大河・かこがわ(242) 近世の高砂(36) 新、工楽松右衛門物語(7)
迷信松右衛門が、すぐれた船頭であることを示すエピソードを『風を編む海をつなぐ』(高砂教育委員会)から一部をお借りします。・・・松右衛門、24才のときのことでした。松右衛門は讃岐(現在の香川県)へ通う船の船頭となっていました。その当時、おおみそかの夜に船を出すと災難にあうという言い伝えがあり、おおみそかの夜に航海する者はいません。言い伝えを信じていなかった松右衛門は、おびえる水主(かこ)たちを説得してその夜出港しました。夜の海を航海していると、水主たちが騒ぎだしました。「山のような波が押し寄せてきた」というのです。それを聞いて船首で海の様子を見た松右衛門は、「山があれば谷がある。谷に向かって進め」と命じました。水主たちは谷を見つけ、力を合わせて船を進めました。すると目の前から山は消えました。松右衛門には最初からこ...大河・かこがわ(242)近世の高砂(36)新、工楽松右衛門物語(7)
大河・あこがわ(241) 近世の高砂(35) 新、工楽松右衛門物語(6)・ 兵庫港、天領となり一時衰弱
兵庫港、天領となり一時衰弱『播磨灘物語』を読んでみます。(文体を変えています)・・・こんにち「阪神間」とよばれている地域は、江戸時代の中期、噴煙を噴きあげるような勢いで商業がさかんになりました。特に、尼崎藩は、藩の産業を保護し、特に兵庫港を繁盛させることに力を尽くしました。しかし、幕府はこの地の商業活動が盛んなのを見て、明和6年(1769)にここを取り上げ、天領(幕府の直轄地)としました。が、幕府は兵庫港の政策(運営の方針・みとうし)を少しも持ちませんでした。繁盛しているところから運上金(うんじょうきん:税金)を取りたてると言うだけでした。そのため、あれほど栄えていた兵庫問屋は軒なみ衰えていきました。北風荘右衛門(きたかぜそうえもん)が34・5才のときでした。彼はまず同業の問屋に、兵庫港の復活を呼びかけました。...大河・あこがわ(241)近世の高砂(35)新、工楽松右衛門物語(6)・ 兵庫港、天領となり一時衰弱
大河・かこがわ(240) 近世の高砂(34) 新、工楽松右衛門物語(5)・北風家
北風家『菜の花の沖(二)』(文芸春秋文庫)は、次のように始まります。・・・兵庫の津には、北風という不思議な豪家がある。・・・・「兵庫を興(おこ)したのは、北風(きたかぜ)はんや」と土地では言う。諸国の廻船は普通大坂の河口港に入る。それらの内、幾分かでも兵庫の港に入らせるべく北風家が大いにもてなした。「兵庫の北風家に入りさえすれば、寝起きから飲み食いまですべて無料(ただ)じゃ」と、諸国の港で言われていたが、まったくそのとおりであった。北風家は兵庫における他の廻船問屋にもそれをすすめ、この港の入船をふやした。入船が多ければ、その港が富むことはいうまでもない。兵庫の北風か、北風の兵庫か「北風の市」というのは、入船のたびに遠近(おちこち)から集まってくる仲買人でにぎわった。・・・・めし等は、いつ行っても無料(ただ)であ...大河・かこがわ(240)近世の高砂(34)新、工楽松右衛門物語(5)・北風家
大河・かこがわ(239) 近世の高砂(33) 新、工楽松右衛門物語(4)・兵庫の港
兵庫の港『菜の花の沖』で、司馬遼太郎はこの頃の松右衛門について書いています。・・・「・・・わしは(松右衛門のこと)十五の齢に家を出たよ」と松右衛門は人によく言い、その時は、両親も肩の荷をおろしたようによろこんだという。この少年がどれほど悪堂だったかがさっせられる。・・・・」(『菜の花の沖』より)私の松右衛門のイメージは、がっちりとした体の真面目な少年ですが、あるいは司馬氏が言うようにワルガキの面もあったのかもしれません。松右衛門は、力士のように大柄でした。とにかく、15才の時に兵庫(神戸)へ飛び出しました。夢の続きでした。・・・大坂は天下の台所秀吉の時代、大坂は一大消費地となり全国の商品はここにあつまりました。大坂は、徳川の時代になった後も「天下の台所」としてその機能を引き継いでいました。教科書『中学社会・歴史...大河・かこがわ(239)近世の高砂(33)新、工楽松右衛門物語(4)・兵庫の港
