chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 「称名破満釈」の「無明」について

    他力の行を、第十七願、諸仏の行、方便法身のはたらきを根拠にするにしても、称名以外にそれが援用できるのかどうか。あるいは、称名が、法体名号からの等流として称名そのものを他力とし、その称名への助業となるのを称名以外にも援用していけるかどうか。更には、信心を得た者の称名、称名以外の行を、他力として広く認めていけるのかどうか。もちろん、称名に信心へと至らせる効果を、当然に法体名号を根拠とするのは理解できるのですが、確実、確定的かどうかは、衆生の側の問題を語らずにしては無理となるわけです。それでも信心を前提とした上記のような他力を議論するのはなぜなのか?以前にも述べてあるように、それは、おそらく「無明」の解釈にその要因があるのだと推測するのであります。「無明」を「本願への疑心」とするか、単に「本願を知らない無知」と...「称名破満釈」の「無明」について

  • 信心獲得の難しさ

    還相のあり方を、今世現世に実現していく、そのためとしての念仏者の社会性、信心の社会性、念仏者の報恩行といったことが議論されることは、確かに気持ち的には分かるのではありますが、そんなことは、私たち凡夫では、はなからできないからこその親鸞聖人の浄土真実の教えではないのか、ということなのであります、もちろん獲信、還相を前提としてとのことになりますが、まず獲信自体、そんな簡単なものではありません。まさか、「称名正因」を今さら宣揚することはないとは思うのですが…獲信の難しさは、自力行の逆を考えればある程度想像がつきます。自力行では、とにかく智慧と福徳の資糧を積むことで、業を清らかに調えて、空性の了解を目指すことになります。一方、他力行では、全ての行は、雑善としかならないものとして、自力、雑修、雑行の一切を否定し、自...信心獲得の難しさ

  • 称名破満釈・融会合釈について・5

    考えられる称名の種類は十種類になるかな・・①〜④には…八種になるか…獲信への構造分析に近づけると思うのだが…色々と重複も含めて当てはめながらしばらく思考して参ります。法性法身阿弥陀如来の称名以下は、阿弥陀如来方便法身のはたらき方便法身阿弥陀如来の称名諸仏諸菩薩の称名報身阿弥陀如来の称名応身釈迦如来の称名法蔵菩薩の称名獲信者の称名衆生の称名(信心は問わない)自分の称名(獲信前)自分の称名(獲信後)・・親鸞聖人の思想「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真...称名破満釈・融会合釈について・5

  • 「新しい領解文」をめぐる教義的諸問題について

    親鸞聖人の思想は、大きくまとめると、「阿弥陀如来法性法身・往還二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心獲得(信)→法性方便二種法身の獲得・成仏(証)」となります。更に簡単にまとめると、「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」となります。そして、行信論の要諦は、名破満釈・融会合釈における称名①→本願への志願・疑心称名(正業)②→志願・疑心称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→正念(信心決定・信心獲得)となり、①~④までの称名は、衆生の信心獲得へと向けたそれぞれが「阿弥陀如来方便法身のはたらき」となるわけですが、もちろん、親鸞聖人は、「阿弥陀如来方便法身のはたらき」を「称名」ただ一つを正業行となさったわけです。そして、その他の行を雑修、雑行、雑善として否定なさった...「新しい領解文」をめぐる教義的諸問題について

  • 称名破満釈・融会合釈について・4

    簡単に表せば、「法性法身→方便法身→信心」としたこれだけの流れということになります。更にまとめると、「二種回向(因)→方便(縁)→二種法身(果)」とした流れになるわけです。「阿弥陀如来法性法身・二種回向(教)→阿弥陀如来方便法身のはたらき(行)→信心(信)→二種法身の獲得(証)」となるということであります。①〜④は、阿弥陀如来方便法身のはたらきとまとめることはできますが、そのはたらきにはそれぞれに異なった役割があると考えられるわけです。でなければ、則として分けてあえて述べる意味がないからであります。称名の微妙にもある差異を考えないといけないと思うのであります。・・称名破満釈・融会合釈において、称名①→本願への志願・疑心称名(正業)②→志願・疑心称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→...称名破満釈・融会合釈について・4

  • 称名破満釈・融会合釈について・3

    称名破満釈・融会合釈において、称名①→本願への志願・疑心称名(正業)②→志願・疑心称名(正業)②→念仏(称名③)→南無阿弥陀佛(名号・称名④)→正念(信心決定・信心獲得)と先に記したわけですが、このように称名の種類を四つにわけて整理すると少し考えやすいのかもしれません。更に、②を大行とするのか、④を大行とするのかもあるわけです。正念の直前における称名④が、最も大切なものとなるのは言うまでもありません。しかし、「最勝真妙の正業」とあるのは、称名②であり、②の方が重要と考えられるわけです。このあたりに、空華学派、石泉学派、豊前学派等、議論展開を更に複雑としているように思われるのであります。考えられる称名の種類は、阿弥陀如来の称名諸仏諸菩薩の称名報身阿弥陀如来の称名応身釈迦如来の称名法蔵菩薩の称名獲信者の称名衆...称名破満釈・融会合釈について・3

  • 称名破満釈・融会合釈について・2

    当然に、「称名」によって本願を知った後に、本願の疑心を破るのが「最勝真妙の正業」としての「称名」となります。称名→本願→志願・疑心称名(正業)→志願・疑心称名(正業)→念仏→南無阿弥陀佛(名号・称名)→正念(信心決定・信心獲得)疑心を完全に破らせて、絶対他力、他力本願と至らしめるもの当体が、南無阿弥陀佛(名号・称名)となるわけですが、その前の「念仏」とは、一体誰の念仏かが、非常に重要な鍵になるものと考えています。阿弥陀如来の念仏諸仏の念仏報身阿弥陀如来の念仏応身釈迦如来の念仏獲信者の念仏衆生の念仏(信心は問わない)自分の念仏この中で、実際の念仏として考えられるのは以下の三点となります。獲信者の念仏衆生の念仏(信心は問わない)自分の念仏自分の念仏は、疑心を破ろう、自力やはからいを捨てようとしての念仏と言えま...称名破満釈・融会合釈について・2

  • 称名破満釈・融会合釈について・1

    称名破満釈しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。融会合釈称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。従前から理解されている「無明」の解釈は、本願への疑心とされてあるわけですが、拙生は、やや違うのではないかとみています。単に阿弥陀如来の本願の真実功徳が届いてあることを知らない心、まさに、まずはその無知ではないかと。そもそも本願が届いてあることを知らなければ、疑心を生じることもないわけです。これは、通仏教における無明として、真理を知らない無知ということが、真理を本願に置き換えて、本願を知らないとしての無知と同様と言えるのではないかと考えます。通仏教の場合、そ...称名破満釈・融会合釈について・1

