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  • 播磨町さんぽ(24) 村の名前(1) 古宮村、昔は今里村

    古宮村、昔は今里村播磨町「古宮(こみや)」の名称を考えてみます。古宮は海岸線に沿った地域で、古くは「今里村」と称していました。中世になって古宮と改めたといいます。今里村の地名については、室町時代の永享6年(1434)の住吉大社造営費用の割当状の中に見ることができます。以下は、古宮に伝わる伝承です。・・・豊臣秀吉が朝鮮に出兵の途中、この地の海岸を通過しようとしたが、その日は周囲が全く見えない闇夜でした。航行に難渋を極めましたが、さいわい古宮の住吉神社の常夜燈が目印となり、無事着岸できたといいます。秀吉は、住吉神の御加護として非常に喜び、この地を古宮と命名し、朱印十三石を与えた。・・・「古宮」の名称は秀吉が名付けたのか?以下は、勝手な想像です。どう思われますか?江戸時代は、ここはもっぱら「古宮」と呼ばれており、今里...播磨町さんぽ(24)村の名前(1)古宮村、昔は今里村

  • 播磨さんぽ(23) 海に生きる(4)・朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

    現:播磨町地区から、朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の時の水主の話です。高砂の十輪寺の境内に出かけました。山門を入ると本堂の東側に、多数の石塔に囲まれた一基の大きな宝篋石塔(水主供養塔)があります。1592年(文禄元)、秀吉の朝鮮侵略の際にかりだされて死んだ高砂の水主(船乗り)の供養塔です。この戦いに、高砂から100人が徴発され、帰国途中96人が溺死したといいます。「文禄・慶長の役」とよばれる朝鮮侵略では武士のみでなく、多くの民衆(特に漁民)が動員されました。「高麗へ渡り候へば、二度と帰らぬ」とまでいわれ、多くの水夫・武士が死亡しました。この供養塔は、全国的にも貴重な民衆側からの朝鮮侵略を記録する遺物です。96の石塔群は、1730年に建てられた宝篋印塔より古いもので、村人...播磨さんぽ(23)海に生きる(4)・朝鮮侵略(文禄・慶長の役)に37名が徴発

  • 播磨町さんぽ(22) 海に生きる(2)、さかんになる海運

    海に生きる(2)・海運豊臣秀吉のころには、中世以来の海賊を禁じ、朱印状をもった船が、中国大陸・台湾・東南アジア各国と貿易していました。この貿易が、そのまま発展していたなら、欧米先進国なみの船舶や航海術をもつようになったと思われますが、江戸幕府は、じつに小心でした。幕府は諸大名や民間が航洋船の大型船を持っていることが不安でした。そのため、大型船の建造を禁止しました。以後、通称「千石船」などといわれる江戸期を特徴づける和船が登場します。盛んになる海運幕府と各藩は、集めた米を江戸・大坂などの都市へ送り、金に換える必要があり、そのため船運が盛んとなりました。幕府が、寛文10~12年(1670~72)河村瑞賢に開発させた奥州太平洋岸から江戸へ、さらに出羽国(秋田・庄内など)から西廻りで大坂・江戸へ運ぶための諸施設や態勢を...播磨町さんぽ(22)海に生きる(2)、さかんになる海運

  • 播磨さんぽ(21) 海に生きる(1)、漁は監察制度で

    海に生きる(1)漁は監察制度で「海浜の村は、どこでも漁をしていたはずだ」と思われるのですが、なぜかそうなっていません。播磨町域の漁村でも古宮村と東本庄村だけに漁船があって、西本庄村も宮西村も漁船がおかれていないのです。たとえば、宝暦七年(1757)西本庄村明細帳には「猟船無御座候(りょうせん、ござなくそうろう)」とあります。漁業権の制約をうける何かの理由があったのか、舟あげ場に何か支障があったのか、今のところ原因はわかりません。漁は監察制度で魚種・漁法についても、くわしいことはわかりませんが、古宮村の寛延三年(1750)の村明細帳によると、次の記載があります。漁船57艘、持主57人ただし、イイダコ・クモダコ・カキ・エボシ、そのほか手繰網(てぐりあみ)・大蛸漁仕り候所にて売り申し候折節(おりふし、ときどき)は、大...播磨さんぽ(21)海に生きる(1)、漁は監察制度で