大河・かこがわ(238) 近世の高砂(32) 新、工楽松右衛門物語(3)・松右衛門、15才で兵庫港へ
高砂出身の工楽松右衛門(くらくまつえもん)は、廻船業で身を立てました。また、帆の改良や様々な工夫により各地の築港にも功績がありました。それに感銘を受けた大蔵永常(おおくらながつね)は、『農具便利論』に彼の伝記を紹介しています。松右衛門、15才で兵庫港へ松右衛門は、寛保3年(1743)に高砂の漁師・宮本松右衛門の子として生まれ、父と同じ松右衛門を名のりました。20才の頃、兵庫津、佐比江町の船主・御影屋平兵衛に奉公して、船乗りになりました。40才の頃、兵庫佐比江新地の御影屋松右衛門として廻船商売を始めたといいます。石見(現:島根県)浜田外ノ浦の清水屋の「諸国御客船帳」には、安永6年(1777)3月24日、入津の御影屋平兵衛の八幡丸の沖船頭として松右衛門の名があり、同8年5月7日の御影屋の津軽からの上り船・春日丸沖船...大河・かこがわ(238)近世の高砂(32)新、工楽松右衛門物語(3)・松右衛門、15才で兵庫港へ
大河・かこがわ(237) 近世の高砂(31) 新、工楽松右衛門物語(2)・松右衛門 蝦夷地・エトロフへ
2松右衛門蝦夷地・エトロフへ工楽松右衛門は、歴史上大きな役割を果たしましたが、広く知られている人物とはいえません。松右衛門の紹介の前に、彼についての概略を紹介しておきましょう。江戸時代、高砂の町には賑わいがありました。その豊かな経済力は、個性豊かな人物をたくさん輩出しています。その代表的な一人が、松右衛門です。松右衛門が世に知られるようになったのは、なんといっても船にとってたいせつな帆布の改良に取り組んだことでした。船の帆は、古代から材料は麻布や草皮等を荒く織った粗雑なものでした。瀬戸内を縦横に活躍した水軍も、遣唐使船も多くはムシロの帆を使ったと記録されています。そして、当時の船は帆よりも櫓(ろ)にたよることが多く、帆布が広く使用されるのは、江戸時代初期からのことです。しかし、この帆は、薄い布を重ねあわせて使用...大河・かこがわ(237)近世の高砂(31)新、工楽松右衛門物語(2)・松右衛門蝦夷地・エトロフへ
大河・かこがわ(236) 江戸時代(31) 新、工楽松右衛門物語(1)・工楽松右衛門物語を始めましょう
1工楽松右衛門物語を始めましょうずいぶん以前のことです。「高砂市に、工楽松右衛門(くらくまつえもん)というどえらい人物がいた」ということは聞いていまし。でも、松右衛門に特に興味を持ったのは、小説『菜の花の沖』(司馬遼太郎著)を読んでからのことです。いつか彼を紹介したいという気持ちがふくらみましたが、彼を紹介する知識も史料もあまり持ち合わせていません。そのため、松右衛門について『菜の花の沖』以上に想像することができませでした。さいわい、「高砂市が工楽松右衛門に取り組むらしい」ことを知り、松右衛門に関する学習会にも参加しました。司馬氏の松右衛門像は、おぼろげに想像することはできました。しかし、松右衛門の本当の姿ではありません。が、松右衛門が、生き生きと活躍しています。司馬さんは、『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛のほか...大河・かこがわ(236)江戸時代(31)新、工楽松右衛門物語(1)・工楽松右衛門物語を始めましょう
大河・かこがわ(235) 江戸時代(29) 近世の高砂(29)・幻の高砂染(2) 二つの説