  • 「阿弥陀如来の本尊瑜伽」と「阿弥陀如来の称名」の相違

    「阿弥陀如来の本尊瑜伽」と「阿弥陀如来の称名」の何が違うのか。本尊瑜伽は、自分を本尊と観想して、仏の智慧と慈悲を仮想体験することで、簡単には空性理解と功徳実践のシュミレーションの行となります。まずは真正な空性の理解はできなくても「一切は空である」と観想してから、自分を仏として観想し、仏の智慧の身体である法身と救済の活動となる色身の二身のありようを観想していくことになります。空性を観想する智慧により、仏身を顕現させ、その顕現を自分だと観想する。法身獲得への準備行となる。救済を観想する慈悲により、仏身を顕現させ、その顕現を自分だと観想する。色身獲得への準備行となる。とそれぞれ、悟りへと向けた智慧と福徳の資糧となる観想の方法が、本尊瑜伽となります。一方、「阿弥陀如来の称名」とは、阿弥陀如来の往還二種回向による、...「阿弥陀如来の本尊瑜伽」と「阿弥陀如来の称名」の相違

  • 仏(阿弥陀如来)の慈悲(救い)を根拠とした報恩行の誤用への懸念について

    仮に、今回の「新しい領解文」において、浄土真宗が、本覚思想、如来蔵思想になったとして、では何が問題となるのかということですが、勧学・司教有志の会の声明(一)での危惧としての「・・法義の領解を大きく誤り、きわめて安易な現実肯定論に陥るおそれがある。歴史的に検証され批判されてきたものであるが、その現実肯定論とは、世俗のありさまをすべて肯定する思想であり、戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく、むしろ正当化する根拠とさえなる。それはまた、人間の意思と努力を無意味なものとし、信心も念仏も、仏法を聴聞することさえも不要とする思想に繋がる。煩悩と菩提が「本来一つ」であれば、救われる必要すらないからである。・・」における、特に、「戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく...仏(阿弥陀如来)の慈悲(救い)を根拠とした報恩行の誤用への懸念について

  • 浄土真宗の行信論について・5

    「もちろん、まず報恩行から成すべし的なことは、ある意味、宗門や教団、本山のために奉公すべし的な組織的事情によることからもあるでしょう。」会におけるある方のコメントの内容を拝見して、やはり、中らずと雖も遠からずかと思ったのですが・・宗旨教義を捻じ曲げてまでしなければならないぐらいに切羽詰まっているのだろうか・・財政事情までは正直分からない。それよりも、かなりその昔から、大行よりも信心、信心よりも報恩という、先に指摘した「報恩→信心→大行」の流れが強くあった延長にあることが、いよいよ「新しい領解文」にて先鋭化したのだと言えるのかもしれない。しかし、報恩が前面に出てきてある理由の一つは、やはり、「既に救われているから」という理屈もあるのだろう。「救われてますよ→救ってくれてありがとうですよ→報恩の行いをしましょ...浄土真宗の行信論について・5

  • 浄土真宗の行信論について・4

    本願寺派教学においては、獲信を想定した議論が展開されることが往々にしてあり、その際たるが「報恩の称名」であると。そして、その「報恩の称名」を未信者にも勧める傾向があって、更には、報恩の行を、称名以外においても勧めようとしていく傾向があるのだとも。大行→信心→報恩が、報恩→信心→大行と、報恩が先になるような感じであろうか。確かに、阿弥陀如来の救いの中にあることを、もう救われたとしての議論があるようには思えるが、本当に救われたかどうかは、往生後においてでしか分からないことなのである。それは、二種法身の獲得が一如宝海でなければ不可であるからだ。もう救われたとするならば、現世で二種法身を得ていなければおかしなことになる。もちろん、現世今身で還相は可能だと考える意見もあるだろうが、それにしては二種法身を得れたと言え...浄土真宗の行信論について・4

  • 浄土真宗の行信論について・3

    拙論として、大行の体を「釈尊の称名」としたわけですが、それが阿弥陀如来の本願のはたらきそのものによるにせよ、諸仏の称名によるにせよ、衆生の称名によるにしても、阿弥陀如来の方便法身のはたらきとしての本願真実功徳を有したる垂名示形としての名号、称名と出逢えてある私たちがあるということは、事実、現実であります。そして、それは信心の有無も関係なく、「ある」わけです。「ある」のはなぜか、当然に阿弥陀如来の二種回向によるからであります。その回向されたる本願の救いの中に「いる」わけです。「ここ」の自分も。では、その回向とはどのようなものかを喩えるならば、宇宙マイクロ波背景放射のようなものとなりますでしょうか。それを観測(名号・称名によって)して、実証実験(自力やはからいがあってはとても救われない、どこまでもどこまでも愚...浄土真宗の行信論について・3

  • 浄土真宗の行信論について・2

    名号、称名の無い世界には阿弥陀如来の救いは無いのですか?いや、娑婆世界のみならず、阿弥陀如来の本願の救いは、無量無辺に遍くに届いてあるはずです。問題は、その届いてあることを知ることができるかどうかで、それを知るためとなるのが、名号、称名であるだけで、名号、称名が無い世界でも本願の救いは届いているものの、それを知るすべがない状態であるということになります。当然に知ることができなければ、信心も難しいことになります。知ることができる、救いをたずねることができる、名号、称名には、そのはたらき、役割があるわけです。もし、名号、称名が無くても救われる、信心獲得できるならば、その必要性を説く意味がなくなりますし、そもそも救われているとするならば、迷い苦しみある存在など無いはずなのですが、全くそうではありません。いずれに...浄土真宗の行信論について・2

  • 浄土真宗の行信論について・1

    浄土真宗の行信論において、大行には、おおよそ三つの考え方があります。「法体の名号」・・空華学派「衆生の称名」・・石泉学派「諸仏の称名」・・豊前学派阿弥陀如来の本願真実功徳としての方便法身のはたらきとして「垂名示形」したる「名号」・「称名」をどのように捉えて、「信心正因」とするのか、ということが、浄土真宗の一番の要となります。いわゆる教義の根本となりますが、なぜその根本となる大行には、大きく三つの学説があり、未だに収拾、決着がうまくつけれていないのか。これは当然に「信心決定」・「信心獲得」の事態がいかなるかの明示が不可であること(自内証の問題)、絶対他力は、私たちのはからいや分別の超えたものであること(離戯論・戯論寂滅)、滅罪滅業の因果を超えてしまうこと(因果論の超越)などいくつかの要因が考えられるのであり...浄土真宗の行信論について・1