  • 播磨町さんぽ(20) 海に生きた船乗りのはなし(20)、秋元安民(4)・速鳥丸の活躍

    秋元安民(4)速鳥丸の活躍漂流した清太郎ら四人は、速鳥丸の乗組み員となりました。速烏丸は、長さ27㍍30㌢のマストニ本の帆を持つ船で、450石(45トン)積み、乗組み員はふつう16人でした。航海として、同年9月16、日姫路(飾磨港)を発した速鳥丸は、米千俵、播州産の木綿30包などを積み、同月26日、江戸の品川に着きました。このときは18人が同乗しました。10月16日、同船は姫路への帰途につきました。大型船建造続く姫路藩は、大型船で国産の米や木綿を江戸に運び、帰りに関東の物産、大豆やアズキ、銚子のしょうゆ、九十九里浜の干鰯などを積み帰りたいと幕府に願い出て、許されました。この交易は、江戸・大坂の問屋商人や商船の手を通さないだけ、藩には有利でした。速鳥丸の成積がよいので、姫路藩は飾磨にある藩の船溜(ふなだまり)で、...播磨町さんぽ(20)海に生きた船乗りのはなし(20)、秋元安民(4)・速鳥丸の活躍

  • 播磨町さんぽ(20) 海に生きたの船乗りのはなし(20)、秋元安民(3)・大型船(速鳥丸)建造へ

    秋元安民(3)清太郎ら故郷(本庄)へ帰る栄力丸の漂流者10人は、安政元年(1854)7月12日、中国船で長崎にたどり着きました。浦賀を出てから、まる3年9ヵ月ぶりに踏む故国の土でした。長崎奉行所の役人が船改めをし、加古郡本庄村の浅五郎、潰太郎、甚八、喜代蔵等は、お調べがありました。調べが終わると、10人は、それぞれ出身地によって、所属する領主のもとへ引き取られました。播州加古郡の本庄村の4人、浅五郎、清太郎、甚八、喜代蔵が、姫路藩に引き渡されたのは、安政元年11月23日でした。姫路に帰った四人は、家族と面会の喜びを分かち合ういとまもなく、こんどは姫路藩から、長々と調べられ、それが終わるのは、翌安政二年(1855)2月14日のことでした。その記録が、「嘉永三年遭難漂流人口書(くちがき)」です。この体験記録は、播州...播磨町さんぽ(20)海に生きたの船乗りのはなし(20)、秋元安民(3)・大型船(速鳥丸)建造へ

  • 播磨町さんぽ(18) 海に生きた船乗りのはなし(18)秋元安民(2)・大型船をつくろう

    秋元安民(2)嘉永六年・幕府、大型船建造を許可江戸の学者は、洋学色が濃厚でした。そんな中で、知識欲の盛んな安民が、洋書に親しんだのも当然でした。姫路藩に尊王壌夷を持ち込むことになった安民ですが、一口に尊攘といってもいろんな立場がありました。安民などは、時局に敏感だったので、あまりに保守的な姫路蕃内の眠った空気を打開しようと、尊壊をとなえたのだと思われます。あくまで「尊王」に重点があり、せっかちな攘夷に走る気持ちは、なかったのでしょう。外国のよいところを取り入れようという気持ちがなければ、西洋型帆船を作る考えなど藩に進言するはずはありません。この安民の提案は、安政二年(1855)のことで、たいへんタイムリーなものでした。というのも、三年前の嘉永六年(1852)、幕府は鎖国のため禁じていた大型船の建造を許可し、諸藩...播磨町さんぽ(18)海に生きた船乗りのはなし(18)秋元安民(2)・大型船をつくろう

  • 播磨町さんぽ(17) 海に生きた船乗りのはなし(17)、秋元安民(1)・仁寿山黌と河合道臣と秋元安民

    秋元安民(1)きょうのブログに、播磨町は登場しません。少し遠回りをします。河合道臣と秋元安民の話です。後に彼らと播磨町が繋がってきます。仁寿山黌と河合道臣と秋元安民いまの姫路市阿保に、仁寿山黌という学校がありました。今は、校舎の壁の一部と井戸のあとがあのこるだけです。これは、姫路藩の名家老・河合道臣(後の寸翁)が、文政六年(1823)に作った学校です。道臣は、天明六年(1786)から天保六年(1835)まで、実に50年近くの長きにわたり、姫路藩の家老として財政建てかかわり、みごとに借金ゼロに成功しました。この功績により、天保三年(1832)に家老上座という藩の最高職の待遇があたえられました。秋元安民ですが、少年時代、この仁寿山黌で学び、学者として立つ素地はこのときに養われたと思われます。仁寿山黌は、先に紹介した...播磨町さんぽ(17)海に生きた船乗りのはなし(17)、秋元安民(1)・仁寿山黌と河合道臣と秋元安民