幻の高砂染め(2)二つの説高砂染の始まりには二説があります。相生屋勘右衛門説高砂染は、相生屋勘右衛門のはじめた染物であるとする説です。「相生屋の先祖は、徳島の藩士・井上徳右衛門といい、約三百年以前に姫路へ来て染め物業を始め、五代目・勘右衛門に至って、藩主・酒井侯により松の模様を染めて献上して、屋号の相生屋を賜わりました。これが高砂染の起源である」といいます。高砂染の最初については、以上のように尾崎庄兵衛説と相生屋勘右衛門の二説があり、はっきりとしていません。姫路と高砂と場所はことなっていますが、江戸時代、姫路藩の染め物業者として「高砂染」の生産を行っていたようです。河合寸翁の政策特に、河合寸翁が家老になって以降は、高砂染は姫路藩の献上品として定着していくことになりました。寸翁は、困窮した藩の財政を立て直すために...大河・かこがわ(235)江戸時代(29)近世の高砂(29)・幻の高砂染(2)二つの説
大河・かこがわ(234) 江戸時代(28) 近世の高砂(28)・高砂染(1)
幻の高砂染(1)「高砂染」の始まりについては、今のところ二説があります。今回は「高砂説」を中心に紹介します。尾崎庄兵衛が「高砂染」をはじめる「慶長六年(1601)、姫路藩主池田輝政は高砂付近を開発し、堀川をつくりその産業奨励の意味で、高砂の尾崎庄兵衛を召して木綿染をつくらせ「おぼろ染」として売り出しました。後に、庄兵衛は自邸でその業を営み、〝高砂染〟と改称した」というのがその一つの説です。『高砂町誌』(昭和55年4月発行)によると、「・・・慶長の頃、高砂鍛冶屋町に尾崎庄兵衛という人がいました。父祖の業をついで鍛冶職を営んでいました。庄兵衛は、常に考える人でした。たまたま、領主池田輝政が民間の生業を奨励するに当り、庄兵衛を召して染色をさせました。庄兵衛は、日夜思いをこらし遂に一種の染め物を創案し、これを輝政にすす...大河・かこがわ(234)江戸時代(28)近世の高砂(28)・高砂染(1)
大河・かこがわ(233) 江戸時代(27) 近世の高砂(27)・高砂の漁業
高砂の漁業高砂では漁業も盛んでした。安永2年(1773)の高砂町の明細帳には「漁船118艘・船持115人、曳網船25艘・船時20人」とあります。また、町名にも漁師町、釣舟町、狩網町があって.それぞれ51世帯202人、111世帯、435人、68世帯296人が住んでいました。漁船の数からいえば、その大部分が漁業で生活していたといえるでしよう。そのほかにも、魚町91世帯341人がありました。その全では無いでしょうが魚問屋や生魚や塩干魚を加工・販売する商人も多く住んでいたと思われます。漁業権姫路藩主が参勤交替で国元に在住している年には高砂の町中として塩鯛10枚を歳暮として献上する習わしがありました。それは姫路藩から高砂に対して漁業権が認められていたことへの謝礼の意味がありました。それとは別に、毎年、高砂漁師から塩鯛42...大河・かこがわ(233)江戸時代(27)近世の高砂(27)・高砂の漁業
大河・かこがわ(232) 江戸時代(26) 近世の高砂(26)・岸本家・姫路藩の御用商人も務める
岸本家・姫路藩の御用商人も務める申義堂のスポンサーの岸本家は、印南郡大国村(現:西神吉町大国)から、享保年間(1716~35)に高砂町(たかさごまち)に進出したことに始まります。大国村の岸本家の本業は、木綿業を行なっており、高砂岸本家も木綿屋(木綿屋)と称し、木綿問屋経営が本業でした。岸本家は、木綿売買のために加古川河口の港町高砂町にその拠点を設けるために、高砂町に移りました。高砂の岸本家は、その地の利を活かして大いに発展しました。岸本家は、三代でその基礎が確立し、資産は持高約270石を含め、銀高にして83貫目にも達したといいます。そして、岸本家は、従来の高砂町の特権商人であった大蔵元などの有力商人として、高砂町の大年寄役に就任し、高砂町の行政の一端を担うようになりました。また当時、姫路藩では家老・河合寸翁が中...大河・かこがわ(232)江戸時代(26)近世の高砂(26)・岸本家・姫路藩の御用商人も務める
大河・かこがわ(231) 江戸時代(25) 近世の高砂(25)・ 長谷川亀次郎って、だれ?
