「称名破満釈」の「無明」について
他力の行を、第十七願、諸仏の行、方便法身のはたらきを根拠にするにしても、称名以外にそれが援用できるのかどうか。あるいは、称名が、法体名号からの等流として称名そのものを他力とし、その称名への助業となるのを称名以外にも援用していけるかどうか。更には、信心を得た者の称名、称名以外の行を、他力として広く認めていけるのかどうか。もちろん、称名に信心へと至らせる効果を、当然に法体名号を根拠とするのは理解できるのですが、確実、確定的かどうかは、衆生の側の問題を語らずにしては無理となるわけです。それでも信心を前提とした上記のような他力を議論するのはなぜなのか?以前にも述べてあるように、それは、おそらく「無明」の解釈にその要因があるのだと推測するのであります。「無明」を「本願への疑心」とするか、単に「本願を知らない無知」と...「称名破満釈」の「無明」について
2023/04/30 07:50