  • 播磨町さんぽ(16) 海に生きた船乗りのはなし(16)、光塩丸の漂流(2)・カタンドアネス島の風景

    徳三郎(東本庄村)は、フィリピンへ漂流しました。そこで、見たもの・聞いたことを記録しています。『怒涛を越えた男たち』(播磨町郷土資料館)から、その一部を紹介させていただきます。フィリピンへ漂流光塩丸が漂着したときは、スペインによって領有されていた時代でした。もう船は使えないほど壊れてしまいました。船を捨て上陸した島の村は、バカマノといい、(安政6年・1859)5月21日までこの地の村役人の世話になり滞在しました。島の首長は、カベタンビリシヤノという名で、30里離れたビラに居住していたといわれています。米、年に二度作食べ物は、米・鳥類・卵・豚・牛肉・魚が多く、野菜が少なかったことと「米・年に二作取、年中寒むき日、一日もなし。萬木の実なりつづけの所なり」と、記しています。彼らは迎えの船でビラへ連れていかれ、そこで、...播磨町さんぽ(16)海に生きた船乗りのはなし(16)、光塩丸の漂流(2)・カタンドアネス島の風景

  • 播磨町さんぽ(15) 海に生きた船乗りのはなし(15)、光塩丸の漂流(1)・徳三郎(本庄)の遭難

    播磨町の郷土史家であった井上朋義先生は、『光塩丸、フィリピン漂流記‐徳三郎異国見聞録』(昭和)58年)を出版されています。「光塩丸の遭難」は、その著書を参照させていただきます。光塩丸の漂流安政5年(1858)年9月、播磨赤穂藩領坂越浦(さこしうら)を出帆した光塩丸は1400石積で、赤穂加里屋の三木長之助の持船で、江戸へ運ぶ塩を満載していました。そして、無事江戸に入り、品川北新堀喜多村富之助方へ荷揚げしました。再び帰りの荷を積んで浦賀の港に入りました。普段ならば、すぐに浦賀をあとにするところでしたが、そこで奥州石巻からの売米の積みまわしを請け負いました。これが、光塩丸の運命を大きく変えることになったのです。不案内の航路のため、3人の水主を雇い、11月10日出航し、石巻へ向かう途中、鹿島灘にさしかかったときでした。...播磨町さんぽ(15)海に生きた船乗りのはなし(15)、光塩丸の漂流(1)・徳三郎(本庄)の遭難

  • 播磨町さんぽ(14) 海に生きた船乗りのはなし(14)・栄力丸、漂流150年記念碑

    ヒコ物語を掲載しましたが、今日は、その付録で「栄力丸漂流150年記念碑」紹介しておきます。記念碑・「怒涛を越えた男たち」古田に正願寺(浄土真宗・せいがんじ)があります。山門をくぐると右手に「怒涛を越えた男たち」の記念碑(写真)があります。当時の郷土史家であった、住職の発意により建立されました。この記念碑により船頭・万蔵やジョセフ・ヒコら17名の顔ぶれと、船乗りの服装などを知ることができます。記念碑に書かれている文章を読んでおきましょう。「栄力丸、漂流150年記念碑」嘉永三年(1850)10月1600石積廻船太平洋上を漂流すること50日余日船頭、万蔵ら17名米船オークランド号に救助されサンフランシスコに上陸異文化に触れ、とまどい、おののき憧れつつも、遠き故郷の山河を思う鎖国から開国、動乱と混迷の時代怒涛の果てを見...播磨町さんぽ(14)海に生きた船乗りのはなし(14)・栄力丸、漂流150年記念碑

  • 播磨町さんぽ(13) 海に生きた船乗りのはなし(13)、ヒコ物語(8)・ヒコ逝く(明治30年12月12日)

    28元、姫路藩主からの手紙姫路藩の元藩主である県知事の酒井忠邦からの書面を受け取りました。書面には漢字まじりで、ヒコは戸惑いながらも文字を眼で追い、辛うじて大意をつかむことができました。忠邦は、アメリカ帰りの彦蔵と、どうしても会って話をききたいと考え、書簡を送ってきたのです。ヒコは感激しました。本庄へ立ち寄るかれは、駕籠にゆられながら、「故郷の本庄村に立寄ってみよう」と思いました。墓の建立はすでに完成しているはずで、それを確認したかったのです。もしも墓が完成していたら、姫路から神戸へ帰る途中に村に行き、村人を招いて墓碑建立の宴をはりたいと思いました。駕籠の列は土山宿から左に折れました。駕籠の列が本庄村に入り、叔母の家の前でとまり、叔母が、家から出てきました。「墓は、どうなりました」ヒコの問いに、叔母は、「一昨日...播磨町さんぽ(13)海に生きた船乗りのはなし(13)、ヒコ物語(8)・ヒコ逝く(明治30年12月12日)