  • 「名号」と「称名」について

    「名号」と「称名」の違い、、親鸞聖人は、両者の違いを明確には定義付けされてはいませんので、拙生も異なるものとしては扱ってきていないつもりでしたが、「名号」の方を重視しているのではないかという、今までの拙論の傾向からそのように見えるところがあるとのことで、改めて問われたものと思われます。両者は、違いはないものであっても、あえて申せば「本願真実功徳を有する阿弥陀如来の方便法身のはたらき」としてあるものが「名号」、私や皆に届くものが「称名」と拙生は解しています。本来、その方便法身のはたらきは、見えるもの、聞こえるものではないが、方便法身のはたらきとしてこの娑婆世界に、見えるもの、聞こえるものとして有り難くにも示現したるものが「名号」、「称名」は、その方便法身のはたらきを私や皆に頂けるためのはたらきのあるもの、つ...「名号」と「称名」について

  • 『ただ「称名」に帰りなさい』

    私たち凡夫人間はどこまでも愚かであり、「正義」を扱うことが不可能であるという深い洞察が、親鸞聖人にはあったわけです。(悪人正機)互いの「正義」を振りかざしての争い、利権の奪い合いや暴力、殺人、戦争・・歴史を振り返れば、なんと愚かなことが多いことか・・もちろん、現在進行形で国内外多発中です・・今回の「新しい領解文」のことも、どちらも「自分が正しい」と思って争っていることは明らかながら、親鸞聖人は、きっと愚かな争いを相変わらずしているな、として嘆かれることでありますでしょう。しかも、この祝いの場の席で・・この度のことは、私自身の愚かさも当然ながら、互いの愚かさを認め合い、もちろん、教えを変えるような無駄なこと、無駄な行いもしようとは思わずに、浄土真宗の本義に戻って、真なる安心、真なる平和、真なる幸福のために、...『ただ「称名」に帰りなさい』

  • 浄土真宗の「信心の社会性」・「自信教人信」について

    「信心の社会性」、つまり、「自信教人信」(自分の信を他人に教え、他人にもその信を勧める)の拡大解釈が、今回の新しい領解文の背景にはあり、「他力の信心」を他人に勧めていくための一つの方便として、社会性のある活動展開(ボランティア・奉仕・慈善活動等)を積極的に伴わせようという意図があること、その事自体は、普通世間一般的な考え方からすれば、何も悪いこと、批判を受けることではないとは考えます。また、それが門主さんの心でもあるのでしょう。問題は、「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)として、実質的には法義の肝要、つまり、宗旨教義の第一義的なものとして正式に発布したことにより、それを基とした活動の計画・展開(教化・社会活動)を宗門として半ば強制的に進めていくことが含まれてあったために、事はこれだけ大きなものになっていっ...浄土真宗の「信心の社会性」・「自信教人信」について

  • 死の光明と究竟次第の定寂心について・2

    ちなみに、この拙論は通説とは異なります。通説では、微細な意識=光明、の理解となりますが、これでは、認識するものが、認識されるものとなり、認識するという少し分からないものとなります。刀は自分自身を切れないのと同じ理屈で、微細な意識は、微細な意識そのもの、自分自身は認識できないと考えます。その認識するもの自身に現れてあるものを認識するためには、それを認識するものが必要なはずです。それが意成身の意識と拙生は考えるわけです。これは微細な意識とは微妙には異なりますが、微細な意識により派生したる少し粗い意識となるでしょうか。この粗い意識が光明を認識するあり方を清らかにすることが、光明が空性であることを理解するために必要になると考えるわけです。もちろん空性と理解はできたとしても、その光明の現れは実体的なものとして現れて...死の光明と究竟次第の定寂心について・2

  • 死の光明と究竟次第の定寂心について

    空性を十分に理解できていれば、死の際における死の光明も空性だと認識できて、解脱可能なのではないのか?空性について、知識としての理解、記憶としての理解では、脳組織が機能を停止すると共に役に立たないものとなり、死の光明を空性と認識することはできずに、また輪廻することになってしまいます。死により覚醒した微細な意識にて、その意識に現れる死の光明を空性だと認識するには、究竟次第における定寂心を実現できていない限り不可能となります。これはなぜか?拙生は、理由は簡単だと思っている。要は、意識は、意識自体を認識することはできない。つまり、見るものは、自分の目を見れないのと同じであり、微細な意識から現れる死の光明とは、自分の目と同じで、それが死の光明であるとは分からなく、そのまま輪廻へと向かっていくことになると言えるからで...死の光明と究竟次第の定寂心について

  • クラウドファンディングCAMPFIRE「新しい領解文」の問題点を浄土真宗本願寺派全寺院へ郵送したい!

    クラウドファンディングが始まりました。早速にご支援させて頂きました。クラウドファンディングCAMPFIRE「新しい領解文」の問題点を浄土真宗本願寺派全寺院へ郵送したい!https://camp-fire.jp/projects/view/668015?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=tw_sp_share_c_msg_backers_show新しい領解文の騒動は、従前より西本願寺・本願寺派の宗門内の問題に留まるものではないと考えておりますが、言論統制、言論弾圧が露骨となってきている中、宗門内において、今一度しっかりと議論されるべきであるのは言うまでもないことであります。宗門内での正常な討議、議論へと向けて、クラウドファンディングによる支援...クラウドファンディングCAMPFIRE「新しい領解文」の問題点を浄土真宗本願寺派全寺院へ郵送したい!

  • ダライ・ラマ法王のビデオに隠された事実・デマに騙されないようにしましょう

    ようやく猊下への誤解を解くための声明が正式に出されました。有り難いことでございます。合掌この度の猊下のことは、一番には弟子たちの怠惰が招いたことであり、行に励み直しなさいということと、猊下を陥れて利を得ようとする者たちや、平和や慈悲を説く猊下を疎んじる者たちによる意図的なものがあります。とにかく、気をつけないといけません。ダライ・ラマ法王のビデオに隠された事実https://www.tibethouse.jp/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E6%B3%95%E7%8E%8B%E3%81%AE%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E3%81%AB%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81...ダライ・ラマ法王のビデオに隠された事実・デマに騙されないようにしましょう