長谷川亀次郎って、だれ?申義堂は、明治4年に廃校になり、その後建物は、高砂警察署の建設に伴い、明治12年5月に印南郡(現:加古川市)東神吉村西井ノロに移築されました。「なぜ、西井ノ口村か」という疑問が残ります。ここに、長谷川亀次郎が登場します。長谷川亀次郎が突然登場しますので、「長谷川家亀次郎って誰?」と疑問を持たれると思います。亀次郎について少し紹介しておきましょう。<長谷川亀次郎、年表>天保9年(1838)西井ノ口村に生まれる。?年高砂へ進出。安永6年(1859)名字帯刀を許される。文政元年(1861)大判27枚を献上大庄屋並びに五人扶持になる。<江戸幕府崩壊>明治2年(1869)調達金・木綿代金を多く納める。明治3年(1870)軍事費を献金。高砂米場の預かり方・取締役に任ぜられる。蒸気船安洋丸をつくり、大...大河・かこがわ(231)江戸時代(25)近世の高砂(25)・ 長谷川亀次郎って、だれ?
大河・かこがわ(230) 江戸時代(24) 近世の高砂(24)・ 申義堂は残った
申義堂は残った申義堂は、明治4年廃校になりました。その後の申義堂について紹介しておきましょう。廃校になった申義堂について、『高砂市史(第二巻)』は、次のように書いています。少し書き直して紹介します。(文体も変えています)・・・申義堂は、明治4年に廃校となりました。土地・建物は廃校のさい、設立当初の提供者とみられる岸本家に返還されました。そのさい、申義堂に付属していた書類をはじめ、道具、蔵書類の一部も岸本家に渡されたようです。現在、再建された申義堂に掲げられている河合寸翁筆による「申義堂」扁額は岸本家に保管されていました。また、文書が同家に保管されているのはそのためです。その後、土地は明治28年、高砂警察署建設のため兵庫県へ寄付され、さらに高砂町役場となり、現在は高砂地区コミュニティセンターへと変転しました。申義...大河・かこがわ(230)江戸時代(24)近世の高砂(24)・ 申義堂は残った
大河・かこがわ(229) 江戸時代(23) 近世の高砂(23)・美濃部秀芳
申義堂は、小人数教育岸本家に、天保六・七年(1835・6)の「素読出席人目数書上帳」2冊、天保九年(1838)閏四月から九月までの(八月分欠)「素読并講釈出席人書上帳」5冊が残されています。これによれば、この期間の生徒数は10人から15人の範囲であり、この時期は天保飢饉後で低下していた可能性はあるにしても、やはりそれほど多いとはいえない人数です。入学年齢がわからないのは残念ですが、おそらく寺子屋段階の学習を修了した後、十代前半か半ばで入ってきた者たちだったのでしょう。ほとんどが町民の子弟出席状況は、天保六年の10名のうち190日というほぼ皆勤を最高として、100日以上の出席者が6人、他の4人は50日以下というように差が大きくなっています。天保七年在学の12人の内、出席日数のわかる10人についてみると170日を最...大河・かこがわ(229)江戸時代(23)近世の高砂(23)・美濃部秀芳
大河・かこがわ(227) 江戸時代(21) 近世の高砂(21)・申義堂と岸本家
申義堂と岸本家江戸時代、高砂の町に岸本家という豪商がありました。『加古郡誌』に「申義堂の建物は高砂町岸本家の寄附によるもので、明治維新後廃藩の時に廃校すると共に、この建造物を岸本家に下付せられたといふ」という記述があります。たしかに、申義堂は、設立のはじめから岸本家と深い関係がありました。明治4年(1871)の廃藩置県と共に廃校となり、廃校のさい、申義堂の建物は岸本家に下付されています。木村重圭氏が「申義堂が創立されようとするとき、大年寄(大蔵元)であり、また姫路藩六人衆の一人であった岸本家の当主(四代目岸本吉兵衛)により、土地と建物が提供されたものと思われる」と述べておられる。岸本家の私有にあらず申義堂は、藩からわずかな給米は与えられましたが、実質は岸本家をはじめとする高砂の町民あるいは大年寄を中心とする有志...大河・かこがわ(227)江戸時代(21)近世の高砂(21)・申義堂と岸本家