  • 播磨町さんぽ(12) 海に生きた船乗りのはなし(12)、ヒコ物語(7)・横文字の墓

    26再び故郷へ兵庫から大坂にもどったヒコは、(1868年)6月27日、長崎に引き返しました。ヒコは、本庄村にもどったことを思い出すたびに、うつろな気分になるのでした。思い描いていた故郷ではなく、村人たちも、自分に珍奇な生き物でも見るような眼をむけるだけでした。年が明けて、ヒコは相変らずグラバー商会の仕事をしていましたが、7月26日、商会が突然倒産してしまったのです。箱館戦争の終結で注文が皆無になったためです。・・・・かれの胸には、故郷にもどった折、母の墓を詣でなかったことが深い悔いとして残されていました。墓参の余裕がなかったのですが、内心では母の墓を眼にするのが恐ろしく、足をむける気になれなかったからでもあったのです。墓碑は、粗末なものにちがいありません。ヒコは、自分の手で立派な母の墓を建ててやりたい気持がつの...播磨町さんぽ(12)海に生きた船乗りのはなし(12)、ヒコ物語(7)・横文字の墓

  • 播磨町さんぽ(11) 海に生きた船乗りのはなし(11) ヒコ物語(6)・寂しい故郷

    23寂しい故郷13歳の折りまで眼にした村とは異なって、大きく立派に見えた家々が、いずれも低く、みすぼらしく見えるのです。路上に姿を見せているのは幼い子供たちだけで、それらの子供たちの衣類はいずれも粗末で手足が細く薄汚い。夢に描いていた故郷とは大きなへだたりがありました。ヒコは、同行してきた県庁の役人たちが、庄屋や村の重だった者たちから村の現情についてたずねているのをきいていました。「村では棉花畠が多く、姫路藩の木綿専売制のもとに棉花が農家の主要な収入源になっていたが、棉花の価格暴落で農家の収入は激減した」というのです。そのため田畠を捨てて流亡する者が後を絶たず、62戸あった人家が30戸にまで減っていました。ヒコは、村に廃屋が目立ち、人々も痩せこけている理由を知りました。誰も知らないヒコは、庄屋をはじめ村の重だっ...播磨町さんぽ(11)海に生きた船乗りのはなし(11)ヒコ物語(6)・寂しい故郷

  • 播磨町さんぽ(10) 海に生きた船乗りのはなし(10) ヒコ物語(5)・ヒコ故郷へ帰る

    20故郷へ帰りたい!「私(ヒコ)は、嘉永三年(1850)、13歳の折に故郷の本庄村をはなれて、初めて船に乗り、破船漂流して救出され、それから18年、故郷を見たことはないのです」ヒコの言葉に、伊藤(博文)は、神妙な表情をしてうなずくのでした。船で故郷へ行けばいい「それはたやすいことだ。政府用にオーファン号という小型の蒸気船を購入したが、それに乗って故郷の村へ行けばいい。外国人が陸路を行くのには制限があるが、海上を移動するのは自由だ。明日、私は、「オーファン号」で兵庫へもどる予定なので、兵庫まで同行し、それからその船で故郷へ行けばよい。そのくらいの便宜ははかる」ヒコは、不意に胸に熱いものが突き上げるのを感じました。異国の地にあって絶えず帰国を夢みていたが、それは故郷にもどりたい願望でした。ヒコは、酔いが体に快くまわ...播磨町さんぽ(10)海に生きた船乗りのはなし(10)ヒコ物語(5)・ヒコ故郷へ帰る

  • 播磨町さんぽ(9) 海に生きた船乗りのはなし(9)、ヒコ物語(4)・故郷へ帰りたい

    17武器商人・グラバー長崎で商社を経営していた友人・フレーザーがアメリカへ帰るため商社を引き受けてほしいという手紙が来ました。ヒコが長崎に着くと、フレイザーは、「長崎は、おなじ開港場の横浜・箱館と、いちじるしく異なっている・・・」と説明するのでした。それは、輸入の筆頭が艦船、武器であるという点であり、それらの購入者は幕府と諸藩で、政治情勢が緊迫化するにつれて急増していました。ことに幕府との対立が激しくなった薩摩、長州両藩は、諸外国から艦船をしきりに買い入れ、また大量の銃砲の入手にもつとめていました。ヒコは、グラバーというイギリス商人が長崎での貿易を牛耳っているのを知りました。薩摩藩も、攘夷は不可能であること知り、その後、イギリスと薩摩は、一転して親密な友好関係をもつようになりました。18木戸孝允・伊藤博文を知る...播磨町さんぽ(9)海に生きた船乗りのはなし(9)、ヒコ物語(4)・故郷へ帰りたい

