2015年8月
城めぐりの写真整理がおっつかないので、はじめて「今週のお題」で書いてみたいと思います。(書いてないで整理やれとw) 「読書の夏」ということですが、子供の頃は今にも増して物ぐさな性格だったので「夏あぢー外でたくねーかき氷たべてー」と夏休みの間中いつも家にいたような気がしますが、まだ今のように友達とゲームで遊んだり携帯でコミュニケーションを取れるわけでも無く、かといってテレビをぼさっと見ることも叶わない(見てないで宿題終わらせろと親に怒られる)ので、自室で机に向かって勉強するふりをしてよく本を読んでいました。今回のお題で、これまで自分はどんな本を読んできたのだろうかと振りかえってみたくなったので、…
番外編/わしの城を返せ!小田氏治所縁の城(導入編) 番外編/わしの城を返せ!土浦城(お勉強編) 前回続き。早速、建物遺構を見学に本丸内へ。こちらは博物館を出てすぐそばの「西櫓」。 説明板によると、1620・21(元和6・7)年頃の西尾氏が城主だった時代、本丸土塁上に東西の櫓が建てられました。城内の建物は明治以降多くの建物が火災や移築・取り壊しにより失われ、昭和~戦後に至って本丸には「西櫓、霞門、太鼓櫓」が現存。しかし、この西櫓も老朽化と1949(昭和24)年のキテイ台風によって破損、1950(昭和25)年に復元を前提として解体されます。 その後、土塁上には礎石のみが残され長らく復元されませんで…
番外編/わしの城を返せ!小田氏治所縁の城(導入編) - だらり100名城めぐり まずは地元から最も近く、小田家中でも智勇兼備を誇る忠臣 菅谷氏が護った「土浦城」から。 土浦城は平安時代に平将門が砦を築いたという伝説もありますが、文献に出てくるのは常陸の豪族 若泉三郎による築城が最初。戦国期に入り1516(永正13)年に小田家臣 菅谷勝貞が城を奪取したのちは、同じく家臣の信太範貞が城主に。範貞が1524(大永4)年に亡くなると養子となっていた菅谷勝貞が跡を継ぎ、以降三代にわたって城を守ります。氏治は小田城を敵に奪われると度々土浦城へ入り、その後何度も小田城を奪還しました。 いま現在は、江戸期に築…
突然ですが、「第六天魔王(信長)」「越後の龍(謙信)」「甲斐の虎(信玄)」「独眼竜(政宗)」など、戦国武将といえばいずれもカッコいい二つ名がつけられていますが、マイナー武将ばかりの関東にも「常陸の不死鳥」と呼ばれている武将がいるのをご存知でしょうか? 彼の名は小田氏治、のち出家してまたの名を天庵。 引用:http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/mirainodaifugoo/20100904/20100904103615.jpg 数年前から戦国好きの間で人気を博しその理由は、もうひとつの異名が「戦国最弱の大名」。 ネットでは親しみを込めて…
023城目 04/弘前城(夕暮れ城桜編) 023城目 04/弘前城(手ブレぎりぎり編) 023城目 04/弘前城(二の丸散策編) 023城目 04/弘前城(天守観覧編) 023城目 04/弘前城(本丸から北の郭編) 023城目 04/弘前城(春陽橋編) 023城目 04/弘前城(四の丸から三の丸編) 追手門から入城しめぐってきた弘前城も今回でラスト。最後は天守方向へ歩きながら東門へ向かっていきます(青矢印のところ)。 二の丸と三の丸をつなぐ土橋を渡り、周囲にチビっ子向けのブランコや滑り台などがある広場から見た「丑寅櫓」。がんばれ若いお父さん。 その先進むと、かつての「二の丸東門与力番所」。 上…
2015年8月
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