  • 新しい領解文をめぐる騒動は、戦時下へと向かう日本の縮図である

    今日(4/18)の東本願寺の南枝さんの法話は、本当に良かった。宗教、仏教、浄土真宗、聖なるあり方から世俗を冷静に捉えて、善き、清らかな流れに変えるために、私たち宗教者はどうあるべきかを述べられていた。社会の流れや時代の流れ、あるいは、国家権力、イデオロギーと、世俗のありようの顔色をいちいちうかがい、日和見的に迎合して、都合よく教義を変えられてはたまらないものになる。明治から昭和、特に戦争が終わるまでの、聖なるありようからは程遠い、愚劣なありように墜ちてしまっていたことへの反省はいったい何だったのか、、このままでは、また同じ過ちを繰り返すことになりかねない。今回の新しい領解文をめぐる騒動は、まさに一昔前の戦時下へと向かう日本の縮図のような様相を呈している。全くの対岸の火事ではない。日本全体もまた同じように戦...新しい領解文をめぐる騒動は、戦時下へと向かう日本の縮図である

  • 「おまかせし はからい捨てよが 弥陀本願 あれこれせよとは 領解しかねる」

    多く問い合わせを頂いていましたが、中外日報さんに抗議文として紙面で取り上げて頂いていた、掲げた歌は、「おまかせしはからい捨てよが弥陀本願あれこれせよとは領解しかねる」である。新しい領解文の後半におけることを問う内容であり、A3二枚に書いたものを掲げさせて頂いた。その後に、しかるべき宗会議員さんから、本山のしかるべき要職のお方にお渡し頂き、ご門主さんへと届いており、私の身元もお伝え頂いているのは確かながら、今のところ、返歌は頂けていない。返歌があれば、また問歌をとは考えていたが、この状況ならば、もう難しそうである。もちろん想定していた返歌もある。「あれこれははからい捨てるためとなる弥陀本願に通ず道なり」のような内容だ。そこから更に深く問答をとも考えていたのだが、もう恐らく何もないだろう、、誠に残念である。と...「おまかせしはからい捨てよが弥陀本願あれこれせよとは領解しかねる」

  • 4/25予定・西本願寺境内での一向念仏行について

    諸々の動向を受けて、4月25日午前10時から予定の拙生の西本願寺境内での一向念仏行は、拙生自身は赴く予定(葬儀が入れば中止)ですが、ご一緒して頂けるとご連絡いただいている4名のお方には、事態を受けて、共の念仏行はお断りを入れさせて頂いた。一時間半ほど、ただひたすらにお念仏申し上げるのみですが、このままでは何らかの危害が及ぶ恐れがあるため。ご容赦賜りたくに存じます。合掌新しい「領解文」を考える会https://www.facebook.com/groups/754460852681528/・・浄土真宗における信心は、阿弥陀如来の往相・還相二種回向の本願への信心であり、二種回向を純粋に頂けたかどうか、心底より疑いのない本願を頂けたかどうか、本願で満ち溢れて余分が一切もないかどうかということが重要になると考えて...4/25予定・西本願寺境内での一向念仏行について

  • 「ゲルク派版チベット死者の書」改訂新版(Gakken)平岡宏一先生

    「ゲルク派版チベット死者の書」改訂新版(Gakken)平岡宏一先生深遠なるチベット密教の教えが著されてある「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」(ヤンチェン・ガロ大師)は、無上瑜伽タントラを学ぶための必読書であり、その内容について学ぶことのできる本書が、このほど約30年ぶりに改訂されました。旧版でも十分に学ぶことができますが、この間における著者の新たなる知見から、色々と加筆・補遺されており、また、この間におけるダライ・ラマ法王猊下における日本での灌頂や法話等におけることからも解説が加えられており、より理解しやすいものとなっています。特に、新たに無上瑜伽タントラを学びたいと思う者にとっては朗報も載っており、去年(2022年)7月のダライ・ラマ法王猊下が大阿(導師)として厳修されたチャクラサンヴァラ灌頂(...「ゲルク派版チベット死者の書」改訂新版(Gakken)平岡宏一先生

  • 日本、日本人の抱えてある「共業」とは何か

    どういったことが、日本、日本人の「共業」になるのですか、とのことですが、今回のウクライナへの戦費支援、間接的な武器供与、後方支援を認めることは、イラクの時もそうでしたが、殺人を間接的にしている業を抱えることになります。戦費支援、防衛費は、税金からであり、それは私たちが出しているものであるからです。政府にその使い方を容認してしまっているということは、皆、殺人幇助していることになるからであります。そのように抱えた共業は、因縁、因果により、必ず報いがきます。釈迦族の抱えた共業による因果の流れは、釈尊でも三度までしか止めれなかったほどに強烈、強大な力なのであります。必ずその報いがやってきます。自分は関係ないと思わない方がよいでしょう。善趣に備えよ、との警告が色々と見える形で多発してきているかと存じます。・・首相に...日本、日本人の抱えてある「共業」とは何か

  • 浄土真宗にとっての葬儀とは

    「全く新しい領解文とは関係ないのですが、葬儀社のエスカレーターの壁に、よく『お清めの塩は浄土真宗では使いません云々』と書かれてあるものを見ますが、どうしてですか」と頂いたのですが、浄土真宗にとっての葬儀は、故人への供養ということよりも、仏恩報謝の儀であり、僧俗も聞法仏縁に与ることで仏恩に感謝するものとして調えられるからで、穢れとして忌み嫌う習俗慣例や迷信に囚われぬようにとして、上述の件があるのでしょう。また、上記のようなことから、葬儀においては、他宗のように、引導・往生資助・追善供養は扱わないものとなります。もちろん、ここまでは通説的な話である。しかし、本当にそうであろうか。もし本願、信心を頂いていない者の場合は想定されていないのだろうか。皆、浄土へと至れる、至れたものと考えているのだろうかとの疑問が当然...浄土真宗にとっての葬儀とは

  • 改訂改訳版「ゲルク派版 チベット死者の書」/チャクラサンヴァラ灌頂(ヘールカ・ルーイーパ流本灌頂)

    無上瑜伽タントラの考究に戻ります。改訂改訳版「ゲルク派版チベット死者の書」深遠なる無上瑜伽タントラを学ぶご仏縁となる有り難いお言葉が載ってありました。大阿による判断にて、灌頂の中継の録画でも受者が威儀を正して全集中で拝聴すれば、灌頂を受けたことになるとのこと。少なくとも、下記の去年7月のチャクラサンヴァラ灌頂(ヘールカ・ルーイーパ流本灌頂)は、そのように許可が得られてあるとのことです。今はほとんど分からなくても、密教を理解できるようになる習気を心に置くことになるでしょう。この機縁に本書と共に、実際の灌頂から無上瑜伽タントラを学ぶ意義は大きいものがあると存じます。https://youtu.be/MdXxPJmzhEAhttps://youtu.be/28icdbkerKU仏身を対象に空性を観想することは、...改訂改訳版「ゲルク派版チベット死者の書」/チャクラサンヴァラ灌頂(ヘールカ・ルーイーパ流本灌頂)

