東京板橋の歌姫・やないみつこ6月9日(日)やないみつこのシャンソンライブ
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔那須町芦野・路傍の小便小僧那須町芦野・最勝院の十六羅漢那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根那須町芦野・揚源寺の奉納剣那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬里山の石神端書栃木県那須町芦野
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区田園調布密蔵院本堂密蔵院庚申堂青面金剛案内庚申塔案内庚申塔寛文3年(1663)延宝元年(1673)宝永6年(1709)正徳3年(1713)昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑳田園調布
那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街は外れの温泉神社に逆立ちした狛犬がいました。かつては寺社屋内に守護として置かれた狛犬は、近世になるとどの神社の境内に造立されるようになりました。また形の決まりも少なく、像容は石工の腕の見せどころでしから、よく見られる玉乗りや子持ちなどはじめ地方独特の型も生まれて、膨大な数の狛犬が造られました。これを分類した先人、出版物も出ました。手元にある橋本万平氏の『狛犬を探して』(注)では、近世の狛犬を江戸・浪花・出雲・尾道・伊部・丹後・肥前など地方別に分類した狛犬が取り上げられています。像容分類の中の一つが逆立ち狛犬で、金沢地方に多いそうです。それで温泉神社の狛犬は、身体を45度に上げた見事な逆立ち狛犬です。逆立ちの角度はいろいろありますが、...里山の石神端書192逆立ち狛犬(栃木県那須町)
那須町芦野・揚源寺の奉納剣芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。揚源寺は修験の寺で檀家はありません。山門脇に平成二十八年年造立の素朴な地蔵菩薩が立っていました。本堂脇の小さな沢の奥、アスナロウの巨木の根本に沢山の剣が納められています。どのような信仰があっての奉納かはわかりません。剣の下にある自然石には線刻の不動明王が刻まれていました。剣の奉納はこの不動明王に祈願するため、不動の持物である剣を奉納したのでしょう。寺社の奉納物には絵馬・太刀・鳥居・柄杓・しゃもじ……数えたきりがないぐらいですが、長野県の修那羅山のように石造物を納めるところもあります。これまで見てきた奉納物で、数が多く美しいと感じたのは千葉県下総町の道祖神石祠=下の写真上=、宮城県角田市の羅漢=写真中=、群馬県片品村の陶器狐=写真下=です。(...里山の石神端書191奉納剣(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区鵜の木光明寺光明寺61世順譽上人光明寺の閻魔王増明院庚申塚庚申塚の庚申塔庚申塚の庚申塔昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑲鵜の木
那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。三光寺の境内に「日本三所歓喜天参詣道/大正九年」銘の石碑が立っています。寺の案内には、弘法大師が彫った三体の歓喜天の一躰が応永年間(1342~44)にこの地に迎えられたとあります。聖天の別名もある歓喜天は夫婦和合・子宝の仏で、その姿は人身象頭二天抱擁。身体は人で、頭は像の二天が抱き合う姿です。歓喜天のシンボルは交差する大根。境内には交差した大根が主な場所に見られ、それを彫った石もありました。歓喜天の大根について、経典には「象頭人身、右手に鉞を持ち、左手は蘿蔔根を執る」とあります。蘿蔔(すずしろ)根は大根。これが歓喜天の象徴となって、歓喜天を祀る寺に大根を奉納するようになり、なかでも二股大根を選ぶのは夫婦和合を意味しています。(...里山の石神端書190歓喜天と大根(栃木県那須町)
那須町芦野・最勝院の十六羅漢芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。最勝院の山門に仁王、入った左手に十六羅漢が並んでいました。いずれも新しい石仏です。最近新しい仁王を見かけますが、最勝院の仁王は表情や手先の細部、全体のバランス、どれも非の打ちどころなにほど完成されています。アンバランスなところが石仏の魅力だった視点からすると、まぶしいぐらいです。十六羅漢も同じですが、手足の細工が大雑把です。境内に味のある六地蔵が並んでいました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書189十六羅漢(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区下丸子頓兵衛地蔵頓兵衛地蔵頓部地蔵案内頓兵衛地蔵天祖神社長福寺蓮光院蓮光院案内六所神社昭和の石仏写真館(131)大田区の寺社⑱下丸子