大河・かこがわ(226) 江戸時代(20) 近世の高砂(20)・申義堂(しんぎどう)(1)
申義堂(しんぎどう)(1)高砂の町は商業の町でした。商(あきない)には、情報を集め、判断し、記録が必要です。文字が必要です。数字に明るくなければなりません。そのため、高砂には学問の雰囲気がありました。「申義堂」の設立は文化年間申義堂(写真)は、江戸時代に高砂地域に設立された唯一の公的性格をもった教育施設でした。ところが、その成立については、史料が失われ明治以降に記されたいろいろな文献に述べられている所からうかがうしかありません。申義堂と関わり深かった高砂の岸本家の文書調査をもとに研究された木村重圭氏の研究『姫路藩郷学申義堂と岸本家』によって、大体の姿を知ることができます。申義堂の成立は次のようです。申義堂は、文化年間(1804~18)高砂北本町に、姫路藩家老・河合寸翁の意見によって設立された町民子弟を対象とする...大河・かこがわ(226)江戸時代(20)近世の高砂(20)・申義堂(しんぎどう)(1)
大河・かこがわ(225) 江戸時代(19) 近世の高砂(19)・大蔵元(大年寄)
大蔵元(大年寄)前号に続き大蔵元(大年寄)の話です。近世の高砂では、その商業を円滑に行うための組織として、17世紀半ばに大蔵元(蔵元)という制度がつくられました。これは一種の株仲間で、特に大蔵元は、高砂の特権商人によって形成されました。江戸時代の高砂の繁栄も、これら大蔵元の活動によるものでした。しかし、高砂では、これらの輸送を担当するのみで、それを材料にした手工業は興っていません。その点、製造業を中心にして、発展をとげた伊丹などとは対照的です。高砂は、もっぱら荷物の引き受け、保管、積出しをその業務とした商業の町でした。それらの仕事を引き受けた問屋商人は、一般的に「大蔵元」とよばれ、年貢米を取り扱うことため、藩からも特別な待遇を受けていました。大蔵元の役割加古川を下ってくる御城米、諸大名米、および諸荷物の運搬は、...大河・かこがわ(225)江戸時代(19)近世の高砂(19)・大蔵元(大年寄)
大河・かこがわ(224) 江戸時代(18) 近世の高砂(18)・町人の自治
町人の自治(高砂町)高砂の商業活動はずいぶん盛んでした。その運営について少し説明しておきます。高砂に常駐する武士は川口御番所の7人、津留穀留御番所の2人、百間蔵の守衛2人とその他わずか27人に過ぎません。高砂は、町人の町でした。それでは、高砂はどのような仕組で運営されていたのでしょうか。高砂町方の人口の大部分を占める商工業者や廻船業者、海業従事者が居住する町屋敷分は年貢免除地でした。高砂町方は、28町に町屋が建ち並ぶ市街地であり、約8.000人の人々が様々な経済活動を行っていた都市でした。この都市の行政は町人の自治によって運営されていました。大年寄(大蔵元)高砂町方の町人自治による都市行政の組織が史料的に明確になるのは宝暦5年(1755)のことでした。この年、高砂町は、白銀100枚の冥加金(税金)を毎年上納する...大河・かこがわ(224)江戸時代(18)近世の高砂(18)・町人の自治
大河・かこがわ(223) 江戸時代(17) 近世の高砂(17)・一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度
一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度余話としてお読みください。高砂・加古川地方の木綿栽培はさかんでした。加古郡・印南郡で生産される白木綿を「長束木綿(ながそくもめん)」といいました。姫路木綿は、二つのルートを通じて江戸・大坂へ出荷されました。一つは、姫路周辺の木綿・綿布で、国産木綿問屋をとおして、他は長束木綿問屋(加古川・高砂地方の木綿問屋)を通して行われたのです。姫路城周辺の木綿問屋は、江戸積に積極的でした。しかし、長束木綿問屋は、今までの取引の関係もあり、必ずしも江戸積み一本にまとまっていませんでした。ばくだいな借金を抱える藩としても、江戸積みだけに頼るわけにはいけない事情もあったのです。藩側は、江戸積み重視の立場から、幅・長さ等の規格を厳しくしました。つまり、規格外の商品もできてしまいます。しかし、「規...大河・かこがわ(223)江戸時代(17)近世の高砂(17)・一ツ橋領の木綿藩仲間と姫路藩の専売制度