  • 「新しい領解文」をめぐる問題の懸念について

    浄土真宗における信心は、阿弥陀如来の往相・還相二種回向の本願への信心であり、二種回向を純粋に頂けたかどうか、心底より疑いのない本願を頂けたかどうか、本願で満ち溢れて余分が一切もないかどうかということが重要になると考えております。そのように本願へと信心を向けて下さるのが、何よりも阿弥陀如来の方便法身としての「名号」(の真実功徳のはたらき)となるわけです。もちろん、阿弥陀如来の二種法身、特に方便法身のはたらきは、報身仏、釈尊からも、阿弥陀如来の二種法身からの「名号」を私たちに向けて下さるものとしてもあるわけですが、凡夫では、報身仏との見仏は不可であり、また、釈尊応身による示現は、釈尊入滅以降においては不可であるなど、そのはたらきの示現をめぐる判断は難しいものであり、それ以外でも仏典、付随する論書等においても、...「新しい領解文」をめぐる問題の懸念について

  • 浄土真宗における学派・学説の分類について

    阿弥陀如来の方便法身のはたらきを「名号」にしか認めないのか、それ以外に認めるのか、信前にも認めるのか、認めないのか、信後に認めるのか、認めないのか、○それ以外に認める☓それ以外には認めない信前信後1○○2☓○3☓☓4○☓←これはありえない色々な学派や立場は、このように分かりやすく分類できないものだろうか。行信論、助正論も学説が複雑に入り乱れており、なかなかすっきりとは見えてこない、、もっと○☓、あるいは△折衷などで、一般の方でも分かりやすく分類する方法はないものか、、1ならば、信心へ向けた行いは、名号のはたらき、つまり、他力による行いとして広く認められるようになる。信後も全ての行いは、他力によるものとして認められる。2、信心へ向けた行いにおいて、当然に自力による行いは一切認めらない。いかなる行も、雑善、雑...浄土真宗における学派・学説の分類について

  • ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・4

    猊下のことは、一番には弟子たちの怠惰が招いたことであり、行に励み直しなさいということと、猊下を陥れて利を得ようとする者たちや、平和や慈悲を説く猊下を疎んじる者たちによる意図的なものもあるから、気をつけなさいとも。最近、思い当たるフシは色々とある。ロシア、ウクライナのこともそうであるが、日本も全く対岸のことではない。コロナ禍以降と言うわけでもないが、世界はそこそこ嫌な流れの中にあるとは思う。疫病と戦争はセットになってやってくるというのは、歴史の示すとおりかもしれないが、避けられないのが、共業のありようなのかもしれない。善趣に備えよ。ということなのかもしれない。・・法王庁は、猊下のこの度の行いについて、仏教的な正しい解釈に基づいてからの釈明をして頂きたいとお願いしております。仏教において、「舌を出す」というの...ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・4

  • 空華学派と拙見解との相違について

    慶讃法要初日に新しい領解文への疑義を示す歌を掲げたことを、河内の道隠かと言われたが、なんのことかは分からなかったが、堺空華学派、西念寺の道隠のことと今更やっと分かった。私の主張は、やはり空華学派になるのかな?確かに絶対他力という言葉を何度も用いており、徹底した自力否定の立場にあるから、そう見られるのだろう。でも、それが親鸞聖人の二種法身論、二種回向論の基本的お立場であるのだから、致し方ないとは思うのであるのだが、、しかし、厳密には拙見解は空華学派ではない。例えば、空華学派の信後の報恩行のあり方は、拙生のように名号称名原理主義ではなく、名号から相発されるものは、称名だけでなく他も正業として扱われるため、それらは自力とならない他力の報恩行として成立するとするわけであります。でなければ、今回の慶讃法要の敬礼や讃...空華学派と拙見解との相違について

  • ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・3

    法王庁は、猊下のこの度の行いについて、仏教的な正しい解釈に基づいてからの釈明をして頂きたいとお願いしております。仏教において、「舌を出す」というのは、真理、真実を伝えるから、それを受け取りなさいという意味であり、「舌に触れなさい」というのは、恐れず、つまり、汚いとか、不潔だとか、卑猥だとかという分別してとらわれる心を離れて、真理、真実義をそのままに受け取りなさいということのはずです。たんなるからかいの中にも仏教的な意図があることはしっかりと伝えて頂かなくては、世間の誤解、失望を更に招きかねません。どうかこのことを踏まえての法王庁からの速やかな正式、公式な釈明をお願い致します。また、今回の猊下のことで、ミラレパとガムポパのやり取りに、確かミラレパが唾液を茶に入れて加持したものをガムポパに飲ませるというエピソ...ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・3

  • 信前・信後も称名正業一つのみが浄土真宗・親鸞聖人の教義的要諦・2

    信心前、信心後も称名一つが正業にて、その他の助業は、例え信心後でもいらないとするのが、拙見解であります。報恩行は、信後の称名における名号にて、十分に他への利益としてはたらくことになるはずであるからであります。その名号は、信前では、自分の信心へと向けた阿弥陀如来から自分へのベクトルとしてあったものから、信後は、阿弥陀如来の本願、真実功徳を有する方便法身のはたらきとなる名号として、その称名にて他への利益として過不足のない功徳円満なるものとなって伝わるものになるはずであるからとなります。要は、阿弥陀如来の方便法身が、信心の称名を通じて、そのまま純粋に届けられるようになるからであります。信心の鏡に反射してそのままを、あるいは、信心の透明さを透過してのそのままを、他へのベクトルとできるというわけです。それ以外に他に...信前・信後も称名正業一つのみが浄土真宗・親鸞聖人の教義的要諦・2

  • ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・2

    根本上師への誤解を解かないで、どうするつもりかと強くお叱りを頂いた。根本ラマへの誹謗は大罪となる。猊下への誹謗ではなく、誤解、失望を招くことへの残念、悲しみである。猊下への尊敬の念、報恩の念は何ら何も変わらない。今回の猊下の行為を説明するならば、「舌を出す」というのは、仏教的には真理、真実を伝えるから、それを受け取りなさいという意味である。「舌に触れなさい」というのは、恐れず、つまり、汚いとか、不潔だとか、卑猥だとかという分別してとらわれる心を離れて、真理、真実義をそのまま受け取りなさいということである。ただ、これは、その相手次第では大いに誤解を与えることになります。この少年が沙弥やリンポチェであれば、となります。また、今回のことは、これを汚い、不潔、卑猥だと捉える我々の分別心のありようを問うようにとの意...ダライ・ラマ法王猊下のこの度の報道におけることについて・2

