人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
私たち衆生は、結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。ところが「求心(ぐしん)」求め心がなかなか無くならない為に「今の結果に安住出来ない」ということなのです。安心してその中に入られないのです。結果というものに、「善悪」はありません。善くても悪くても結果です。結果は今で言えば「証拠」ということになります。その「証拠」に自分自身が任せることが出来ないということです。「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を借りて修行をし「ただに成る」べく努力するということです。しかし、それがすべてではありません。昔の方々が、「このように修行をしたら、あまり苦しまずに坐ることが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を...ただ坐れる人2
私たち衆生一人一人が、本当に「ただ坐れる人に成る」という事が坐禅修行で一番大切なことです。「ただ」というのは「影」です。ですから、「ただ坐る」ことによって「その影(ただ)」を早く落とさなくてはなりません。別の言葉で言えば「影の痕跡」をなくすことです。そうしないと本当の「ただ」に成れないということです。したがって、おシャカ様や歴代の覚者の教えによって、それを正しく行地ていかなければならないのですかれども「教え(分かったもの)」というものが、どうしても残ってしまうのです。そのために「教え(分かったもの)」と自分との間に「隔て(距離)」が出来てしまうのです。仏教は「月を指す指」といわれているように、月を見てしまえば指の必要がなくならないといけないのです。「ただ」に成れば「ただ」がなくならないといけないということです。ただ坐れる人1
「調息の法」というものがあります。これは「息を整ええる」ということです。それは「自分の計らい」でもって呼吸を整えていかなければならない、ということではありません。一応、自分を用いて「道」を修していくことも必要な時期もあるわけですけれども、自分の考えでもって「こうしていかなければならない、ああしていかなければならない」という意味での「整える」ということではありません。「本来整っているのに、何故整わせていかなければならないのか」という事の方が問題にならないといけないわけです。「いわれたからやる、こうしなさいというからその通りにやる」ということだけでは、「この道」というのは、なかなか成就するものではありません。「道が成就しない」のは、「問題が自分の問題にならない」ということが、一番の「元」になっていると思います。心を整える2
禅の修行における心を整えるという事は、一般に行われている様々な修行に於いての心を整えるという事と、大いに趣きを異にしている一点があります。「禅」では、この大きな宇宙の中に、一体どこに心を整えるかという事が大問題になります。もし何らかの手段や方法というもの(習学)を以って心を整えたとしたならば、そこには整えられるものと、整えられないものとのはっきりとした区別が生じてしまいます。それでは何処まで行っても「これでよし」という時がきません。心を整えるという事は、私たち衆生がこれから修行して静かに成って、少しずつ整えて行く事ではありません。既に全てのものが整えられている、これ以上に手を加える必要がない(絶学)、そういう状態が今の私たち衆生の状態であるという事に気付く、それが禅の修行の目的です。心を整える1
私たち衆生は何時頃からか、「ものを二つに見る癖」がついてしまいました。これを「無明」と言っています。別の言葉で言えば「自分というものを認める」がために、それが「無明」となるのです。全て「無明」が隔てを作っているので、それが分からないのです。しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明とすべき塊」は何にもないのではないでしょうか。それでは一体何が「無明」なのかという事になってきます。ですから「ものを二つに見る癖、ものを隔てるその様子を無明」と覚えておいてください。言いかえれば、それが「自我」の事です。大切な事は「自我を忘れて認識する以前の状態に戻る事」です。私たち衆生には煩悩や菩提が生じる以前の様子(消息)が必ずあります。そういう事を「只(ただ)」とか「祇管(しかん)」と言っているわけです。「法(道)」...無明について
「人人具足箇箇円成(にんにんぐそくここえんじょう)」とはそれぞれの人、様々な状態である私たち衆生のありさまを言います。「おシャカ様の御心が紛れもなく私たち衆生そのものである」ということなのです。既に私たち衆生はおしゃかさまの御心をみんな具えているのです。要は、「御心そのものである自分」に気が付く事です。私たち衆生が既に具えているものである「欠ける事無く余る事も無い状態の自分の様子」をお経では「仏身(ぶっしん)」と言っているのです。しかし、如何しても止むを得ない事ですが、修行(坐禅)を少しの間「手段、方法」として借りて修行(坐禅)していく以外にないのです。そして「なるほど確かにそうだった」と頷かなければ自分自身で納得することは出来ない訳です。道元禅師のお言葉を拝借すれば「修せざるにはあらはれず、證せざるにはうるこ...人人具足箇箇円成