大河・かこがわ(222) 江戸時代(16) 近世の高砂(16)・干鰯(ほしか)
干鰯(ほしか)写真は、高砂神社の玉垣です。多くの玉垣に、「干鰯仲」と刻まれています。その下に、欠落していますが、仲間の「間」か、仲買仲間の「買仲間」の文字が入るのでしょう。ともかく、干鰯を商っていた商人が神社に献金をし、玉垣にその名を残しています。干鰯は、蒸して油を抜き、字のごとく鰯を干して、小さく砕いた肥料です。干鰯は、特に綿作の肥料として優れており、油粕と共に広く使われました。とりわけ、加古川・高砂地方にとって、干鰯は重要な意味を持っていました。なぜなら、この地方は和泉・河内などとともに木綿の生産地であり、木綿づくりには肥料として多量の干鰯を必要としました。そのため、干鰯屋は、大いに繁盛しました。明和5年(1768)、高砂の干鰯問屋は、藩に願い出て運上金(税金)を納めることと引き換えに、高砂での干鰯販売の独...大河・かこがわ(222)江戸時代(16)近世の高砂(16)・干鰯(ほしか)
大河・かこがわ(221) 江戸時代(15) 近世の高砂(15)・ 高砂は大坂積み
飾磨・城下の木綿問屋は江戸積・高砂は大坂積長束木綿の大坂積の統制が強まったのは、天保7年(1836)のことで、木綿問屋・仲買を強力に専売制下に組みいれたためです。その結果、姫路木綿の生産地である加古・印南両郡の長束木綿問屋は30数軒に制限され、大坂積も大幅に制限され、大部分は飾磨津の江戸積仲間の手で江戸に送られました。弘化4年(1847)の長束江戸積仕法の改定により、大坂積はさらに制限は強められ、別府・寺家町(現:加古川市)、それに高砂に限定されました。木綿販売:高砂の木綿問屋は完敗この弘化4年の改定により、大坂積の数量は激減することになります。嘉永2年(1849)の長束木綿総取扱高は76万反ですが、そのうち、江戸積は60万反、大坂積は、約16万反に過ぎませんでした。これは、専売制を利用した姫路城下、飾磨の江戸...大河・かこがわ(221)江戸時代(15)近世の高砂(15)・高砂は大坂積み
大河・加古川(220) 江戸時代(14) 近世の高砂(14)・木綿の江戸積み激増
木綿の江戸積み激増大坂へ出荷されていた木綿が大量に江戸へ送られるようになったのは、天保7年(1836)3月の長束木綿江戸積仕法(しほう:決まり)の成立がきっかけでした。長束木綿の江戸積について天保7年まで明確な仕法も会所(役所)もありませんでした。江戸積仕法によって、木綿の江戸積が奨励されたのですが、それは江戸積の奨励にすぎませんでした。この仕法の改定(天保7年8月)を境にして、江戸積木綿が激増し、天保11年10月から弘化4年(1847)までの6年間に加古郡・印南郡産出の物だけで、428万反強が江戸に出荷されました。文化7年以降、多くの姫路木綿の出荷先が、大坂から江戸へと変わったのです。木綿価格が大坂積に比べて引き上げられ、年々6万両もの売り上げがありました。他領の商人も大坂積を敬遠し、江戸積に転向するようにな...大河・加古川(220)江戸時代(14)近世の高砂(14)・木綿の江戸積み激増
大河・かこがわ()江戸時代() 近世の高砂・木綿の江戸積のはじまり
