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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 日本人について3

    ⑤「島国」だからこそ形成された日本人の素晴らしい意識それぞれの国や地域などを基に、女性性の民族と男性性の民族とに分類することは出来ても、単純に農耕民族と狩猟民族とに分類することは出来ません。しかし、日本人にそれが出来るのは「島国」によって形成された民族としての意識であり、それを指し示すのは、海に因って「外敵(征服しようと画策する民族)」から守られてきたということであり、逆に言えば逃げ場のない場所なので助け合わなければ生き抜いてこられなかったと思います。このような意識を持っている民族は世界中を見渡してもあまりないと思いますが、日本人はその少ない民族の代表格に位置するものだと思っています。そのため男性性の国々の方からは、日本人は自己主張が弱く、表現も曖昧であることから「本当に何を考えているのか分からない!」と悪口を...日本人について3

  • 日本人について2

    ④農耕民族と狩猟民族(女性性と男性性)大きな自然災害が起きた時や、政治の横暴で生活が不安定になった時、「食べ物を確保」することが基本になります。その思考パターンには、農耕民族(一般的には女性性が強く、集団を好む草食系)と狩猟民族(一般的には男性性が強く、核家族を好む肉食系)との大きな違いが出ます。どちらの民族も飢餓寸前になった時には、大半が利己に走り、他から奪ってでも食べ物を確保しようとしますがその以前までの行動は全く違っています。農耕民族は基本的に備蓄することを思慮し、食べ物が残りわずかになってもそれを出来る限り平等に分配しようとします。それに対して狩猟民族は「力が全て」なので、食べ物を備蓄することは考えず、略奪して独り占めしようとする行動に出やすく、基本的には家族の事は考えても他の事を思いやる気持ちには至ら...日本人について2

  • 日本人について1

    ①初めに人間一人一人、意識を向上させ「人間は自然(じねん)の一部分」でしかないことを認識し、自然(じねん)を大切にする心を育む必要があります。②世界の現象人間が動物である以上、自然(しぜん)破壊や、爆発的な人口増加などの原因の大半が、発展途上国と呼ばれている地域に限られています。それを改善するため最初に解決しなければならないのが「食料問題」です。問題なのはその食糧の配分先が先進国と呼ばれる国々とそれ以外の国々とで、大きな差があるということです。これには「人間の欲(お金儲け)」が絡むので、改善しようとすると常に国難がつきまとうことになります。無秩序な焼畑農業や森林伐採などで「公害と異常気象」が発生することになり、自分類の危機も叫ばれるようになりました。③人間は本来「地球の管理者」人間たちは自分の都合や欲望のために...日本人について1

  • 区切りに5

    「今」という言葉は在っても実体はありません。ですから「今」という言葉を使って、実体のない「今」というものを自分のものにする以外にありません。「自分の名前」というものは、後から付けられたのであって「自分の象徴」にすぎません。自分の考えで分かったとか分からないとおいのは、同じ心の中の問題なのです。自分で自分の考えを巡らして善い方に善い方にと自分を向上していこう、というようなことは実は間違いです。あるけれども実体がないということが、人(ひと)をも含めて万物(ばんもつ)の様子です。道歌に曰く、「為せば成る為さねば成らぬ成るものを成らぬは人の為さぬなりけり」「書きおくも夢のうちなる記しかな覚めてのちには問う人もなし」不尽区切りに5

  • 区切りに4

    そのままとは、有りのままということです。このままで善かったということです。誰一人として同じ人生を送る人はいません。病気とは自分をクリーニングするサインのようなものです。解釈や意味意義を付けて納得するという作業は潜在意識(記憶)に操作されているのです。大切なことは、分かろうとしないことです。手放すことです。私たち衆生は、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」で応じられる世界を現実として生きています。しかし、その世界は「私」の中にあるフィルムが映し出した映画のようなものです。ですから、スクリーンに映し出された映像はフィルムの投影にすぎないのです。問題というのは「人(ひと)」というものを土台にした考え方です。もともと「人」と認めるものは存在しませんから「有(在)る」と思っているのは、間違いなのです。間違いの上に立った考え...区切りに4