私たち衆生がおシャカ様を初めとして歴代の覚者といわれる方々の恩に報いるには、「自分の修行(坐禅)を誰かに伝えていく」という「菩提心」といいますか、「志」を持って頂かなければいけないのです。この事は拵(こしらえ)て出来る事ではありません。「自らが法を自分の物としなければいけない」という事です。これは「そういう法があるのだ」と知(識)った人は、もう「その人」の責任です。いい加減なところで挫折してしまって「誰か自分の代わりになってやってくれる人があるだろう」と、簡単にお考えにならないようにしてもらいたく思います。「自分は修行(坐禅)をさせてもらっているのだから、その喜びを誰かに伝えていって同じように共に修行(坐禅)の出来るような人を作っていかなければいけない」という、そういう「志」を起こして頂きたいと思います。報恩
仏教の教えは何時も「結論(結果)」を提示します。何故かというと、私たち衆生が間違った方向に進むことが無いように先に結論(結果)を提示して仏教の教えというのはそういうものだという事をお示しになっている訳なのです。「放下著(ほうげじゃく)」というお示しがあります。これから全てのものを放しなさいという意味ではありません。「既に一切のものが放たれている、或いは脱落しているという私たち衆生の今の状態」を示したものです。「惺惺著(せいせいじゃく)」というお示しがあります。これは「目を醒ましているか?」と自分自身に自分自身が問いかけ、それに対して「はいはい」と答えているということです。これもこれから目を醒ますのではありません。既に目を醒ましている状態、目の開いている状態、「私たち衆生の今の状態」を自ら肯ったお言葉です。全てこ...放下著、惺惺著
私たち衆生は「念、念」と言っていますが、「念」とはどういうものかという説明は出来ません。或いは「心(しん、こころ)」も説明出来るものではありません。白隠禅師の「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中に「無念の念を念として」というお言葉があります。「無念の念」とは誰も名前を知(識)らないのです。そこで分からない内は、「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみればそれがそのまま、悟りであり、法であり、道であるということになる訳です。この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修その物が証拠であり、悟りである」と説明しています。ですから「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する(悟りを得る)事が出来るのです。修証不二(しゅしょうふに)2
仏教というものは「結果」を示したものです。これは「法(道)の説明」です。「修証不二」というお言葉があります。「修(修行)と証(悟り)」というものは本来一つであるという意味です。これは「結果から見て、そのような境涯に至った人(覚者)」が「修証は一つである」と、そういった訳です。それが分からない人が「修証は一つである」という事を理解して、そして「一つ出ある」ということ(見)を先に立てて「ものを求めてはいけないんだ、これで善いんだ」というように自分の考えを起こして所業するならば、それは大変な誤りであるという事です。「修と証、生と死、迷いと悟り、不安と安心」これらは、みんな比較相対したものです。それではみんな距離(隔て)が有(在)るという事です。それでは「不二」という事、「一つ物である」という事はいえません。坐禅で言う...修証不二(しゅしょうふに)
「坐禅は修證不二なり」と最初から丸呑みをしてはいけません。その間には多少の距離と時間とを要する事を忘れてはいけません。そうしないと「空腹高心(くうふくこうじん)の病」に堕ちます。指導者の下で百錬千鍛を要する事も忘れてはいけないのです。経に「法喜禅悦を食(じき)となす」というお示しがあります。「食無くんば命無かるべし」です。深くこれを思っていただきたいと思います。不尽「坐禅は坐禅なり」とは9
坐禅は直に是れ「身心脱落」です。道元禅師は中国に於いて「身心脱落の一声の下」に確かに「身心脱落」を体得されました。これが直に坐禅の力です。「この力に前後無し」というのは「理想の上」から言っているのです。事実、境界(きょうがい)の上からはその境界を体得しなければ「自ら許す事」は出来ないはずです。「坐禅は坐禅なり」。坐禅に師無し、坐禅の真師は坐禅なのです。即ち「坐禅が坐禅を教えてくれる」のです。「坐禅は元より結果」にして、手段・方法ではありません。「坐禅は坐禅なり」とは8