那須町芦野・路傍の小便小僧芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街に入る路傍に石造物が並び、そのなかに小便小僧が立っていました。古びていて昔からこの地に立っていたような姿です。しかし小便小僧はベルギーのブリュッセルが本家のはず。おかしいので、通りかかった親父さんに尋ねると、自分が置いたものでもらってきた物だそうです。さらに横に並ぶ如意輪観音は山奥の集落からもたってきた石仏だと。この場所の石造物は親父の個人的趣味で集め置かれたようで、こうなると一緒に並ぶ聖観音や「馬頭観音」銘石塔も怪しくなってきました。これまでも山間の集落で、道路拡張工事などで集められた石仏を沢山見てきましたが、あくまでも集落で信仰された石仏であることが基本と考えていました。ごく稀に個人的な石造物もありましたが、それはいずれもこの石像はお...里山の石神端書189小便小僧(栃木県那須町)
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。宿場の南にある堂の下観音は山肌の岸壁を利用した観音堂です。本尊は如意輪観音。かつて岸壁に磨崖仏があったそうですが、今は岩が崩壊してありません。そこにどのような仏が彫られていたかも不明です。お堂の参道に子安輪観音が座していました。「十九夜供養/寛政八年丙辰天(1796)/十月十九日」銘があり、十九夜塔です。栃木県は十九夜塔の多いところで、古い資料ですが『下野の野仏』(注)には、県内の十九夜塔1599基と報告されています。庚申塔は1334基で、二十三夜塔が602基です。十九夜塔を造立したのは十九夜講中で、女性のみの講中。同書には「安産祈願等女性固有の信仰で、十九夜念仏を唱和する」とあり、那須町の十九夜念仏和讃を紹介しています。そのなかに...里山の石神端書187十九夜塔(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区多摩川遍照院遍照院供養塔案内遍照院・念仏供養塔遍照院・庚申供養塔遍照院・廻国供養塔遍照院・庚申供養塔安方神社諏訪神社東福寺東福寺・馬頭観音昭和の石仏写真館(130)大田区の寺社⑰多摩川
南部町本郷の若宮・山王社の丸石南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町本郷の峰・七面社里山の石神端書・山梨県南部町本郷
南部町本郷の峰・七面社南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。峰集落の東の森のなかに七面社が建っていました。地図では神社マークになっていますが、七面社ですら神社扱いなのでしょうが、私の感覚からすると七面は身延山の西にそびえる山、七面大明神が住む敬慎院という寺ですから、寺扱いです。七面大明神は、身延山の日蓮の噂を知って、「婦人に身を変えて日蓮の説法を聞きに行った」という七面大明神縁起に記された身延山の守護神で、日蓮宗の寺には、少し離れた山に祀られていることがあります。その姿は女神です。峰集落の七面山への道にはいると「南無妙法蓮華経」の髭題目があり、その先の「馬頭観音」文字塔があるところがかつて寺跡。さらに登ると墓地があり、七面社です。境内に石造物はありません。社殿の屋根や賽銭箱に七面山の家紋...里山の石神端書186七面社(山梨県南部町)
■発行・日本石仏協会〒254-0031神奈川県平塚市天沼7-59-305(中森)TEL0463-24‐0203■発売・青娥書房〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27TEL03‐3264‐2023■2200円【表紙】調神社の狛兎/さいたま市浦和区岸町(長島誠)【写真】▼春うらら蚕影三尊/長野県木曽町黒川郷(新井るい子)▼北向庚申塔、如意輪観音/三重県伊勢市の石山観音公園(三代川千恵子)▼猫神様/宮城県丸森町/長野県伊那市(下平武)▼限界集落の神仏/新潟県上越市柿崎区平沢、群馬県桐生市黒保根楡沢(田中英雄)【ご挨拶】▼会長退任のご挨拶(大野邦弘)▼新会長就任のご挨拶(川野明正)【特集】尊名のわからない石仏▼肥前地方で出会った尊名不詳の石仏(中野高通)▼尊名のさだまらない石仏-地蔵・観音・庚申...日本の石仏179(2023-04)
南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。国土地理院の地図、峰集落に神社マークがついている場所に題目塔が3基立っていました。その一つに「光福山妙善寺」銘が入っているので、場所を妙善寺の題目塔としました。この塔は「寛文十一辛亥年(1671)」銘の題目塔。いま3基の題目塔は藪のなかですが、かつては妙善寺参道に立てられようです。その一つには「宗祖日蓮大菩薩六百年遠忌報恩塔/明治十四年十月十三日立之/身延山七十四世日鑑」とあります。もう一つは「天明元辛丑(1781)十月十三日」。10月13日は日蓮の命日です。この山奥には集落ごとに日蓮宗の寺が建てられました。地元の人の話では、かつて身延山に参る身延道になっていた、と聞きました。西からの身延道は東海道の興津から穴原に出て万...里山の石神端書185題目塔(山梨県南部町)
