経に曰く諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)無去来故無所得(むこらいこむしょとく)無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)無量広大(むりょうこうだい)発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「(あのくたら)」とは、無上と云う事です。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)とは、「正等正覚(しょうとうしょうがく)」と云う事です。正しく仏と等しく悟りと云う事です。仏(ほとけ)も元(もと)凡夫、凡夫も悟れば仏です。山を見れば山と等しく、海を見れば海に成り仏を見れば仏に成ると云う事です。因果6

  • 因果2

    この「もんごん」の中で最も注目すべきお言葉は「故(こ)」です。「故」は、般若心経にある「是故」(ぜこ、このゆえに)」の略です。「故の故に」とは、「此の人〈因縁生、空、無を了知した覚者〉」には、何にも認めるものがないという事です。多くの人が思想的に、空とか、無とか言うと、「ない」と、決めてしまうものです。ところが、無とか空とか言うものは、然う云うものではなくて、必然な自由性のものであるのです。空と言うのは決まった場所がないから、どんなにでも自由に動ける、それが「空」なのです。因果2

  • 因果1

    経に曰く諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)無去来故無所得(むこらいこむしょとく)無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)是名般若波羅蜜(ぜみょうはんにゃはらみつ)南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)無量広大(むりょうこうだい)発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)因縁生(いんねんしょう)のものは、すべて無自性(むじしょう)なのです。中心がないのです。全てのものがないままに「縁」になったり「因」になったりしているのです。仏教は因果説、縁起説を方便として「法」を説いているのです。因縁説は因や縁によって果を生じ、縁起説は、全てのものはどこからともなく集まって来て、集まって来るもの自体は、縁(無自性)によってそうなって来ているのです。ですか...因果1

  • 教育について

    大人は、子供のひとつひとつの行為を否定的に見るのではなく、子供に内在する普遍意識の展開を絶対的に信頼して見守っていくことが何よりも大切な事です。個人の人間としての表現は、それぞれ違っていますから、他人の得たものを、そのまま持ってきても使い物にならないし、それが可能であったとすれば地上に人間をたくさん創った意味はなかったことになってしまいます。教育について

  • 神仏との絆を取り戻す

    ・スピリチュアルと現実のバランスが大事です。現実世界のことをしっかり踏まえながらスピリチュアルな世界とも通じていくことです。・あらゆる分野で世代交代に直面しています。世界中の宗教の根源はどこにあるかというと、それは古代ユダヤ教になるのです。ユダヤ教は多神教であり、それに一番近いのが神道(しんとう)なのです。十個の戒律「神と人間との約束」を決めたのは、当時の指導者たちです。この戒律がおかしいのではないかと指摘したのが、イエス・キリストなのです。イエス・キリストと云うお方は、キリスト教を始めた人ではなくて、あくまでもユダヤ教の信者であってユダヤ教のここの部分がおかしいと言った人なのです。神さまはそんなことは願っていないし、神さまは本当はこういうふうに言っているんだよよと、説いた人なのです。それを世の中に広めて行った...神仏との絆を取り戻す

  • 一大事因縁6

    「自己の本来の面目」に相見(しょうけん)しなければ、例え経論(きょうろん)を究(きわ)めても他の宝を教え終わる人です。自ら「実物」を見ずして見た如き観念を造る人です。「一大事因縁」無くして人を導く事は、「一盲衆盲(いちもうしゅもう)を引く」で誠に恐るべきことです。此れは仏経全体の「一大事」です。「此(こ)の事(じ)」無くして法(道)を説いても響き無しです。一度は命根(みょうこん)を絶せん事を要すのです。今人(こんじん)、故人も「四大(地、水、火、風)」は同じです。何れの時代になっても志氣(しいき)が有(在)れば何人(なんびと)たりと云えども徹するものです。「疑うことなかれ」です。旧稿「信解行証入(しんげぎょうしょうにゅう)が大切な処です。今や社会は「此の人」求めつつあります。若し此れに当たる人が無ければ「仏教の...一大事因縁6

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