「坐禅」という事は言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。さらに別の言葉で言えば「私の無くなった状態」なのです。「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。「私」が坐禅するのではありません。「坐禅は坐禅なり」です。何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。「私」というものの全く無い状態を「坐禅は坐禅なり」というのです。迷いだけではありません。「不安、恐れ、煩悩」にしろ「人(ひと)の介在が無ければ必ず「その物(不安、恐れ、煩悩)」に成れます。だから「ものの本性」が分かるのです。それを分かろうと押していく力を「菩提心」と言っています。「坐禅」というのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という自分の日常生活」の事です。「行住坐臥...「坐禅は坐禅なり」とは7
「私が坐禅をしている、私が仕事をしている」という「坐禅」と「私」というものが二つに成らないように満身の坐禅、満身の仕事に成り切らなければならないのです。坐禅というものは自分で行うより他に無いのです。そこを達磨大師は「諸仏の法印は人から得るものではない、自分でやりなさい」とおっしゃっています。ですから「法(道)」を求める事です。「法(道)」というのは自分自身の事です。「自分自身」というのは「法身(ほっしん)その物」です。「法身」というのは無限であり、無辺のものです。それが自分の姿です。しかし、私たち衆生は「人、私、法、道、というものを認める」が為に、こんな大きなものであるという事に気が付かないのです。「坐禅は坐禅なり」とは6
道元禅師のお示しに「人は坐禅するにあらず坐禅に坐せらるるなり」とあります。坐禅の時には「私」というものの介在する余地が無い」という事です。「坐禅その物に成る」という事です。「頑張らなくてはならない」というような事でも、純粋という面からいえば「余分の事」です。それくらい「今(今の様子、今の事実)」というのは垢も付かなければ、汚れる事も出来ない透明なもの、スッキリした者、はっきりしたものであるという事です。「坐禅の指導者は坐禅その物」です、人ではありません。坐禅をして「迷いの本性」を分かろうとするのではありません。坐禅その物が迷いに成ってしまわないと、「迷いの本性」というものは見定める事は出来ないのです。「坐禅は坐禅なり」とは5
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人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3
「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2
私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1
人は必ず死ななければなりません。如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。「真の成功」は「永久」でなければなりません。「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。何人もその分量が同じでなければなりません。「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。「真の成功」とは
「境遇は結果」です。「結果」はどうすることも出来ないものです。「結果は即ち、真理」です。この事を仏教では「因縁生空」といっています。私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。「私たち衆生は全く一つの物」です。「空」とは「一つの物」ということです。離れることはどうしても出来ないのです。「空」とは6
「因縁生」というお言葉があります。全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。「空」というのは何も無いということではありません。「比較するものが無くなった」ということです。別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。「空」とは5
「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。「空のままにものが有(在)る」ということです。「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。「空」とは4
「此の物自体」は「空」なのです。「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。「全ての事実」を「空」と名付けたのです。これは一応説明として「空」と名付けたのです。ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。私たち衆生はもともと「空」なのです。「空」とは3
「空」とは何かあるべきものが不在している状態をいうのではありません。相対的に「空」に対する「有(う)」を想定したものでもありません。「空の空、空の縁、空の自分」ということです。何故「空」なのかというと、「有形、無形の一切の物は全て因縁に因って出来ている」からです。「因縁の法則」は最初から「絶対の法則」として存在していた訳ではありません。おシャカ様が「法、道、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を打ち立てたのです。「空」とは2
ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。「此の物自体」には名称は有(在)りません。「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。「空」とは1
「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。これは「人(ひと)」が作ったものではありません。従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。無我とは3
そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。無我とは2
「無我」というものは「人(人)」というものを認めた上での言葉です。そこで「人の根源とは何か」ということが問題になります。私は「此の物」が「人(ひと)」と名付けられるようになったのは、何時の頃かということを考えてみたいと思います。父母の縁に因って「此の物」が出来上がりますが、私たち衆生は知らず識らずに生まれていつの間にか「人(ひと)」あるいは「人間(にんげん)」と名付けられていたという全く根底のないものなのです。このことを私は「不知不識生(ふちふしきしょう)」と名付けています。そして「人(ひと)」には「六根の意(認識)」というものが元元具わっており、この認識が自分と他というものを分けて見る働き、つまり「自我」というものを形成するのです。無我とは1
「月というのは自分自身である」ということを認識して頂きたく思います。「教えというレールの上」を走っている間は決して「法」というものは分かりません。「法」は他にある訳ではありません。何故ならば私たち衆生一人一人が「法」そのものであるからです。自己の正体を見極めない限りは色々な教えの中で右往左往してしまうものです。私たち衆生の「日常生活そのもの」がそのものに成れば本当に修行に成るということです。「法」を知(識)らずに「教え」だけを知(識)っている為に修行の方向間違いが生じてしまうのです。月を標す指3
個々のものは具体的に「事象(事実と現象)」として他と比較してそれぞれに違いがあります。そのことを一般的には「差異」といい仏教では「差別(しゃべつ)」といいます。「法」とは「差別(しゃべつ)」です。「ものの本質」というものは時間的にも空間的にも「同一(平等)」であり、因果の法則に従って「差別(しゃべつ)の相」が出て来ているということです。これはおシャカ様以前からそうであったということです。この事を仏教では「自然(じねん)」といいます。即ち、自ずから然りということです。月を標す指1
人類で初めておシャカ様は「諸法は無我なり」ということに気が付かれたのです。すべての教えは「月を標す指」ともいわれました。しかし、月を見ることよりも「指の詮索」に生涯をかけてしまう人があります。たまたま月を見ることを教えられても、はるか彼方の「月」というものを標されるので、これは「真に法を求めようとする人」にとっては、大変な大きな誤りを教えられているということになってしまうのです。月を標す指2
私たち衆生が自分自身でしている行為(見る、聞く、味わう、思う等々)に何となく物足りなさや不満足が残るというのはこれは全て「自我の介在」があるからです。それはまた「本来の自己と一つに成れていない」ということなのです。本当に見た、本当に聞いたという様子は、見たもの聞いたものが完全になくなった様子をいいます。仏教では「空」と呼んでいます。私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という縁に因って必ず「本来の自己」に目醒められる時節があります。「悟りを開いたという人」は何方でも必ず「六根の縁」に因って「本来の自己」に目醒めているのです。「おシャカ様の宣言」は「どんなもの(自分を含めて一切の衆生)でも仏でないものはない」ということなのです。別のお経の中で、「私たち衆生は仏そのものである」といわれたのです。自我の介在
坐禅は坐禅より外に知るものはないのです。「坐禅は坐禅なり」です。外に知る者があれば、これは坐禅ではありません。生は生の法位にして、盡天盡地の生なのです。死は死の法位にして、貫古貫今の死なのです。ですから仏祖の生死を見ることは、春の百花を見る様なものです。道歌に「おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのづからなる法(のり)のみすがた」とあります。花は咲く時、咲くと言わず、散る時は散ることを知らないのです。生は生の生にして、生の外に生なしなのです。「空即是色、色即是空」なりです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす3
「縁に対せずして照らす」とは、その物それがそのままはっきりしていて、疑わしいところの無い、ということです。玉の自ら光を発して自ら照らすが如きものです。「虚明(きょめい)自照心力(しんりき)を労せざれ」です。相手なりに相手が無いことです。どうして喧嘩ができるでしょうか、ということです。「不回互にして成ず」と同じです。「対せず」とは、対しながら対する自己が無いことです。ここのところを道元禅師は「一方を證すれば一方は暗し」といっています。「暗し」とは同化ということです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす2