3月4月と例年にない暖かさで、今年の夏野菜の植え付けは早いと判断、4月中旬にキュウリを植えました。キュウリ栽培は久々です。トマト・ピーマンも植えました。オクラも植えたいのですが、プランターはタマネギ・ニンニク・ジャガイモで空きがありません。ジャガイモは丸ごと植えたので芽がいくつも出たので間引きました。間引かないと沢山の小さなジャガイモになるそうです。*3月初め、副作用がひどいので抗がん剤を減らしてもらいました。ところが3月末、抗がん剤の副作用で軽い肺炎(薬剤性肺炎)を起こし、抗がん剤・治験薬を中断、肺炎の薬を処方されました。肺炎は命取りになりますから、担当医も慎重です。その結果、鼻血・口内炎・始終満腹感の胃・皮膚の炎症・お尻の痛みなど、抗がん剤の副作用は数日後に解消し、食欲が出、体重も増え出しました。そし...屋上菜園2023-05闘病日記13
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東京板橋の歌姫・やないみつこ6月9日(日)やないみつこのシャンソンライブ
伊藤介二・昭和の石仏写真館終了このブログは、日本石仏協会の元副会長・伊藤介二氏からお預かりした、ご本人が撮影した石仏写真アルバム約100冊から、抜粋して紹介してきたものです。これまで173回、約三分の二余り紹介してきました。しかし私の命も風前の灯となりました今、最後まで紹介できなのは残念でありますが、このあたりで終わりとさせていただきます。長い間ご声援いただいた皆様に、こころより御礼申し上げます。昭和の石仏写真館・終了
【入院】(写真は案内写真の一コマです。出版は夏頃の予定)再校の途中、病院の血液検査の結果が悪すぎて、緊急入院することになってしまいました。幸いなことにパソコンと再校印刷物は持ってきていたので、早々に病室で再校作業に入りました。しかし体力・気力もなくなりはかどりません。昨年の入院時は一日中原稿作りのためベッドに横たわることはなかったのですが、今回はダメです。それに再校に必要な資料は家にあるので作業は進みません。それでも家ですませていた再校済みは、病院のコンビニでレターパックを買って編集者に返送しました。それにしても編集者の眼はするどいもので、初校を反映した再校にはことこまかな指摘が山ほどあって、時間のほとんどがその確認に費やされました。5月末、やっと退院しました。これからの仕事は再校を済ませ、不鮮明な写真の...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』③
入院している間に、タマネギとニンニクはカミさんが掘り出しと思っていましたが、そのままでした。いつ掘るのか、その後の夏野菜は何を植えるのか。菜園はカミさんにバトンタッチしたのでおまかせです。*高血糖、高温、高血圧・白血球の低下などで、5月の入院は15日にも及びました。その間、血糖値に対するインスリンの注射、さらに雑菌の感染などもわかって、胸に仕込んだ抗がん剤注入のポート摘出手術、抗生物質の投与とすっかりベッドの人になってしまいました。それから残念なことに、退院してもインスリンを打ちながらの生活になったこと。さらにMRI検査の結果がんが背骨にも転移している可能性もあることもわかり、神経がやられるのはこまるので、これは放射線治療で対応することにしました。使う抗がん剤もなくなって余命が限られてきた今、新たな治療の...屋上菜園2024-06闘病日記28
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の重要文化財文殊菩薩いわき市の北西部、仁井田川沿いの薬王寺を訪ねました。薬王寺の板碑や亀趺はすでに紹介しましたので、今回は木彫の文殊菩薩です。参道石段脇に「国宝文殊尊/昭和三十一年/参道構築記念」」銘の石碑がありました。この寺にある文殊菩薩は重要文化財ですが、かつては国宝だったのでしょうか。文殊菩薩は本堂裏の収蔵庫にあり、運慶作と伝わる国の重要文化財です。拝観を申し出ると、住職が開錠し案内していただきました。堂内や仏像に写真もOK、ネットへのアップもOK。住職がいうには皆さんに宣伝してもらった方がいいとのこと。堂内には他にも釈迦涅槃図や絹本色弥勒菩薩などもあります。ぜひ訪ねてみてください。(地図は国土地理院ホームページより里山の石神端書293重文・文殊菩薩(福島県いわき市四倉)