  • 信前・信後も称名正業一つのみが浄土真宗・親鸞聖人の教義的要諦

    本来、教義的には、信後の報恩行を議論するのは、意味がないはずであるのに、石泉学派のように、信後の報恩行について議論する理由は何かとのことですが、要は、信前の称名と、信後の称名の相違についての議論に由来するのではないかと思うのであります。信前の称名は、もちろん、阿弥陀如来の本願への信のための称名であり、信後は、それが報恩の称名となって、仏恩讃嘆と共に、未だ信を得ていない者へと向けられる慈悲の行へとなるもので、それを善行、利他行として勧めることとしての報恩行とすることからであります。その報恩行は、阿弥陀如来の本願による、他力行、弘通行となるため、当然に聖道行、自力行とは異なる善行、利他行としての称名正業とするわけです。本来は、報恩行も称名だけで十分であり、それ以外は何もいらないはずなのであります。しかし、この...信前・信後も称名正業一つのみが浄土真宗・親鸞聖人の教義的要諦

  • ダライ・ラマ法王猊下の報道に関することについて

    触れない訳にはいかないが、猊下の報道におけることは、誠に残念なことである。純朴さ、お茶目のからかいが裏目に出たとか、密教的な深い意味合いだとか、色々と擁護の声もあるでしょうが、残念な気持ちは残念な気持ちである。だが、すぐに過ちを認めて謝罪なさられたことは受け入れるべきであろう。しかし、悲しい。もちろん、残念、悲しいのは、世間の誤解、失望を招き、猊下を陥れようとする勢力の利になってしまっているからであります。猊下への残念、悲しいではありません。密教的にはミラレパやティロパ、ナーローパ等、その行いには通常世間では理解し難いことも多々あり、世俗の観方では、おかしな奇怪なこと、倫理や道徳に反するなど、そのように映ることは当然にありえるのではあります。今回のことが、無上瑜伽タントラにおける深淵なる意(例えばナーロー...ダライ・ラマ法王猊下の報道に関することについて

  • 新しい領解文の暗示する戦時下の思想回帰への危険性

    もう一つは、戦時における「天皇陛下は阿弥陀如来だ」としても、そこからどうして、戦争協力、戦争助長になるのですか?ということですが、要は今回の信後の報恩行の議論と同じことで、「天皇陛下の勧められることは、阿弥陀如来の勧められることと同じであり、それは自力ではなく、他力の行となるから、往生に障りはない、大丈夫である」ということで、戦争での殺人も罪業にはならないし、むしろ、他力の報恩行、利他行、善行だとして推進していったのであります。この根底にあるのが、信後の報恩行を広く認めていくべきだと主張した石泉学派の考え方なのでもあります。それが、今度は「自分は阿弥陀如来だ」として、「私の勧めることは、阿弥陀如来が勧めることと同じで、他力の行いとなり、弘願助正となるから、往生に障りはもちろんないし、信後の報恩行、利他行、...新しい領解文の暗示する戦時下の思想回帰への危険性

  • 新領解文の異安心・疑安心について

    少し前に、信後の報恩行を議論する意味はあるのか?という疑問を頂いたのだが、浄土真宗、親鸞聖人の教学的にはあまり意味はない。真なる報恩行も、いかなる利他行、善行も、往生後における二種法身、特に方便法身により可とすべきであるのだから、このことも凡夫があれこれとはからいすること自体が、まさに往生際が悪いということであり、信心を疑っているということになるのである。この往生際が悪いのが、今回の新領解文の問題でもある。全くおまかせしておらず、はからないも捨てていないのである。その上、ただの凡夫でも教えを聴いただけで、信後の報恩行、利他行、善行が可であると言ってしまっているようにも見える。まだ、本来は、信後の報恩行、あるいは念仏者の生活のあり方を、称名のみ、または、五念門、五正行に収めておくことの方が、百歩譲って可とす...新領解文の異安心・疑安心について

  • 新領解文の根底にある「信心一元論」の危険性

    今回の領解文の根底には、「信心一元論」があると。つまり、阿弥陀如来の御心と自分の心は一つである。阿弥陀如来の御心と自分の心が一つになることが「信心決定・信心獲得」であるということでしょう。ですから、信後は、阿弥陀如来の御心(智慧と慈悲の円満なる心)からの行いとなるため、真なる利他行、善行が当然にできる、もちろん、業も汚されるものでもないと。これは先に述べてあるとおりに非常に危険な考え方となります。要は「自分は阿弥陀如来だ」と言っているようなものです。その行いなのだから当然に正しいから皆、従いなさいということであります。今回のことはやはりこれが根底にもあるのでしょう。これなら、戦時において、「天皇陛下は阿弥陀如来だ」と高らかに宣言して戦争へと協力した過去の歴史と同じようなことで、それが今度は、「自分は阿弥陀...新領解文の根底にある「信心一元論」の危険性

  • 弘願助正論の補足

    しかし、この事態においても、速やかに取り下げ、謝罪と責任を取る姿勢が何も見られないとすれば・・考えられることは・・弘願助正論の補足としてもともとは善導大師の「五正行」(読誦・観察・礼拝・称名・讃歎供養)を、「称名」が「正定業」、それ以外が「助業」として、法然上人までは「五正行」は、「助業」も含めて、念仏往生へと向けた大切な実践として努められているものでありました。しかし、親鸞聖人は、「称名」の「正定業」のみで往生できるとし、絶対他力の絶対信心を「称名」ただ一つに委ねるとされたのであります。むしろ、「称名」以外の「助業」は厳しく廃されたわけであります。曇鸞、道綽、善導、法然と、それまでは「助業」も、信心決定・信心獲得の因縁となるべき善業であり、重要な実践として努められてきたわけです。要は、自力修善、自力功徳...弘願助正論の補足

  • 東陽円月の一念滅罪論と足利義山の法滅機存説のメモ

    東陽円月の一念滅罪論信の一念(信心決定・信心獲得)↓罪業消滅(業の浄化・煩悩障断滅)↓不退転位・正定聚(菩薩の第八地)煩悩障が断滅されてあるため信後造罪には当然にならない。信後滅罪生善の功徳信後滅度当益の功徳足利義山の法滅機存説信後滅度密益信心決定・信心獲得により不退転位・正定聚には至れてあるのだが、まだ煩悩障は残っており、信後造罪の可能性がある状態ということだろうか。もしくは、信後造罪にはならないが、煩悩障の(隠れて)まだある状態ということであろうか。要は、東陽円月の場合は、信後の行いはいかなるも汚れたもの、悪業にならずに全て衆生の利益とした活動になるということで、足利義山の場合は、いやいや信後もまだまだ凡夫のままであり、煩悩もそのままあるのだから、気をつけよう、もちろん、信後滅度当益の功徳は受けるため...東陽円月の一念滅罪論と足利義山の法滅機存説のメモ