  • 区切りに3

    禅語で「馬鹿」とは「不喞瑠(ふしつりゅう)の漢」といっています。あらゆる出来事は、内側にある波動や想念が現象化してくるものである以上、自分で原因を造らなければ、決して害を被ることがないというのが「自然(じねん)の摂理」です。仏教ではこの事を「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」といいます。たとえ誰かから否定的な想念を向けれらたとしても、当人にその否定的な波動を受信する要素が全く無ければ、決して害をこうむることがない「自然の摂理」です。ひとりの人間の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されているのです。区切りに3

  • 区切りに2

    「娑婆世界(自分の思い通りにはならない世界)」での私たち衆生の修行は、「内秘外現(ないひげげん)の羅漢」にら成らなくてはならないのです。「内秘」とは内に「大願成就(だいがんじょうじゅ)」の「大行(だいぎょう)」と秘するということです。「外現」とは外に於いては、声聞(しょうもん)の相を現するということです。本当に「馬鹿」のように成って修行するということです。「宝鏡三昧」という経文で言えば「潜行密用(せんこうみつよう)は、愚のごとく魯のごとし」ということです。「潜行」とは際立たないということです。一体何をしているのか分からないということです。「修行の臭味」がないということです。凡(ぼん)とも、聖(しょう)とも分からないということです。「作用(しごと)」に行き詰まることがなく、追い払うものがないということです。区切りに2

  • 区切りに1

    外側からくる情報は、それが書物であれ、人の意見であれ、あるいはインスピレーションのようなかたちをとって心に生じたものにしても、決して鵜吞みにせず、それまでに得たあらゆる知識や直感を総動員して、その時点で自分の到着できる高い意識状態において内側から「識別」することが大切です。そしてもし確かめる事が出来ないものであれば、その問題については「判らない」という事を明確にすべきです。「解脱」に至る以前の人間にとっては、進化に応じた自由意思を行使できる範囲がある反面、「自然(じねん)法則」に因って「法」からズレた分だけ「カルマ」が生じ、その混乱の体験に因って自他共に成長していくという二重の仕組みが生じるように成っています。おシャカ様から観れば、私たち衆生が「現象世界」の中で、一刻も早く真理(本来の面目)に目醒めるか、それと...区切りに1

  • 道友に向けて

    仏教徒であるとか、仏教とでないということに全く関わりなく、一人一人が際限のない大きな自分(自己)に目醒めて「大安心(だいあんじん)」を得ていただくためには「道」を歩くことが必要です。これが「仏道すなわち活かして生きる道」です。宗教というのはたびたび申し上げておりますが、「宗(源)の教え」と書きます。「宗(源)」というのは、万物の本質です。宇宙のあらゆるものは「実相は無相である」ということです。「法性(ほっしょう)」に目醒めたお方をおシャカ様とか、如来とかお呼びしています。その法に目醒める「道」を示した教えが仏教なのです。仏教は教えを伝える人も、そしてその教えを聞く人も、ともに「仏教そのもの」なのです。これを「法が法を伝える」といいます。したがって、それぞれの異なった思想や宗教を持った人でも、「仏教という自己の参...道友に向けて

  • 活かして生きる道6

    何千何万という数の「宗教(教え)」があると思います。それぞれ皆さん「その宗教(教え)」を信じて(守って)行じられていると思います。私はそういう事を否定するものではありません。私はそれぞれの信じる「宗教(教え)」の中で、今私が提示しているような「活かして生きる道」を取り入れて頂ければ、みんな「道に一つに成る」と思います。そして皆さんがそれぞれの「宗教の教え」に因って本当に平和な自由の人に成れるということです。どうか「充実した日常生活」を送って頂きたいと思います。不尽活かして生きる道6