「事に触れず似て知る」とは「事その物に成る」ことです。事、即ち、知です。知るの外に知るものが無いのです。「真知は不知なり」です。相手が無いから知り様がないのです。つまり、「事実は真理の證明者なり」です。道元禅師の歌に「聞くままにまた心無き身にしあれば、おのれなりけり軒の玉水」と。明らかに聞くばかりです。これを「真に知る」というのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす1
「解脱」に到るためには、誰のものでもない、その人自身の表現(行為)こそが非常に大切です。地上に多くの人がいるのは、それぞれの人に異なった役割をしてもらうためであり、同じ表現(行為)を二度とする必要は全くありません。外側に否定的なものが見える時には、自分の心の中にそれを「現象化させている否定的な波動」があるのです。格言6
意識の未発達の段階では、外の世界に現れている現象が、自分の想念に因って造り出しているものであるという事に気付かず、実体のあるものとして認識してしまいます。それに翻弄されて不必要な混乱を招いている場合が非常に多くあります。ひとりの人間(にんげん)の周囲の出来事は、その人の出している波動に因って現象化されています。何もしていない様に見えても、いつもニコニコして暮らしている人の方が、世の中には貢献しています。何ということもない、日常の生活のひとつひとつに正しく関わっていくことが、人間(にんげん)の究極の望みの目的にとって最も大きな効果があり、しかもその人にとって最短の進歩を与えてくれます。格言5
「法」をもとめるどんな努力も「最後まで続けた人」だけが、「解脱」に到るのです。人間(にんげん)が地上に肉体を持っているという事実は、人間の数だけそれぞれの人生を通して「修行方法」が用意されているという意味です。私たち衆生は原則としては「真理」を自分自身の内側に向けて求めるべきであり、外側の誰かに対して求めてもそれを得ることは出来ません。しかし、その一方でどんな人でも最初は「迷いの真っ只中にある自我意識の状態」から始めなければならないのです。「人を呪わば穴二つ」というお言葉がありますが、否定的な想念を誰かに向けたようなときは確実に自分が害を受けることになります。これは「カルマの法則」です。格言4
どのような宗教集団であっても「自分意識の人間(にんげん)」が関わっている限り、その教義や活動に多かれ少なかれ問題が生じてしまいます。私たち衆生は人間(にんげん)としてのおシャカ様という「人格(個性)」を考えてはいけないし、又そのような「人格(個性)」も想像してはいけないのです。何故ならば、こうした考えが「法(真理)」を識るうえで私たち衆生の目を覆うからです。誰かに追随することは易しいです。その人物が大きければ大きいほど、追随するのは容易となります。しかし、それは「本人の解脱」にとっては妨げとなります。何故なら、「追随する者(その人物)」は、決して「解脱」するものではあり得ないからです。「追随と随身の識別」ははっきりしなければなりません。格言3
必ず来る最後をふだんから考えている人は、生きるとはどういうことか、最後はどう締めくくるべきかの覚悟が出来ています。死は自分の思いを越えたところで起きるので、自分の思い通りにはいきません。生き方は自分の思いの範囲内で充実させることが出来ます。ですから、結果を気にせず、しかも死は視野に入れながら思い通りに出来る範囲の事を思い通りにすればいいのであって、あとは「おまかせ」です。「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、「天命に任せて人事を尽くす」のです。「有難(うなん)」とは、人の生を受くるは難く、限りある身の今、生命ありは有り難し。格言2
人の為と書いて「偽(にせ)」と読みます。また、人の夢と書いて儚(はかない)と読みます。運動とは運を動かすこと、つまり行動すること。出会いは人の心を広げてくれるし、別れは人の心を深くしてくれます。「人の役割」とは、老いる姿、死にゆく姿をあるがままに後継者に「見せる、残す、伝える」ことです。命が残されているという事は、今何歳であろうと、まだまだしなければならないという事があるをいう事。「忍」とは心の上に刃(やいば)を載せて生きていくこと。我々の人生というものは、生きて死ぬまでの「間」でしかないのです。「健康」は人生を豊かに生きる「手段」であるはずなのに、いつの間にかそれが「目的」になってしまっているようです。格言1
「彼岸」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。一般にはこちらの岸(此岸、今)が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸)に悟りがあるようにとられられています。しかし、そうではありません。私たちはいつでも「彼岸」という結果(悟り)にいるのだという事です。ところが、私たちは今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じることが出来ないのです。「覚者」は「あなた達はもうすでにいつでも彼岸に到っているのです。今が彼岸なのだから、今の外に彼岸を求めてはいけません。」と話しているのです。しかし私たちは「今、すでに彼岸にいる」という事を信じることがなかなか出来ないものです。何故かというと、「自我」というものがあるのです。彼岸について2