  • 声明(二)をわかりやすくに

    簡単に説明してくださいと、、要は、西本願寺幼稚園から大学までの校歌を新しく代えようと、代案を考えたのが、PTA会長で、異議が出たものの、結局、PTA会長が恐く、忖度にて何も訂正が入らず、そのまま不透明に通され、新しい校歌として採用が決定。幼稚園児から大学生まで斉唱唱和の強制。また、その内容に添わない授業の禁止、授業内容の事前検閲。しかし、その校歌の中身は、小学生(幼稚園児にしてくれとクレーム入りましたが、まあ・・)が書いたような間違いがいくつもあり、かなりずさんなもの。早く取り下げて、PTA会長は辞めろというわけです。「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)・浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会声明(二)をわかりやすくに

  • 「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)・浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会

    勧学司教の有志から第二弾の声明が出されたようです。「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会新しい領解文の作成、発布に至る経緯の瑕疵についてであります。予想していた「自然の浄土」ではなかったですね。法要の期日に合わせて、第五弾までは随時あるのでしょう。自然の浄土、帰依帰命、弘願助正と指摘が続くでしょうか。「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)過日、勧学・司教有志の会は、このたび「ご消息」として発布された「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下、「新しい領解文」)について、その文言全般を通じて、宗祖親鸞聖人のご法義に重大な誤解を生じかねないものであることを「声明(一)」において指摘した。この「新しい領解文」の文章表現について、石上智康総長の著書...「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)に対する声明(二)・浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会

  • 勝手に新しい領解文改(短くて覚えやすいものに)

    新しい領解文を新しく考えてみたらどうかと、、それぞれで考えてみるのも、それぞれの領解を示すものですから確かに。。短く、誰もが覚えやすいのがやはり良いでしょう。・・勝手に新しい領解文改おまかせしはからい捨てよの弥陀本願南無阿弥陀佛救いが心に届くとき心に安心の火が灯る有り難い安心の温かさ自然に優しい人となり世の中安穏なれと皆にも安心の火が灯るよう報恩感謝して生きましょう・・これぐらいで丁度良いとは思うのですがね、、勝手に新しい領解文改(短くて覚えやすいものに)

  • 信心決定・信心獲得をめぐる自内証の問題

    結局のところ、信心決定・信心獲得は自内証の問題であり、各自それぞれで信後についても好き勝手なことは論ぜることになるのは仕方がない面があります。その分、他にも明らかとなる何か証拠となるもの、エビデンスを求めようとする姿勢は非常に好意的に捉えることができるのでありますが、それでも十分なものを提示することは不可能なのであります。もちろん、「往生」がその証左となるわけですが、娑婆にいる者において確認することはできないのであります。せめて自力聖道行のように智慧や功徳、禅定等、その証拠となる条件がいくつか調ってあることが分かれば、因縁として至る結果が確実に予測できることになります。問題は、その条件が「信心正因」のみで、しかも自内証なるもの一つなわけですから、より判断が難しいわけです。もちろん、善知識、妙好人と言われる...信心決定・信心獲得をめぐる自内証の問題

  • 本願寺教学における石泉学派と空華学派について・2

    石泉学派と空華学派、従来より異端とされてきた石泉学派が、いきなり本流となるかの、要は派閥争いの瀬戸際なのですよ、と頂いた。今回の領解文における本覚思想も石泉学派による主張では、ごくごく当たり前のことで、僧叡の仏性論は、本覚思想そのものであったから然るべきなのですと。聖道行や特にツォンカパのチベット修道論を重んじるお方なら、空華学派よりも石泉学派の方が思想的には近いはずで、空華学派を擁護するのがあまり理解できない、と。まあ、あくまでも親鸞聖人の思想として、正確には空華学派がやはり教学的には正しいということであって、今さら石泉学派を前面に押し出して強権的に教義として据え置こうとするのは、無用な混乱のみならず教団の崩壊を招きかねないということである。何よりもこの慶讃法要に合わせて行うなど、宗祖への冒涜以外の何も...本願寺教学における石泉学派と空華学派について・2

  • 本願寺教学における石泉学派と空華学派について

    弘願助正派、石泉学派か、、五正行に関して、往生の正業とするか、助業とするかの議論から、更に報恩行としての道徳社会的実践を助業とするかという判釈における石泉学派の主張が、今回の領解文に絡んであるのは、もちろん言を俟たない。石泉学派の弘願助正説は、報恩行の善行を全て認めて、特に信後の一切の善行を助業として認めていこうとする立場である。今回の新しい領解文の趣旨は、おおよそこの石泉学派の弘願助正説を門主が採用したとするのが正解となるのであろうが、極めて議論が足りなかったのはもちろんながら、親鸞聖人は称名以外のいかなる助業も認めない立場であり、つまり、阿弥陀如来の方便法身により私たちに届いてあるベクトル[称名]をただ受け取って領解する以外に、凡夫の側からの行いのいかなるも正業、助業としてはお認めにはなられていないの...本願寺教学における石泉学派と空華学派について

  • 曹洞宗の葬儀における極楽浄土引導の名残について

    曹洞宗の葬儀儀礼、葬送儀軌で、その昔に阿弥陀如来の極楽浄土への引導を行っていたことの名残は、今でもあるのでしょうかということですが、二点ぐらいでしょうかね・・昔の儀軌次第があればまた分かることもあるでしょうが・・一つは、「大悲心陀羅尼」の読誦。(千手千眼)観音菩薩の功徳を説く中で、その中でも特に極楽往生の利益が重要なものとしてあるため、その一つと言えると思われます。但し、現代では法華経の如来寿量品・自我偈を「大悲心陀羅尼」に代えることもあるようです。もう一つが、初七日から四十九日・満中陰までの塔婆が、七如来が並び、満中陰忌・大練忌に「阿弥陀如来」が配されていること。(四七日は阿経忌として阿弥陀経を読誦する忌でもあったこと)これは、満中陰にて極楽浄土への到達として調えられてあった名残と思われるのであります。...曹洞宗の葬儀における極楽浄土引導の名残について