木綿の江戸積のはじまり藩の専売制度は、文化7年(1810)にはじまりましたが、木綿が江戸に送られたのは文政3年(1820)で、専売制実施の10年後のことでした。翌年の文化4年、城下の綿町に専売品取扱機関として御国産木綿会所(おんこくさんもめんかいしょ)が設けられ、御国産木綿会所は、高砂の岸本吉兵衛などの6人衆や姫路城下の有力商人などによって運営されていました。この御国産会所の下に姫路藩江戸積仲間が置かれましたが、それに参加したのはほとんど城下・飾磨の商人で、高砂商人の参加はみられません。長束木綿の大坂積姫路木綿は、加古・印南郡で生産される木綿で、長束木綿(ながそくもめん)といいます。その実数は、天保7年(1836)の調査によると、姫路領内で長束木綿が150万反あまりで、近隣藩からの買い入れ分を加えると、約200...大河・かこがわ()江戸時代()近世の高砂・木綿の江戸積のはじまり
大河・かこがわ(218) 江戸時代(12) 近世の高砂(12)・姫路藩の木綿
姫路藩の木綿姫路藩では、正徳二年(1712)に木綿仲買株が設定されており、元文元年(1736)大坂に入荷した木綿の生産の中に「播磨」の名が見えます。また、後に播磨藩御用商人・六人衆に一人となる高砂の岸本家の祖は印南郡大国(現:加古川市西神吉町大国)で酒造業と木綿販売を家業としていましたが、享保年間(1716~36)に分家して高砂に進出し、木綿販売を続けました。ですから、正徳・享保年間のころに、すでに高砂でも木綿流通がみられていたようです。新しい経済政策・江戸へ綿布を直送するしかし、木綿の作付けや木綿の流通が急増するのは19世紀以後のことです。つまり、河合道臣(後の寸翁)が木綿を専売制に着手した時期と重なります。播磨の木綿産地の中心地は加古・印南(いんなみ)郡でした。そのため、高砂に周辺地域から相当数の木綿(綿布...大河・かこがわ(218)江戸時代(12)近世の高砂(12)・姫路藩の木綿
大河・かこがわ(217) 江戸時代(11) 近世の高砂(11)・木綿を藩の専売品に
木綿を藩の専売品に江戸時代の後期、姫路藩は73万両という膨大な負債に苦しんでいました。家老・河合道臣(後の寸翁)の仕事は、なによりもこの負債を少しでも減らすことでした。道臣は、姫路木綿を大坂の商人を通さず、江戸へ直接販売できないかと考えました。しかし、姫路藩は大坂商人から膨大な借金を重ねていました。そのため、姫路藩は、大坂商人を通さないで自由な商業活動はできなかったのです。江戸は大消費地であり、姫路木綿は品質もよく大量の販売が見込まれました。しかし、多くの地元の木綿業者や藩の役人は、大坂商人を恐れて、不満を持ちつつも、なかなか道臣の案に協力しませんでした。と、いうよりも協力できなかったのです。*小説ですが、河合寸翁の経済政策について、『姫路藩・凍って寒からず(寺林峻)』(文庫『河合道臣』PHP文庫)をお読みくだ...大河・かこがわ(217)江戸時代(11)近世の高砂(11)・木綿を藩の専売品に
大河・かこがわ(216) 江戸時代(10) 高砂の近世(10)・江戸時代の初期は、大開発の時代
江戸時代の初期は、大開発の時代江戸時代のはじめ、新田開発がずいぶん行われ、耕地は広がりました。江戸時代初期は、大開発の時代で、日本の農村の原風景がつくられたのはこの時代です。とりわけ、印南郡・加古郡の平野部・台地部では加古新田(現:加古郡稲美町)をはじめ大規模な開発がおこなわれました。また、明暦4年(1658)の益田堤の築堤により、加古川の西岸部に新田開発が拡大しました。江戸時代中期の新田開発は停滞江戸時代初期には、これら新田の開発により、米の増産がありましたが、中期以降これら新田の開発は停滞します。あまりにも急激な、新田開発のために水不足の問題がおこりました。つまり、急激な開発が続けば、水不足で共倒れがおこりました。そのため姫路藩でも、中期以降は新田開発も積極的に行われていません。しかし、江戸時代の中期以降は...大河・かこがわ(216)江戸時代(10)高砂の近世(10)・江戸時代の初期は、大開発の時代
大河・かこがわ(215) 江戸時代(9) 近世の高砂(9)・高砂の綿作