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の亀趺(きふ)いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺の境内に亀趺(きふ)がありました。亀趺は亀の形をした石碑の台座。石碑を造立するにあたり〝鶴は千年亀は万年〟のことわざにあるように、長寿の亀にあやかって石碑が末永く立ち続けることを願いました。亀趺は古くから中国で造立されていたもので、この国では江戸時代に大名など大型の墓石の台座としたのが始まりとされています。薬王寺の亀趺は笠塔を支えています。笠塔正面には「重罪一時/消滅生免/災殃死生」の宝筐印陀羅尼経が刻されていますから、これは宝筐印塔です。亀の顔はしっかり造られていますが、甲羅の部分は別の台座を重ねてあって端折られたもので亀趺としては見劣りがします。その顔には、耳と牙があります。実際の亀に耳は...里山の石神端書292亀趺(福島県いわき市四倉)
福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の板碑いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺は、大同年間(806~10)に徳一(とくいつ)によって創建されたというこの地方の名刹。徳一は法相宗の僧で、常陸から磐城そして会津に寺院を建立し仏教文化を広めたことで知られています。薬王寺には板碑が多く集められていました。参道に並ぶ板碑は関東に見られる緑泥石の薄いものではなく、自然石を利用したこの地方独特の形。寺の案内によると、板碑は参道をはじめ石段や境内に45基あるそうです。どれも頭に二条線、その下に大きな種字を刻した板碑で豪快です。いわき市の案内によると、この形の板碑はいわき市でも薬王寺を中心とした地域にだけに造立されたもので、年紀があるものは弘安八年(1285)から永和四年(1378)年の百年間だ...里山の石神端書291板碑(福島県いわき市四倉)
里山の石神端書284閻魔王、地蔵(行方市石橋)里山の石神端書285月待塔(行方市石橋)里山の石神端書286鳩(行方市根古屋)里山の石神端書287石祠型墓(行方市根古屋)里山の石神端書288日本武尊(行方市岡)里山の石神端書289道祖神(行方市雁通川)里山の石神端書290生祠(行方市荒宿)里山の石神端書茨城県行方市雁通川流域
行方市荒宿・嬪野神社の生祠行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでし...里山の石神端書290生祠(茨城県行方市雁通川)
行方市雁通川一帯の道祖神行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。この地域でときどき目にするのが駒型の道祖神。石塔正面に「道祖神」銘があるだけの簡素なもので、高さは40センチ前後。石橋で会った老人は「どうろくじん」と呼んでいまいた。見た道祖神は5カ所。そのうち3カ所は神社境内やその参道で、路傍は1カ所だけでした。造立は刻された紀年銘から明治以降のようです。道祖神の役目の一つとして外からの疫病などを塞ぐことですから、集落外れの路傍に置かれるのが普通です。したがって神社に置かれているのは路傍から移動した道祖神にもみえてきます。その点は確認できませんでした。次にその道祖神を写真で紹介しておきます。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書289道祖神(茨城県行方市雁通川)
庭木で大きくなった木を伐りました。いずれカミさんが剪定をするので、まだ余力があるうちに丈のある大きな木を切ることにし、家庭用のチェンソーをネット購入準備しました。しかし使ってみると、チェンを反対に取り付けたり、チェンのゆるみがでたりで苦労したものの、目的は達成しました。剪定は業者にまかせれば済む話ですが、年金生活者であり猫の額ほどの庭で、自分で思うように手入れをしてきた庭です。皆同じ高さにしてメリハリがなく、寂しいかぎりではありますが、これでカミさんに引き継げます。*4月末抗がん剤治療前に行う血液検査の結果、血糖値248の数値がでました。これまではいつも130ぐらいでしたから担当医師に指摘され、いろいろ尋ねられました。思い当たるのは、ここ数日体重減少を回復させるため、3食ご飯を食べるようにしたこと、胃をス...屋上菜園2024-05闘病日記27
行方市岡の福寿寺行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相...里山の石神端書288日本武尊(茨城県行方市岡)
ふくしま浜街道・桜プロジェクト3月下旬に「ふくしま浜街道・桜プロジェクト実行委員会」より、オーナー基金制度終了の知らせがきました。このプロジェクトは東日本大震災の翌年、被災から桜の成長と共に復興してゆく浜通りを子どもたちに残し、花咲く桜並木とともに迎えたい、この震災を忘れないための浜通りのシンボルにしたいという想いから立ち上げたものでした。目標は2万本で、国道6号線の樹木がほぼ完了したことにより、今年4月30日で解散するとのこと。目標達成お祝い申し上げます。そしてお疲れ様でした。私がこのプロジェクトに参加したきっかけは、1歳の孫の死でした。何もしてやれなかった孫のために何か残してあげたいというときにこのプロジェクトに出会ったのでした。申し込むとオーナー会員証が届き、後日桜の番号と植えた住所が届きました。数...八千代新川千本桜24-05
行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓...里山の石神端書287石祠型墓(茨城県行方市根古屋)
(写真は仮の裏カバー表紙です。出版は夏頃の予定)【初校・再校】東国の山で見た石神石仏の本を製作中です。2月に北海道・東北の初稿が出ると、校正と写真の照合で忙しくなりました。しかし集中力が続かず、作業はなかなか進みません。3月には関東と中部の初稿も出て、本の概要が見えてきました。こうなると一日も早い出版につなげるため、体調と相談しながら校正をすすめ、3月中旬に終わらせました。この間山渓の編集担当者とのやりとりはメールで、どうしても対面での打ち合わせが必要なときは私の体調を気遣って、自宅まできていただくこともありました。ここで困ったのが写真の再提出。カラー本は写真の鮮明さが必修で、山渓の出版は写真の美しさが特徴ですから、素人写真の私の手元にはそのような写真はありません。そうこうしているうちに4月に再校が出て、...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』②
タマネギ、ニンニクが成長し、ジャガイモの芽が出て成長中、収穫を終えキヌサヤの後には手無しインゲンを植える準備で屋上菜園はにぎやかです。仕事をまかせたカミさんも屋上に行く回数が増えましたから、ヤル気になったようです。*「現在推奨できる薬剤はありません」。これは食道がんに有効な抗がん剤がなくなってきて、何か薬がないかという段階の3月に行った「がん遺伝子パネル検査」の結果でした。パネル検査は、がん細胞に起きている遺伝子の変化を調べ今後の治療に役立つことがないか調べるための検査です。しかし検査により有効な薬が見つかる確率は数パーセント。それでも検査を受けたのは、パネル検査のデータががんゲノム情報管理センターに保存され、今後のがん治療の参考になるということなので、お役に立てればという気持ちからでした。4月中旬のCT...屋上菜園2024-05闘病日記26
行方市根小屋・八幡神社の鳩行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。八幡神社は雁通川が北浦の河口にある根古屋集落の北側、中世に相賀城という山城に建てられた神社。現地の案内には「寛永十六年(1639)龍翔寺九世住職の祐守法印の時に再建したと伝えられている」とありました。龍翔寺は山城の麓に建つ真言宗の寺。八幡神社の鳥居をくぐって登り出すと、手水石と道祖神が並ぶ崖に突き当たります。道祖神は駒形の石に「道祖神」銘があり、この雁通川一帯でよく目にする道祖神です。境内には勧請された石祠が並び、「淡島大明神/元文四未(1739)」銘の石祠もあり、根古屋の鎮守といった感じの八幡神社です。鳩は神社の本殿脇障子に二か所に彫られています。白い鳩です。鳩は八幡神社の使...里山の石神端書286鳩(茨城県行方市根古屋)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市不動院(榛松)庚申塔・延宝六年(1678)不動院(榛松)庚申塔・寛保三年(1743)真浄院(石神)提頭羅神王真浄院(石神)国常立命三仏寺(戸塚)三神①三仏寺(戸塚)三神②三仏寺(戸塚)三神③三仏寺(戸塚)三神④桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)①桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)②昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧
行方市石橋・熊野神社の月待塔行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。熊野神社は石神集落の中心部にある神社で、近くに観音堂や浄泉寺もあります。境内には庚申塔や月待塔が並び、この神社が集落の信仰の中心だったことがわかります。月待塔は「廿三夜供養塔」「奉待廿□」「十九夜/奉廿三夜/廿日待」の三基。いずれも風化がひどく、この場所に立て替えたような印象の月待塔です。その中の「十九夜、廿三夜、廿日待」を並べた月待塔はどういう背景があっての造立なのか、考えてしまいました。中央に「奉廿三夜」とありますからこれが主で、あわせて十九夜と廿日待を行っていたということだと思いますが、十九夜も廿日待も信仰や石造物の事例の少ない月待です。そのなかでも茨城には若干あったよ...里山の石神端書285月待塔(茨城県行方市石橋)
行方市石橋・養源寺の閻魔、地蔵行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。初めは石神集落の養源寺。養源寺は、山門に変わりに石柱を台座しその上に石仏を乗せて対にした所が入口。石仏は閻魔王と地蔵菩薩。寺の境内に閻魔と奪衣婆、あるいは六地蔵が並ぶ光景はよく見ますが、山門かわりに閻魔と地蔵が座すのは初めてです。寺に向かって左側の像は、風化のため表情はわかりませんが冥府の裁判官十王の着衣である道服(道教の道士の服装)姿なので十王であり、その中心の閻魔王としました。本来なら笏を持つのですが、これも欠けています。石柱には篆書で「禁葷酒」銘がありますからこれは結界石も兼ねています。養源寺は禅宗・曹洞宗の寺でした。右は右手に錫杖左手に宝珠を持ち、左足を踏み出そうと...里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)