  • 播磨町さんぽ(8) 海に生きた船乗りのはなし(8)、ヒコ物語(3)・「海外新聞」発行

    12新聞外国の新聞は、ヒコの商売に大いに役立ちました。そこには、世界各地の棉花をふくむ商品相場の変動が記載されており、ヒコはそれを参考にして商取引をおこないました。商人の中には、経済記事以外に、どのような記事がのっているのかをたずねる者もいました。13アメリカの新聞事情ヒコは、漂流してアメリカ船に救出されサンフランシスコで、初めて新聞というものを眼にしました。その後、アメリカ在住中、ワシントン、ニューヨークのような大都市のみではなく地方の町にも新聞社があって、港に出入りする船の名、時刻、主要な船客名をはじめ、陸揚げされた物品の市場での動きや価格も記されていました。新聞があって正確な記事をのせれば、世界、国内の情勢を人々に伝えることができる。14日本語が書けないヒコは新聞をつくろうと思いました。大きな難問があるの...播磨町さんぽ(8)海に生きた船乗りのはなし(8)、ヒコ物語(3)・「海外新聞」発行

  • 播磨町さんぽ(7) 海に生きた船乗りのはなし(7) ヒコ物語(2)・ヒコリーンカーンに会う

    ヒコ物語(2)・ヒコリンカーに会う6幕末の外交に登場1858年6月、アメリカの市民権を得ました。そのころ、ペリー提督が日本に行って日本と条約を調印しました。その後のヒコの動向をまとめておきます。1858年7月、ボルチモア出発、サンフランシクコへ向かう。1858年9月、サンフランシスコ出航、太平洋の測量に従う。1859年5月、ハリス公使を訪問し、領事館通訳に就任する。1861年9月、アメリカに再渡航開国まもない日本に帰ったヒコは神奈川(今の横浜市内)の米国領事館通訳となり、幕末外交の第一線に登場します。英語を使うヒコの存在は、日米交渉になくてはならないものとなりました。特に遣米使節と威臨丸派遣の際には、ハリス公使と幕府の間に立って大活躍をしました。ヒコ、三度アメリカへその後、領事館の通訳をやめ、ヒコは日米貿易の商...播磨町さんぽ(7)海に生きた船乗りのはなし(7)ヒコ物語(2)・ヒコリーンカーンに会う

  • 播磨町さんぽ(6) 海に生きた船乗りのはなし(6)、ヒコの物語(1)・栄力丸の遭難

    1彦太郎、古宮に誕生天保八年(1837)、彦太郎(後のジョセフ・ヒコ)は、古宮(こみや・現播磨町古宮)に生まれました。父は彦太郎が生まれてから数年して亡くなり、母は、二、三年して隣村の浜田村の人(吉左衛門)と再婚しました。嘉永三年(1850)ヒコが13歳のときでした。彦太郎は、従兄の船で、金毘羅詣でに出かけました。56日間の旅でした。帰ったその日、母は安堵したのか、急に亡くなりました。脳卒中でした。遭難父は、そんな彦太郎を彼の乗る船で江戸見物に連れて行くことにしました。何事もなければ、彦太郎は、播磨の片田舎で平凡な一生を過ごすはずでした。彦太郎13歳の秋、養父が乗る灘の酒造家の持ち船に乗り、江戸見物の旅に出ました。たまたま紀州熊野で、同じく江戸に向かう新造船「栄力丸」に出会いました。この船には、同郷の船頭万蔵が...播磨町さんぽ(6)海に生きた船乗りのはなし(6)、ヒコの物語(1)・栄力丸の遭難

  • 円照寺の花たち(202) 加古川・円照寺クリスマスローズ見頃

    きよう(3/12)の神戸新聞の朝刊に円照寺のクリスマスローズが紹介されています。しばらく円照寺に出かけていません。孫と出かけたいです。以下は、今日の神戸新聞の転載です。お出かけください。うつむく花かれんに加古川・円照寺クリスマスローズ見頃暖かな日差しが注いだ11日、「花の寺」として知られる兵庫県加古川市志方町広尾の円照寺には、見頃を迎えたクリスマスローズを見ようと多くの人が訪れた。クリスマスローズはキンポウゲ科の多年草で、中欧や地中海地方が原産地。一部の品種が12月下旬から開花することからこの名が付いたとされ、霜や雪から身を守るためにこうべを垂らして咲くのが特徴。同寺では、35年ほど前から上月義宗住職(72)と妻の博子さん(71)が育てており、今では100種類以上の約千株が、白やピンク、黄色と鮮やかに境内を彩っ...円照寺の花たち(202)加古川・円照寺クリスマスローズ見頃

  • 播磨町さんぽ(5) 海に生きた船乗りのはなし(5)・住清丸の漂流

    今日の「住吉丸の漂流」『怒涛を超えた男たち』(播磨郷土資料館)の転載です。文中の清太郎・安太郎については後日、紹介することにします。住清丸の漂流嘉永2(1849)年12月、大坂福島の木屋市十郎の持船住清丸は兵庫を出帆し、江戸へ行きました。江戸からは干鰯と空樽を積み、浦賀でもまた干鰯を積み帰路につきました。嘉永3年2月11日、伊豆の西ではげしい北風にあい、舵や擢を損傷し、2月4日に八丈島に漂着しました。乗組員は15人。漂着後島の人々に助けられ全員上陸したものの、船は流されてしまいました。島に滞在すること80日余り、5月2日に島の地役人の船で送還されています。この住清丸の漂流には本町出身者が二人います。すなわち清太郎・安太郎で、彼らは数か月後、再び栄力丸で漂流することになります。つまり、生涯のうちで実に二度に渡り漂...播磨町さんぽ(5)海に生きた船乗りのはなし(5)・住清丸の漂流

  • 播磨町さんぽ(4) 海に生きた船乗りのはなし(4)・ゴローニン救出を東本庄(播磨町)等の船乗りとの交換で

    ゴローニン事件フォストフのカラフト・千島列島襲撃事件は、その後、日本史を揺るがす出来事へと発展します。フォストフの事件から5年後の文化8年(1811)、ふたたびロシア軍艦が、エトロフ・クナシリに出現しました。測量艦、ディアナ号です。艦長はゴローニンという海軍少佐で思慮、観察力それに勇気に富んだ人物でした。ただ、かれの不幸は、幕府のほうが、フォストフ事件(エトロフ事件)の後で、この時期、極度の緊張でもって北辺の防備をするようになっていたことでした。ゴローニン少佐が海軍から命ぜられ、千島の測量をしていまし。7月4日(太陽暦)、測量船・ディアナ号は、クナシリ島の南端の湾に近づきました。ゴローニンは、フォストフの一件を知っており、日本の側の反発も予想していました。そのため、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたので...播磨町さんぽ(4)海に生きた船乗りのはなし(4)・ゴローニン救出を東本庄(播磨町)等の船乗りとの交換で

  • 播磨町さんぽ(3) 海に生きた船乗りのはなし(3) ロシア人の南下

    播磨町の船乗りを載せた寛紀丸が遭難した丁度そのころ、日本近海にロシア人が南下し、日本に開国を迫っていた時期にあたります。寛紀丸の船乗りは、彼らとつながりを持ってきます。今日のブログは、播磨町の船乗りは登場しませんが、教科書にも登場するレザノフから話をすすめます。ロシア人の南下18世紀、ロシアは南下政策をとり、千島に迫ってきました。ロシアの南下政策は、本音のところでは、貿易といった大きなプランではなく日本から食料を得たいことにありました。彼らのもっぱらの関心ごとは、毛皮の確保であり、対日貿易の目的は、シベリア・沿海州・その他の島々で働く毛皮会社の隊員の食糧の確保が主な目的でした。何としても、食料は現地で調達しなければなりません。そのためにロシアは日本に開国を求めたのです。レザノフ来航日本への通商を求めてレザノフが...播磨町さんぽ(3)海に生きた船乗りのはなし(3)ロシア人の南下

  • 播磨町散歩(2) 海に生きた船乗りのはなし(2)・寛紀丸(御影)の漂流

    「海に生きた船乗りの話」は『怒涛超えた男たち』(播磨郷土資料館)の内容をつまみ食いをして、少しだけ蛇足をつけただけです。『怒涛を超えた男たちは』にはたくさんの挿絵があり、詳しい内容となっていますので、ぜひそれをお読みください。海に生きた船乗りのはなし(2)寛紀丸(御影)の漂流神戸御影の樽廻船「寛紀丸」は、文化7年(1810)年11月22日朝、大坂を出帆しました。11月25日夜、潮岬沖で強風にあい、舵を折ってしまいました。いったん岬へ戻ろうとして小舟に乗り移ってこぎましたが、それも出来ず親船ヘー日がかりでもどりました。親船にもどってからも揺れが激しいため、上荷を海中に捨てました。また、帆柱は折れてしまいました。それからは、潮と風のまま流れるばかりとなりました。伊豆七島か八丈島近くを通っても、小舟を失っていたのでこ...播磨町散歩(2)海に生きた船乗りのはなし(2)・寛紀丸(御影)の漂流

  • 播磨町散歩(1) 海に生きた船乗りのはなし(1)