彼岸とは仏教語です。広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。みんなそれぞれに一杯一杯なのです。しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。そこで止む...彼岸について1
「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。「壊」は”ヤブレル”または”クズレル”と読みます。その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。「そのまま」というのも及ばずです。除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。その間に認識の入る隙間はありません。認めれば妄想です。その物に成ることです。「坐禅箴」残り物5
「単」は「不染汚(ふぜんな)」です。「不染汚」とは外から汚されないことをいいます。元来、不染汚の境界(きょうがい)に体達して、異分子が混じわらなければ(残り物がなければ)六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のままで極浄です。もはや落とすべき「煩悩・菩提」も無いのです。そのものそれに向かって直下(じきげ)に究盡(ぐうじん)する修行が、ここでは「委すること無うして脱落す」というのです、「坐禅箴」残り物4
「禅」の字が「単、示」の二字から成立しています。「単」は赤裸々です。「赤裸々」とは「裸をもう一つ裸にする」と理解しなければなりません。裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。ちょうど百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っているようなものです。「悟り」というものが有(在)れば、それだけ「単」ではないのです。それを「真常流注(しんじょうるちゅう)」といいます。いわゆる「悟りという病」です。所詮、何物も脱し、何事も落としてこそ「大自在底」が初めて得られるのです。そこのところを道元禅師は「坐禅箴」の中で「その親委(い)すること無(の)うして脱落す」と、お示しになって居られます。「坐禅箴」残り物3
本当に親しいものは、何者が入って来ても犯されるものではありません。時と処によって境界(きょうがい)が変わるものではないのです。汚されるものは不思量に「残り物」があるからです。「何も無い」というものを、もう一つ殺さなければ本当の親しみは得られません。「坐禅箴」残り物2
「不思量」とは自己を忘ずることです。「自己を忘ずる」とは、万法(まんぼう)に證せらるることです。ですから、その現れ方は純一無雑にして何物に当たっても親密でなければなりません。ところが「実地」に於いてはそうは行かないのです。ちょうど、魚を焼いてしまってもなお、匂いが残るようなものです。そこで歴代の覚者は一層の奮起を促して「小成(しょうじょう)に安ずること」を戒められるのです。「坐禅箴」残り物1
ここのところは、「現成(げんじょう)」の二字を「現」と「成」と割って使っていますが、「現成」とは現れて確かで間違いのない様子をいいます。山は高くして山であるということです。「諸法実相」は現れたまま欠けることもなく成就しているのです。ですから「現成」といいます。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3
「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。それを「その成自ずから(おのずから)證す」といいます。「證す」とは自證のことです。仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2
自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。それを「其の現自ら親し(そのげんおのずからしたし)」といいます。「親し」とは親密ということです。これは「不思量にして現ず」の証拠です。道歌に「糸瓜(へちま)とは糸瓜に似たる糸瓜かな」と。「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1
「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。見る時は、見るばかり。聞く時は、聞くばかり。「人」も「境」も認めようのないはずのものです。不思量の故に不回互なのです。決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず3