里山の石神端書284閻魔王、地蔵(行方市石橋)里山の石神端書285月待塔(行方市石橋)里山の石神端書286鳩(行方市根古屋)里山の石神端書287石祠型墓(行方市根古屋)里山の石神端書288日本武尊(行方市岡)里山の石神端書289道祖神(行方市雁通川)里山の石神端書290生祠(行方市荒宿)里山の石神端書茨城県行方市雁通川流域
南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。糸さくらで有名な原間つどいの家はかつての法眼寺。この入口に題目塔が3基立っていました。二つは「南無妙法蓮華経」銘の髭題目塔、一つは「南無日蓮大菩薩/五百遠忌」銘。日蓮大菩薩は、南北時代の北朝第四代・後光厳天皇から送られた諡号(しごう)。千葉県小湊誕生寺の資料には「延文3年(1358)夏大旱魃があり、京都妙顕寺の大覚上人は時の後光厳天皇より祈雨の修法を命ぜられました。大覚上人に修法は効験を顕わし、その功績によって日蓮聖人に大菩薩号を賜り、自身は大僧正に任じられた」とあります。五百遠忌は、日蓮が亡くなった弘安5年(1282)から500年後の年忌法要。身延山の日蓮は病気になったため山を下り、常陸へ向かいました。故郷の小湊...里山の石神端書184日蓮大菩薩(山梨県南部町)
南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。原間集落の三差路に丸石が備えられた新旧の石祠が二基並んでいました。これは道祖神だと思いましたが銘はなく、山梨では丸石があっても道祖神とは限らず、地元に人に確認が必要です。何の神を祀ったものか、近くの古老に尋ねると、石祠は道祖神で、新しい道祖神は近くに3カ所にあったものをここにまとめたもので、丸石も道祖神だそうです。お祭りもしているとのこと。この後も、この周辺で幾つかの道祖神を確認しましたが、すべて石祠でした(地図の青丸印)。峰集落の路傍若宮集落の若宮山王社入口杉尾集落の路傍(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書183道祖神(山梨県南部町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区矢口圓應寺圓應寺庚申塔案内圓應寺庚申塔庚申堂庚申堂の庚申塔矢口の渡し跡花光院花光院の六地蔵新田神社新田神社の矢口新田神君之碑案内新田神社の矢口新田神君之碑昭和の石仏写真館(129)大田区の寺社⑯矢口
南部町本郷の若宮・若宮八幡神社の丸石南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。八幡神社の入口に石祠、馬頭観音、「馬頭観世音」銘石塔2基が並んでいました。どこにでもある風景ですが、どんな祀神にも丸石が置かれているのが山梨風です。南部は静岡県に接する町ですから、丸石文化がここまできているのかという印象でした。丸石を道祖神として祀ることは山梨ではごく普通に見られ、他の地方にもないわけではありませんが、甲府と中心とした地域では極めて多くの丸石が道祖神として祀られています。また丸石が必ずしも道祖神でなく、屋敷神はじめいろいろな祀神にも置かれていのも山梨なのです。山梨の道祖神を研究した中沢厚氏は『山梨県の道祖神』(注1)で石祠・木祠・文字碑・双神・単神・丸石・石棒などを取りあげるなかで、丸石信仰について...里山の石神端書182丸石(山梨県南部町)
山北町大蔵野・須賀神社の忠魂碑山北町大蔵野・長光寺の唯念名号塔山北町山市場・平山満蔵寺の断橋供養塔山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔山北町玄倉・道祖神里山の石神端書・神奈川県山北町河内川流域
山北町玄倉・道祖神玄倉は玄倉川最後の集落。かつてはこの集落に一泊して塔ノ岳や蛭が岳を目指したが、今はここまでの道が丹沢湖に沈み、玄倉から先のルートは崖崩れなどで閉鎖されています。集落の入口に立つのが新旧二体の双体道祖神が立っていました。古い像は「安永九子天(1780)」、新しいのは「平成二十八年/玄倉自治会」銘。神奈川県の西部は、男女区別のない江戸時代初期の古い双体道祖神が多ところです。江戸中期になって男女の区別が出てきても、手をつないだり、肩を組んだり、酒器を持ったり、まして抱き合ったりする像は造立されませんでした。古い双体像を見ますと江戸中期の造立で、向かって右の被り物がるのを男神とすると、左の顔が風化しているのが女神です。手は持物があるようですがよくわかりませんが、神奈川県西部の伝統的は双体道祖神で...里山の石神端書181道祖神(神奈川県山北町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館(128)東京都大田区西六郷宝憧院宝憧院の石船宝憧院の石船案内安養寺安養寺の百味供養塔安養寺の参明藤開山安養寺の富士講案内薬師寺薬師寺の廻国供養塔薬師寺の廻国供養塔昭和の石仏写真館(128)大田区の寺社⑮西六郷
神奈川県山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔丹沢湖の神尾田地区の神社が湖南岸の小高い山の上に建っています。その入口に並ぶ石造物の一つが笠付角柱型庚申塔。石塔の上部が削られて角柱に見えますが、脇に笠が置いてあります。「享保十四年(1729)/庚申供養塔」銘と、角柱の正面と左右側面の三面にそれぞれ猿が浮き彫りされています。笠付角柱型庚申塔は神奈川県でよく見かけ、江戸時代初期のものが多いのが特徴にようです。またこの型は神奈川だけでなく、関東各地にも点在しています。さらに同型で正面に青面金剛・四夜叉・二鶏・三猿などを集めた塔を含めると、数はさらに増えます。庚申塔の形式分類をした石神裕之氏は「近世庚申塔にみる流行型式の普及」(注)で、五輪塔・宝筐印塔から自然石まで18の型式に分類し、そのなかで笠付型を笠付角柱型...里山の石神端書180笠付角柱型庚申塔(神奈川県山北町)
神奈川県山北町山市場・平山満蔵寺の断橋供養塔満蔵寺の境内奥に「断橋遭難供養塔」が立っていました。「大正四年十月廿七日夜/吊橋墜落遭難志望者」銘もあります。死者は男1名、女5名。河内川沿いの集落はどこも左岸にありますが、平山だけが右岸にあり、吊り橋で行き来していたのでしょう。二十七夜の月の出は翌日の朝方、何かの集まりの帰りの真っ暗な吊り橋を大勢で渡ったのでしょう。その重みに吊り橋は耐え切れず、谷底に落ちてしまった。十月下旬の谷川の水は冷たかったはずです。境内には石幢もありました。地蔵が持つ蓮華(?)がユニークです。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書179断橋供養塔(神奈川県山北町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区南馬込北野神社北野神社の庚申塔萬福寺萬福寺の六地蔵円乗院円乗院の大日如来熊野神社熊野神社の庚申塔昭和の石仏写真館(127)大田区の寺社⑭南馬込
神奈川県山北町大蔵野・長光寺の唯念名号塔大蔵野は山の斜面にあり、段々畑と坂道からなる集落です。そのため曹洞宗長光寺の境内も狭く、墓地は少し離れた山の斜面を削って造られました。何もないと思った境内奥に名号塔と庚申塔がありました。名号塔の名号は仏・菩薩の名。とくに南無阿弥陀仏の六字名号を刻んだものを名号塔とすることが多い。長光寺の名号塔には丸みのある豪快な文字で「南無阿弥陀仏」、下に「唯念」の花押。これは丹沢の西の山中、静岡県小山町の奥の沢を拠点に駿河・伊豆・相模一帯で念仏布教をした唯念(1826~80)の唯念名号塔です。庚申塔は笠が失われているが、これは笠付角柱型といわれる庚申塔。正面と左右脇に猿が刻まれているものです。正面には「過去心不可得」銘。仏書によると、金剛経のなかの三世心不可得の一つのようです。残...里山の石神端書178唯念名号塔(神奈川県山北町)
神奈川県山北町大蔵野・須賀神社の忠魂碑第二東名の工事が進む大北野の集落では、トンネルと橋の工事が同時に進行して賑やかな様子。そのなかに鎮まっている須賀神社に忠魂碑が立っていました。忠魂碑は国のために戦って戦死した兵士を祀るために造立された石碑。その始まりは、幕末の戊辰戦争の官軍戦死者を表彰するため、明治2年に東京九段に創建された東京招魂社にあるそうです。これが明治12年に靖国神社と改名して今日に続いています。これとは別に各地で忠魂碑が立てられました。須賀神社の招魂碑は「陸軍大将乃木希典閣下直筆」銘がある日露戦争の戦没者を祀ったもので、背面に出征軍人として、国民兵之部・後備役之部・予備役之部、補充兵役の名前が並んでいました。一見してこちらも賑やかに様子ですが、神社は鎮まりかえっていました。(地図は国土地理院...里山の石神端書177忠魂碑(神奈川県山北町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区山王善應寺義民六人衆案内義民六人衆熊野神社1熊野神社2熊野神社狛犬熊野神社狛犬厳島神社昭和の石仏写真館(126)大田区の寺社⑬山王
石岡市真家・明圓寺の中興碑笠間市泉・隠沢観音の石燈籠蓮華笠間市泉・龍泉寺の立春大吉お札笠間市下郷・三社神社入口の子安観音笠間市上郷・瀧入不動堂の子安観音笠間市泉・愛宕山の十三天狗里山の石神端書・茨城県笠間市愛宕山山麓
茨城県笠間市泉・愛宕山の十三天狗天狗の面が飾られた愛宕山の本殿裏に、この山の祭神飯縄社が祀られていました。その背後に並ぶ石祠が十三天狗。中央に一回り大きな石祠を置き、コの字型に12の同じ石祠が並んでいます。知切光歳氏は『天狗の研究』(注1)で、愛宕山の十三天狗は「平田実篤の『仙境異聞』(仙童寅吉物語)によって、にわかに世人の注目を浴び、重味を加えた(略)寅吉が言いだす以前は、ささやかな無名天狗群の小祠にすぎなかったし、もっと以前は十二天狗であった」と説明しています。寅吉は江戸にいた超能力を持ち、愛宕山に飛んで修行をしたという子供。実篤が寅吉から聞き書きを始めたのは文政三年(1820)とされ、これが実篤の霊界へ入る切掛けの一つとなったといわれています。十二天狗は古くから愛宕山にいた天狗。新しく加わったのは筑...里山の石神端書176十三天狗(茨城県笠間市)
玉ネギ・ニンニク・絹サヤが元気に育っているいつもの風景です。3月初めに植えたジャガイモはなかなか芽を出さず、ヤキモキしましたがやっと出ました。*食道がんステージ4で抗がん剤治療中。昨年の秋彼岸に、両親に病気の報告がてら田舎へ墓参りをしました。その時はこれが最後かなと思っていましたが、墓を守っている弟夫婦に春彼岸に会う約束をしました。それから半年、抗がん剤治療が効いてこの春彼岸もどうにか墓参りができそうな状態になりました。田舎への途中、栃木の山奥の寺の和尚と話をする機会があり、ガンの話になりました。すると和尚は、私はガンと知らされたとき心の病も発症してしまいましたというのです。宗教者でも心の病になるんだと思うと同時に、正直な和尚さんに出会ってホッとしました。田舎のお寺は最近本堂を建立したばかりです。本堂の壁...屋上菜園2023-04闘病日記12
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里山の石神端書284閻魔王、地蔵(行方市石橋)里山の石神端書285月待塔(行方市石橋)里山の石神端書286鳩(行方市根古屋)里山の石神端書287石祠型墓(行方市根古屋)里山の石神端書288日本武尊(行方市岡)里山の石神端書289道祖神(行方市雁通川)里山の石神端書290生祠(行方市荒宿)里山の石神端書茨城県行方市雁通川流域
行方市荒宿・嬪野神社の生祠行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでし...里山の石神端書290生祠(茨城県行方市雁通川)
行方市雁通川一帯の道祖神行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。この地域でときどき目にするのが駒型の道祖神。石塔正面に「道祖神」銘があるだけの簡素なもので、高さは40センチ前後。石橋で会った老人は「どうろくじん」と呼んでいまいた。見た道祖神は5カ所。そのうち3カ所は神社境内やその参道で、路傍は1カ所だけでした。造立は刻された紀年銘から明治以降のようです。道祖神の役目の一つとして外からの疫病などを塞ぐことですから、集落外れの路傍に置かれるのが普通です。したがって神社に置かれているのは路傍から移動した道祖神にもみえてきます。その点は確認できませんでした。次にその道祖神を写真で紹介しておきます。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書289道祖神(茨城県行方市雁通川)
庭木で大きくなった木を伐りました。いずれカミさんが剪定をするので、まだ余力があるうちに丈のある大きな木を切ることにし、家庭用のチェンソーをネット購入準備しました。しかし使ってみると、チェンを反対に取り付けたり、チェンのゆるみがでたりで苦労したものの、目的は達成しました。剪定は業者にまかせれば済む話ですが、年金生活者であり猫の額ほどの庭で、自分で思うように手入れをしてきた庭です。皆同じ高さにしてメリハリがなく、寂しいかぎりではありますが、これでカミさんに引き継げます。*4月末抗がん剤治療前に行う血液検査の結果、血糖値248の数値がでました。これまではいつも130ぐらいでしたから担当医師に指摘され、いろいろ尋ねられました。思い当たるのは、ここ数日体重減少を回復させるため、3食ご飯を食べるようにしたこと、胃をス...屋上菜園2024-05闘病日記27
行方市岡の福寿寺行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相...里山の石神端書288日本武尊(茨城県行方市岡)
ふくしま浜街道・桜プロジェクト3月下旬に「ふくしま浜街道・桜プロジェクト実行委員会」より、オーナー基金制度終了の知らせがきました。このプロジェクトは東日本大震災の翌年、被災から桜の成長と共に復興してゆく浜通りを子どもたちに残し、花咲く桜並木とともに迎えたい、この震災を忘れないための浜通りのシンボルにしたいという想いから立ち上げたものでした。目標は2万本で、国道6号線の樹木がほぼ完了したことにより、今年4月30日で解散するとのこと。目標達成お祝い申し上げます。そしてお疲れ様でした。私がこのプロジェクトに参加したきっかけは、1歳の孫の死でした。何もしてやれなかった孫のために何か残してあげたいというときにこのプロジェクトに出会ったのでした。申し込むとオーナー会員証が届き、後日桜の番号と植えた住所が届きました。数...八千代新川千本桜24-05
行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓...里山の石神端書287石祠型墓(茨城県行方市根古屋)
(写真は仮の裏カバー表紙です。出版は夏頃の予定)【初校・再校】東国の山で見た石神石仏の本を製作中です。2月に北海道・東北の初稿が出ると、校正と写真の照合で忙しくなりました。しかし集中力が続かず、作業はなかなか進みません。3月には関東と中部の初稿も出て、本の概要が見えてきました。こうなると一日も早い出版につなげるため、体調と相談しながら校正をすすめ、3月中旬に終わらせました。この間山渓の編集担当者とのやりとりはメールで、どうしても対面での打ち合わせが必要なときは私の体調を気遣って、自宅まできていただくこともありました。ここで困ったのが写真の再提出。カラー本は写真の鮮明さが必修で、山渓の出版は写真の美しさが特徴ですから、素人写真の私の手元にはそのような写真はありません。そうこうしているうちに4月に再校が出て、...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』②
タマネギ、ニンニクが成長し、ジャガイモの芽が出て成長中、収穫を終えキヌサヤの後には手無しインゲンを植える準備で屋上菜園はにぎやかです。仕事をまかせたカミさんも屋上に行く回数が増えましたから、ヤル気になったようです。*「現在推奨できる薬剤はありません」。これは食道がんに有効な抗がん剤がなくなってきて、何か薬がないかという段階の3月に行った「がん遺伝子パネル検査」の結果でした。パネル検査は、がん細胞に起きている遺伝子の変化を調べ今後の治療に役立つことがないか調べるための検査です。しかし検査により有効な薬が見つかる確率は数パーセント。それでも検査を受けたのは、パネル検査のデータががんゲノム情報管理センターに保存され、今後のがん治療の参考になるということなので、お役に立てればという気持ちからでした。4月中旬のCT...屋上菜園2024-05闘病日記26
行方市根小屋・八幡神社の鳩行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。八幡神社は雁通川が北浦の河口にある根古屋集落の北側、中世に相賀城という山城に建てられた神社。現地の案内には「寛永十六年(1639)龍翔寺九世住職の祐守法印の時に再建したと伝えられている」とありました。龍翔寺は山城の麓に建つ真言宗の寺。八幡神社の鳥居をくぐって登り出すと、手水石と道祖神が並ぶ崖に突き当たります。道祖神は駒形の石に「道祖神」銘があり、この雁通川一帯でよく目にする道祖神です。境内には勧請された石祠が並び、「淡島大明神/元文四未(1739)」銘の石祠もあり、根古屋の鎮守といった感じの八幡神社です。鳩は神社の本殿脇障子に二か所に彫られています。白い鳩です。鳩は八幡神社の使...里山の石神端書286鳩(茨城県行方市根古屋)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市不動院(榛松)庚申塔・延宝六年(1678)不動院(榛松)庚申塔・寛保三年(1743)真浄院(石神)提頭羅神王真浄院(石神)国常立命三仏寺(戸塚)三神①三仏寺(戸塚)三神②三仏寺(戸塚)三神③三仏寺(戸塚)三神④桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)①桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)②昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧
行方市石橋・熊野神社の月待塔行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。熊野神社は石神集落の中心部にある神社で、近くに観音堂や浄泉寺もあります。境内には庚申塔や月待塔が並び、この神社が集落の信仰の中心だったことがわかります。月待塔は「廿三夜供養塔」「奉待廿□」「十九夜/奉廿三夜/廿日待」の三基。いずれも風化がひどく、この場所に立て替えたような印象の月待塔です。その中の「十九夜、廿三夜、廿日待」を並べた月待塔はどういう背景があっての造立なのか、考えてしまいました。中央に「奉廿三夜」とありますからこれが主で、あわせて十九夜と廿日待を行っていたということだと思いますが、十九夜も廿日待も信仰や石造物の事例の少ない月待です。そのなかでも茨城には若干あったよ...里山の石神端書285月待塔(茨城県行方市石橋)
行方市石橋・養源寺の閻魔、地蔵行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。初めは石神集落の養源寺。養源寺は、山門に変わりに石柱を台座しその上に石仏を乗せて対にした所が入口。石仏は閻魔王と地蔵菩薩。寺の境内に閻魔と奪衣婆、あるいは六地蔵が並ぶ光景はよく見ますが、山門かわりに閻魔と地蔵が座すのは初めてです。寺に向かって左側の像は、風化のため表情はわかりませんが冥府の裁判官十王の着衣である道服(道教の道士の服装)姿なので十王であり、その中心の閻魔王としました。本来なら笏を持つのですが、これも欠けています。石柱には篆書で「禁葷酒」銘がありますからこれは結界石も兼ねています。養源寺は禅宗・曹洞宗の寺でした。右は右手に錫杖左手に宝珠を持ち、左足を踏み出そうと...里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市庚申塔・東本郷路傍如意輪観音・東養寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)出羽三山供養塔・金棟寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)六地蔵3・東養寺(東本郷)六地蔵4・東養寺(東本郷)青面金剛・正源寺(新堀)勢至菩薩・正源寺(新堀)昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦
里山の石神端書276十九夜塔(成田市下総町大和田・龍安寺の十九夜塔)里山の石神端書277男根(成田市下総町小野・八幡神社)里山の石神端書278道祖神(成田市下総町大和田路傍)里山の石神端書279天神(成田市下総町高・月輪神社)里山の石神端書280阿弥陀、観音(成田市下総町冬父・迎接寺)里山の石神端書281石坂供養塔(成田市下総町中里・楽満寺)里山の石神端書282道祖神石祠(成田市下総町中里)里山の石神端書283川崎大師(千成田市下総町青山・東光寺)里山の石神端書千葉県成田市旧下総町
千葉県佐倉市(旧下総町)青山・東光寺の川崎大師利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の青山を訪ねました。ここは東光寺を中心に、薬師堂や北辰神明社が建ち、そのなかに石造弘法大師を納めた小社が二社並んでいました。その一つはこの地方に組織された成田組十膳講八十八所霊場の一つ。千葉県北部と茨城県南部の下総地方には、江戸時代中期以降四国八十八霊場を移したミニ霊場が各地につくられました。ミニ霊場は大きな寺を起点としてはいますが、その多くは小さな木祠に石造弘法大師(一部に木彫もある)を祀ったものです。もう一つは川崎大師を祀った小社です。社内には川崎大師からいただいてきたお札がきれに並んでいました。川崎大師の本尊は弘法大師。青山の集落では「誠心講」という川崎大師の講をつくって、毎年川崎大師...里山の石神端書283川崎大師(千葉県成田市旧下総町)
千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多...里山の石神端書282道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺圓通寺の六地蔵地蔵菩薩阿弥陀如来板碑群板碑・至徳元年(1386)板碑・応永五年(1408)板碑・文正二年(1467)板碑・文明十二年(1480)板碑・文明十八年(1486)僧像十三仏昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺
千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっと...里山の石神端書282石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)
千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。(地図は国土地理院ホームペー...里山の石神端書281阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区鵜の木光明寺光明寺61世順譽上人光明寺の閻魔王増明院庚申塚庚申塚の庚申塔庚申塚の庚申塔昭和の石仏写真館(132)大田区の寺社⑲鵜の木
那須町芦野・三光寺の歓喜天(聖天)と大根芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。三光寺の境内に「日本三所歓喜天参詣道/大正九年」銘の石碑が立っています。寺の案内には、弘法大師が彫った三体の歓喜天の一躰が応永年間(1342~44)にこの地に迎えられたとあります。聖天の別名もある歓喜天は夫婦和合・子宝の仏で、その姿は人身象頭二天抱擁。身体は人で、頭は像の二天が抱き合う姿です。歓喜天のシンボルは交差する大根。境内には交差した大根が主な場所に見られ、それを彫った石もありました。歓喜天の大根について、経典には「象頭人身、右手に鉞を持ち、左手は蘿蔔根を執る」とあります。蘿蔔(すずしろ)根は大根。これが歓喜天の象徴となって、歓喜天を祀る寺に大根を奉納するようになり、なかでも二股大根を選ぶのは夫婦和合を意味しています。(...里山の石神端書190歓喜天と大根(栃木県那須町)
那須町芦野・最勝院の十六羅漢芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。最勝院の山門に仁王、入った左手に十六羅漢が並んでいました。いずれも新しい石仏です。最近新しい仁王を見かけますが、最勝院の仁王は表情や手先の細部、全体のバランス、どれも非の打ちどころなにほど完成されています。アンバランスなところが石仏の魅力だった視点からすると、まぶしいぐらいです。十六羅漢も同じですが、手足の細工が大雑把です。境内に味のある六地蔵が並んでいました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書189十六羅漢(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区下丸子頓兵衛地蔵頓兵衛地蔵頓部地蔵案内頓兵衛地蔵天祖神社長福寺蓮光院蓮光院案内六所神社昭和の石仏写真館(131)大田区の寺社⑱下丸子
那須町芦野・路傍の小便小僧芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。街に入る路傍に石造物が並び、そのなかに小便小僧が立っていました。古びていて昔からこの地に立っていたような姿です。しかし小便小僧はベルギーのブリュッセルが本家のはず。おかしいので、通りかかった親父さんに尋ねると、自分が置いたものでもらってきた物だそうです。さらに横に並ぶ如意輪観音は山奥の集落からもたってきた石仏だと。この場所の石造物は親父の個人的趣味で集め置かれたようで、こうなると一緒に並ぶ聖観音や「馬頭観音」銘石塔も怪しくなってきました。これまでも山間の集落で、道路拡張工事などで集められた石仏を沢山見てきましたが、あくまでも集落で信仰された石仏であることが基本と考えていました。ごく稀に個人的な石造物もありましたが、それはいずれもこの石像はお...里山の石神端書189小便小僧(栃木県那須町)
那須町芦野・堂の下観音堂の十九夜塔芦野はかつての奥州街道関東最後の宿場町。宿場の南にある堂の下観音は山肌の岸壁を利用した観音堂です。本尊は如意輪観音。かつて岸壁に磨崖仏があったそうですが、今は岩が崩壊してありません。そこにどのような仏が彫られていたかも不明です。お堂の参道に子安輪観音が座していました。「十九夜供養/寛政八年丙辰天(1796)/十月十九日」銘があり、十九夜塔です。栃木県は十九夜塔の多いところで、古い資料ですが『下野の野仏』(注)には、県内の十九夜塔1599基と報告されています。庚申塔は1334基で、二十三夜塔が602基です。十九夜塔を造立したのは十九夜講中で、女性のみの講中。同書には「安産祈願等女性固有の信仰で、十九夜念仏を唱和する」とあり、那須町の十九夜念仏和讃を紹介しています。そのなかに...里山の石神端書187十九夜塔(栃木県那須町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区多摩川遍照院遍照院供養塔案内遍照院・念仏供養塔遍照院・庚申供養塔遍照院・廻国供養塔遍照院・庚申供養塔安方神社諏訪神社東福寺東福寺・馬頭観音昭和の石仏写真館(130)大田区の寺社⑰多摩川
南部町本郷の若宮・山王社の丸石南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町本郷の峰・七面社里山の石神端書・山梨県南部町本郷
南部町本郷の峰・七面社南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。峰集落の東の森のなかに七面社が建っていました。地図では神社マークになっていますが、七面社ですら神社扱いなのでしょうが、私の感覚からすると七面は身延山の西にそびえる山、七面大明神が住む敬慎院という寺ですから、寺扱いです。七面大明神は、身延山の日蓮の噂を知って、「婦人に身を変えて日蓮の説法を聞きに行った」という七面大明神縁起に記された身延山の守護神で、日蓮宗の寺には、少し離れた山に祀られていることがあります。その姿は女神です。峰集落の七面山への道にはいると「南無妙法蓮華経」の髭題目があり、その先の「馬頭観音」文字塔があるところがかつて寺跡。さらに登ると墓地があり、七面社です。境内に石造物はありません。社殿の屋根や賽銭箱に七面山の家紋...里山の石神端書186七面社(山梨県南部町)
■発行・日本石仏協会〒254-0031神奈川県平塚市天沼7-59-305(中森)TEL0463-24‐0203■発売・青娥書房〒101‐0051東京都千代田区神田神保町2-10-27TEL03‐3264‐2023■2200円【表紙】調神社の狛兎/さいたま市浦和区岸町(長島誠)【写真】▼春うらら蚕影三尊/長野県木曽町黒川郷(新井るい子)▼北向庚申塔、如意輪観音/三重県伊勢市の石山観音公園(三代川千恵子)▼猫神様/宮城県丸森町/長野県伊那市(下平武)▼限界集落の神仏/新潟県上越市柿崎区平沢、群馬県桐生市黒保根楡沢(田中英雄)【ご挨拶】▼会長退任のご挨拶(大野邦弘)▼新会長就任のご挨拶(川野明正)【特集】尊名のわからない石仏▼肥前地方で出会った尊名不詳の石仏(中野高通)▼尊名のさだまらない石仏-地蔵・観音・庚申...日本の石仏179(2023-04)
南部町本郷の沢・妙善寺の題目塔南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。国土地理院の地図、峰集落に神社マークがついている場所に題目塔が3基立っていました。その一つに「光福山妙善寺」銘が入っているので、場所を妙善寺の題目塔としました。この塔は「寛文十一辛亥年(1671)」銘の題目塔。いま3基の題目塔は藪のなかですが、かつては妙善寺参道に立てられようです。その一つには「宗祖日蓮大菩薩六百年遠忌報恩塔/明治十四年十月十三日立之/身延山七十四世日鑑」とあります。もう一つは「天明元辛丑(1781)十月十三日」。10月13日は日蓮の命日です。この山奥には集落ごとに日蓮宗の寺が建てられました。地元の人の話では、かつて身延山に参る身延道になっていた、と聞きました。西からの身延道は東海道の興津から穴原に出て万...里山の石神端書185題目塔(山梨県南部町)
3月4月と例年にない暖かさで、今年の夏野菜の植え付けは早いと判断、4月中旬にキュウリを植えました。キュウリ栽培は久々です。トマト・ピーマンも植えました。オクラも植えたいのですが、プランターはタマネギ・ニンニク・ジャガイモで空きがありません。ジャガイモは丸ごと植えたので芽がいくつも出たので間引きました。間引かないと沢山の小さなジャガイモになるそうです。*3月初め、副作用がひどいので抗がん剤を減らしてもらいました。ところが3月末、抗がん剤の副作用で軽い肺炎(薬剤性肺炎)を起こし、抗がん剤・治験薬を中断、肺炎の薬を処方されました。肺炎は命取りになりますから、担当医も慎重です。その結果、鼻血・口内炎・始終満腹感の胃・皮膚の炎症・お尻の痛みなど、抗がん剤の副作用は数日後に解消し、食欲が出、体重も増え出しました。そし...屋上菜園2023-05闘病日記13
南部町本坊の原間・法眼寺の日蓮大菩薩南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。糸さくらで有名な原間つどいの家はかつての法眼寺。この入口に題目塔が3基立っていました。二つは「南無妙法蓮華経」銘の髭題目塔、一つは「南無日蓮大菩薩/五百遠忌」銘。日蓮大菩薩は、南北時代の北朝第四代・後光厳天皇から送られた諡号(しごう)。千葉県小湊誕生寺の資料には「延文3年(1358)夏大旱魃があり、京都妙顕寺の大覚上人は時の後光厳天皇より祈雨の修法を命ぜられました。大覚上人に修法は効験を顕わし、その功績によって日蓮聖人に大菩薩号を賜り、自身は大僧正に任じられた」とあります。五百遠忌は、日蓮が亡くなった弘安5年(1282)から500年後の年忌法要。身延山の日蓮は病気になったため山を下り、常陸へ向かいました。故郷の小湊...里山の石神端書184日蓮大菩薩(山梨県南部町)
南部町本郷の原間・三差路の道祖神南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。原間集落の三差路に丸石が備えられた新旧の石祠が二基並んでいました。これは道祖神だと思いましたが銘はなく、山梨では丸石があっても道祖神とは限らず、地元に人に確認が必要です。何の神を祀ったものか、近くの古老に尋ねると、石祠は道祖神で、新しい道祖神は近くに3カ所にあったものをここにまとめたもので、丸石も道祖神だそうです。お祭りもしているとのこと。この後も、この周辺で幾つかの道祖神を確認しましたが、すべて石祠でした(地図の青丸印)。峰集落の路傍若宮集落の若宮山王社入口杉尾集落の路傍(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書183道祖神(山梨県南部町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館・東京都大田区矢口圓應寺圓應寺庚申塔案内圓應寺庚申塔庚申堂庚申堂の庚申塔矢口の渡し跡花光院花光院の六地蔵新田神社新田神社の矢口新田神君之碑案内新田神社の矢口新田神君之碑昭和の石仏写真館(129)大田区の寺社⑯矢口
南部町本郷の若宮・若宮八幡神社の丸石南部町は奥州南部氏の発祥の地、身延山参詣の道の地でした。八幡神社の入口に石祠、馬頭観音、「馬頭観世音」銘石塔2基が並んでいました。どこにでもある風景ですが、どんな祀神にも丸石が置かれているのが山梨風です。南部は静岡県に接する町ですから、丸石文化がここまできているのかという印象でした。丸石を道祖神として祀ることは山梨ではごく普通に見られ、他の地方にもないわけではありませんが、甲府と中心とした地域では極めて多くの丸石が道祖神として祀られています。また丸石が必ずしも道祖神でなく、屋敷神はじめいろいろな祀神にも置かれていのも山梨なのです。山梨の道祖神を研究した中沢厚氏は『山梨県の道祖神』(注1)で石祠・木祠・文字碑・双神・単神・丸石・石棒などを取りあげるなかで、丸石信仰について...里山の石神端書182丸石(山梨県南部町)
山北町大蔵野・須賀神社の忠魂碑山北町大蔵野・長光寺の唯念名号塔山北町山市場・平山満蔵寺の断橋供養塔山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔山北町玄倉・道祖神里山の石神端書・神奈川県山北町河内川流域
山北町玄倉・道祖神玄倉は玄倉川最後の集落。かつてはこの集落に一泊して塔ノ岳や蛭が岳を目指したが、今はここまでの道が丹沢湖に沈み、玄倉から先のルートは崖崩れなどで閉鎖されています。集落の入口に立つのが新旧二体の双体道祖神が立っていました。古い像は「安永九子天(1780)」、新しいのは「平成二十八年/玄倉自治会」銘。神奈川県の西部は、男女区別のない江戸時代初期の古い双体道祖神が多ところです。江戸中期になって男女の区別が出てきても、手をつないだり、肩を組んだり、酒器を持ったり、まして抱き合ったりする像は造立されませんでした。古い双体像を見ますと江戸中期の造立で、向かって右の被り物がるのを男神とすると、左の顔が風化しているのが女神です。手は持物があるようですがよくわかりませんが、神奈川県西部の伝統的は双体道祖神で...里山の石神端書181道祖神(神奈川県山北町)
伊藤介二・昭和の石仏写真館(128)東京都大田区西六郷宝憧院宝憧院の石船宝憧院の石船案内安養寺安養寺の百味供養塔安養寺の参明藤開山安養寺の富士講案内薬師寺薬師寺の廻国供養塔薬師寺の廻国供養塔昭和の石仏写真館(128)大田区の寺社⑮西六郷
神奈川県山北町神縄・神尾田神社の笠付角柱型庚申塔丹沢湖の神尾田地区の神社が湖南岸の小高い山の上に建っています。その入口に並ぶ石造物の一つが笠付角柱型庚申塔。石塔の上部が削られて角柱に見えますが、脇に笠が置いてあります。「享保十四年(1729)/庚申供養塔」銘と、角柱の正面と左右側面の三面にそれぞれ猿が浮き彫りされています。笠付角柱型庚申塔は神奈川県でよく見かけ、江戸時代初期のものが多いのが特徴にようです。またこの型は神奈川だけでなく、関東各地にも点在しています。さらに同型で正面に青面金剛・四夜叉・二鶏・三猿などを集めた塔を含めると、数はさらに増えます。庚申塔の形式分類をした石神裕之氏は「近世庚申塔にみる流行型式の普及」(注)で、五輪塔・宝筐印塔から自然石まで18の型式に分類し、そのなかで笠付型を笠付角柱型...里山の石神端書180笠付角柱型庚申塔(神奈川県山北町)