    「播磨町さんぽ」再開海に生きた船乗りのはなし(1)いま、司馬遼太郎の『この国のかたち(三):船』の項を読んでいます。・・・江戸幕府は諸大名が大船を持っていることが不安であった。諸藩に攻撃される可能性がある。そのため500トン以上の造船を禁止した。それに、江戸時代の船は、甲板をもちいないことである。さらに、帆を一枚にせざるをえなかったことである。多帆なら風をうまく操作して操船も楽になるのだが、多帆船は幕府の禁ずるところだったようで、一本マストの一枚帆であることを墨守(ぼくしゅ)せざるをえなかった。一枚帆の場合、いきおい帆の面積が広大にならざるをえない。広大なら、帆面にかかる風の力はすさまじく、比例的に梶(かじ)の面積も大きくせざるをえなかった。江戸期の大型和船の梶はべらぼうに大きくて、子どもがおすもうさんの下駄を...播磨町散歩(1)海に生きた船乗りのはなし(1)

  • 歩くと、左足が抜けるようです

    今日は、私事の「愚痴」で申し訳ありません。歩くと、左足が抜けるようです2年前までは、腰痛で困っていました。孫ともあまり遊べません。これは大変と、散歩を始めた散歩でした。それが一昨年の6月のことでした。以来、毎日散歩を続けています。雨の日も新幹線の下を歩いています。はじめは、少し腰の痛いのをかばいながらの散歩でしたが、徐々に傷みも亡くなり、嬉しくなり、以来皆勤でした。3月に入り散歩は下のようです。1日(金)10.916歩自宅周辺・平荘湖遊歩道2日(土)10.683〃自宅周辺・今福マックスバリューへ3日(日)10.353〃市役所~加古川駅・自宅周辺4日(月)3.097〃自宅周辺5日(火)2.450〃自宅内・周辺6日(水)2.959〃自宅内・周辺それがどうしたことか、3日でした。8.000歩ぐらい歩いた時足に左腰から...歩くと、左足が抜けるようです

  • ぶらり散歩(25) 花崗閃緑岩(2)・風化した花崗岩

    花崗閃緑岩(2)・風化した花崗岩加古川市周辺の山地はほとんど流紋岩(凝灰岩)です。その中にあって志方町大藤山(251.4メートル)付近の山容は少し違っています。それは山頂が平らで、その肩の部分は丸味をおび、斜面はふくよかで、その斜面は赤く厚い土壌層からなっています。山は風化が進んでいることを現しています。大藤山の近くの宮谷付近では、川原でもないのに角のとれた、ときには1、2メートルもあるような丸い岩塊が点在しています。このような状況が観察できる大藤山を中心にした、南北・東西それぞれ約三キロメートルには流紋岩類とは違って、岩石は花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)が広がっています。この岩石は中生代後期白亜紀末に地下から流紋岩の中に貫入してきた岩石です。花崗岩地域でよくみかけるように、この岩石は流紋岩に比べ早く激しく...ぶらり散歩(25)花崗閃緑岩(2)・風化した花崗岩

  • ぶらり散歩(24) 花崗閃緑岩(1)・長楽寺の裏山が崩れた

    花崗閃緑岩(1)大藤山(おおふじさん)の岩志方の長楽寺の裏山は大藤山です。竜山石に続き、大藤山を形成している岩石について紹介したいのですが、その岩・土砂が崩れました。岩石を紹介する前に長楽寺の山崩れについて先に書いておきます。大藤山の岩石は、このあたりの多い竜山石(凝灰岩)ではありません。長楽寺の裏山が崩れた2011年の9月4日、午後1時ごろでした。志方の長楽寺の裏山が崩れ長楽寺は土砂に埋まってしまいました。新聞は、「寺は一部が埋まってしまったが、幸いけが人はなかった・・」と長楽寺の本堂の崩壊した写真を報じました。地滑りは、狭い範囲で、裏山が少し崩れた程度だろう」と思い込んでいました。後日、長楽寺にでかけました。ただあぜんする光景がありました。記憶を風化させないためにとくに、長楽寺さんのご住職の長女の方が書かれ...ぶらり散歩(24)花崗閃緑岩(1)・長楽寺の裏山が崩れた