鴨川市奈良林・奈良集落三嶋寺の胎蔵界大日如来真言鴨川市西部の大山山麓。奈良林の三嶋神社と並んで建つ三嶋寺の境内に種字「胎蔵界大日真言」銘の石塔が立っていました。いろいろな願い、結願が込められた胎蔵界大日真言塔です。正面に種字で「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」、側面に「光明真言一億万遍供養塔/弘法大師第一千年遠忌/天保五年(1834)」銘があります。「アビラウンケン」は胎蔵界大日如来の五字真言で、真言密教では重要な真言です。これが民間では様々な災難除け、蛇・虫の毒除け、傷病治しのときの呪文・呪いとして唱えられてきました。「光明真言一億万遍」は大日如来に一切の罪障を除いて極楽往生などを願う真言、呪文。これを大勢で唱えた数が一億万回に達したのを区切りとしての造立です。弘法大師は祥承和二年(835)に亡くなっています。...里山の石神端書193胎蔵界大日如来真言(千葉県鴨川市)
5月25日から入院することになり、慌てました。屋上ではタマネギ・ニンニク・ジャガイモが収穫を待っていて、取り敢えず24日にジャガイモだけ掘りました。小粒ながらまずまずの出来です。タマネギ・ニンニクは束ねて干す作業がありますから、退院してからです。昨日カミさんからキュウリの写真が届きました。夏野菜の初収穫です。*経過が良かった食道がんの抗がん剤治療でしたが、副作用の肺炎を起こして抗がん剤を中断している間に状況が一転しました。CT検査でわかったのですが、縮小したはずの転移先肝臓やリンパのがんが復活してきたのです。肺炎も治っていません。これを踏まえて担当医の判断は、中断していたこれまでの抗がん剤と治験は中止、代わりに肺炎に影響の少ない抗がん剤治療を始めるとのことでした。それは120時間連続の抗がん剤点滴で、8日...屋上菜園2023-06闘病日記14
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔那須町芦野・路傍の小便小僧那須町芦野・最勝院の十六羅漢那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根那須町芦野・揚源寺の奉納剣那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬里山の石神端書栃木県那須町芦野
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区田園調布密蔵院本堂密蔵院庚申堂青面金剛案内庚申塔案内庚申塔寛文3年(1663)延宝元年(1673)宝永6年(1709)正徳3年(1713)昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑳田園調布
那須町芦野・温泉神社の逆立ち狛犬芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街は外れの温泉神社に逆立ちした狛犬がいました。かつては寺社屋内に守護として置かれた狛犬は、近世になるとどの神社の境内に造立されるようになりました。また形の決まりも少なく、像容は石工の腕の見せどころでしから、よく見られる玉乗りや子持ちなどはじめ地方独特の型も生まれて、膨大な数の狛犬が造られました。これを分類した先人、出版物も出ました。手元にある橋本万平氏の『狛犬を探して』(注)では、近世の狛犬を江戸・浪花・出雲・尾道・伊部・丹後・肥前など地方別に分類した狛犬が取り上げられています。像容分類の中の一つが逆立ち狛犬で、金沢地方に多いそうです。それで温泉神社の狛犬は、身体を45度に上げた見事な逆立ち狛犬です。逆立ちの角度はいろいろありますが、...里山の石神端書192逆立ち狛犬(栃木県那須町)
那須町芦野・揚源寺の奉納剣芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。揚源寺は修験の寺で檀家はありません。山門脇に平成二十八年年造立の素朴な地蔵菩薩が立っていました。本堂脇の小さな沢の奥、アスナロウの巨木の根本に沢山の剣が納められています。どのような信仰があっての奉納かはわかりません。剣の下にある自然石には線刻の不動明王が刻まれていました。剣の奉納はこの不動明王に祈願するため、不動の持物である剣を奉納したのでしょう。寺社の奉納物には絵馬・太刀・鳥居・柄杓・しゃもじ……数えたきりがないぐらいですが、長野県の修那羅山のように石造物を納めるところもあります。これまで見てきた奉納物で、数が多く美しいと感じたのは千葉県下総町の道祖神石祠=下の写真上=、宮城県角田市の羅漢=写真中=、群馬県片品村の陶器狐=写真下=です。(...里山の石神端書191奉納剣(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区鵜の木光明寺光明寺61世順譽上人光明寺の閻魔王増明院庚申塚庚申塚の庚申塔庚申塚の庚申塔昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑲鵜の木