高砂の綿作高砂地方の木綿の話をしましょう。木綿も米・塩と並んで高砂の重要な積み出し商品でした。綿が日本に伝わったのは古く、延暦18年(799)に三河(愛知県)に伝えられたのが最初であるといわれていますが、栽培技術が伴わずその時は絶滅しました。その後、綿作は、文禄の頃(1592~96)大和・河内・摂津に広まり、ほぼ同時に姫路地方も木綿産地になりました。木綿は、それまでの麻と比べ、柔らかく、染めても美しく、それに何よりも暖かく、冬の寒さには大いに役立ちました。江戸時代、大阪・江戸等の巨大消費都市が生まれ、また交通も発達し、商品は大いに流通し、綿も商品作物として栽培されるようになりました。姫路木綿は、品質がよく、市川や加古川の水質が木綿を晒すには適していました。姫路木綿は「玉川さらし」、「姫玉(ひめたま)」と呼ばれ、...大河・かこがわ(215)江戸時代(9)近世の高砂(9)・高砂の綿作
大河・かこがわ(214) 江戸時代(8) 近世の高砂(8)・高砂塩の盛衰
高砂塩の盛衰荒井の塩業は、ずいぶん盛んであったのですが、18世紀の前半より急速に衰えていきました。原因として、次のような理由が考えられます。最大の原因は、加古川の水流と堆積作用により、塩の付き具合が悪くなり、塩の生産効率が低下したためです。そのため、塩田経営の中心地は、しだいに加古川の影響の少ない曽根・大塩・的形に移っていきました。そして、荒井の塩田は、宝永年間(1704~11)までに大半が田畑にかわりました。高砂から、多くの塩浜が消えていったのですが、衰えたとはいえ18世紀後半においてもわずかであるが続いていました。曽根町では、昭和20年代まで残っていました。塩田(荒井村)の発達した理由荒井村で、比較的に早く塩田が開発されたのは高砂の浜が遠浅で地理的な条件が良かったともさることながら、荒井村で開発された入浜式...大河・かこがわ(214)江戸時代(8)近世の高砂(8)・高砂塩の盛衰
大河・かこがわ(213) 江戸時代(7) 近世の高砂(7)・高砂の塩・塩物
高砂の塩・塩物江戸時代の高砂は、加古川河口の商品の集散地として栄えました。前号でも紹介したように、高砂は、もともとは、蔵米(年貢米)の積み出し地として建設された港町であったため、取扱品の中心は年貢米でした。これら年貢米は、高砂の大蔵元を通じて売りさばかれました。ところで、米に次ぐ高砂港の主要作物は、何だったと想像されますか。ある時期まで、なんと塩(物)でした。『高砂雑誌』によると、「・・・赤穂の人・赤穂屋徳兵衛は塩業に精通しており、領主・池田輝政の命によって高砂に来て塩の問屋をいとなみ、江戸時代初期の頃、荒井・小松原の一帯はほとんど塩田になり、販路を京阪の地に求めて、荒井塩の名は名声を高めた・・・」と記しています。やがて、高砂における塩業は、加古川の舟運と共に加古川の奥地にまで広がりました。元文年間(1761~...大河・かこがわ(213)江戸時代(7)近世の高砂(7)・高砂の塩・塩物
大河・かこがわ(212) 江戸時代(6) 近世の高砂(6)・年貢米の集散地からスタート
高砂は、年貢米の集散地からスタート近世の高砂は、加古川河口の商品集散地として繁栄してきた港町でした。もともと、蔵所・蔵米津出地として建設された港町で、取扱品の中心は年貢米でした。加古川流域には流域藩領の他に、多くの大名領・旗本領が入り組んでおり、その数は20余家にもなっていました。元治元年(1864)のある記録によると、高砂に集まった姫路藩米・他藩の大名米・旗本米の合計は65万5000石で、うち8割強が姫路藩領の年貢米によって占められていました。これらの多くの年貢米が高砂に集荷され、大蔵元によって売りさばかれたのです。年貢米の多くは高砂で売りさばかれる「姫路米の行き先は、これまで大坂で売りさばかれた」とするのが大方の説でした。ところが、文化十二年(1815)十月の「高砂南卸蔵出米控帳」によると、大坂廻米のほかに...大河・かこがわ(212)江戸時代(6)近世の高砂(6)・年貢米の集散地からスタート
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