  • 活かして生きる道5

    自由と安心(あんじん)を得られぬままに「このままが道である」と高尚なことを言っても何の役にも立ちません。日常生活の総てが目的を持った生活のように感じられるのですが、実はそうではありません。「日常生活は成るべくして成った状態であり、結果」なのです。ですから、「その結果も無相でなくてはならない」のです。問題は「道の人」に到達することです。真に「道の人」と成って頂きたいと思います。別の言葉で言えば「日常生活の総てを道と見立てて修行して頂きたい」と思います。活かして生きる道5

  • 活かして生きる道4

    なぜ「活かして生きる道の教え」が正しいのかというと、私たち衆生が自らが「正しい教えであると証明出来る教え」だからです。それでは誰が「正しい証明」をするかということが問題になってきます。それは、皆さん自身が「証明」するのです。「弟子が師匠の道を証明する」ということです。学問では理論上では誰もがその正しさを「証明」することは出来ません。それが学問の限界なのです。これがおシャカ様を始めとする歴代の覚者が示された「活かして生きる道」です。「道」は知にも属せず不知にも属せずというところです。「活かして生きる道」とは「只(唯)活かして生きる」事であり、「道」は「活かして生きる」という添え物が付いていてはいけないのです。総てが「道」であるという道理からすれば、一木一草にも相(すがた)があってはいけないということです。即ち「一...活かして生きる道4

  • 活かして生きる道3

    現在「活かして生きる道」の他に「人の考えた道」が出来てしまいました。仏教的に言えば「六道(りくどう)」の内の「人間界(にんげんかい)の道」ということです。「こうしなければならない、ああしなければならない」と言葉や文章に表せば必ず何か出て来ます。一回自分の中で「正しい教え」というものに疑いを持って頂きたいと思います。「自分の考えで作った道」で、自分で善いと思ったことを、自分で善しとしているだけでは駄目なのです。「絶対というものは自分しかない」のです。それに「神」もいては、とんでもない話になります。自分がしっかりしなければいけないところです。「神」がある以上、「絶対というものは自分しかない」ということに気が付かないと思います。「自覚」というものは、教わるものでは無く、自分自身でやらなければなりません。「覚者の教え(...活かして生きる道3

  • 活かして生きる道2

    「キリスト教、イスラム教、仏教」を世界三大宗教ということはよくご存じだと思いますが、今までキリスト教、イスラム教文化の中で育ってきた人は、「神」という「絶対」のものが存在して、それから離れられないようです。どんなにしても「神の存在(神の領域)」というものが重くあるわけです。現実に「絶対」というものがある以上、「絶対は人が作ったもの」だということに気が付けない現実があります。しかし、その「絶対」は「人の考えで作った絶対」という事なのです。そして、「善悪のない世界がある」ということを理解してもらいたいと思います。「善悪のない世界」とは「今(今の事実、今の自己の様子)」です。「自分でこれが善であるとか悪であるとか判断(認識)する以前の世界」ということです。即ち「活かして生きる道(善悪のない世界がある)」ということです...活かして生きる道2

  • 活かして生きる道1

    「活かして生きる道」と所謂「普通の道を求めている人の道」とは、大いに相違があると思います。「活かして生きる道」とは、「今」がいちいちの結果であるという、結果を求めない道なのです。「普通の道を求めている人の道」とは、自己の満足する結果が求められる道なのです。そうすると、自己の満足を「基準」と同時に「目的」にして、それが道だと決めてしまう傾向にあると思います。「活かして生きる道」とは「今(今の事実、今の自己の様子)が結果である」ということです。しかし、一般的には、理屈では分かるけれど「何事においても結果である」ということで安易に自己満足の状態で終わってしまうことが多いと思います。しかし、それは最初に「活かして生きる道」をはっきり示していなかったので、いわゆる「人の考えの中で作った道」を「道」と思い(理解して)、「活...活かして生きる道1

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