那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。三光寺の境内に「日本三所歓喜天参詣道/大正九年」銘の石碑が立っています。寺の案内には、弘法大師が彫った三体の歓喜天の一躰が応永年間(1342~44)にこの地に迎えられたとあります。聖天の別名もある歓喜天は夫婦和合・子宝の仏で、その姿は人身象頭二天抱擁。身体は人で、頭は像の二天が抱き合う姿です。歓喜天のシンボルは交差する大根。境内には交差した大根が主な場所に見られ、それを彫った石もありました。歓喜天の大根について、経典には「象頭人身、右手に鉞を持ち、左手は蘿蔔根を執る」とあります。蘿蔔(すずしろ)根は大根。これが歓喜天の象徴となって、歓喜天を祀る寺に大根を奉納するようになり、なかでも二股大根を選ぶのは夫婦和合を意味しています。(...里山の石神端書190歓喜天と大根(栃木県那須町)
那須町芦野・最勝院の十六羅漢芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。最勝院の山門に仁王、入った左手に十六羅漢が並んでいました。いずれも新しい石仏です。最近新しい仁王を見かけますが、最勝院の仁王は表情や手先の細部、全体のバランス、どれも非の打ちどころなにほど完成されています。アンバランスなところが石仏の魅力だった視点からすると、まぶしいぐらいです。十六羅漢も同じですが、手足の細工が大雑把です。境内に味のある六地蔵が並んでいました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書189十六羅漢(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区下丸子頓兵衛地蔵頓兵衛地蔵頓部地蔵案内頓兵衛地蔵天祖神社長福寺蓮光院蓮光院案内六所神社昭和の石仏写真館(131)大田区の寺社⑱下丸子
那須町芦野・路傍の小便小僧芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街に入る路傍に石造物が並び、そのなかに小便小僧が立っていました。古びていて昔からこの地に立っていたような姿です。しかし小便小僧はベルギーのブリュッセルが本家のはず。おかしいので、通りかかった親父さんに尋ねると、自分が置いたものでもらってきた物だそうです。さらに横に並ぶ如意輪観音は山奥の集落からもたってきた石仏だと。この場所の石造物は親父の個人的趣味で集め置かれたようで、こうなると一緒に並ぶ聖観音や「馬頭観音」銘石塔も怪しくなってきました。これまでも山間の集落で、道路拡張工事などで集められた石仏を沢山見てきましたが、あくまでも集落で信仰された石仏であることが基本と考えていました。ごく稀に個人的な石造物もありましたが、それはいずれもこの石像はお...里山の石神端書189小便小僧(栃木県那須町)
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。宿場の南にある堂の下観音は山肌の岸壁を利用した観音堂です。本尊は如意輪観音。かつて岸壁に磨崖仏があったそうですが、今は岩が崩壊してありません。そこにどのような仏が彫られていたかも不明です。お堂の参道に子安輪観音が座していました。「十九夜供養/寛政八年丙辰天(1796)/十月十九日」銘があり、十九夜塔です。栃木県は十九夜塔の多いところで、古い資料ですが『下野の野仏』(注)には、県内の十九夜塔1599基と報告されています。庚申塔は1334基で、二十三夜塔が602基です。十九夜塔を造立したのは十九夜講中で、女性のみの講中。同書には「安産祈願等女性固有の信仰で、十九夜念仏を唱和する」とあり、那須町の十九夜念仏和讃を紹介しています。そのなかに...里山の石神端書187十九夜塔(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区多摩川遍照院遍照院供養塔案内遍照院・念仏供養塔遍照院・庚申供養塔遍照院・廻国供養塔遍照院・庚申供養塔安方神社諏訪神社東福寺東福寺・馬頭観音昭和の石仏写真館(130)大田区の寺社⑰多摩川
南部町本郷の若宮・山王社の丸石南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町本郷の峰・七面社里山の石神端書・山梨県南部町本郷