  • 「自然の浄土」とは・2

    救い(方便法身)は届いてあることは確実ながら、問題は、疑いなくにその救いの元(法性法身)へと至らなければ、解脱と成仏は可能とはなりません。救い(方便法身)ではそれは不可です。もしも救い(方便法身)だけでも解脱と成仏を可とするならば、既にこの娑婆も全ての世界も仏陀だらけになっており、六道の存在などいるわけが無いのであります。現実はもちろんそうではありませんし、救いを確信している者でさえ、迷い苦しみの中にあることには変わりはないのであります。なぜならば、救い(方便法身)では、煩悩障(輪廻の原因)と所知障(成仏を妨げる原因)を対治する直接的なものとはならないからであります。真に救いとなる業の浄化と共に、煩悩障と所知障も浄化してもらえるところは、あくまでも阿弥陀如来の法性法身のあるところへと往かねばならないのであ...「自然の浄土」とは・2

  • 「自然の浄土」とは

    「自然の浄土」とは、「自然法爾」とほぼ同意として、「おのずからしからしむ」真理のところという意味である。そのままで、あるがままで阿弥陀如来の本願の真実功徳の利益により救われていくのだから、おまかせして、はからいを捨てよということで、絶対他力が当然に浄土真実の要諦となることを示す言葉となるわけです。では、この娑婆世界は、「自然の浄土」なのかとなれば、それは少し違います。もしも、仮にこの世界が「自然の浄土」であれば、皆、有無もなく無始より成仏しており、誰も悩み苦しむわけが無いのであります。ところが現実は全くそうではありません。救いを自覚した者ですら、悩み苦しみのただ中にあることには何も変わらずに、そのままにもがき苦しみ続けているのでありますから。あくまでもこの娑婆世界には、阿弥陀如来の方便法身が名号等にて届い...「自然の浄土」とは

  • 抗議文ではなく歌【中外日報】西本願寺でも慶讃法要始まる 新しい「領解文」 門主、考えを述べる 退席や抗議する人も

    抗議文ということで、どのような文ですかとの問い合わせを頂きますが、「新しい領解文」に反対とか、取り下げろ、撤回せよとか、そんな内容ではありません。蓮如上人の御文章の内容について、一休禅師が歌で問いをされたのに倣って、新しい領解文の内容についての見解を問うものです。内容への私の持ってある疑義は、従来より述べてある通りに、本覚思想の問題と雑修雑行の敢行奨励の二点。実は歌もこの二点から二つ用意してあったのですが、本覚思想の問題については、勧学司教有志の会の声明が出たことで、問う意義が無くなったと判断して、後半の雑修雑行に関することにしたのであります。それを宗会議員の方から、しかるべく方にお渡し頂きまして、内容は届いてあるはずです。返歌があれば、またそれに向けてとなりますが、無ければもちろん仕方がありません。4月...抗議文ではなく歌【中外日報】西本願寺でも慶讃法要始まる新しい「領解文」門主、考えを述べる退席や抗議する人も

  • 「極楽浄土と自然の浄土について」4・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・11

    「極楽浄土と自然の浄土について」4・親鸞聖人が、極楽浄土を報身報土とされたのは、あくまでも善導大師等の先師方の主張に倣ったもので、正確には、方便法身土となさられて、極楽浄土は浄土真実ではないとされたのであります。浄土真実は、阿弥陀如来の法性法身のある自然の浄土、一如宝海であり、そこへの往生論、そこでの成仏論を展開されたのであります。親鸞聖人の二種回向論、二種法身論からそれは説明されるところとなります。では、なぜ従来のように極楽浄土への往生を重視なさらなかったのかは、天台宗と浄土門で繰り広げられた極楽浄土を巡る議論をしっかりと押さえないといけないことになります。要は、極楽浄土が、報身報土か化身化土かという議論です。この議論には、実は釈摩訶衍論も絡んでくるのですが、先に弘法大師と伝教大師が仲違いを起こす教義的...「極楽浄土と自然の浄土について」4・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・11

  • 地獄菩薩について

    十七回忌は、なぜ地獄菩薩なのでしょうか、と。拙生は、臨済宗教学についてはさほど専門的に詳しくは学んでいない。というか、そもそも不立文字、言語道断であって、定型な教学など、もともと成り立っていないのではある。もちろん、全くないわけではなく、僧堂ごとに指導者である老師(師家)による提唱にて臨済録や碧巌録、虎穴録や無門関などから学ぶのではあるが、大学の授業などとは違い、老師(師家)による難解な問いが、原文と共に雲水へと一方的に投げ掛けられるもので、懇切丁寧なものとはとても言えないのである。(漢文が読めないと正直、全く原文は読めない。そのために掛搭前に漢文を読めるように相当に復習したが、ほとんど無意味だった…)そして、各自に与えられる公案にて、段階的に繰り返し老師(師家)からの厳しい叱咤を受けながら、それぞれの見...地獄菩薩について

  • 雑感盛り合わせ・・

    少し盛りだくさんの内容だが、最後にはウクライナの戦争におけるダライ・ラマ法王さまによるメッセージを汲み取って頂ければ有り難いことです。無上瑜伽タントラについての浅学な拙質問に対して、度々にお答え頂いており、ご指導下さっております平岡宏一先生の著書「ゲルク派版チベット死者の書」の改訂新版が出ました。元の書では、ヤンチェン・ガロ大師の「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」の解説とともに、チベット仏教高僧の故ロサン・ガンワン師による伝授の内容となっており、死と中有と再生のプロセスを知る上でも非常に役に立つものとなっています。改訂版となれば、おそらくは新しい解説も追加されてあるのだと思われます。早く精読したいと存じます。また、3月初旬に行われたダライ・ラマ法王さまによる無上瑜伽タントラ・チャクラサンヴァラ灌頂...雑感盛り合わせ・・

  • 仏陀の智について・如実智と如量智のあり方・2

    これが非常に分かりやすい喩えだとお礼を頂いた。「例えると、どう見ても、その空間には、透明で何もないのに、凡夫の知の鏡には、うじゃうじゃと世俗の顕現が一面にびっしりと写っているという感じです。しかし、その凡夫の知の鏡の後ろにも前にも、ただの透明な空間だけが広がっているという感じです。」仏陀には正確には如実智にも如量智にも世俗の顕現は一切映えてはこないのです。しかし、その慈悲の御心により世俗の顕現のありようをお知りになられるために、凡夫の知に写ってあるものを通じて世俗の顕現のありようをお知りになられることになります。正確には、凡夫のそれぞれにおける煩悩障により把捉してある知によるものと所知障、無明の習気により把捉してある知によるもの、その両者による知に映えたる世俗の顕現となります。これは各人でも異なるものとな...仏陀の智について・如実智と如量智のあり方・2

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、川口英俊の日記さんをフォローしませんか?

ハンドル名
川口英俊の日記さん
ブログタイトル
川口英俊の日記
フォロー
川口英俊の日記

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用