  • ぶらり散歩(23) 竜山の凝灰岩

    今日は、『加古川市史(第一巻)』を参考にして、私たちの近辺の地質(岩石)について調べてみます。火山灰は、水中に堆積し凝灰岩となった7~8.000年前(白亜紀)の火山活動で加古川付近の山地や丘陵を構成している岩石のほとんどは、有名な竜山(たつやま)石です。古墳時代から現在まで、この地方の人々だけではなく、ひろく畿内・但馬・丹波・岡山県域の人々にまで古くは石棺として、後には各種の土木・建築用材として利用され、親しまれてきた岩石です。この岩石は学術的には流絞岩質溶結凝灰岩といいますが、ここでは流紋岩と言っておきます。この流紋岩は、この付近だけではなく、西は上郡町(かみごおり)をこえて岡山県域から東は宝塚市付近まで、北は例えば加古川支流の杉原川の源流部の三国岳(855㍍)付近まで、そして兵庫県南半部にひろく分布している...ぶらり散歩(23)竜山の凝灰岩

  • 阪神よ、今年は汚名挽回を

    今日は、歴史の話題を離れます。たいがい前日の夜翌日のブログを作ります。きのうでした、昨年の3月2日の「ひろかずの日記」は何を書いているかを見ました。話題は阪神タイガースのことでした。予想と期待は、みごとに裏切られました。阪神の成績はご存知のように最下位。今年の予想はやめておきます。今年は、どうやら巨人の一強になりそうです。そんな予感がします。一強は、政治だけでもうんざりしています。スポーツは金力で決まる様では面白くないですね。以下は、昨年の「ひろかずの日記」3月2日の写真と文章です。今年の阪神タイガース*タイトルの「今年」は、もちろん「昨年」のことです。最近は、よくお銭湯に出かけます。家の風呂の修理が終わっていないこともあるのですが、銭湯が好きです。ゆっくり温まれます。でも、もう一つ好きな理由があります。銭湯を...阪神よ、今年は汚名挽回を

  • ぶらり散歩(22) 二つの遷都論(2)・印南野遷都計画

    二つの遷都論(その2)・印南野遷都計画都で権力を握った平氏でしたが、その政治は武士であるにもかかわらず貴族のやり方に似ており、寺社や兵士にからも不満が渦巻くようになりました。そして、平氏は、追われるように、神戸の福原へ都をうつします。が、福原は土地が狭く、とても不便で伊丹の昆陽池の地が便利であると、再び論議がおこりました。ところが、この昆陽池遷都は清盛によりたちまちのうちにひっくり返されてしまいました。その間の事情は、『玉葉(藤原兼実の日記)』に記されています。印南野遷都は、清盛の思いつきか?(治承知四年・1189)6月17日、天気晴れ。・・・きのうの(遷都の件に関しあちこちに問い合わせをして情報収集していた)の返事が来ました。すべてが、「播磨の国の印南野に遷都することになった」との結論です。藤原邦綱(ふじわら...ぶらり散歩(22)二つの遷都論(2)・印南野遷都計画

  • ぶらり散歩(21) 二つの遷都論(1)、加古川を首都に

    二つの加古川遷都論(その1)首都・加古川!大正12年(1923)9月1日、東京を中心に未曾有の大震災がおき、政府の一部に壊滅した首都を東京以外の場所に移そうとする遷都論がおきました。また、「今村均・回顧録」(当時の参謀本部少佐、後に陸軍大将)によれば、国土防衛上の観点から首都移転を極秘に検討し、加古川を首都候補地の一つにあげました。加古川は、リストの2番目(一番は八王子市)でした。選んだ理由は次の3点です。(1)過去に大地震に見舞われていない。(2)水資源に恵まれている。(3)防空上の問題もない。とりあえず、皇居と政府機関などに限っての首都移転構想ということでした。その他に「中国大陸侵略に備え、日本の首都を西に移すべきである」との考えがあったようです。が、首都加古川は幻で終わりました。遷都論が東京で広がり動揺が...ぶらり散歩(21)二つの遷都論(1)、加古川を首都に

  • 2月の散歩

    2月の散歩1日(金)10.476歩新幹線下遊歩道・自宅~喫茶店ピッケル2日(土)10.421〃自宅~市役所~駅前~自宅3日(日)11.931〃高砂町散策(三木歴史散策下見)4日(月)10.614〃自宅~大崎・自宅~マックスバリュ5日(火)11.690〃大崎~自宅・HC(西加古川店付近)散策6日(水)10.698〃自宅~粟津~駅前・自宅付近7日(木)11.461〃自宅~長田公園~鶴林寺・自宅周辺8日(金)10.687〃平荘湖一周・自宅周辺9日(土)10.889〃別府公民館界隈・自宅~長田公園10日(日)15.314〃自宅~パークタウン~駅前・自宅付近11日(月)10.637〃自宅~鶴林寺~長田公園・自宅周辺12日(火)10.672〃自宅~喫茶店・自宅周辺13日(水)11.213〃自宅~喫茶店ピッケル・アクトス周辺...2月の散歩

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