南部町本郷の峰・七面社南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。峰集落の東の森のなかに七面社が建っていました。地図では神社マークになっていますが、七面社ですら神社扱いなのでしょうが、私の感覚からすると七面は身延山の西にそびえる山、七面大明神が住む敬慎院という寺ですから、寺扱いです。七面大明神は、身延山の日蓮の噂を知って、「婦人に身を変えて日蓮の説法を聞きに行った」という七面大明神縁起に記された身延山の守護神で、日蓮宗の寺には、少し離れた山に祀られていることがあります。その姿は女神です。峰集落の七面山への道にはいると「南無妙法蓮華経」の髭題目があり、その先の「馬頭観音」文字塔があるところがかつて寺跡。さらに登ると墓地があり、七面社です。境内に石造物はありません。社殿の屋根や賽銭箱に七面山の家紋...里山の石神端書186七面社(山梨県南部町)
■発行・日本石仏協会〒254-0031神奈川県平塚市天沼7-59-305(中森)TEL0463-24‐0203■発売・青娥書房〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27TEL03‐3264‐2023■2200円【表紙】調神社の狛兎/さいたま市浦和区岸町(長島誠)【写真】▼春うらら蚕影三尊/長野県木曽町黒川郷(新井るい子)▼北向庚申塔、如意輪観音/三重県伊勢市の石山観音公園(三代川千恵子)▼猫神様/宮城県丸森町/長野県伊那市(下平武)▼限界集落の神仏/新潟県上越市柿崎区平沢、群馬県桐生市黒保根楡沢(田中英雄)【ご挨拶】▼会長退任のご挨拶(大野邦弘)▼新会長就任のご挨拶(川野明正)【特集】尊名のわからない石仏▼肥前地方で出会った尊名不詳の石仏(中野高通)▼尊名のさだまらない石仏-地蔵・観音・庚申...日本の石仏179(2023-04)
南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。国土地理院の地図、峰集落に神社マークがついている場所に題目塔が3基立っていました。その一つに「光福山妙善寺」銘が入っているので、場所を妙善寺の題目塔としました。この塔は「寛文十一辛亥年(1671)」銘の題目塔。いま3基の題目塔は藪のなかですが、かつては妙善寺参道に立てられようです。その一つには「宗祖日蓮大菩薩六百年遠忌報恩塔/明治十四年十月十三日立之/身延山七十四世日鑑」とあります。もう一つは「天明元辛丑(1781)十月十三日」。10月13日は日蓮の命日です。この山奥には集落ごとに日蓮宗の寺が建てられました。地元の人の話では、かつて身延山に参る身延道になっていた、と聞きました。西からの身延道は東海道の興津から穴原に出て万...里山の石神端書185題目塔(山梨県南部町)
3月4月と例年にない暖かさで、今年の夏野菜の植え付けは早いと判断、4月中旬にキュウリを植えました。キュウリ栽培は久々です。トマト・ピーマンも植えました。オクラも植えたいのですが、プランターはタマネギ・ニンニク・ジャガイモで空きがありません。ジャガイモは丸ごと植えたので芽がいくつも出たので間引きました。間引かないと沢山の小さなジャガイモになるそうです。*3月初め、副作用がひどいので抗がん剤を減らしてもらいました。ところが3月末、抗がん剤の副作用で軽い肺炎(薬剤性肺炎)を起こし、抗がん剤・治験薬を中断、肺炎の薬を処方されました。肺炎は命取りになりますから、担当医も慎重です。その結果、鼻血・口内炎・始終満腹感の胃・皮膚の炎症・お尻の痛みなど、抗がん剤の副作用は数日後に解消し、食欲が出、体重も増え出しました。そし...屋上菜園2023-05闘病日記13
南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。糸さくらで有名な原間つどいの家はかつての法眼寺。この入口に題目塔が3基立っていました。二つは「南無妙法蓮華経」銘の髭題目塔、一つは「南無日蓮大菩薩/五百遠忌」銘。日蓮大菩薩は、南北時代の北朝第四代・後光厳天皇から送られた諡号(しごう)。千葉県小湊誕生寺の資料には「延文3年(1358)夏大旱魃があり、京都妙顕寺の大覚上人は時の後光厳天皇より祈雨の修法を命ぜられました。大覚上人に修法は効験を顕わし、その功績によって日蓮聖人に大菩薩号を賜り、自身は大僧正に任じられた」とあります。五百遠忌は、日蓮が亡くなった弘安5年(1282)から500年後の年忌法要。身延山の日蓮は病気になったため山を下り、常陸へ向かいました。故郷の小湊...里山の石神端書184日蓮大菩薩(山梨県南部町)
南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。原間集落の三差路に丸石が備えられた新旧の石祠が二基並んでいました。これは道祖神だと思いましたが銘はなく、山梨では丸石があっても道祖神とは限らず、地元に人に確認が必要です。何の神を祀ったものか、近くの古老に尋ねると、石祠は道祖神で、新しい道祖神は近くに3カ所にあったものをここにまとめたもので、丸石も道祖神だそうです。お祭りもしているとのこと。この後も、この周辺で幾つかの道祖神を確認しましたが、すべて石祠でした(地図の青丸印)。峰集落の路傍若宮集落の若宮山王社入口杉尾集落の路傍(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書183道祖神(山梨県南部町)